2024.4.7「救いとさばきの現在性 ヨハネ3:16-21」

 ヨハネ3章16節はとても有名なみことばで、クリスチャンであるならだれでも知っていると思います。しかし、数節あとのみことばを見過ごしています。ヨハネ3:18「御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。」私たちは、さばきは死んだ後、世の終わりに来ると考えています。もちろん、そうですが、ヨハネは「信じない者はすでにさばかれている」とさばきが今から始まっていると言っています。きょうは、「救いとさばきの現在性」と題して、聖書から学びたいと思います。

1.ヨハネの神学

 新約聖書神学という難しい勉強があります。各書物の著者がどのような神学をもっていたのか学ぶ学問です。たとえば「パウロはどのような神学を持っていたのか」ということをパウロの書簡全体から学びます。そうすると、「福音書とはずいぶんと違うなー」ということが分かります。ヨハネはどうでしょう?ヨハネの神学は「現在性終末論」と言うことができます。さきほど引用したみことばがその最たるものです。たとえば、永遠のいのちはいつからはじまるのでしょう?ヨハネ3:16は「永遠のいのちをもつためである」と言っているので、「ああ、将来、死んだ後、永遠のいのちを持つのかなー」と考えてしまいます。確かに、「永遠のいのち」はヨハネの救済論です。パウロは法的に解釈し、救いのことを義と認められると言います。ヨハネは生命的に解釈し、永遠のいのちが与えられることだと定義しています。ですから、ヨハネによる福音書は「いのち」ということばがたくさん出てきます。でも、そのいのち、「永遠のいのちがいつから得られるのか」を知ることはとても重要です。もう一箇所、ヨハネ5章24節を開きたいと思います。ヨハネ5:24「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。」日本語では時制がはっきりしませんが、その点、英語ははっきりしています。who sent Me has everlasting life, and shall not come into judgment, but has passed from death into life.と書いてあります。has信じる者は永遠のいのちを持っているということです。そして、shall not さばきに会うことがないという意思未来になっています。さらに、has passed完了形ですから、「信じた時から、死からいのちに移っている」という意味になります。総合的に言えることは、永遠のいのちは既に得ている、救われているということです。クリスチャンはよく「私は救われました」「私は救われています」と言いますが、それは聖書的で正しいことなのです。

 それでは、さばきについても考えて見たいと思います。ヨハネ3:18「御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。」キリスト教会では、信じることの恵みを強調し、信じないことのさばきをあまり言いません。「信じないと地獄に行くよ」と、人を恐れさせて、回心させるというのは私たちのやり方ではありません。でも、聖書をありのまま読んで行くと、さばきがあることがはっきり書かれています。ヨハネ3章18節には「信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである」と書かれています。英語の聖書も同じあり、現在、さばきが臨んでいるということがわかります。その人の原因は、「キリストを信じなかった」という完了形になっています。私たちは時間の中に生きていますので、「現在たとえこうであっても、将来どうなるか分からないよね」と言います。しかし、聖書の神さまは永遠であり、過去、現在、将来を「今」として同時に見ることができます。つまり、「今、信じないなら、将来はこうなのだ」と時間を超越して知ることができるのです。だから、「今、信じるなら将来もそうだが、今、永遠のいのちを持っているのだ」ということになります。この先、どういうことがあるか私たちは分かりません。でも、神様の目から見たら、その人にはすでに永遠のいのちが与えられているのです。その逆に、キリストを信じないなら、すでにさばかれており、さばきが臨んでいるということです。私たちはどうしても、都合の良い方だけを見がちですが、その反対もあるということです。言い換えると、「私たちが救われるのは、神のさばきから救われることなのだ」と理解しても良いのです。ヨハネ3章の終わりにも同じことが繰り返されています。ヨハネ3:36「御子を信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」

 このことは、第二のポイントで深く掘り下げたいと思います。ヨハネの神学は、「現在性終末論」であり、世の終わりに起るであろう救いもさばきも、現在、すでに及んでいるというということです。考えてみたら、私たちの地上での人生は長いようですが、神さまの目から見たら一瞬であります。詩篇90篇は、「モーセの祈り」と言われています。4-6節「まことにあなたの目には千年も昨日のように過ぎ去り夜回りのひと時ほどです。あなたが押し流すと人は眠りに落ちます。朝には草のように消えています。朝花を咲かせても移ろい夕べにはしおれて枯れています。」このところには、人間の生命がいかにはかないか歌われています。さらに10節「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。そのほとんどは労苦とわざわいです。瞬く間に時は過ぎ私たちは飛び去ります。」このみことばは、かなり前の人のことのように思えますが、80年の寿命は今の私たちとあまり変わりありません。モーセは120歳まで生きましたが、それでも永遠なる神さまから見たら一瞬であります。モーセはこのように祈っています。12節「どうか教えてください。自分の日を数えることを。そうして私たちに知恵の心を得させてください。」このところから、私たちは何を知るべきなのでしょうか?どんな知恵の心が必要なのでしょうか?それは、私たちの地上に残された人生は思ったほど長くはないということです。「これからどのくらい生きられるかどうか、その日を数えて見なさい。今後、どうしたら良いか知恵が与えられるように」ということでしょう。旧約聖書にははっきり書かれていませんが、永遠のいのちを得る術があります。イエス様がこのように述べておられます。ヨハネ17:3「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」アーメン。ここで言う「知る」とは、ギノスコウであり、「福音の真理を知る」ということであり、信じるということです。

2.救いとさばきの現在性 

 日本のクリスチャン人口は1%以下だと言われています。もしかしたらインドやタイよりも、低いかもしれません。中国は唯物主義の共産国ですが、それでもクリスチャンは1億人はいるだろうと言われています。日本は世界でもまれな文明国であるのに、異教徒の国であり、無神論者の国です。私たちがクリスチャンになって「ハレルヤ!」と喜ぶのも、つかの間、このことを証しすると、「かぶれてしまった」とか「洗脳された」と馬鹿にされてしまいます。私たちはこの世の人たちに触れていると、テレビでもそうですが、異教徒と無神論の考えに影響され、霊的なダメージを受けてしまいます。もちろん、私たちはこの世を離れ、厭世的になってはいけません。むしろ、聖書的な真理に満たされて、境界線を持ちながら、彼らの中で生きる必要があります。海を泳ぐ魚は不思議です。彼らは塩水の中で生きているのに、体はしょっぱくなっていません。浸透圧という、調整する能力があるからでしょう。私たちも彼らから学ぶ必要があります。ところで、前のポイントですが、「いのちとさばきが現在及んでいる」と申し上げました。そのことを私たちの生活の中でもっと掘り下げたいと思います。

 イエス様は「御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである(ヨハネ3:18)とおっしゃいました。人がキリストの福音を一度でも、聞いたとします。当然ですが、「信じるか」「信じないか」という選択を迫られます。イエス様は「『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』としなさい。それ以上のことは悪い者から出ているのです。」(マタイ5:37)と言われました。つまり、「あなたはキリストを信じますか」と問われているわけです。これに対して、「はい、信じます」、あるいは「いいえ、信じません」の2つに1つしかないということです。もし、その人が「いいえ、信じません」と答えたとします。すると、即座に、その人に対して神のさばきが臨むということです。私たちは一般に、「信じる、信じないはその人の自由でしょう?」と言います。しかし、信じるというのは神の前に従順な者、信じないというのは神の前に不従順な者ということです。ヨハネ3:36「…御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる」とあります。つまり、信じないということは、神に逆らう者となるということです。そのために、神の怒りがその人の上にとどまるのです。どういうことでしょう?その人自身の心が前よりも頑なになり、神を求めなくなるということです。頑なになるという英語は、hardenの他にstubborn, callousがあります。Callousは、皮膚などが堅くなった、硬化したという意味です。これは精神的に無感覚になるという意味もあります。つまり、キリストの福音に対して、全く無感覚になってしまうということです。福音に耳を傾けなくなるのですから、当然、救われることもなくなるという、1つのさばきです。その人は、キリストの福音、神の存在を常に否定しながら生きることになります。

 私たち教会は一般に、キリストを信じていない人たちをノンクリスチャンとか、未信者と言います。ノンクリスチャンは「クリスチャンでない」という意味です。「未信者」は、未だ信じていない人と書きます。そこにはいつか信じて救われるであろうという希望的観測があります。伝道のために、人々をそのように見るということはとてもすばらしいことだと思います。でも、聖書には未信者ということばがありません。あるのは不信者です。Ⅱコリント6:14「不信者と、つり合わないくびきをともにしてはいけません。」これは、コリントの町のように偶像礼拝に加担してはいけないということです。私たちまわりのほとんどが、偶像礼拝をしているか、無神論者です。「未信者」という希望的な表現は悪くないですが、パウロは「不信者」と定義しています。「私は何も信じません」という人がいますが、一見、中立的です。しかし、キリストの福音を一度でも聞いたなら、信じるか信じないか2つに1つです。もし、信じないなら、神さまの目では、未信者ではなく、不信者となります。なぜ、こんなことを言うかというと、私たちは常に、霊的な戦いの中にあるということです。まわりの人たちも、テレビも、ほとんどが無神論から来ているからです。あなたの夫、もしくは妻が、子どもたちが、友人が、同僚が不信者なら、あなたは彼らの影響を受けるということです。

 逆に言うと、今あなたがキリストを信じているなら、神のいのちと祝福が、今望んでいるということです。キリストを信じていない人たちも元気で、善良で、すばらしい生き方をしているかもしれません。しかし、例えて言うなら、花屋さんで売られている切り花と同じです。カーネーション、薔薇、ゆりの花…みんな元気に咲いています。でも、それは一時です。10日もたたないうちに枯れてしまうでしょう。でも、私たちクリスチャンはいのちであるキリストにつながっている者たちです。イエス様はヨハネ15章で「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます」と言われました。また、詩篇1篇には「その人は流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結びその葉は枯れずそのなすことはすべて栄える」と書いてあります。つまり、神のいのち、永遠のいのちが将来ではなく、今、私たちに与えられているということです。この世の人たちは自分の力で、自分の知恵と知識によって偉業を成し遂げるかもしれません。神さまは一般恩寵として、そのような恵みを与えられました。でも、それが神さまの前に残るかどうかは分かりません。私たちは神さまとの交わりの中で、神さまが望まれることを行ないたいと願っています。たとえ、この世の人たちから見たら、偉大なこととはいえなくても、自分が与えられた領域で、せいいっぱい生きたらそれで良いのです。一番重要なのは、ゴールをどこに置いているかです。この世の人たちの最終ゴールは地上のいのちが尽きる時であろうと思います。ところが、私たちの場合は、この肉体が死んでも、内なるいのちが生きているので、新しい天と新しい地こそが、私たちのゴールです。やがて、神さまの前に立つときがきます。そのとき、「善かつ忠実なるしもべだ、よくやった」というおことばをいただきたいのです。救いは、死んだら天国に行くことだけではありません。救いは、今から天国を生きることです。私たちは、片足はこの地上で生きていますが、もう片方は永遠を見据えて生きています。そして、やがてはあちらの方に移り住むのです。

3.今が救いの時

 私は常々「キリストを信じて、本当に良かったなー」と思います。今、ノーマン・ピールのThe power of positive thinkingという本を読んでいます。500万冊以上、刷られたようです。30年前、日本語で読んだときは、「ああ、積極的思考か」と軽い気持ちで読んでいました。その当時は、ロバート・シュラー師の「可能性思考」というのが流行していました。キリスト教会には賛否両論があり、ご利益的だとか、功利主義だと言う人がたくさんいました。ある人は、「ノーマン・ピールはニューエイジ」だと言いました。でも、英語で彼の本を読んで、ますます「聖書的で本当だなー」とビンビン入って来ます。つまり、聖書の神さまを「信じるか、信じないか」で、その人の今の人生が大きく分かれるということです。世の人は「何の根拠で信じるのですか?世の中にそんなうまい話はないでしょう」と言います。しかし、そういう人たちは、常に不安と恐れとフラストレーションの中で生きています。ある心理学者の本には、アメリカ人の80%が不安神経症の部類に入ると言っています。そして、複数の薬を飲み、なんとか生きている状態です。そこへ行くと、信仰者はどうでしょう?神さまは善なるお方という、一点で、積極的に求めます。あるビジネスマンは「人には不可能でも、神には可能です」「私を強くしてくださる方によって何でもできます」という小さなカードを胸ポケットに入れて、日中、何度もそれを口ずさみます。すると、どうでしょう。困難な出来事が嘘のように解決していくのです。世の人たちは「気の持ちようだ」と馬鹿にするかもしれません。100歩譲ったとしても、私たちはゆだねるべきお方がおり、困難な問題をゆだねられるので、平安があります。世の人たちはそれらの問題と朝から晩まで、寝ているときも抱きしめているので、気が休まりません。私たちクリスチャンは、私たちの能力を超えるお方と結びついています。父なる神さまから、知恵や創造力、アイディアをいただくことができます。ひどい環境の中にあっても、「神が私たちの味方であるなら、だれが敵対できるでしょう」と立ち向かうことができます。これは、救いが、今、このところに及んでいるという証ではないでしょうか?ある人たちは、死ぬ前にイエス様を信じようと、信仰告白を引き延ばしている人もいるかもしれません。しかし、それはとてももったいないことです。なぜなら、今、生きているうちに天国のいのちと祝福に預かることができるからです。

 使徒パウロがⅡコリントでこのように言っています。Ⅱコリント6:2「神は言われます。『恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、あなたを助ける。』見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。」このところには、「いつか」とか「やがて」「こんど」とは書かれていません。「今」と書かれています。キリストの福音を聞いたら、「今、あなたはどうしますか?信じますか、それとも信じませんか?」と決断が迫られます。もし、信じないなら、心が頑なになり、その後、信じることができなくなります。ギリシャ語に時間を表わすことばが2つあります。1つはクロノスであり、刻々と過ぎて行く一般的な時間のことです。もう1つはカイロスと言い、決定的な時、定まった時、という意味です。あなたがキリストの福音を聞くときが、カイロスの時であります。また、いつか、今度というのはこの後、そんなにやって来ないからです。イエス様は「闇があなたがたを襲うことがないように、自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい」(ヨハネ12:35-36)と言われました。闇とは、心が頑なになり、聖霊が働かなくなり、霊的に鈍くなるということです。また、年を取って知性が弱り、福音が理解できなくなります。あるいは、世の終わり患難期、反キリストが襲って、迫害が強くなり信仰が持てなくなります。私たちはいつまでも、信じるチャンスがあるわけではありません。だから、パウロは「今が恵みの時、今が救いの日」だと言っているのです。聖書には、その決断を先延ばしした人物が出てきます。パウロがローマに護送される途中、カイサリアに寄ることになりました。そこで、フェリクスという総督がパウロからキリストの福音を聞きました。彼は恐ろしくなり「今は帰って良い。折を見て、また呼ぶことにする」と言いました。フェリクスは、パウロからお金をもらいたい下心があり、さらにはユダヤ人たちの機嫌を取ろうとして、パウロを二年間も監禁したままにしておきました。彼こそが、決断を先延ばしにして、最後は、信じないという不信者になりました。私たちは彼のようになってはいけません。彼はパウロを監禁したとありますが、本当は、自分の良心を監禁して、無関心を装っていたのです。

 ある人の許に、イエス様が何度も訪れました。少年のとき、「ぼくはスポーツ選手になりたいので教会学校に行く時間はないね」と断りました。青年のとき、「ぼくは、ある人と結婚したいんだ。彼女はキリスト教が嫌いなんだ。ごめんね」と断りました。中年のとき「私は会社で重要なポストについています。信仰を持つといろいろ不都合があるので、今はだめです」と断りました。やがて彼の頭に白いものが増えました。ある日、書斎で一人くつろいでいました。その時、後ろから肩を叩かれました。その人は「時間です。さあ、行きましょう」と言いました。振り向いて、「あなたはだれですか?」と聞くと、「私は死神です。あなたを迎えるために来ました」と答えました。It’s too late.遅すぎました。彼はこれまで、何度も救いのチャンスがあったのに、それを蹴って来たからです。ヨハネ黙示録3:20「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」このみことばを書いた絵があります。イエス様が左手にランプを持ち、右手でドアをノックしています。良く見ると、ドアは何十年も開けたことがないのか、つたがびっしりとドア全体にからみ付いています。イエス様が立っている足元は、あざみといばらが繁茂しています。なんと、そのドアには取手がありません。小さな格子窓から、イエス様が呼びかけています。その人の名前を呼びながら、「私です」と。私は25歳のとき、このみことばでイエス様を信じました。「神がいるなら見せてくれ。見たら信じる」と、不謹慎なことを言っていた私です。でも、イエス様を心に迎えたら光が満ちました。暗闇が消え去り、狭い窮屈な人生から解放されました。神さまは私たち人間に、自由意思を与えてくださいました。でも、その自由は信じないで滅びるためではなく、信じていのちを得るために与えられたのです。