この世には信仰と似て非なるものがあります。多くの人たちは、信仰ではなく、架空なものを求めています。きょうは架空なものを取り上げながら、真の信仰について学びたいと思います。人々が求める架空なものとはどのようなものでしょうか?
1.ファンタジー
英語ではfantasyと言いますが、空想のことであり、現実にはありえないことを思い描くことです。神話やおとぎ話、魔法とも関係しています。Fantasyで最も知られているのはディズニーです。日本人はディズニー・ランドやディズニー・シーがとても大好きです。あそこに入ると、全く別世界です。もう子どもじゃないのに、高いお金をかけて、一年に何度も行く人がいるなんて、とても信じられません。ミッキーとか、キャラクター・グッズを集めている人もいます。ディズニーの映画もたくさんありますが、ほとんどが魔法の伝説やおとぎ話からとられたものです。「なぜ、あのようなものが好きなか?」、「人の勝手でしょう」と言われれば、それまでです。でも、私としては、それらはfantasyであって、現実にはありえないことばかりです。本人たちもそのことを分かっていると思いますが、逃避のように思えてなりません。彼らは現実と空想の世界のはざまを生きているような感じがします。確かにメッセージ的なものはありますが、それらを現実にどのように適用していけるのか分かりません。私は元来、日本人は幼稚なのではないかと思います。Fantasyに逃げないで、哲学的に、人生を深く考える必要があると思います。
ヘブル11:1「さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」私はキング・ジェームス訳がすばらしいと思います。Now faith is the substance of things hoped for, the evidence of things not seen.回復訳という聖書がありますが、「信仰とは、望んでいる事柄を実体化することであり、見ていない事柄を確認することである」とキング・ジェームス訳通りです。Substanceというのは、外観や影などに対しての物の本質、実体のことです。外観appearanceに対して、実体realityです。信仰は実体化することであるとはどういう意味でしょう?多くの人たちは、信仰を誤解しています。「そうであったら良いのに」「そういうことがあればなー」と淡い願望のように捉えています。それでは、fantasy空想と変わりありません。なぜなら、信仰を現実化してくれる保証がどこにもないからです。ヘブル11章1節以降を見るとわかりますが、信仰はすべて神さまとのやりとりの中で生まれています。つまり、神さまの約束を信じることが信仰と言えます。クリスチャンであっても「信仰とは私の方から神さまに願うことである」と考えているかもしれません。しかし、このヘブル11章の物語を読むとき、神さまの方から人間に「これを求めなさい」「これを信じなさい」と言っています。つまり、信仰のinitiative主導権を握っているのは人間ではなく神さまです。
たとえば箱舟を造ったノアはどうでしょう?創世記6章に「神はノアに仰せられた…大洪水に備えるために、あなたは自分のためにゴフェルの木で箱舟を造りなさい」と書いてあります。ノアが神さまに「私は箱舟を造りたい」と願ったのではなく、神さまの方からノアに「このような寸法で箱舟を造りなさい」と命じたのです。ヘブル11章には「まだ見ていない事柄について神から警告を受けたときに」と書かれています。ノアは「やがて洪水が来るので、それに備えるために箱舟を造るのだ」と信じて作業しました。その時代の人たちは、ノアが警告しても全く信じませんでした。「山の上に舟を作るのか」と馬鹿にしたことでしょう。しかし、雨が降り、洪水が押し寄せたとき、彼らは箱舟に入ろうとしました。「時すでに遅し」であり、箱舟の後ろの戸を主ご自身が閉ざされました(創世記7:16)。現代の人たちは「ノアの洪水物語は作り話であり、空想である」と馬鹿にするでしょう。しかし、アララト山には箱舟の残骸があるらしくて、中世にはその木から十字架を造った司祭がいたようです。また、宇宙船からとらえた箱舟と思われる映像もあります。また、2007-2008年、キリスト教の探検隊がアララト山の山頂付近(標高およそ4000メートル地点)で巨大な木造の部屋7室を見つけ、発見場所から持ち帰った木片の年代を放射性炭素年代測定法で推定したところ、約4800年前と判明したそうです。アララト山のふもとで暮らしていた、アルメニア人たちは、そのことを後代に伝承していたようです。現在トルコでは、アララト山に登ることは禁じていますので、確かめようがありません。
何よりも真実なのは、イエス様がノア洪水のことを引用していることです。マタイ24:37-39「人の子の到来はノアの日と同じように実現するのです。洪水前の日々に洪水が来て、すべての人をさらってしまうまで、彼らには分かりませんでした。人の子の到来もそのように実現するのです。」私たちはイエス様がおっしゃる世の終わりが来ることを信仰によって受け止め、ノアのように備える必要があります。旧約聖書においてノアの洪水が突然起ったように、イエス様が世の終わり、突然やって来られるということです。つまり、信仰というのは神さまがおっしゃることは必ず実現すると信じることです。神さまから信仰をいただくためには、神さまの語りかけに、耳を傾けなければなりませ。神さまが語っていないことを勝手に信じるのは、ひとりよがりの信仰であり空想と似ています。信仰を得るための基本は、聖書を毎日、読むことです。ある人は、目をつぶって、聖書のあるところに指を当てて、「これが神さまの約束だ」と言う人がいますがそれは聖書占いです。私たちはしおりを挟んだりして、聖書を順番に読む必要があります。神さまが最も私たちに語ってくれるのは聖書のみことばからです。イエス様はマタイ4章で「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」と言われたとおりです。ここで言われていることばは、聖書の一般のことばロゴスではなく、特別なことばレーマです。レーマとは「今、私に語られた神のことば」という意味です。繰り返しますが、信仰を得る最も基本的なことは、神のことばである聖書を読むときに、与えられるということです。ある人は聖書には約30,000個の約束が秘められていると言いました。聖書を読まないで閉じておくのはとてももったいないことです。
2.精神的なもの
ある人たちは、信仰は精神的なものであると考えています。彼らは私たちのことを「神はいると信じている幸せな人たちである」と考え、精神的にとても良いことであると賛成してくれるでしょう。しかし、彼らは「本当は神はいないのであり、弱い人間が考えた出した宗教である」と考えているのです。たしかに、どんな神であろうと、信じるということには何らかの力があります。思い煩いや心配事も神さまにゆだねることができるので、健康には良いかもしれません。しかし、実際には存在しない神を存在しているかのように信じるというのは、虚偽であり、妄想であります。信仰には確かに力はありますが、単なる精神的なものではありません。もし、精神的なものであるなら、キリストの復活もないし、天国も地獄も存在しないことになります。「あなたにとって救いかもしれませんが、私にとっては救いではありません。だから、私には必要ありません」と言うことも可能になります。世の中には善良な人たちがたくさんいますが、「私に特定の宗教を押し付けないでください」と言います。
ヘブル11章にアブラハムとサラのことが記されています。アブラハムは「どこへ行くのかを知らずに出て行きました」とあります。普通は出掛けるとき、目的地を知っているものです。車を運転する場合、電車に乗る時も「どこへ行くのかを知らずに行く」人はいません。その当時の人たちはアブラハムのことをどう思ったでしょう?彼の父テラはカルデア人の地、バビロニアに住んでいました。テラはアブラハムと彼の妻サラを連れてカナンに向かいました。しかし、ハランというところに来ると、旅をやめて、そこに住みついてしまいました。ひょっとしたら、主はテラに「カナンに行くように」と命じていたのかもしれません。でも、妥協してしまったのでしょう。テラが死んだあと、主がアブラハムに「あなたの土地、親族、父の家を出て、私が示す地へ行きなさい」と命じられました。アブラハムはまもなく、カナンの地に入りますが、そこを通過して、いろんなところに行っています。創世記にはアブラハムのゴールは示されていません。ヘブル11章には、そのゴールとは「天の故郷、神の都」でした。私たちが一般に聞く「天国」のことです。キリスト教の葬儀のときも、天国に旅立ったと言います。もし、天国が架空のものであり、精神的なものであるなら、聖書の記述は嘘ということになります。ビートルズがイマジンと歌を歌いました。「天国なんてないんだと想像してごらん。地面の下に地獄はない。宗教もない」という歌詞です。キリスト教は、天国と地獄の存在を説くので、どうしても信じる人と信じない人が起ります。キリストしか救いがないとしたら、世界平和を壊してしまうことになります。Imagine there’s no Heavenではなく、天国は確かにあるのです。アブラハムは天の故郷、天国を目指して出発した信仰の父です。
この世は相対的な世界であり、絶対的なものを嫌います。「宗教が分裂をもたらすなら、平和のために私はそういうものを信じない」という選択もありということでしょうか?イエス様は「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはいけません。わたしは、平和ではなく剣をもたらすために来ました。わたしは、人をその父に、娘をその母に、嫁をその姑に逆らわせるために来たのです。そのようにして家の者たちがその人の敵となるのです。」(マタイ10:34-36)と言われました。ある人たちは、「家族や親族に波風を起こしたくないので、信仰を持つことは控えさせてください」と言うかもしれません。でも、それはこの世だけの平和であり、とても薄っぺらい平和です。クリスチャンは葬式のとき「天国でまた会いましょう」と言います。それは、地上だけではなく、天国でも家族として再会できるということです。もし、それは精神的なものであり、単なる気休めだとしたら、聖書は嘘をついていることになります。「ミッションスクールで宗教教育を受けるのはとても良いことである」と親御さんたちは、ミッションスクールに入れたがります。しかし、子どもが洗礼を受けると言い出すと、猛烈に反対します。日曜学校に行くことは許可しますが、小学校卒業と当時に行くのを止めさせます。キリスト教に洗脳されて、偏った人になるのが嫌だからです。つまり、キリスト教の良いとこ取りであり、信仰を持つのはダメだということです。それはどういうことかと言うと、キリスト教を精神的なものとして留めておいて、「決して深入りするな」ということです。これこそ、不信仰の論理、不信者の論理ではないでしょうか?
イエス様はヨハネ14章で「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません」と言われました。このことばはおどろくべきことであり、とても挑戦的です。英語の聖書では、I am the way, the truth, and the life. No one comes to the Father except through Me.であり、theという定冠詞が付けられています。aでしたら、「他にも道があるし、真理があるし、いのちがあるでしょう」となります。しかし、theであるなら、「唯一、まことの」という意味であり、とても排他的です。ところで、自然科学や数学がとても排他的であることをご存じでしょうか?1+3=4です。3でもダメだし、5でもダメです。水素分子2個と酸素分子1個で水ができあがります。私たちは自然科学や数学の狭さには文句言いません。なぜなら、真理には排他性が伴うことを知っているからです。では、「神さまに行く道が、イエス・キリストしかない」と言って、どうして怒るのでしょう?ペテロがユダヤ人の議会でこう言いました。使徒4:12「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」ペテロは「私は思います」とか「そうかもしれません」と言ったのではありません。「この方以外には、だれによっても救いはありません」と断言しています。ある時、滝元明牧師が電柱に「天下にキリスト以外救いなし」という張り紙を張りました。それを見た、お寺の住職がかんかんに怒ったそうです。別の話ですが、ある住職さんに「あなたは死んだら極楽に行けると信じていますか」と聞いたら、「いやー、死んでみなけりゃわからん」と正直に答えたそうです。天の故郷、永遠の都はあります。ただし、そこへ行くためには十字架で死んで三日目によみがえられたイエス・キリストを信じる道しかありません。One way Jesus.イエス様が唯一の道です。
3.幻想、仮想現実
現代人はIllusion, Virtual realityを求めています。実際には存在しない世界で生きています。ゲームとかコンピューターが作る仮想現実内で生きています。また、ニューエイジは20世紀からものすごい勢いで伸びています。キリスト教が霊的なことを言わないため、東洋のスピリチャルなものを彼らが発展させました。映画や漫画にも多大な影響を及ぼしており、知らず知らずのうちにニューエイジにはまってしまう恐れがあります。
昔、インセプションという他人の夢に侵入する映画がありました。また、アバターという映画があり、肉体を離れた魂が別の世界で生きるということです。マトリックスという映画は、プログラム上で生み出された仮想世界で活躍する物語です。すべてがニューエイジ的であり、現実を超えて、仮想世界で生きると言うことです。やがて、現実の世界はどうでもよくなるのです。アニメのヒロインもたくさん登場し、コンサートまで開いています。目の前のキャラクターは人間ではなく、造られたものです。集まった人たちは三次元の人間より、二次元の人間が好きなのです。ユーチューブを開くとAIで作られた美しいアジア女性が出てきます。まるで、実物のようであり、こういう女性に恋する男性がいるのではないでしょうか?また、ヴァーチャルのゲームもたくさんあり、戦争ものや自分の庭や家を作るものまでたくさんあります。私は怖くてやりませんが、それにはまったなら、現実の世界よりも、仮想現実で生きる方が楽しくなるのではないでしょうか?まさしく、これらがニューエイジの罠であり、私たち人間を現実逃避させ、骨抜きにする功名な手段であることを忘れてはいけません。
神様は人間に想像力、イマジネーションを与えました。しかし、そのイマジネーションは信仰と結びつくなら現実のものとなります。ヘブル11:1「信仰とは、望んでいる事柄を実体化することであり、見ていない事柄を確認することである」とありました。でも、ニューエイジが作り出すイリュージョンや仮想現実は、実際に存在しないものです。ただ、想像された世界があるだけです。言い換えると、それは偶像であり、私たちを神から引き離すものです。AIで作られたキャラクターと恋するなんておかしいじゃないでしょうか?ある女性が、あるセミナーに出て、帰りに先生から祈ってもらったそうです。先生は女性に「お花畑が見えますよ。あなたは何か忙しそうですが、何かあったのですか?」と聞きました。実は、この女性はパソコンのゲームで、お花畑を作っており、定期的に水をあげるようになっているそうです。まさしくセミナー受けている時間が、その時間であり、「水をあげないと枯れてしまう」と焦っていたそうなんです。昔、「たまごっち」というのがあり、餌を上げないと死んでしまうゲームがありました。同じように、仮想現実によって、現実の世界が支配されているというおぞましい話です。そういうものは、現代の偶像です。私たちのイマジネーションを誤用し、仮想現実の中に閉じ込めようとしているのです。神さまが与えてくださったイマジネーションを信仰と結びつけないといけないのです。イマジネーションは信仰と結びついて、目に見えるものを生み出す力があるからです。
聖書には見えるものと、見えないものがあります。見えないからといって非現実的なのではありません。たとえ見えなくてもそこにあるのです。でも、信仰を用いるとちゃんとそこにあることが分かります。Ⅱコリント4:18「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」Ⅱコリント4章では、見えるものとは、物質、ここでは肉体のことを指しています。私たちの肉体は土の器とも呼ばれ、割れたり壊れたりします。私たちの肉体は土の器であり、やがては朽ち果ててしまうのです。でも、パウロはその中に「宝がある」と言っています。宝とはキリストのいのちであり、新しく生まれ変わった私たちの霊と言えるでしょう。Ⅱコリント5章をみると、もっと詳しく書かれています。肉体は幕屋のように朽ち果ててしまいます。しかし、新しく生まれ変わった私たちの霊は、新しい体を求めてうめいているのです。そうです。朽ち果てない、栄光のからだを神さまが私たちのために備えてくださっています。黙示録20章、21章を見ると、私たちは新しい天と新しい地に住むと約束されています。私たちが神さまの約束を信じて生活するとどうなるのでしょう?ああ、「この苦しみや病は一時的なんだなー」と思います。私たちは結婚して50年近くになり、お互いに老けてしまいました。でも、「御国においては、互いに若いんだろうなー」とイマジネーションを働かせることができます。すると嬉しくなり、初めの愛に立ち返ることができます。私たちの信仰は現実逃避ではありません。現実を乗り越えるものです。「見えるものは一時的であり、見えないものが永遠に続く」と知っているからです。
きょうは「信仰と似て非なるもの」と題して学びました。この世の人たちはファンタジー、精神的なもの、そして仮想現実を求めて生きています。それらにはまると、神さまが与えてくれた物質的な世界を捨ててしまうことになります。まことの信仰は現実逃避ではありません。神さまの約束を信じると、それが現実のものになるのです。確かに、そのときは目に見えず、耳で聞こえず、手で触ることもできないでしょう。それでも時がくると現れてくるのです。そして、もう一つ結論的に言いたいことは、信じる対象が大切だということです。実際に存在しないもの、人格のない悪魔的なものを信じるとその人の人格は破壊され、生きていながらカオスです。私たちの信仰の対象は、私たちを愛しておられるリアルな神さまです。ヨハネ3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」とあります「実に」「本当に」です。また、イエス様がよみがえらえられたにもかかわらず、弟子たちは信じるまで時間がかかりました。ルカ24:34「本当に主はよみがえって、シモンに姿を現された」と話していました。神様と神の国は肉眼では見えません。しかし、確かに存在しているのです。ファンタジーでも幻想でも、ヴァーチャルでもありません。私たちが信じる父なる神さま、そしてイエス様は今も生きておられ、私たちを愛し、私たちに必要なものを与えてくれます。神さまは聖霊によって私たちと共におられます。私たちは聖書が啓示している神さまに全幅の信頼をおき、神さまの愛の中に身を委ねて良いのです。信仰は目に見えない神様を信頼して生きるために、欠かせないものです。