2024.4.21「何から救われるか」 詩篇91:1-9 

 クリスチャンはよく「私は救われた」と言います。ところが、この世の人たちが、そのことを聞いても何なのかさっぱり分かりません。もちろん、私たちは救われたのですが、何から救われたのかということをはっきり知る必要があります。それが分かると自分の救いに確信が得られ、またこの世の人たちにも弁明することができます。「救う」はギリシャ語でソゥゾウと言いますがたくさんの意味があります。受身形では、「敵や死の危険から救われる、病が癒される、永遠の滅びから救われる、そして、罪から救われる」等です。キリスト教の救いは罪からの救いであり、これは他の宗教にはない独特なものです。でも、きょうはプリズムで光を分けるように、救いを5つに分けてメッセージさせていただきます。

1.滅びから救われる

 ヨハネ3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」このみことは救いを最も良く表しているみことばです。このところには、信じる者と信じない者との未来が明確に示されています。御子イエスを信じる者は、滅びることなく、永遠のいのちを持つということです。一方、御子イエスを信じない者は、滅びるということです。19世紀、イギリスやアメリカでリバイバルが起りましたが、地獄か天国か2つに1つしかないというメッセージがなされました。人々は自分の胸を打ちながら、罪を悔い改め、キリストを信じました。しかし、今は、以前ほど、さばきのメッセージをしなくなりました。さらには、リベラル(自由主義)の教会は「地獄はない」とか「すべての人が救われる」「キリストの他にも救いがある」と言い出しました。そうなると、危機感が薄れ、「信じても信じなくても良い」みたいになってしまいます。メリハリがないというか、聖書的なメッセージでなくなってしまいます。聖書は「御子を信じる者が、一人として滅びることなく」と言っていますので、キリストを信じることが唯一の条件であります。ヨハネ3:36「御子を信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる」とあります。つまり、永遠のいのちもあれば、永遠のさばきもあるのです。

イエス様は地獄のことゲヘナと呼んでいます。マタイ5:29,30「もし右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに投げ込まれないほうがよいのです。もし右の手があなたをつまずかせるなら、切って捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに落ちないほうがよいのです。」ゲヘナとは焼却炉という意味であり、黙示録19、20章に書いてある「硫黄の燃える火の池」です。もちろん、地獄はまだ来ていません。地獄は世の終わり、千年王国の後にやってきます。死後にも福音を聞いて、もう一度、救われるチャンスがあるという考えがあります。これは福音を全く聞いたことのない人のためのものであり、定かではありません。キリスト教は契約の宗教です。旧約はイスラエルの民が律法を守ることによって救われました。新約は罪を贖われたイエス・キリストを信じるなら救われます。これは契約です。「キリストがなされた救いを受け取るか」、あるいは「受け取らないか」ということです。生命保険は生きているうちに入らなければ何の効力もありません。この契約も同じで、あなたが生きているうちに、キリスト信じて神さまと契約を交わす必要があるのです。信じるなら、その瞬間から永遠のいのちが与えられ、死後、さばかれることはありません。その人は、地上において、天国を味わいながら、死を恐れず、死ぬまで生きることができます。不思議なことに、キリストを信じている人は「ああ、私は天の御国に行ける。私には永遠のいのちがある」という自覚(確信)があります。その確証となるみことばがこれです。Ⅰヨハネ5:12「御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。」いのちとは、神のいのちであり、永遠のいのちです。キリストを持つ、つまりキリストを信じている人は、そのいのちを持っているということです。

 

2.罪から救われる

 ローマ4:24,25「すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、義と認められるのです。主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。」ヨハネは救いを生命的な意味で教えていますが、パウロは法的な意味から教えています。パウロは「背きの罪」と言っていますが、ギリシャ語ではパラプトーマであり、「過ち」「違反」という意味です。これは、神に対するものであり、また、人に対するものです。ローマ5章に「違反」ということばが度々出てきます。ローマ5:18,20「こういうわけで、ちょうど一人の違反によってすべての人が不義に定められたのと同様に、一人の義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられます。…律法が入って来たのは、違反が増し加わるためでした。しかし、罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました。」一人の人の違反とは、アダムのことです。アダムが神に背いて罪を犯したことにより、全人類が罪人とされたのです。私たちが罪を犯すのは、悪い人だからというのではなく、罪人だから罪を犯すのです。この世においては、学校で道徳教育を施し、数えきれない法律を作ります。人は頭ではそれが悪いと100も承知なのですが、罪を自然に犯すのです。なぜなら、アダムの子孫であり、みな罪人だからです。エペソ2章の冒頭にあるように、私たちは、自分の背きと罪の中に死んでおり、神の怒りを受けるべき存在でした。

しかし、私たちがまだ罪人であったとき、父なる神は救いの道を与えてくださいました。ローマ5:8「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」新約だけでなく、旧約聖書にも福音が記されています。イザヤ53:6「私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。」とあります。私たちが願ってもいないのに、神さまが一方的に、御子イエスを十字架に与え、彼に罪を負わせて罰しました。そのことによって、義なる神さまの罪人に対する態度が変わりました。神さまの方から和解の手が人類に差し伸べられたのです。「このキリストを信じるなら、罪赦され、義と認める」と言われるのです。行いではなく、キリストを信じることによって、神さまが自分の義を信じた人に与えてくださるのです。私たちが悔い改めて、神さまの前に出る時、これまで犯した罪を全部お詫びする必要はありません。重要なことは、「私は神に背いて罪を犯してきた罪人です」ということを認めることなのです。そして、「私たちの罪のため十字架で贖いを成し遂げ、3日目によみがえられたキリストを救い主として信じます」と神さまの前に告白すれば救われるのです。なぜ、キリストの復活まで信じなければならないのか、説明すると時間がかかります。ものすごく簡単に言うと、十字架の死と復活はワンセットであり、分けることができないからです。パウロが「主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました」と言っているからそうなのです。神さまがキリストによってなされたことを信じれば良いのです。どのように走るのか車の構造が全部わからなくても、運転することはできます。同じように、「十字架と復活を信じれば、罪赦され、義と認められる。アーメン」で、良いのです。神さまの方で、私たちが救われる手立てを完了して下さったからです。

 

3.悪魔から救われる

 多くの教会は第一と第二は強調しますが、これから言及する第三と第四と第五はあまり言いません。何から救われるのか、私たちは悪魔から救われるのです。悪魔はこの世の神であり、私たちは彼の持ち物です。『信じるだけで救われるか』の著者、高木慶太師は、私たちは悪魔が持っている奴隷市場に売られている存在であると言っています。イエス様が十字架上で「完了した(テテレスタイ)」と叫ばれましたが、それは商業用語であり「完済した」という意味です。キリストは十字架で代価を支払ったので、私たちは奴隷市場から出ることができます。もう鍵はかかっていません。しかし、悪魔は「そんなの嘘だ。神もキリストもいない」と言います。せっかく贖いが成し遂げられたのに、「この世の神が、信じない者たちの思いを暗くし、神のかたちであるキリストの栄光に関わる福音の光を、輝かせないようにしているのです」(Ⅱコリント5:4)。多くの人たちは「神を信じると不自由になる。教会に行くと洗脳される。宗教は危ない」と思っています。確かに危ない宗教もありますが、「イエス・キリストは道、真理、命」です。この方を通してでなければ、まことの神さまのところには行けません。キリストこそが、私たちを悪魔の支配から救い出し、本当の自由を与えて下さるお方だからです。あなたは、以前は失われていたものでしたが、神の子どもの身分が回復し、御国の相続者になることができるのです。パウロが悪魔から救われることをこのように述べていますが、二箇所引用いたします。

 使徒26:18「『それは彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、こうしてわたしを信じる信仰によって、彼らが罪の赦しを得て、聖なるものとされた人々とともに相続にあずかるためである。』コロサイ1:13「御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。」パウロによれば、私たちが救われる以前は、悪魔・サタンの支配のもとにいたということです。その時は闇と暗闇が支配しており、何が真理なのか、だれが神さまなのか全くわかりませんでした。親も教えてくれない、学校の先生も教えてくれない、友だちも教えてくれません。みんな悪魔に欺かれ、そして霊的にも盲目なので、キリストにある自由ということが分からないのです。ところが、神さまの憐みにより、だれかから、何かのきっかけでキリストの福音を聞きました。最初は「嘘だろう、作り話だろう、そんなの信じられない」と思っていました。しかし、聖霊が切なる求めを与えてくださり、勇気を出して福音を信じたのです。そうすると分かりました。「ああ、私はサタンの支配、闇の中にいたんだ」ということが。つまり、闇から光に、サタンの支配から神の支配の中に移されたのです。正確にいうなら、これは解放であり、deliveranceです。イエス様が変貌山でモーセとエリヤと三者会談をしていました。一体、何を話し合っていたのでしょう?ルカ9:31「栄光のうちに現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について、話していたのであった。」日本語の「最期」は、ギリシャ語ではエキソドスであり、「出て行くこと、出発、死」という意味があります。しかし、エキソドスは70人訳では出エジプト記のことです。出エジプトは、モーセがイスラエルの民をエジプトのファラオのもとから解放する出来事です。彼らは奴隷でしたが、エジプトを脱出して、解放されました。私たちにとってファラオとはサタンです。モーセはキリストです。あの時、過ぎ越しの羊の血が脱出の鍵でした。同じようにキリストの血が、サタンの支配から私たちを解放してくださるのです。悪魔、サタンは私たちを訴えることはできません。私たちは神の国に住む神の子どもであり、御国の相続者になりました。

 

4.病から救われる

 病が癒されること、あるいは障害が回復することを聖書では「救われる」と表現しています。マルコ5章には長血を患った女性のことが記されています。彼女がイエスさまの衣に触れると、イエス様から力が流れてきて、血の源が乾いて、病気が癒されました。イエス様が「だれが私の衣に触ったのですか」と問いただすと、彼女は震えおののきながら前に進み出ました。イエス様は彼女に「娘よ。あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われました。ギリシャ語訳でも、ソゥゾウの完了形です。英語の聖書にはhealedの他にmade wholeという訳もあります。Wholeというのは、「全部の、全体の、すべての」という意味です。Whole cakeと言ったりします。しかし、このWholeには「身体など傷を受けない、壊れていない、完全な」という意味があります。昔は「健康な」「傷や病気が治った」という意味で使われていました。つまり、wholeとは神さまが作られた健全な身体を言うのです。もう一箇所、マルコ10章には、盲人のバルテマイの事が記されています。彼は大声を上げてイエス様を呼び止め、イエス様から目を開けてもらいました。イエス様は彼に「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました」とおっしゃいました。この時も、マルコ5章と同じ、ソゥゾウであり、wholeです。他にもあるかもしれませんが、病の癒しや障害の奇跡的な回復は、救いであり、wholeなのです。このように考えますと、永遠のいのちが与えられること、罪赦され義と認められることも救いですが、病の癒しや障害が回復することも救いなのです。本来、これらのことは来るべき千年王国でなされることなのですが、イエス様は神の国と一緒に病の癒しや障害の回復を持って来られたのです。

 それなのにキリスト教会は啓蒙主義がもたらした合理主義以来、病の癒しや奇跡を言わなくなりました。さらには科学や医療の発達により、「そういうことは医者に任せて、私たちはみことばを教え、霊的なことをしていれば良いのだ」と言うようになりました。体の具合が悪いと、「良い病院とお薬が与えられますように」と祈るのです。医者やお薬は一般恩寵ですから、それらの助けを受けても全く問題はありません。しかし、その前に、私たちは癒し主なる神さまに癒しを求めるべきであります。お祈りもろくにしないで、医者や薬局に駆けこむのは問題です。出エジプト記15章には「私はエジプトで下したような病気は何一つあなたの上に下さない。私は主、あなたを癒す者だからである」と書かれています。エジプトというのは、神さまから離れたこの世を象徴しています。病の癒しは神のみこころであることがはっきり分かります。また詩篇91篇には「災いはあなたに降りかからず、疫病もあなたの天幕に近づかない」と約束されています。イエス様の、この地上でのミニストリーの三分の一は病の癒しや悪霊追い出し、そして障害の回復でした。マタイ9章には「あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒された」と書かれています。しかし、ある人たちは、神さまは「私たちを訓練するために、病を与えることがある」と言います。私たちは不摂生によって病になることがありますが、病そのものは神さまが与えたものではありません。イエス様はすべての病を癒して歩かれました。もし、神さまが人に病を与えるとしたら、イエス様は父なる神さまに逆らっていることになります。そうではありません。イエス様がなさっていることは、父なる神さまのみこころなのです。父なる神さまは私たちが病気にならないで、健やかに生きることを願っておられるのです。

 

5.苦しみや困難から救われる

 イエス様は「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝ちました」(ヨハネ16:33)と言われました。つまり、私たちがこの世で生きている限り、この世の人たちと同じような苦難に会うということです。問題は、神さまからの助けがあるか、ないかの違いです。詩篇91篇4-9「主はご自分の羽であなたをおおいあなたはその翼の下に身を避ける。主の真実は大盾また砦。あなたは恐れない。夜襲の恐怖も昼に飛び来る矢も。暗闇に忍び寄る疫病も真昼に荒らす滅びをも。千人があなたの傍らに万人があなたの右に倒れてもそれはあなたには近づかない。あなたはただそれを目にし、悪者への報いを見るだけである。それはわが避け所、主をいと高き方をあなたが自分の住まいとしたからである。」神さまを信じない人たちは、「そんなうまい話あるかよ」と馬鹿にするでしょう。でも、そういう人たちはいつも何かに恐れて暮らしています。この世には恐れと不安が満ちています。いつ災害に会うか、いつ事件に巻き込まれるか分かりません。主の祈りで「私たちを試みにあわせないで、悪からお救い下さい」と祈ります。「悪」とは、何か漠然とした意味ではありません。悪とはevilであり、「邪悪な」とか「悪魔的なもの」という意味があります。試みとは、誘惑であり、背後に誘惑者がいるということです。つまり、この世の神である悪魔が、私たちを攻撃し、苦難に合わせ、神から遠ざけようとしているのです。だからイエス様は「私たちを試みにあわせないで、悪からお救い下さいと祈れ」とおっしゃったのです。あるクリスチャンは「自分たちは救われているので、悪しき者が私たちに手を触れることはない」と言います。「悪魔は架空なものであり、悪を人格化したものだ」と言う人さえいます。それは全く間違いです。悪魔は私たちよりも賢く、超自然的な能力を持ち、人格を持った霊的存在です。敵の存在を信じないなら、既にやられていることを知らなければなりません。しかし、悪魔やサタンが直接、一人一人を攻撃することは滅多にありません。親分は子分である悪霊どもを使います。また、悪霊は肉の人を通して、信仰者を攻撃します。人は悪魔の道具になるときがあるのです。

 詩篇には「ダビデによる」という表題がついているものがたくさんあります。ダビデが作ったのか、あるいはダビデのことを思って書いたのかどちらかだと思います。彼はサウル王からいのちを狙われ、荒野や洞窟をさまよいました。サウルの家来ばかりか、その地方に住む人たちが、ダビデに敵対しました。そのため、心を休めることができませんでした。ダビデは「私を救って下さい」と詩篇のいたるところで叫び求めています。詩篇3:7「主よ立ち上がってください。私の神よ、お救いください。あなたは私のすべての敵の頬を打ち悪しき者の歯を砕いてくださいます。」詩篇6:3,4「私のたましいはひどく恐れおののいています。…主よ、帰って来て私のたましいを助け出してください。私を救ってください。あなたの恵みのゆえに。」詩篇7:1「私の神、主よ、私はあなたに身を避けます。どうか追い迫るすべての者から私を救い助け出してください。」あまりにもたくさんあるのであとはご自分でお探しください。ダビデは私たちの代表として、さまざまな苦しみや困難に会われたのではないかと思います。あれだけ多くの苦しみにあったので、あれだけたくさんの詩篇が書けたのだと思います。ダビデから学ぶことは、私たちはいかなる場合にも、主に救いを求めるべきだということです。ある時は主が盾になり、隠れ場になってくださいます。また、ある時は私たちと一緒に戦って下さいます。主は私たちが口に出さなくても、心の叫びに耳を傾けてくださいます。私たち信仰者は、覚めているときも、寝ているときも、主からの救いを求めつつ、主の守りの中に生きることができます。私たちは滅びから救われ、罪から救われ、悪魔から救われ、病からも救われ、苦しみや困難からも救われます。