2024.3.24「十字架の七言 ルカ23:34-43」

 きょうから受難週が始まり、来週は復活祭、イースターです。ところで、4つの福音書には、イエス様が十字架上で発せられたことばがそれぞれ収められています。それは7つだと言われていますが、「おそらくこの順番で語られたのではないだらろうか」という定説があります。私は、7つをいっぺんに語ったことはありませんが、きょうは広く、浅く「十字架の七言」と題して学びたいと思います。順番通り始めたいと思います。

1.父よ、彼らをお赦しください

 ルカ23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。

 一番、最初に出て来たことばは、祈りであり、しかも、他者に対するとりなしであります。ジェームス・ストーカーの『キリストの最期』には、こう書かれていました。「はりつけにされた人が十字架上でものを言うことは、別に珍しいことではなかった。しかし、それはたいてい、乱暴な苦痛の表現とか、無益な釈放の願い、神に対するのろい、あるいは、ひどい目にあわせた者たちに対する災いを祈る祈りなどであった。イエスが、手足に刺し貫かれた釘による気絶せんばかりのショックから立ち直られたときに、最初に口をついて出たのは祈りであり、最初のことばは『父』であった。」死ぬ前に、人のために祈ることが果たしてできるでしょうか?「彼ら」とありますので、自分を十字架につけたローマ兵、ユダヤ人指導者、そして自分を売り渡したユダでありましょう。ところが、本当はこの祈りは罪を犯して神から離れている全人類のためでありました。「父よ、彼らをお赦しください」の、「彼ら」の中に、私や皆さんが含まれていたと考えることはできないでしょうか?なぜなら、イエス様は神のひとり子として、全人類の罪を負い、父なる神から、さばかれ、捨てられようとしているからです。この一回で、永遠の贖いの中に、私たちが含まれていない訳がありません。Ⅱペテロ3章には「主は、・・・だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです」とあります。そうです。私たちがキリストを信じて救われたのは、2000年前のイエス様の十字架上のとりなしの祈りがあったからです。「私の身を犠牲にささげますので、あの人を、この人をどうぞお赦しください」と祈られたのです。これは神と全人類の間に立つ、大祭司の祈りと言えます。

 

2.わたしとともにパラダイスにいます

 ルカ23:43イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」

 イエス様はおひとりで十字架にかけられたのではなく、両脇に犯罪人がつけられていました。マタイ福音書には「イエスと一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった」と書かれています。ところが、ルカ福音書では片方の犯罪人は途中で悔い改め、「この方は、悪いことを何もしていない」と片方の犯罪人をたしなめて言いました。そして言いました。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」その後、イエス様が「あなたは、今日、わたしとともにパラダイスにいます」と言われたのです。一般にキリスト教会では、「救いを得るためには、このような信仰告白です」というような定まった文章があります。彼は洗礼準備会もしていませんし、長老たちの前で、審査も受けていません。「私を救ってください」とか「信じます」という言葉すらありません。彼は、私たちのように教会に行ったこともありません。おそらく、聖書も読んだことがないでしょう。彼は良い行いもしていませんし、できません。なぜなら、十字架に手足がつけられており、まもなく死ぬしかないからです。これは「行いではなく、恵みによってのみ救われる」という救済論の典型と言えるでしょう。

 でも、この人にはイエスがキリストであるという信仰があります。欽定訳聖書をご紹介します。”Lord, remember me when You come into Your kingdom.”まず、イエス様を”Lord”「主」と呼んでいます。しかも、イエス様がkingdomの王として、来られることを信じています。このことは福音書においてたびたび言われていたことでした。ルカ19章にはミナのたとえが記されています。イエス様は「ある身分の高い人が遠い国に行った。王位を授かって戻ってくるためであった」と言われました。この犯罪人はイエス様が御国の王として戻って来られたとき、「私を思い出してください」と頼みました。彼は自分が犯した罪のことを思えば、「私を救ってください」と言えなかったのです。”Lord, remember meしか言えなかったのです。でも、イエス様はそれを信仰告白と認めてくださり、いつかでも、明日でもなく「まことに、今日、わたしとともにパラダイスにいます」とおしゃってくださったのです。このように行いがなくても、信仰告白が不完全であっても、心で本当に信じているなら、イエス様は私たちを救ってくださるのです。アーメン。

 

3.母マリアとヨハネに対することば

 ヨハネ19:26,27 イエスは、母とそばに立っている愛する弟子を見て、母に「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」と言われた。それから、その弟子に「ご覧なさい。あなたの母です」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分のところに引き取った。  

 イエス様には肉の弟たちがいたはずです。聖書を書いたヤコブやユダがそうでした。しかし、どうして、母マリアを弟子のヨハネに任せたのでしょうか?ヨハネはイエス様の最も近いところにいた弟子です。だれよりも、イエス様を愛し、だれよりもイエス様のことをご存じでした。最愛の長男を失うことの悲しみと絶望を受け止めてくれる人は、ヨハネしかいなかったでしょう。「その時から、この弟子は彼女を自分のところに引き取った」とあります。伝承によると、二人はエルサレムに12年間住んだと言われています。十戒に「あなたの父と母を敬え」とありますが、イエス様は残された母を気遣っていたのです。それにしても、自分の肉の兄弟よりも、弟子のヨハネを信頼していたとは、不思議です。

4.エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ

 マルコ15:33.34 さて、十二時になったとき、闇が全地をおおい、午後三時まで続いた。そして三時に、イエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」訳すと「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

 マタイ福音書では「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」であります。新約聖書はギリシャ語で書かれていますが、あえて当時のことば、アラム語をそのまま残したのだと思います。どちらも詩篇22篇のことばですが、エリはヘブル語で、エロイはアラム語です。しかし、どちらも意味は同じで「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになれたのですか」です。この叫びは、午後三時、真っ暗な中で、イエス様が父なる神に叫ばれた叫びです。でも、イエス様はいつも「父よ」と呼ぶのに、どうして「わが神、わが神」と呼ばれたのでしょうか?しかも、イエス様は、ご自分が十字架で死ぬことを何度も予告し、ゲツセマネの園では完全にゆだねたはずです。ですから、ある新興宗教の人たちは「うちの教祖は立派に死んだのに、お前ところの教祖は命乞いまでして、見苦しいぞ」と馬鹿にします。ですから、イエス様のこの叫びは、最も不可解であると言われています。

 Ⅱコリント5章の最後にはこのようなことばがあります。「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。」パウロはイエス様が私たちの罪を負ったと言わず、「私たちのために罪とされた」と言っています。イエス様はまさしく、罪そのものとなり、父なる神から捨てられたのです。十二時になったとき、闇が全地をおおい」とありますので、まるで父なる神が御顔を隠されたようです。だから、「父よ」と呼ぶことができず、孤独の真中で、「わが神、わが神」と呼ぶしかなかったのです。いわば、イエス様の叫びは地獄に行った人の叫びです。本来、私たちがそのように叫ぶところを、イエス様が身代わりに地獄に落とされてそのように叫ばれたのです。私たちはキリストを信じて、義とされたので、もうそのように叫ばなくても良いのです。イエス様が罪そのものとなられたので、信じる者たちに神の義が与えられるようになったのです。

 

5.わたしは渇く

 ヨハネ19:28それから、イエスはすべてのことが完了したのを知ると、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。

 ここに「聖書が成就するために、『わたしは渇く』と言われた」とあります。詩篇22や詩篇69に同じようなことばがあります。どちらも十字架の苦しみを預言している書物であり、「渇く」ということばがあります。イエス様は十字架の苦しみを軽減するためにではなく、ご自分に対する預言を成就するために、酸いぶどう酒を受け取られたのです。ですから、イエス様は十字架の上で、ご自分がどのようにすべきなのか、1つ1つ、ご存じだったのです。

 しかし、ジェームス・ストーカーの『キリストの最期』には別のことが書かれていました。「これが、ほんのしばらく前までエルサレムで、大群衆に取り囲まれて『だれでも渇いているなら、私のもとに来て飲みなさい』と叫ばれた方なのだろうか?これが、サマリヤの女と井戸のかたわらに立って、『私が与える水を飲む者はだれでも決して渇くことがありません』と言われた方なのだろうか?世界中の人の渇きをいやそうと言われた方が、今、死の間際で憔悴きって『私は渇く』と言っておられる方と同一人物なのか?」と書かれていました。何かの本に書かれていましたが、イエス様のこの渇きは、全人類に対する渇きだとありました。つまり、ご自分の十字架によって多くの魂が救われてほしいという渇きです。私たちもイエスさまの十字架が無駄にならないように、もっと多くの人が救われるように渇きを持たなければなりません。私は25歳のとき、はじめて教会に来てメッセージを聞きました。「わあ、すごい」と感動しました。そして、もっと聖書のお話を聞きたいという渇きが与えられました。聖書のメッセージを聞いても、まったく渇きを覚えない人もおられます。しかし、「もっと聞きたい、真理を得たい、救いを得たい」と渇きが与えられた人は幸いです。ビルジョンソンは、クリスチャンの成長にとって、最も重要なのは「飢え渇き」であると言っています。

 

6.完了した

 ヨハネ19:30 イエスは酸いぶどう酒を受けると、「完了した」と言われた。そして、頭を垂れて霊をお渡しになった。

 欽定訳には”It is finished!”「終わった」と書かれています。また、口語訳聖書も「すべてが終った」と言われたと書かれています。ですから、一般の人がこれを読んだら「ああ、イエスも死んで、これで一巻の終わりだな」と思うでしょう。でも、新約聖書はギリシャ語で書かれており、テテレスタイであります。もとの動詞はテレイオーであり、「終える、完成する、完了させる」です。また、テテレスタイは受身の完了形であり、「完全なものにされる」です。しかし、当時のことばでは、これは商業用語であり「支払った、完済した」という意味で用いられるそうです。つまり、イエス様が十字架の上で、私たちの罪の負債を全部支払ったということです。

 ヘブル9章と10章には「だた一度」Once for allということばが、5,6書かれています。ヘブル9:12「ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。」ヘブル10:14「キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって永遠に完成されたからです。」言い換えると、イエス様は一回で永遠の贖いを成し遂げてくださったのです。ですから、ローマ・カトリックのように「犠牲が今も継続されている」とか、「私たちが犯した罪の償いが必要だ」という概念は全く存在しません。私たちは完成した救いの上に、立っているのです。御父と御子がすべてをなさって下さったので、私たちは、何も加える必要がないのです。お店で売られている電化製品、あるいは車は、完成したものが販売されています。未完成のものは売られていません。それと同じように、キリストの贖いも完成しており、私たちはただ信じるだけで救われるのです。私たちが信じるだけで救われるのは、イエス・キリストが十字架ですべての罪を支払ってくださったからです。

 

7.わたしの霊をあなたの御手にゆだねます

 ルカ23:46イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。

 十字架上の最初のことばが「父よ、彼らをお赦しください」という祈りでした。そして、最後のことばも祈りであり、「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます」でした。そして、最後は「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます」で息を引き取られました。神学者に言わせますと、これは詩篇31篇からの引用だということです。詩篇31:5「私の霊をあなたの御手にゆだねます。まことの神【主】よ。あなたは私を贖い出してくださいます。」ということは、イエス様はいつも詩篇を親しく読んでおられたということです。私たちも普段から聖書を読み、死ぬときにこれをたよりにしたいと思います。私は先日、尿管結石で、救急車で早朝搬送されました。ものすごく痛かったですね。点滴につながれ何もできない。聖書もないし、本もない。テレビもつまらない。肉体が弱ると気力も弱り、霊的にもダウンします。そういう時、記憶にある聖書のみことばを瞑想すれば良いと思いますが、そういうこともできない。人に聖書はいのちのことばだと語りながら、なんと自分はふがいないのだろうと思いました。でも、体調が良くなり始めると、考えもまとまり、ノートにいろんなことを書くことができました。

死ぬ前に、みことばを口に出すことができたら幸いです。でも、死ぬ時というのは、意識も朦朧としており、何を言うか分かりません。中野牧師がハワイである年老いた姉妹の臨終に立ち会ったことがあるそうです。その時、彼女は「南無阿弥陀仏」と唱えたそうです。これは、阿弥陀という仏に帰依する、おまかせするという意味だそうです。しかし、霊は救われていても、魂は何を言うか分かりません。私も「二人の恋は終わったのねー」とサントワマミーを歌うかもしれません。あらぬことを言う恐れがある時は面会謝絶にしてもらいたいと思います。でも、「ありがとう、感謝します。主よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます」と言いたいと思います。ステパノは石で打たれて死ぬとき、「主イエスよ、私の霊をお受け下さい」と祈られました。すばらしい模範であると思います。私たちの霊を受け止めてくださるお方がいらっしゃるということです。イエス様は「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」とおっしゃいました。ですから、死の川浪も共にいて乗り越えさせ得てくださるということです。

十字架の七言、イエス様が十字架上で発せられたことばを全部、学びました。もう、おなか一杯という感じがするでしょう。7つも覚えられる訳がありません。でも、いくつかまとめ上げることができます。十字架の七言は祈りではじまり、祈りで終わっています。イエス様は午前9時に十字架につけられ、午後3時に息を引き取られました。歴史家たちは「十字架刑の場合は、もっと長く苦しむはずであるが、イエスの場合はあまりにも短い」と言います。ヨハネ19:34-35「しかし兵士の一人は、イエスの脇腹を槍で突き刺した。すると、すぐに血と水が出て来た。」これはどういう意味でしょう?医学的にはイエス様は心臓が破裂して死んだということです。だから、血と水が分離して出たんだと言うことです。イエス様は全人類の罪を負われて、断罪されました。その重みに、心臓が耐えらなかったのでしょう。イエス様は「すべてが完了した」と叫ばれました。それは勝利と歓喜の叫びであり、その時、心臓が破裂したのでしょう。「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます」は、最後の息で語られたのだと思います。イエス様はこの地上に来られた目的をはっきり知っておりました。十字架で死ぬことこそが、イエス様にとって重大なミッションだったのです。しかし、それを成し遂げ、息を引き取られたのです。

 十字架の七言を学んで、もう一つ考えられるのは、すべて静寂な中で行われているということです。福音書を読むと分かりますが、人々はさんざんイエス様を馬鹿にし、嘲弄しています。通りがかりの人たちは、「もしお前が神の子なら十字架から降りて来い」。祭司長や律法学者たちは「他人は救ったが、自分は救えない。今、十字架から降りてもらおう。そうすれば信じよう」。イエス様にとって最後で最大の誘惑でなかったかと思います。そのときの肉体の苦しみは大変だったと思います。呼吸をするためには、体全体を持ち上げなければなりません。そうすると、両手と足に激痛が走ります。あざける者たちの声と肉体の苦しみの中でありましたが、イエス様の中には静寂がありました。十字架の七言を読むと、周りの環境や肉体の苦しみを超越する、静寂があります。「とにかく、十字架の贖いを完了するのだ」という目的がはっきりしています。途中「わが神、わが神?」と罪のゆえに自分を見失ったときもありましたが、「完了した」と叫ばれました。そして、最後の一息で「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます」と祈ったのです。これはイエス様しかできないことであります。なぜなら罪の贖いは御父とイエス様の間でなされたことだからです。

 しかし、私たちが死ぬとき「十字架の七言」から学ぶべき点があるかもしれません。おそらく、死ぬときはすべてが遮断され、孤独になるでしょう。病院だったら個室に移され、管につながれるかもしれません。親しい人に感謝のことばを伝えるでしょう。でも、最後は口もきけなくなり、こちらの思いも伝えられなくなるでしょう。人のことばは聞こえても、もう応答できないのです。すべてが遮断され、全くの孤独です。でも、そのときイエス様と交わることができます。「イエスさま、私を救ってくださり、ありがとうございます。残された者たちをどうかよろしくお願いいたします。イエス様、私の霊をあなたにおゆだねします。アーメン」。周りの人たちには、分からないかもしれませんが、その人には天国の入口が見えているのです。周りの人たちは、「あれ、ほほえんでいるように見えるよ」と言うでしょう。マタイ28:20「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」アーメン。