2024.3.31「復活の奇蹟とは ルカ24:1-9」

イースターおめでとうございます。復活はキリスト教信仰の土台であり、本来は、クリスマスよりも重要です。しかし、イースターは毎年、日が変わりますので、なかなか定着しないところがあります。イースターは春分の日の後の満月から、はじめてやってくる日曜日と決まっています。ユダヤは月齢ですが、太陽暦になってからめんどうになったのです。ところで、きょうは3つのポイントでイースターのメッセージをお届けしたいと思います。

1.葬られたイエス

 先週はルカ福音書23章のみことばを引用して、「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます」で終わりました。イエス様は最後の息で、御父にすべてをゆだねて死なれました。ルカ福音書の後半には、イエス様が葬られたことがはっきりと記されています。ルカ2453-55「彼はからだを降ろして亜麻布で包み、まだだれも葬られていない、岩に掘った墓に納めた。この日は備え日で、安息日が始まろうとしていた。イエスとともにガリラヤから来ていた女たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスのからだが納められる様子を見届けた。」「彼」とは、アリマタヤのヨセフであり、サンヒドリン議員の一人でした。彼は自分のために用意しておいた墓に、イエス様の亡骸を納めたのです。「死んだ人を墓に埋葬する」ということは、完全に死んだということを意味します。現代的に言うと、納骨は葬儀の最後の仕上げと捉えることができます。ご遺族は、故人の死を乗り越えるための重要な節目になります。イエス様も死んで、墓にほうむられました。これは、イエス様が完全に死なれたということです。信仰的に言うなら、私たちと同じように、死なれたということです。

 車とか電化製品が壊れると「お陀仏」と言います。お陀仏は死ぬという意味の他に、物事がだめになること。また、失敗に終わるという意味があります。イエス様も「お陀仏」したのです。弟子たちはイエス様にかけていたのに、失意のどん底に落とされたことでしょう?ルカ福音書24章の半ばにエマオに向かう二人の弟子のことばがあります。ルカ2421「私たちは、この方こそイスラエルを解放する方だ、と望みをかけていました。実際、そればかりではありません。そのことがあってから三日目になりますが、」と言っています。女性たちはどうでしょうか?2352「それから、戻って香料と香油を用意した。そして安息日には、戒めにしたがって休んだ。」241「週の初めの日の明け方早く、彼女たちは準備しておいた香料を持って墓に来た。」彼女らは信仰の篤い人たちでした、でも、死んだイエス様に香料と香油を用意して、それを日曜日の朝、持ってきたのです。弟子たちも、女性たちも「すべての人は死ぬ。死んだらおしまいだ」という常識の中に生きていました。俳優の松方弘樹さんが死んだ時、梅宮辰夫さんが「人間が死んだらおしまい。有名人も大スターも死んだらおしまい」と涙をぬぐいながら話していたそうです。

 すべての人が生まれた以上は一度死ぬという、現実に私たちは向き合う必要があります。私たちも再臨が来なければ、死ぬのです。ここに福音があるでしょうか?キリスト教会は「福音とは、イエス様が死んで三日目によみがえられたこと」だと言います。間違いありません。でも、イエス様が私たちと同じように、死なれたというのは深い意味があるのではないでしょうか?イエス様はラザロの墓の前で泣かれました。ヨハネ11:35「イエスは涙を流された」。欽定訳はJesus wept.であり、最も短い聖句だと言われています。イエス様は、死が全人類を飲み込んでいるという事実に憤りを覚えられ、また涙を流されたのです。イエス様は「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます」と言って、息を引き取られました。同じように、私たちも「主よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます」と言うことができます。そして、イエス様と同じように私たちも死ぬのです。絶対、死なれないはずの神様が、私たちたちと同じように死なれたということはすごいことではないでしょうか?アダム以来、すべての人が罪のために死ぬようになりました。イエス様も私たちと同じように肉体をとり、死なれ、墓に葬られたのです。イエス様も「お陀仏」一巻の終わりでした。

 この世の人は、それで諦め、前に進もうとします。仏教のお経の内容はよく分かりませんが、諦めるということが主題でありましょう。諦めないと、前に進めないからです。これは物語ですが、お釈迦様のところに来て、自分の子供が死んだので、なんとかならないか頼んだそうです。お釈迦様は「先祖代々続いている家で、その家に死人が出ていない家があったら、その灰を持ってきなさい。その灰をかけたら生き返るでしょう」と言いました。その人は村中を歩いて、探しましたが、先祖代々続いている家で、死者を出したことのない家は一つもなかったそうです。お釈迦様が何と言ったか分かりませんが、「だれにも死が避けられないことを」教えられたのだと思います。伝道者の書は、仏教ととてもよく似ている書物です。これはクリスチャンでも学ぶべきことです。伝道者97-10「さあ、あなたのパンを楽しんで食べ、陽気にあなたのぶどう酒を飲め。神はすでに、あなたのわざを喜んでおられる。いつもあなたは白い衣を着よ。頭には油を絶やしてはならない。あなたの空しい人生の間、あなたの愛する妻と生活を楽しむがよい。彼女は、あなたの空しい日々の間、日の下であなたに与えられた者だ。それが、生きている間に、日の下でする労苦から受けるあなたの分なのだ。あなたの手がなし得ると分かったことはすべて、自分の力でそれをせよ。あなたが行こうとしているよみには、わざも道理も知識も知恵もないからだ。」私たちが地上に生きていることは、神さまの恵みです。クリスチャンでなくても、「私たちは生きているのではなく、生かされているのです」と言います。伝道者のことばは、一般恩寵の世界です。神さまは人に一つの人生を与えてくださいました。短い人もいれば、長い人もいます。裕福で健康な人もいれば、貧しく病弱な人もいます。でも、与えられた人生を精一杯楽しむように願っておられます。「神から与えられた人生を死ぬまで生きる」それが一般恩寵の世界です。「人間が死んだらおしまい」なんです。でも、永遠のいのちと復活は、すべての人に与えられるのではありません。イエス・キリストを信じた人にだけ与えられる恵み、特別恩寵です。でも、覚えておいてほしいのは、私たちは世の人たちと同じく、死ぬ運命にあったということです。

2.よみがえらされたイエス

 人間死んだらおしまいです。死んだ人は何もできません。なぜなら、死んでいるからです。イエス様も死なれました。ルカ246-7「ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。」彼女たちはイエスのことばを思い出した。女性たちは、イエス様のお体に、香料を塗るためにやって来ました。ところが、墓は空っぽで、イエス様のからだが見当たりません。すると、まばゆい衣を来た二人の天使が彼女らに告げたのです。重要なのは、ルカ246「ここにはおられません。よみがえられたのです」ということばです。日本語では、「よみがえられたのです」となっていますが、本当はそうではありません。欽定訳はHe is not here, but is risen!「よみがえらされた」という受身形になっています。原文のギリシャ語はエゲイロウということばであり、「目を覚まさせる、起こす」ということばです。しかし、これがアオリストの受身形になっています。「よみがえらされた」という一度きりの過去形になっています。正しくは、よみがえったではなく、よみがえらされたのです。なぜなら、死んだ人は何もできないからです。イエス様ご自身も死んでいたので、自分では何もできずに、そのまま死んでいたのです。では、だれがイエス様をよみがえらせたのでしょうか? 

 使徒2章でペテロがペンテコステの日、ユダヤ人にこのようなメッセージをしています。ちなみに、使徒の働きは、ルカ福音書の続編であり、同じルカが書いたものです。使徒223-24「神が定めた計画と神の予知によって引き渡されたこのイエスを、あなたがたは律法を持たない人々の手によって十字架につけて殺したのです。しかし神は、イエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、あり得なかったからです。」このところにはっきりと、神がイエスをよみがえらせたと言われています。使徒232「神がイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です」とも書かれています。そうです。イエス様がよみがえったのではなく、イエス様はよみがえらされたのです。なぜなら、死んだ人は自分では何もできません。父なる神が、イエス様を全能の力によってよみがえらせたのです。ですから、この場合は受身形を使うべきであり、イエス様はよみがえらされたのです。パウロは、ローマ8章で「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられる」と言っています。よく考えると、父なる神と聖霊が協力して、イエス様をよみがえらせたのかもしれません。どちらでも良いですが、死者の復活も、私たちの救いも受身形であるということです。私たちはキリストを信じて救われたのです。「死からいのちに救われた」という受身形だから良いのです。私たちは霊的に死んでおり、信じることもできませんでした。しかし、神さまが私たちを招き、聖霊が信じる力を与えてくださったので、信じて、救われたのです。私たちも再臨が来なければ死にます。しかし、神さまはキリストにあって死んだ者たちをよみがえらせてくださるのです。自分でよみがえるのではありません。よみがえらされるのです。だから、私たちは死ぬとき、神さまにすべてをゆだねて良いのです。でも、神さま私たちを忘れず、終わりの日にちゃんとよみがえらせてくださいます。

 イエス様が初穂として最初によみがえらされたのは訳があります。イエス様は十字架で死なれて贖いを全うされました。私たちの罪が支払われたのだったら、それで良いじゃないでしょうか?でも、本当に罪が支払われたことの証拠として、イエス様は死からよみがえらされたのです。ローマ425「主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。」英語の詳訳聖書には、・・・was raised to secure our justificationとなっています。「私たちが義と認められる保証となるために、よみがえらされた」となっています。ペテロは復活を、詩篇16篇から「あなたは、私のたましいをよみに捨て置かず、あなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならないからです」とメッセージしています。これは、父なる神が、きよいイエス様を墓の中で朽ち果てるのを許さないということです。つまり、イエス様はご自分の死によって、全人類の罪を支払ってくださいました。そして、イエス様は息を引き取られ、よみに下りました。父なる神は贖いが完成したので、罪のない御子イエスを死からよみがえらされたのです。しかし、それは私たちのためでもあります。「本当にイエス様を信じて罪赦され、義とされるのか?」その根拠を知りたいです。その根拠こそが、御子イエスの復活です。借金を支払ったという、領収書が復活なのです。私たちが立て替えた費用をもらうために、領収書をもらいます。領収書があれば、お金がもらえます。領収書がなければ、本当に支払ったのかどうか分かりません。イエス様の復活は罪が支払われたことの、領収書です。私たちの罪の負債が支払われていることの証拠なのです。

 ペテロは「神がイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です」(使徒232と言いました。弟子たちは、イエス様の死を宣教したのでありません。死からよみがえられたことを宣べ伝えました。だから、彼らは迫害されたのです。パウロはテモテにこう言っています。テモテ28第三版「私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。」パウロは、キリストの死ではなく、「死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。」と言いました。イエス様ご自身も黙示録で「わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている」と言われました。死んだままでは、人々を救うことはできません。イエス様は死んでよみがえられ、いつまでも生きているので、人々を救うことができるのです。一般恩寵は、「すべての人は死ぬ、死んだらおしまいだ」ということです。でも、特別恩寵は違います。よみがえられたキリストを信じることによって、「私の人生は死んでおしまいではない。キリストが死からよみがえらされたように、私もよみがえらされる」です。イエス様は「私はよみがえりです。いのちです。私を信じる者は、死んでも生きるのです」(ヨハネ1125と言われました。

3.救い主イエス

 第三のポイントは、救い主はイエス様だけだということです。ペンテコステの後、教会に大迫害が起こりました。ペテロとヨハネは捕らえられましたが、ペテロは議会でこう弁明しました。使徒412「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」なぜ、イエスの御名以外に救いはないのでしょう?それは、十字架につけられて死なれたイエスが、三日目によみがえられたからです。有史以来、私は救い主であるという人が数えきれないほど現れました。救い主とは言わないまでも、救いに関する教えを述べた教祖も数えきれないほど現れました。釈迦は紀元前56世紀の人ですが、とても裕福な家で生まれました。ところが、成長するにつれて、人間が陥る老い、病気、死の苦しみを知るようになりました。彼は難行苦行の末、悟りを得ました。四諦八正道(しだいはっしょうどう)として知られています。釈迦は悟りを得た人ですが、神でも仏でもありません。後の人たちがそのように祀り上げたのです。マホメットもそうです。彼は孤児として辛い少年時代を送りました。その後、裕福な未亡人に見込まれて結婚しました。西暦610年大天使が現れ、神の使徒として目覚めたそうです。彼の教えは「コーラン」になっています。私たちと同じ旧約聖書を持っていますが、「コーラン」を通して解釈するので、アッラーの神になるのです。孔子は紀元前6世紀に生まれましたが、国を外遊しながら、老子をはじめ、たくさんの教えを受けました。73歳で死去するまでに、書物を編纂し、弟子たちにそれを任せました。それが「論語」として知られ、儒教の経典の一つになっています。儒教は道徳的行動と生活についての教えであり、宗教というよりも道徳観と捉えられ、天国ではなく地上生涯を重んじる宗教だと言われています。

 比較宗教の学びはこれくらいにして、ルカ福音書に戻りたいと思います。天使が言った言葉に注目してください。ルカ245-6恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。」天使は「なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか」と言いました。これは解釈によって、なぜ、救い主を死人の中で捜すのですか」という意味にもとれます。先ほどあげた、釈迦、マホメット、孔子は死んで、その墓があります。釈迦のお墓があるかどうか分かりませんが、舎利にしてばらまかれ、日本にも到達したようです。他にもたくさんの教祖がいるでしょう。最近では、統一教会の文鮮明も死にました。幸福の科学の大川隆法も死にました。創価学会の池田大作氏も死にました。彼らは神ではなく、教えを開いた、いわば教祖です。イエス様もある意味では、教えを開いた人ですから、教祖と言えるかもしれません。私たちは「キリスト教会、キリストの教え」と信奉しているからです。でも、宗教の開祖の人たちはとイエス・キリストとは根本的に違います。どこが違うのでしょうか?宗教の開祖の人たちはみな死にました。教えはすばらしかったかもしれません。でも、自分の死には勝つことができませんでした。イエス様もすばらしい教えを与えてくれました。でも、教えだけでは人を救うことはできません。

 このようなたとえ話があります。ある人が深い井戸に落ちました。釈迦が通って言いました。「前世が悪かったのでしょう。とても気の毒です」。次に孔子が通りました。「ああ、私の教えを聞いていれば、こんなことにはならなかったのに」。最後にイエス様が来られました。彼はロープをどこかに固定したあと、だまって、ご自分がロープを伝わって降りて行きました。そして、彼を抱きかかえ、一緒に上って助けてくれたのです。これはどういう意味でしょう?イエス様は教えるだけではなく、実際、人を救ってくださるのです。その一番の証拠は、ご自分が預言したように、一度死んで、三日目によみがえられたからです。歴史上、死んで、死んだ先から、もどって来た人は一人もいません。「いや、生き返った人がいますよ」と反論するかもしれません。でも、その人はやがて本当に死んだことは間違いありません。イエス様は死なない栄光のからだによみがえられたのです。もし、イエス様が自分は三日後に死からよみがえるとおっしゃったのに、死んだままであったら、どうでしょう?彼は嘘つきであり、自分を救い主と偽ったペテン師であると唾をかけられるでしょう。イエス様はご自分が教えたとおりに生き、ご自分が預言したとおりに死からよみがえられたのです。だから、他の教祖たちとは違うのです。「なぜ、救い主を死人の中で捜すのですか?」死からよみがえられた方がまことの救い主であり、神なのです。

 きょうの説教題は「復活の奇跡とは」でした、これは私が考え出したのではなく、毛利佐保副牧師のものです。ですから、内容は彼女のものとは全く異なったものでありましょう。でも、この題名を尊重したいと思います。キリスト教は奇跡の宗教です。イエス様は嵐を鎮め、5つのパンと2匹の魚で大勢の人たちを養いました。また、多くの人たちの病をいやし、様々な障害を直してあげました。少なくとも3人の人たちをよみがえらせました。最後はご自分が死んで、よみがえりました。正確には父なる神が御子イエスを死者の中からよみがえらされたのです。聖書にはたくさんの奇跡がありますが、御子イエスの復活が最大の奇跡と言えるのです。キリスト教はイエスの復活の上に立っていると言っても過言ではありません。使徒パウロはコリント15章でこう述べています。コリント1514,15「キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります。」私たちの信仰は、キリストの復活という奇跡の上に立っています。これまでの宗教の開祖や教祖はみな死にました。その墓がいまでもあります。人々は死んだ人たちの中から、救い主を捜しているようです。イエス様はこう言われました。ヨハネ146「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」アーメン。生まれつきの私たちには罪があるので、神さまのところには行けません。両者には深い淵があり、私たちの行いや宗教では渡ることができません。しかし、イエス様は十字架で私たちの罪を贖い、三日目によみがえられました。そのことにより、私たちと神様の間に橋を設けてくださったのです。私たちは道、真理、いのちであられるイエス・キリストを通して神様のところに行って、救いを得ることができるのです。