2024.5.5「主に推薦される人 Ⅱコリント10:9-12」

 コリント教会の人たちの中にはパウロの使徒性を認めない人たちがいました。そのため、この手紙には、どの手紙よりも対決的な表現が多くあります。パウロは「キリストは私を忠実な者と認めて、この務めに任命してくださった」(Ⅰテモテ1:12)と言いました。きょうは、私たちはだれから推薦され、だれから認められるべきなのか、ということを共に考えたいと思います。

1.使徒パウロへの評価

 私たちは、人からどう見られているかという「人からの評価」がどうしても気になります。「本当は、私はこういう人間なのに、どうも誤解されている。低く見積もられている、軽く扱われている」と思った経験はないでしょうか?この世の人たちは、人々の評価で得意になったり、落ち込んだりすることでしょう。もし、神さまが私のことを良くご存じであり、私の真の価値を知っておられると分かったなら何と幸いでしょう。たとえ、人々から誤解され、認められなくても、神さまが私のことをご存じであり、神さまが私のことを評価してくださると分かったなら平安にすごすことができます。まず、コリント教会の使徒パウロに対する見方、評価というものを取り上げたいと思います。Ⅱコリント10:10「パウロの手紙は重みがあって力強いが、実際に会ってみると弱々しく、話は大したことはない」と言う人たちがいるからです。なんだか、私が言われているような感じがします。私の説教原稿はウェブにアップされていますが、「内容的にはとてもすばらしい」と思っている方がいらっしゃるとします。ところが、亀有教会に来てみて、「実際に会ってみると、弱々しく、話は大したことはない」というふうに取られるかもしれません。期待外れであった、ということでしょうか?Ⅰサムエル16:7「人はうわべを見るが、主は心を見る」と書かれています。人はその人の容貌や背の高さ、髪の毛の多さを見て、その人を判断するかもしれません。パウロは13もの手紙を書いた人ですが、伝説によりますと容貌はひどいものであったようです。『パウロとテクラの行伝』という外典には、パウロの容姿について次のような記述があります。「小柄で、頭ははげ、足も曲がり、体はずんぐり、眉は連続、かぎ鼻で…」。もし、パウロの容姿から、威厳や霊的なカリスマを感じさせるような雰囲気があったなら、反対者の声をわざわざ、取り上げる必要もなかったはずです。真実は分かりませんが、パウロの容姿は、映画のヒーローとは違うかもしれません。

 また、「パウロは分を越えている、高慢だ」という批判もあったようです。Ⅱコリント10:13-15「私たちは限度を超えて誇りません。神が私たちに割り当ててくださった限度の内で、あなたがたのところにまで行ったことについて、私たちは誇るのです。私たちは、あなたがたのところに行かなかったかのようにして、無理に手を伸ばしているのではありません。事実、私たちは他の人たちに先んじて、あなたがたのところにキリストの福音を携えて行ったのです。私たちは、自分の限度を超えてほかの人の労苦を誇ることはしません。ただ、あなたがたの信仰が成長し、あなたがたの間で私たちの働きが、定められた範囲の内で拡大し、あふれるほどになることを望んでいます。」私は「限度」という言葉にとても興味があります。英語の詳訳聖書は「限度」をproper limit「適当な地理的な範囲」と訳しています。また、Robert Hendersonはこのことばを、sphere と訳しています。Sphereのもとの意味は「球、球体」です。他に、範囲、領域、地位、身分という意味もあります。パウロは神さまが自分に与えた宣教活動の範囲を目一杯まで広げて、ギリシャのコリントまで行きました。言い換えると、そのことが自分に与えた地位や身分の範囲内であったということです。ところが、コリントの人たちは、「分を越えている。偉そうに、一体自分を何様だと思っているんだ」と批判したのです。

 パウロは使徒でありましたが、福音書に出てくる使徒たちとは違います。本来、使徒になれる人というのはいくつかの条件がありました。福音書に書いてありますが、イエス様が選んだ使徒は12名の弟子たちでした。ところがユダが脱落したため、あと1名使徒を補充する必要がありました。そのときのペテロのことばです。使徒1:21,22「ですから、主イエスが私たちと一緒に生活しておられた間、すなわち、ヨハネのバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間、いつも私たちと行動をともにした人たちの中から、だれか一人が、私たちとともにイエスの復活の証人とならなければなりません。」このとき、マッティアが選ばれましたが、「神さまが選んだのはパウロではなかっただろうか」という説もあります。パウロはイエス様と一緒に生活したこともなく、復活の証人でもありませんでした。しかし、ダマスコ途上で、パウロに復活のイエス様が現れてくださいました。Ⅰコリント15章で「そして最後に、月足らずで生まれた者のような私にも現れてくださいました。私は使徒の中では最も小さい者であり、神の教会を迫害したのですから、使徒と呼ばれるに値しない者です」と言っています。パウロはこのように謙遜していますが、Ⅱコリント11章では、「彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうです。苦労したことはずっと多く…」と誇っています。さらに、12章では第三の天に引き上げられて啓示を受けたことを証した後、「私は当然、あなたがたの推薦を受けてよかったはずです。私は、たとえ取るに足りない者であっても、あの大使徒たちに少しも劣るところはなかったのですから」と述べています。

 コリント教会の人たちが何と言おうと、パウロは「私は使徒である」と言っているのです。たとえ、だれかが、推薦してくれなくても、神さまご自身が私を推薦し、召して下さったということです。そして、パウロは神さまが与えてくれた限度いっぱいまで宣教に行き、神さまからの使命を全うました。Ⅱコリント10:16-18「『それは、あなたがたより向こうの地域にまで福音を宣べ伝えるためであって、決して、ほかの人の領域ですでになされた働きを誇るためではありません。誇る者は主を誇れ。』自分自身を推薦する人ではなく、主に推薦される人こそ本物です。」ビル・ジョンソンは「自分を推薦する人は、穴の開いたビーチボールを絶えず膨らますことに等しい」と言っていました。そうではなく、主ご自身が推薦してくだるなら、そんなに頑張る必要はありません。主ご自身が私を推薦し、主ご自身が報いてくださることに安住しましょう。

2.私たちへの評価

 パウロが「私は神から召された使徒であり、神から与えられた限度いっぱいに働く」と主張しました。また、「自分で自分を推薦するのではなく、主に推薦される人こそ本物です」と言いました。私たちはパウロのような使徒ではありませんが、それぞれ神さまから召され、神さまから使命が与えられていることは確かです。私たちはどのような考えで、どのような信仰でパウロのことを適用することができるのでしょうか?後半は、そのことを共に考えたいと思います。冒頭でも話しましたが、私たちは、人からどう見られているかという人からの評価が気になります。本当は、私はこういう人間なのに、どうも誤解されている、低く見積もられている、軽く扱われていると思った経験はないでしょうか?多くの人たちは、偉い人から推薦状を書いてもらったり、公に認められている資格を取ろうと思うかもしれません。学歴や資格、だれかからの評価、どれも悪いわけではありません。たとえば、音楽家のプロフィールを見ますと、「〇〇大学卒、〇〇コンクールで第一位、ドイツの○○学校で学び、○○に師事した」というようなことが書かれています。だれから個人指導を受けたのか、ということも重要なようです。それらのことも重要かもしれませんが、実際、演奏してみてどうなのかということがもっと重要なのではないでしょうか?実力と言ってしまえばそれまでですが、聴衆は、演奏家のプロフィールで「きっと上手いんだろうな」という先入観で聴くかもしれません。よく分からなくても、「私の聞き方が悪かったんだ」となるでしょう。私は座間キリスト教会で救われ、そこで献身しました。現在の大和カルバリーの大川従道師に師事しました。ある人は、「それはすごい!」と言い、ある人は「それがどうした」と言うでしょう。なぜなら、キリスト教会全体が、大川牧師を高く評価をしているわけではないからです。でも、「私はイエス・キリストから召された〇〇です」という牧師はあまりいません。やっぱり、卒業した神学校やだれに師事したかが問われます。博士号があれば、もっと良いかもしれません。牧師先生でも、名詞に肩書きがたくさん並んでいる人がいますが、「この世の人たちと同じだな」と思う時があります。

 では、私たちクリスチャンはどうなのでしょうか?一クリスチャンというだけで、私は尊い存在ですと果たして言えるでしょうか?やっぱり出身校や職歴や資格の方が大切でしょうか?私はそういう目に見えるものはあってもなくてもどちらでも良いと思います。もちろん、あった方が良いかもしれませんが、もっと重要なのは神さまからの信任、神さまからの召命、神さまからの推薦であろうと思います。でも、パウロの場合もそうであったように、客観的なcertificate証明がありません。なぜなら、それは信仰であって、目に見えないからです。私には「主の特別な油注ぎがあります」と言っても、頭の上に光りの輪っかがある訳でもありません。中世の聖画では聖人や神的人格の象徴として、頭の周囲に光輪が描かれていました。もし、そうであれば、ゲツセマネの園に兵士たちがイエス様を捕えに来てもユダに頼る必要はありませんでした。「あの頭の上が光っているヤツを捕えよ」で良かったからです。考えてみると、イエス様も普通の服を着ていました。おそらく、弟子たちもそうでしょう。ローマ・カトリックやロシア正教では、司祭たちがイエス様よりも、光り輝くローブをまとっているのは不思議です。普通の服で出て来たら、どこかのおじさんに間違えられてしまうからでしょう。使徒の働き25と26章にパウロに対する裁判が記されています。「アグリッパとベルニケは大いに威儀を正して到着し」(25:23)と書かれています。リビングバイブルには「盛装して」と書かれています。これは「華やかに着飾ること」という意味です。彼らに比べ、使徒パウロは囚人として繋がれていました。それでもパウロは、王と総督の前で堂々と弁明し、最後は信仰の招きまでしました。アグリッパ王は「お前は、わずかな時間で私を説き伏せて、キリスト者にしようとしている」と恐れました。

つまり、神からの召命や油注ぎは、神さまご自身が何らかのかたちで証明してくださるということです。私たちにとって、最も重要なのは、内なる証です。内なる証で、もっとも有名な聖書箇所がローマ8章にあります。ローマ8:16「御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。」クリスチャンにとって、最もすばらしい、最も価値のある身分とは「神の子」であることです。これはいろんな職制や召命の基礎となるものだからです。私たちが神の子であることを、聖霊が私たちの霊と共に証してくださるのです。でも、「だれに?」でしょうか?私たちの魂であり、私たちの知性や思いに語ってくださるということです。イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けた直後、天からこのような声がありました。マタイ3:17「これは私の愛する子。私はこれを喜ぶ」。イエス様がまだ何もしていないのに、父なる神さまは御子イエスの存在を愛し、喜んでおられます。このことは私たちにも同じで、私たちがキリストを信じた時、私たちの存在を愛し、喜んでおられるのです。つまり、神さまを喜ばせるために、何もしなくて良いということです。この恵みの体験が根底になければ、奉仕や使命、すべての行いは腐ったものとなります。それらは恵みではなく、肉でやることになるからです。ローマ8:8「肉のうちにある者は神を喜ばせることができません」とあるからです。神さまは肉でご自分のために、何もしなくて良いとおっしゃっているのです。私たちは何よりもまず、このところに安息すべきであります。

 その後、神さまご自身があなたを通して成し遂げたいことを告げてくださいます。気を付けるべきことは働くのは主であり、あなたはその管であり道具であるということです。主があなたを助けるのではありません。もちろん、あなたが主を助けるのでもありません。CSの子供たちは神さまに「お手伝いをさせてください」と祈りますが、それは根本的に間違っています。神さまは私たちの助けやお金や働きを必要としません。なぜなら、神さまは全能なるお方で、何でも持っていらっしゃるからです。その神さまが、あなたを通して働きたいとおっしゃるのです。神さまお一人でももちろんできますが、特に宣教の働きや神さまのミニストリーは、あなたと一緒にやりたいのです。私たちの方は「イエス様、あなたが現れてください。あなたが癒しのわざをなさって下さい。あなたが語ってください」と祈れば、あとは任せれば良いのです。

3.そこまで行くための癒しと解放

 第一と第二のポイントで私の言いたいメッセージがご理解できたでしょうか。でも、みなさんの心の中に分裂や恐れがあり、このように考えておられるかもしれません。もやもやしていて、集中できません。何が神からの召命で、どんな働きができるのか分かりません。大体、この世で生活するのでいっぱい、いっぱいで、日曜日に礼拝を守り、献金することでどうかお許しください。神の子どもにして下さっていることは、分かります。天国に行ける確信もあります。そのような信仰があるから十分ではないでしょうか?牧師と信徒はちがいます。ましてや私は使徒でもありません。ただの人です(これはダジャレでした)。さて、第三のポイントにおいて、私たちの心、私たちの思いが1つになるにはどうしたら良いかメッセージしたいと思います。その前に、1つ質問します。「あなたの心、あなたの思いは1つにまとまっていますか?あるいは、たえず誰かに責められている感じがしますか?」これは、心療内科とか精神病院で受ける質問ではありません。クリスチャンは「霊は新しく生まれ変わっていますが、心と思いがそうではない。古いままだ」という人が案外多いのです。もし、心と思いが分裂していたなら、動いていないのに、エンジンが空ぶかし状態になっているのと同じです。それでは、じっとしていても、疲れてしまいます。まずは、心理学的なアプローチで進めて行きたいと思います。

 フロイトは心理学の父と呼ばれていますが、潜在意識を発見した人です。彼は潜在意識の中に、エゴとスーパーエゴ、そしてイドの3つがあると言っています。エゴというのは自我です。スーパーエゴは超自我とも呼ばれていますが、親のように自我に上から注意を与えます。イドは子どもの自分であり、その場限りの自己満足を求めます。両者にはさまる自我がどっちのことを聞こうか迷っている状態です。しかし、フロイトをはじめほとんどの心理学者は無神論であり、霊の存在や新生を信じていません。参考にはなりますが、クリスチャンにはもの足りません。イエス様は弟子たちにこのように言われました。マタイ10:38,39「自分の十字架を負ってわたしに従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを得る者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを得るのです。」十字架を負うとは、自分に死ぬということです。十字架は困難な宿命ではなく、自分がかかる十字架のことです。39節にはそれは「自分のいのちを失うことである」と言い変えられています。いのちは、ギリシャ語ではプシュケーであり、魂とか生命という意味です。心理学はpsychologyと言いますが、このことばはpsycheから来ており、魂を研究する学問です。しかし、イエス様は「この魂を失え、生まれつきの生命に死ね」と言っているのです。パウロはローマ6章でそのことをもっと詳しく教えています。ローマ6:6「私たちは知っています。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。」そうです。私たちはイエス様が十字架で死なれたとき、古い私たちも一緒に死んだのです。パウロはローマ6:11「自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい」と言っています。

 古い人というのはアダムの原罪とアダムに源を置く生まれつきの才能や自我です。クリスチャンでなくても、すばらしい人格の持ち主がおられます。つまり、自分が持っている自我、命、生まれつきの才能、人格も一度、十字架の死を通るということです。そして、キリストと共によみがえり、新しい自分をいただきます。そのとき、生まれつき才能のあるものは消え去るか、きよめられるでしょう。さらには聖霊による新しい賜物が与えられるでしょう。一番重要なのは、これから生きる資源、命の源がアダムではなく、キリストになるということです。ガラテヤ2:20「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」のごとくです。あなたは古いからだではなく、キリストによってよみがえられた新しいからだを神さまにささげるべきです。からだとは、肉体、魂、霊です。また、あなたの考え、意思、感情です。あなたが自分の魂を捨てさり、神さまに降参し、神さまにささげると一体どういうことが起るのでしょうか?あなたの霊に聖霊が王として君臨し、あなたの霊、あなたの魂、あなたの肉体に影響を与えます。あなたの魂、つまり心は、フロイトが言うように自我、スーパーエゴ、イドとばらばらに存在していました。他の心理学者は自我も1つではなく、ナンバー2、ナンバー3もいると言っています。多重人格というのではなく、分裂した心です。英語ではdivided mindです。でも、あなたの心に奇跡が起こります。自分を愛するように神さまを愛せよとあるように、自分自身を愛し、受け入れます。これまであなたを攻撃してきた自我たちもあなたと一体化して、「私が応援するから」と言います。つまり、いくつかの自我が融合して1つになります。心理学では統合integrationと言います。私はfusion溶けて1つになるという表現が好きです。とにかく、ばらばらな心が聖霊様のもとで1つになり、一致協力するということです。

 するとあなたの心に、「私は何のために生きるのか?神さまにささげた心とからだをどのように用いたら良いのだろうか?」という疑問が自然として湧き起ります。すると、不思議なことにあなたに思いと願いが与えられます。ピリピ2:13 口語訳「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。」聖霊様があなたにこれをしなさいと教えてくださいます。それを召命callingと言います。神さまは召命と一緒にそれを満たすための賜物も与えてくださいます。これまでの経験や生まれつきの賜物もきよめられて用いられるかもしれません。その時あなたの価値観も変えられてきます。これまでは、人々の評価や評判が気になりました。人々から認めてもらえないとガッカリしました。しかし、父なる神さまは隠れたところで見ておられ、報いてくださいます。これからは人々の目ではなく、神さまの御目のもとで生きれば良いのです。自分のことを宣伝し、ことさらに誇る必要もありません。「誇る者は主を誇れ。』自分自身を推薦する人ではなく、主に推薦される人こそ本物です。神さまはあなたに働き場も与えてくれます。広いか狭いか人と比べる必要はありません。あなたは神から与えられたsphere領域いっぱいまで活動すれば良いのです。