2024.4.14「求める信仰 マルコ2:1-5」

 イエス様は「求めなさい。そうすれば与えられます」(マタイ7:7)と言われました。言い換えると、求めないなら与えられないということです。喉の渇いていない馬に水を飲ませることはできません。救いを求めない人に福音を伝えようとしても徒労に終わるでしょう。クリスチャンはどうでしょうか?ある程度の信仰の年数が経つと、慎ましくなり、「これくらいが自分に合っているのでは」と、あまり求めなくなります。きょうはマルコによる福音書に出てくる4人の人物をあげながら「求める信仰」について学びたいと思います。

1.中風の人

 マルコ2章には中風の人をイエス様のもとに運んできた人たちのことが記されています。中風の人は自分でイエス様のところに行けないので、4人の友人が戸板に載せて運んできました。聖書に戸板とは書かれていませんが、担架あるいは、ストレッチャーでも良いかもしれません。彼らはイエス様がおられる家の前までやってきました。ところが多くの人たちが戸口まで集まっており、中に入ることができませんでした。それで、彼らは諦めたでしょうか?マルコ2:4-5「彼らは群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、イエスがおられるあたりの屋根をはがし、穴を開けて、中風の人が寝ている寝床をつり降ろした。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に『子よ、あなたの罪は赦された』と言われた。」この短い箇所に、彼らの求める信仰がどのようなものなのか凝縮されています。パレスチナの家屋はフラットなので、簡単に登ることが出来ました。しかし、人の家の屋根をはがして穴を開けるなんて、建造物損壊と不法侵入で訴えられるかもしれません。家の持ち主は、驚いたばかりか、怒りがこみあげてきたのではないでしょうか。しかも、寝床にくるんだままの病人をイエス様の真ん前に吊り降ろすなんで、無礼にもほどがあるでしょう。しかし、イエス様は、彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦された」と言われました。「彼ら」というのは、中風の人ご本人と彼を連れてきた4人の人たちのことでしょう。

 イエス様は「彼らの信仰を見て」とおっしゃったので、それらの一つひとつが信仰の現れだったということです。彼らはどのような障害を乗り越えて、イエス様からの癒しをいただいたのでしょうか?中風の人は、おそらく重症であり、自分でイエス様のところに行くことができません。友人たちに頼んだか、あるいは友人たちが彼に声をかけたのかは、分かりません。でも、彼らは協力してイエス様のところに彼を連れて行くことにしたのです。協力という文字は、十字架に3つの力、いや4つの力があります。一人の信仰が弱くても、4人集まればすごいですね。中風の人自身にも信仰があったと思われます。なぜなら、イエス様から「寝床をたたんで歩け」と言われた時、立ち上がり、すぐに寝床を担いで、家に帰ったからです。その次の障害は、多くの人たちが戸口まであふれていたということです。一人でも無理なのに、病人を抱えて割り込んでいくというのは無理です。その時だれが提案したか分かりませんが、屋根に上り穴をあけて、中風の人を吊り下ろすというアイディアです。建物と屋根という物理的な障害がありましたが、それを壊してまで、イエス様に近づいたというか、彼を近づきさせました。イエス様は彼らの信仰を見て、本来なら病の癒しを与えたかったのですが、もっとすばらしい罪の赦しを与えました。病の癒しはこの地上だけのものですが、罪の赦しは救いであり、永遠のいのちだからです。私たちも障害を乗り越えてでも、イエス様に近づく、求める信仰が必要だということです。おそらく、穴をあけてしまった家は、あとから5人が来て修繕したと思われます。

 日本では一人で教会に行くということは非常に勇気がいることでしょう。統計はとったことがありませんが、おそらくだれかから誘われて礼拝や家庭集会などに来て、それから信仰を持ったと言う人がほとんどではないでしょうか。家族や友人から誘われて、一緒に座ってもらって、それでだんだん心が開いて…と言うケースではないでしょうか。私も職場の先輩に連れられて、恐る恐る来たものです。洗礼を受けてからもしばらく、アドバイスをいただき独り立ちするのに、1年以上かかりました。「イモずる式」と言うのがありますが、人間関係による伝道が日本には合っているのかもしれません。4人の人が一人の人を担いでイエス様のところに連れて行ったように、私たちもそのような伝道法を手本にしたいと思います。

 

2.長血を患った女性

 マルコ5章には12年の間、長血を患っている女性のことが記されています。マルコ5:26-29「彼女は多くの医者からひどい目にあわされて、持っている物をすべて使い果たしたが、何のかいもなく、むしろもっと悪くなっていた。彼女はイエスのことを聞き、群衆とともにやって来て、うしろからイエスの衣に触れた。『あの方の衣にでも触れれば、私は救われる』と思っていたからである。すると、すぐに血の源が乾いて、病気が癒やされたことをからだに感じた。」この女性の、イエス様から癒しを求めるための障害とは何だったのでしょうか?彼女の病気はレビ記によると彼女が触ったものが汚れてしまう宗教的なものでした。彼女はイエス様に直接ではなく、後ろから、しかも衣の裾に触れたのはそのためです。また、彼女は体力的にとても衰弱していたと思われます。だから、信仰を奮い起こして「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる」と心の中で言い続けて近づいたのです。しかし、状況はとっても困難でした。イエス様は会堂司ヤイロの娘のところに行くために急いでいたからです。しかも、イエス様のまわりには群衆が押し迫っていました。健康な男性でも、近づけないような状況でした。彼女は身をかがめながら、病弱な体を引っ張って、最後ははうような状態でイエス様の衣の裾に触れることができました。すると突然、イエス様から力が流れて来て、痛みが去り、癒されたことが分かりました。

 イエス様は全知なるお方ではありましたが、彼女にあえて名乗り出るように求めました。彼女は恐れおののきながら「私です」と真実をすべて話しました。イエス様は彼女に、「娘よ。あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい」と言われました。人間的には、そのまま帰してやったほうが、恥をかかせなくて済むかもしれません。では、なぜ、イエス様は彼女に名乗り出るように求めたのでしょう?先ほども申しましたが、彼女の病は宗教的なものであり、自分は汚れた存在であると思うし、他の人からも思われていたでしょう。でも、「娘よ」と言われたとき、彼女のセルフ・フルイメージが癒されたと思います。日本語では「安心していきなさい」ですが、英語ではgo in peace.です。Peaceはギリシャ語ではエイレンネーですが、ヘブル語ではシャロームです。安寧、繁栄、健康、和解という意味が含まれています。おそらく彼女は12年という時間と医療につぎ込んだお金、青春…いろんなものを取り返すことが出来たのではないかと思います。しかも、「苦しむことなく、健やかでいなさい」という祝福もいだだくことができました。その病気が二度と起こらないように封印され、健康な生活を送ることができるという保証をいただいたということです。彼女がイエス様に近づくためにたくさんの障害がありました。でも、一番大きいのは、恥意識ではないかと思います。求める信仰によって恥意識を乗り越え、群衆をかきわけてイエス様に触れることができました。私たちもあるときは、恥も外聞も捨て去り、イエス様に近づく必要があるということです。イエス様は「あなたの信仰があなたを救ったのです」と認めてくださるでしょう。

 この女性はたった一人でイエス様のところに勇気をもって近づいた人です。孤独で、病弱で、半分呪われた存在であっても、イエス様の救いを求める人です。12年間も苦しんで、お金もなくなり、これまでの人生を無駄に生きたような人物です。でも、彼女は希望を失いませんでした。これがチャンスだというとき、人の迷惑も顧みず、這ってでもイエス様に近づいた人です。私たちも環境や身体の状況に関わらず、このようなたくましい求める信仰を持ちたいと思います。主は私たちのそのような信仰を喜び、祝福してくださいます。

 

3.シリア・フェニキアの女性

 マルコ7章にはイエス様がツロの地方に退かれたときのことが記されています。最新の聖書はシリア・フェニキアとなっています。地図を見ますと、ガリラヤよりもさらに北で、異邦の国でした。ある女性がやってきて、「私の娘が悪霊につかれて苦しんでいるので助けて下さい」とイエス様の足もとにひれ伏しました。マタイ15章には「カナン人の女」と書かれているので、ヨシュアの時代であったら、滅ぼされるべき異教の人たちでした。彼女のイエス様に近づくための障害とは何でしょう?建物でもなく、群衆でもありません。なんと、イエス様の沈黙であります。「え?そんなことあるの」と耳を疑うかもしれません。マタイ15章には「イエスは彼女に一言もお答えにならなかった」と書かれています。弟子たちは、彼女が叫び続けるので、「あの女を去らせてください」とイエス様にお願いしています。マルコ7:27-30「するとイエスは言われた。『まず子どもたちを満腹にさせなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです。』彼女は答えた。『主よ。食卓の下の小犬でも、子どもたちのパン屑はいただきます。』そこでイエスは言われた。『そこまで言うのなら、家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました。』彼女が家に帰ると、その子は床の上に伏していたが、悪霊はすでに出ていた。」この人がもし、プライドの高い女性であったら、「人を犬呼ばわりして、自分を何様だと思っているんだ」と怒って帰っていたことでしょう。彼女は自分の身分を知っていました。確かに、異邦人であり、カナン人であり、救いから漏れていたような存在でした。たとえ「犬」よばわりされても、「子犬でも子どもたちのパンくずはいただきます」と執拗に求めました。イエス様は、まず、イスラエルの民が救われるように来られました。異邦人の救いは復活後、弟子たちがなすべき使命でした。でも、この女性はイエス様がお忍びでこちらに来られたことを聞きつけ、娘のために転がり込んできたのです。この女性はイエス様が与えたテストをクリヤーして、娘を癒していただきました。

 私たちはクリスチャンになるときも、またクリスチャンになってからも躓くことがあります。人が躓くというのは、信仰がまだ一人前になっていないからです。他のクリスチャンに躓いたり、牧師に躓いたり、教会に躓いたりします。イエス様ご自身に躓くということはあまりないかもしれませんが、時にはあるかもしれません。イエス様は「自分を捨て、自分の十字架を負って、従ってきなさい」と言われているときがあります。つまり、一段階、上の信仰を求められるときがあります。人が捧げきれないときに、信仰を棄てるか、バックスライドするのかもしれません。とにかく、洗礼を受けても最後まで信仰を全うする人は半分もいないからです。しかし、この物語を見ますと、たとえその時ではないのに、信仰をもって求めたら、イエス様がお聞き下さいました。本来なら、受けられない恵みをこの女性は、いただくことができたのです。イエス様は、決まりとかセオリーを無視してでも、求める人には与えるお方です。だたし、いくつかの神さまが与えた試練、あるいはテストを乗り越える必要があるということです。

 

4.バル・テマイ

 マルコ10章には盲人で物乞いをしていたバル・テマイのことが書かれています。彼はエリコの門の近くで、人々から施しを受けて生活していました。イエス様はエルサレムに向かっており、この先は十字架です。彼はそのようなことは知らなかったかもしれませんが、最後のチャンスを逃しませんでした。彼は目が見えないので、自分からイエス様のところには行けませんでした。彼はイエス様がこの町を通過するということを聞きつけました。彼ができることは、大声を上げてイエス様の足をとどめることです。どこにいるのか分かりませんが、「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」と叫び始めました。ここからに先に彼の求める信仰が具体的に記されています。マルコ10:48-50「多くの人たちが彼を黙らせようとたしなめたが、「ダビデの子よ、私をあわれんでください」と、ますます叫んだ。イエスは立ち止まって、『あの人を呼んで来なさい』と言われた。そこで、彼らはその目の見えない人を呼んで、『心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたを呼んでおられる』と言った。その人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。」彼がどのくらい大声で叫んだか分かりませんが、あんまりうるさいので、人々が彼を黙らせようとしました。しかし、「ダビデの子よ、私をあわれんでください」と、ますます叫んだ、とあります。彼ができることは大声を上げて、イエス様の足を止めることです。もう二度と、イエス様にはお会いできないかもしれません。幸いなことに、イエス様がその声を聞きつけ「あの人を呼んで来なさい」と言われました。周りの親切な人たちが彼をイエス様のところに連れてきました。

 大声を上げることも彼の求める信仰ですが、この後にも、彼の信仰が記されています。マルコ10:50-52「その人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。イエスは彼に言われた。『わたしに何をしてほしいのですか。』すると、その目の見えない人は言った。『先生、目が見えるようにしてください。』そこでイエスは言われた。『さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました。』すると、すぐに彼は見えるようになり、道を進むイエスについて行った。」彼は、「上着を脱ぎ捨て」とありますが、その上着は国から与えられた特別なものでした。ベストみたいなものだと思いますが、それを着ていたら、どこででも物乞いができるという、許可証のようなものだったのです。バル・テマイがその上着を脱ぎ捨てて、イエス様のところに近づきました。と言うことは、「もうこれからはこの上着のお世話になることはない」という信仰の現れです。「後ろの橋を焼く」ということばがありますが、彼は全存在をイエス様に賭けたのです。この次はイエス様に対する求めです。イエス様はあえて「わたしに何をしてほしいのですか」とお聞きになりました。まさか、いくらかのお金を恵んでくださいとは言わないでしょう。彼は「目が見えるようにしてください」とはっきり口に出して言いました。これは大変なことです。その人が名医であっても「目が見えるように」とは願っても無駄でしょう。彼はイエス様にはそれができると信じていたので、「先生、目が見えるようにしてください」と願ったのです。イエス様は「あなたの信仰があなたを救いました」と言われました。すると彼はすぐ見えるようになりました。本当はイエス様が直してあげたのでしょうが、イエス様は「あなたの信仰があなたを救いました」とおっしゃいました。

 バル・テマイのすばらしいところは、自分ができることを最大限に発揮してイエス様に近づいたということです。自己憐憫に浸って、そこに座り込まず、イエス様が来られるニュースを聞いて、「ダビデの子よ、私をあわれんでください」と叫び続けたことです。そして、もっともすばらしいことはイエス様に大きなことを求めたということです。「目が見えるようにしてください」と人間には頼めないことをイエス様に願ったということです。詩篇81:10「あなたの口を大きく開けよ。わたしがそれを満たそう」とあります。私たちは信仰の口を大きく開けて、神さまに求めるべきであります。大きなことを主に求めるということは、主がそのことを叶えてくださる大いなるお方であると信じているからです。イエス様はそのような信仰をとても喜んでくださいます。

5.飢え渇き

 きょうは4人の人物がイエス様からいただいた癒しについて学びました。不思議なことに、福音書は「癒される」ではなく、「救われる」と表現しています。きょうのメッセージに共通して言えることは、神さまに求めるということでした。ビル・ジョンソン師は「クリスチャンに大切なことは飢え渇きである」とおっしゃっています。つまり、貪欲に求め続けるということです。十戒には「むさぼりは罪である」とあります。そのため、クリスチャンは信仰の年数が経つと、だんだん求めなくなり、つつましい信仰者になりがちです。世の中では「身の丈」とか「器でない」みたいな言い方がありますが、信仰生活でもそのようなことを言いがちです。しかし、きょう出て来た4つのケースは、そんなことを言う人たちではありませんでした。シリア・フェニキアの女性は犬呼ばわりされても、諦めませんでした。バル・テマイは「うるさい、黙れ、ひっこんでいろ」と言われても、叫び続けました。私たちは天国に行くまで、求め続ける必要があります。もちろん、これまでのことを感謝し、満足する信仰は必要です。特に、日本ではもっと大勢の人たちが救われ、奇跡が日常的に起こるリバイバルを求めなければなりません。外国に起きて、どうして日本に起きないのでしょう?それは、飢え渇きがないからです。切なる求め、飢え渇きこそがリバイバルの鍵だからです。

 もう1つは、必ず行く先に障害が伴うということです。それは物理的なものであったり、人々であったり、自分自身であったりします。あるいは「本当にそれを求めているのか」と、テストされるかもしれません。大きな求めに対しては、大きな障害が伴います。歴代の偉大な信仰者はそれらの障害を乗り越えて、大いなることを神様から得ることができました。代価を払うということばはあまり好きではありませんが、そこには恵みだけでは、表現しきれないものがあります。もちろん、すべては恵みなのですが、穴をあけても近づく、黙れと言われても求めるという代価を払う必要があるようです。もちろんクリスチャンの品性も必要ですが、求める信仰は、それ以上のものです。品性にこだわっていたなら、大いなることを神様からいただくことはできません。時には恥も外聞も捨てる必要があるということです。

もう1つは信仰にはアクション行動が伴うということです。中風の人と4人の友人は穴をあけてでも近づきました。「床をたたんで歩け」と言われたら、さっさと従いました。バル・テマイは自分ができることをし、大事な上着を捨てて、イエス様のところに行って求めました。ヤコブは「信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです」と言いました。私たちが神さまに一歩近づく、神さまの方は一歩も二歩も近づいてくださるということです。手を伸ばせと言われたら、手を延ばすのです。立って歩けと言われたら、立って歩くのです。目を開けよ、と言われたら目を開けるのです。イエス様に従い、行動しているうちに癒しが全うされるからです。大事なことは、「主よ、もっと偉大なことを見させて下さい」と飢え渇きをもって求める信仰です。主は「求めなさい。そうすれば与えられます」「私の名によって求めなさい」とおっしゃいました。