2024.4.28「理性と信仰 マタイ14:23-32

 理性あるいは常識は神様が与えた一般恩寵の世界です。一方、信仰あるいは奇跡は神様が与えた特別恩寵の世界です。理性と常識を信奉している人たちは、信仰と奇蹟を捨て去りがちです。一方、信仰と奇跡を信奉している人たちは、理性と常識を捨て去りがちです。健康なキリスト教信仰は、バランスが大切です。イギリスの名説教家スポルジョンは「クリスチャンは聖霊のバプテスマを受ける前に、常識のバプテスマを受けなければならない」と言ったそうです。信仰熱心な人たちに限って、常識はずれなことをするという苦言かもしれません。

1.理性と常識

 理性ということばは、おそらくギリシャの哲人たちが用いたのではないかと思います。理性とはギリシャ語でロゴスであり、世界を造った智恵として考えられていました。18世紀、啓蒙主義がヨーロッパに興り、理性が再び注目を集めるようになりました。それまでは神を信じる信仰が最も価値あるものでした。しかし、近代の哲学者たちは人間の理性によって理解できないものは、すべて虚偽であると奇跡や神の存在までも捨て去ったのです。神の代わりに、理性をすべての尺度、基準としたわけです。日本は明治以降、西洋の教育を受けるようになりました。そのため、西洋の理性万能という価値観も受け入れ、教育制度にそのことが反映されています。つまり、理性的に物事を捉え、理性的に生きるなら、罪を犯すことなく健全で、豊かな生活を送ることができるということです。しかし、現実はどうでしょうか?世界は二つの戦争を経験し、日本もそれに加担し、さんざんな目にあいました。人間は理性で生きたいと願っていても、理性で生きてはいないんだということが分かったのではないでしょうか?私が中学校の国語の教科書を学んだとき、理性的に生きることが人間と動物の違いなのだと書いてありました。しかし、今思えば、人間は理性がありながらも、現実は、動物以下のことをしているのではないでしょうか?

 今日は、講演会のような話をするつもりはありません。牧師は聖書から話すことによって、この世にはない価値があるのだと思われているからです。私は理性と常識は神様が人間に与えた、一般恩寵であると思います。一般恩寵とは、誰にでも与えられている神の恵みです。私たちには個人差がありますが、知性や健康、美貌、運動能力が備わっています。天は二物を与えずという諺がありますが、人によっては二物も三物を与えられています。この世はまことに不公平だと思います。しかし、知能や身体に障害をもって生まれた方々がおられます。私は朝と夕方、散歩していますが、養護学校のバスがあり、親御さんが送り迎えをしている光景を目にします。そのとき、私の心はとても痛みます。一般恩寵の世界は残酷だと思うからです。ある人にはすばらしい能力を与え、また、ある人は、親や人々のお世話にならなければなりません。私は神様を信じてから、特別恩寵の世界があることを知りました。イザヤ書35章には「そのとき、目の見えない者の目は開かれ、耳の聞こえない者の耳は開けられる。そのとき、足の萎えた者は鹿のように飛び跳ね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水が湧き出し、荒れ地に川が流れるからだ。」と書いてあります。この世は確かに、不公平、不平等な世界です。しかし、神さまはこの世では得られなかったものを、御国において報いてくだいます。御国において、ちゃんと帳尻が会うようにしてくださるのです。ですから、この世の理性や常識を超える、神さまの特別恩寵の世界があるということをぜひ、知っていただきたいと思います。

 私たちクリスチャンは神様を信じていますが、一般恩寵である理性や常識をもって生きるという大切さも知っています。私は、理性や常識を信仰よりも大切だと言っているのではありません。この世界は物理的な法則が支配しており、科学や医学の発展をあなどってはいけないということです。彼らはいろんな努力を重ね、発見や発明をし、実験を重ね便利な世の中を作って来ました。医療や医薬品もなんとか、病気を治そうと研究してきたことでしょう。彼らの多くは神様を信じていないかもしれませんが、神さまが与えた知性や知識を駆使して、近代社会を作って来たのです。今では、人工頭脳AIがもてやはされ、人間の存在自体が危ぶまれています。まもなく、AIが神のようになるのではないでしょうか?黙示録13章には「獣」の出現が記されています。ある人たちは、これは人工頭脳AIではないかと言っています。黙示録13:15,16「それから、その獣の像に息を吹き込んで、獣の像がものを言うことさえできるようにし、また、その像を拝まない者たちをみな殺すようにした。また獣は、すべての者に、すなわち、小さい者にも大きい者にも、富んでいる者にも貧しい者にも、自由人にも奴隷にも、その右の手あるいは額に刻印を受けさせた。」獣が人類を支配するようになるという預言です。神から離れた人間が、行くところまで行ってしまうと、このようになるということでしょう。

 神様は私たちがこの世で事故や災いに巻き込まれないで、安全に生きることができるように、理性と常識を与えてくださいました。ですから、信仰の篤いクリスチャンであったとしても、一応は、理性と常識を尊重しなければなりません。教会から一歩出ると、学校や職場、地域社会が無神論の世界だからです。中には家庭が未信者ばかりでそうならざるを得ないという人もいるかもしれません。イエス様は断食している人に、このように言われました。マタイ6:17,18「断食するときは頭に油を塗り、顔を洗いなさい。それは、断食していることが、人にではなく、隠れたところにおられるあなたの父に見えるようにするためです。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が報いてくださいます。」私たちはこの世に出て行くとき、顔や頭に理性と常識の油を塗ります。しかし、隠れたところで交わる神さまの前では違います。私たちには神さまを全存在かけて信じ、信頼し、慕う心があります。この世の人たちに私たちの信仰を理解してもらうのは無理でしょう。でも、私たちの神さまは目には見えなくても、今も生きておられ、私たちを愛し、必要なものすべてを与えてくださいます。この世の人たちがいう、信仰は精神的なものではありません。全人格的なものであり、この方を信頼していくと、精神面だけではなく、健康面、物質面、あらゆる領域に特別恩寵が現れてきます。信仰はきわめて科学的です。なぜなら、神さまを信じていくとそのような結果が必ず伴うからです。

2.信仰と奇跡

 日本では、「私はキリストを信じています」というと、変人か奇人みたいに思われるでしょう。あるいは、もし、「神さまを信じています」と言うなら、「どの神さまですか?あなたは仏教徒ではないんですか?」とワンクッション置かれるかもしれません。欧米では、神さまはGodであり、唯一であり、全知全能なるお方という一般的な知識が埋め込まれています。なぜなら、キリスト教の教えが根底にあるからです。中国でも韓国でも、神はお一方、唯一なるお方という暗黙の理解があるようです。そこへ行くと、日本は多神教で、精霊崇拝の国なので、神の存在からはじめなければなりません。信仰の話をすると、「神なんかいないでしょう?」と一笑され、宗教アレルギーの的になります。今はどうか分かりませんが、インドネシアに行くと「あなたの宗教は何ですか」と聞かれるそうです。もし、日本人が「私は無神論です」と答えようものなら、「こいつは危ない、何をしでかすか分からない」と危険視されるようです。彼らはイスラム教でもキリスト教でも、神を信じている人は、「恐れる心」があるので安心できるということです。昔、第二次世界大戦中、アメリカ軍は「神以外は何も恐れない」と言ったそうです。しかし、日本兵は「私は神をも恐れない」と言ったので、「神風特攻隊」はそこから来ていると考えられたそうです。神さまを信じている人は、どこかにリミットがかかります。つまり、人間としてやっていいことと、やってはいけないことがあるという暗黙の理解があるからです。旧約聖書には、神の恐れることの大切さがしばしば語られています。箴言1:7「主を恐れることは知識の初め。愚か者は知恵と訓戒を蔑む。」伝道者の書12:13「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」と書かれています。私たち信仰者は神さまを礼拝するとき、こうべを垂れ、ひざをかがめます。それは「あなたは私の根源であり、私はあなたに依存しています」という現れなのです。しかし、神を信じない人生というのは、「私はだれにも頭を下げません。全部、私の力でやったからです」と言っているようなものなのです。

 聖書を読むと、神がおられるという、神の存在を証明している箇所はありません。本当は私たちの理性や常識に分かるように神さまご自身の姿を見せてくれたら良いのですが、そういうアプローチは一切ありません。聖書は、はじめから神がおられるという前提で書かれています。創世記1:1「はじめに神が天と地を創造された。」はじめから神さまがおられ、その神さまが天と地を創られたのです。神さまご自身が発せられたことばで、この世界とそこに住む動植物を造られました。これって奇跡ではないでしょうか?100歳の老人が子供を儲けたり、紅海を分けてエジプトから脱出し、ヨルダン川をせき止めた奇跡が普通に書かれています。天からマナが降り、100万人以上の民が、荒野で40年間も養われました。聖書では奇跡は全能なる神さまにとっては、普通の出来事だったのです。私たち人間から見ると、それは奇跡ですが、神さまにとっては当たり前の出来事だったのです。神さまにとっては一般と奇蹟との境目がないのです。有限な知性と能力しか持ち合わせていない私たちが「ああ、それは奇跡だ」と定義するのです。では、奇跡とは何でしょう?CSルイスと言う人が「奇跡」という本でこのように述べています。「奇跡は自然そのものではないが、同時に自然に反するものでもない。私たちの知る自然を越えたものであるが、それに反するものではなく、また、不自然なものでもない。真の奇跡は、いっそう高度な、また純粋な性質を持つものである。すなわち、秩序整然とした世界から、この一致のない乱れた私たちの世界に下って来たものであり、少なくともその瞬間、この世界を上なる世界と調和させるものである。たとえば、病のいやしは自然に反するなどとは言えない。異常なのは病であり、健康ではないからである。いやしは原始秩序の回復であり、ここに見られるものは自然法則の違反ではなく、高い法則による低い法則の一時的中断にほかならないのである。」

 かえって分からなくなってしまったでしょうか?一般に奇跡をmiracleと言ったりしますが、他にも言い方があります。Mighty works大いなるわざ、それからsupernatural 超自然の、と言ったりします。CSルイスが「自然に反するものでもない。私たちの知る自然を越えたものである」と言ったのは当を得ていると思います。つまり、神さまはこの自然界を造られた創造主です。そのとき、この自然にいろんな法則を与えました。秩序ある神さまは、ご自分が造られた自然界とその法則を今も保持しておられます。でも、時には私たちのために法則を超えることをなさることは別に不思議なことではありません。何をしようと、創造主の勝手です。イエス様は生まれつきの盲人の目を癒されたことがあります。その時、地面に唾をして、その唾で泥を造られました。今度は、その泥をその盲人の目に塗ったのです。彼がシロアムの池で泥を洗い流すと彼は目が見えるようになりました。創世記2章には「神である主は、その大地のちりで人を形造った」と書かれています。イエス様は泥を塗って、彼の目を再創造したと考えても不思議なことはないでしょう。聖書を見てわかりますが、イエス様は誰に対しても奇蹟を行なったわけではありません。その人には、イエス様の奇跡を受け取る信仰が必要でした。盲人のバルテマイは「あなたの信仰があなたを救いました」とイエス様から言われました。信仰は神からの奇跡を受け取る見えない手を言うことができます。次の第三のポイントで話しますが、私たちの理性や常識が奇跡を受け取ることの大きな妨げになることがあります。この世で無事に生きるための理性や常識が、神さまからの奇跡を受け取る妨げになるなんてだれが思うでしょうか?

 信仰とは簡単に言うと、見えないものを信じることです。パウロは「私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。」(Ⅱコリント4:18)と言いました。実は、目に見えるものというのは物質であり、この世のものです。しかし、この世のものはいつか消え去り、一時的なものです。目に見えるこの世のものに対しては、理性と常識が役に立ちます。しかし、目に見えない神さまのことや、永遠に関することは、理性や常識ではなく信仰が必要なのです。でも、信仰は非常識なものではありません。信仰は常識を超えるものであり、奇跡を一般的なものとして受け取る働きがあります。

3.理性と信仰との戦い

 やっと本日の聖書箇所からメッセージしたいと思います。このところには、理性と信仰との戦いが記されています。常識と超常識である奇跡との戦いと言い換えても良いでしょう。イエス様がガリラヤ湖の水の上を歩いて近づいて来られました。舟に乗っている弟子たちは「あれは幽霊だ」と言っておびえ、恐ろしさのあまり叫びました。なぜなら、それはありえないことであり、人間ではなく、幽霊だと思ったのは当然です。しかし、「私である。恐れることはない」というお声を聞いて、彼らは安心しました。ところが、弟子のペテロは常識を超えるような願いをしました。「主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください」と言いました。このところでペテロは、とても大胆で向こう見ずな人だと分かります。イエス様は「ペテロ、何を馬鹿なことを言っているんだ。人間が水の上を歩ける訳がないだろう。お前には常識がないのか!」とは申しませんでした。イエス様は「来なさい」と言われました。そこでペテロは舟を出て、水の上を歩いてイエスさまの方に行きました。多くの人たちは、「ペテロは溺れた、溺れた」と言いますが、ペテロは何歩か水の上を歩いたのです。月の上を人間が歩いたことは知られていますが、ペテロは水の上を歩いた最初の人物かもしれません。ところが、ペテロは強風を見て怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫びました。おそらく、彼の顔に波しぶきがかかり、「人間が水の上を歩くなんでありえない」と理性が芽生えたのでしょう。彼は信仰を棄てて、目に見える常識と理性を選び取ったのです。とたんに、彼は沈んでしまいました。イエス様はすぐに手を伸ばし、彼をつかんで「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われました。

 さて、このところには、理性と信仰との戦い、あるいは常識と奇跡との戦いが記されています。ペテロはガリラヤ湖の漁師であり、嵐の怖さも知っていました。学校で物理を学んだことはありませんが、人間が沈んでしまう、沈んだら溺れ死ぬということも経験上から知っていました。ペテロは確かに沈みましたが、何歩かは水の上を歩くことが出来たのです。これは奇跡です。でも、どうしてそのような奇跡を体験できたのでしょう?イエス様は「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われました。「信仰があれば、何でもできる」のでしょうか?チョー・ヨンギ師の『第四次元』という本にこのようなことが書かれていました。あるところで青年宣教大会が開催されていました。ところが、あいにくの雨で河川が氾濫していました。あたりには橋も舟も見当たりません。若者たちはくしゅんとしょげかえっていました。ところが出し抜けに、三人の女の子たちが一緒になってこう言い始めたのです。「私たちが水の上を歩けない話ってあるかしら?だって、ペテロは水の上を歩いたし、ペテロの神さまは、私たちの神さま。ペテロのイエス様は、私たちのイエス様。ペテロの信仰は私たちの信仰じゃないかしら?あのペテロだって信じたのだから、私たちも、もっと信じましょう。さあ、この川を渡りましょう!」水はあふれ、流れは激しかったのです。しかし、少女たちにひるむ様子はありませんでした。三人は、まずひざまずくと、たがいの手をしっかり握りしめ、ペテロによる水上歩行の聖句を唱え始めました。そして異口同音に「あたしたち、信じます。ペテロのように信じます。」と気炎を上げていました。それから、他の若者たちが固唾を飲んで見守る中を、何やら大声をわめき立てながら、川の中にじゃぶじゃぶ足を踏み入れ始めたのです。と、ひとたまりもありません。奔流の中に踏み入れるや、あっという間に足をさらわれ、三人もろとも川に飲み込まれてしまいました。そして、それから三日後、彼女らの溺死体が海の入り江で発見されたのです。この事件は韓国中に大反響を呼びお越し、普通の新聞もこの事件を大々的に報道しました。見出しにはこのように書かれてありました。「神、けなげな少女たち救い得ず」「何ゆえに神は、少女たちの信仰の祈りに答えざりきか」。未信者たちは、この事件にやんやの拍手喝采を送りました。

 ペテロが普通の人にはできない、水上歩行ができたのは何故でしょう?どうして、ペテロは奇跡を体験し、三人の少女たちには体験できなかったのでしょうか?常識的に、自然法則では人は水の上を歩くことはできません。しかし、ペテロが水の上を何歩かでも歩けた理由が、ここにあります。ペテロは「私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください」と願いました。その願いに対して、「来なさい」ということばをペテロに与えました。これは一般のことば、ロゴスではなく、レーマでありました。嵐という特定の状況の中でレーマが与えられ、レーマが信仰を生み出しました。「信仰は聞くことから始まり、聞くことはキリストのことば(レーマ)によるのです」(ローマ10:17)。ペテロの水上歩行は常識や理性に頼ったのではありません。キリストのレーマを信じたので、あのような奇跡が起こったのです。ところが、ペテロは波しぶきを顔に受け、信仰が消えて、理性が復活してしまったのです。「人が水の上を歩くなんてありえない!」と疑ったとたん、沈んでしまいました。そうです。理性と信仰が戦う場合は、私たちは信仰を選びとらなければなりません。目では見ず、耳で聞こえず、手で触ることができなくても、与えられた神のことば、レーマに堅く立つなら、奇跡が起こるのです。その時、その人は「たとえそうでなくても」とダニエル書の三人の若者たちのように決意するのです。どのような結果が起っても、世の人たちが笑おうとも、何とも思いません。そういう覚悟がなければ、奇跡を体験することはできません。たとえクリスチャンであっても、信仰に堅く立つことができず、理性と常識を選びとって命のないクリスチャンに成り下がってしまうのです。

 もちろん、私たちはこの世に生きていますので、理性と常識が必要です。いつも「奇跡が起こりはしないだろうか?」と期待していたなら、神経がダメになります。神様は一般恩寵、自然の法則を作りました。ですから、普通は省エネモードで理性と常識で生きるのです。でも、一瞬先何が起こるか分かりません。ある時は、神さまは預言を与えて知らせてくれるでしょう。また、ある時は他の人には分からない、啓示と知恵を与えて、解決を与えてくれるでしょう。またある時は、天の窓を開いて、ご自分の栄光の富の中から、私たちに必要なものを与えてくれることでしょう。私たちは神様のご介入である奇跡を信じながら、理性と常識を用いて生きるのです。