イースターおめでとうございます。イースターがクリスマスほど有名でないのは、毎年、日が変わるからです。でも、イースターがあって、クリスマスがあるというのが本当なのです。パウロが「復活がなければ信仰は空しい」と言っているからです。きょうは、ヨハネ20章から、復活のイエス様が弟子たちにおっしゃられた3つの言葉から共に学びたいと思います。
1.平安があるように
弟子たちには平安ではなく、恐れがありました。なぜなら、ユダヤ人を恐れて戸に鍵をかけて、隠れていたからです。「自分たちもイエス様のように捕えられて十字架にかけられるんじゃないか」と恐れていたのです。でも、不思議です。朝、女性たちが墓に行くと、イエス様のからだがありません。御使いたちも「ここにはおられません。よみがえられました」と言いました。その後で、ペテロとヨハネが墓にいくと、墓は空っぽでした。ペテロが中に入ると、頭に巻かれたはずの布が、すっぽりと抜けたような感じになっていました。エマオの途上の二人も、復活の主に出会ったと言いました。少なくとも、この部屋には11人の弟子たちがいるはずです。イエス様がよみがえられたのに、なぜ、弟子たちは恐れて、部屋に閉じこもっていたのでしょうか?「週の初めの日の夕方」とは、イエス様がよみがえられた日曜日の夕方です。戸が閉じられていたのに、イエス様が「すーっと」、弟子たちの真ん中に現れました。「鍵がかけられていたのに、イエス様が彼らの真ん中に立った」ということは、壁を通過したということでしょう。つまり、イエス様の復活の体は、物質に支配されないということです。
イエス様は開口一番に「平安があなたがたにあるように」と言われました。原語では、「シャローム」とあいさつされたのでしょう。しかし、新約聖書はギリシャ語で書かれていますので、「エイレイネー」となっています。エイレイネーは、神の平安があるようにということです。イエス様は、そう言って、ご自分の手と脇腹を彼らに示されました。すると、弟子たちは主を見て喜びました。イエス様は栄光の体によみがえりましたが、手の釘跡と、槍で刺された脇腹の傷は、そのままだったということです。おそらく、今も、イエスさまのお体は、そうではないかと思います。ということは、イエス様は人間になって、十字架についたために、傷跡がそのまま残ったということでしょう。鞭で打たれた傷は治ったと思いますが、手と脇腹の傷はそのままでした。それは、イエス様が十字架で多大な犠牲を払ったという「贖いのしるし」であります。弟子たちが喜んだのは、十字架にかけられて死なれたイエス様が、よみがえられた姿を見たからです。一週間後、トマスも確認しましたが、彼らは見て、信じた人たちです。英語の古い格言に、”seeing is believing.”「見ることは、信じることだ」つまり、「百聞は一見にしかず」であります。私は職場で先輩から伝道されたとき、「神さまを見せてくれ、そうしたら信じる」と言いました。キリスト教は「いやいや、見ないで信じることだ」と言います。しかし、弟子たちは見て、信じたのです。それほど、復活は信じがたいことだったのです。
私たちはいろんな信じ方があると思います。だれかが語ってくれた聖書のことばで信じます。聖書のことばを知的に理解し、心にイエス様を受け入れるということです。おそらく、それが主流だと思いますが、何か補則するものがあればもっと良いです。イエス様がおられた頃は、病が癒され、いろんな奇跡やしるしがありました。それで、心が開かれ、福音を信じたと言うケースがほとんどでしょう。パウロはⅠコリント2章で「私のことばと私たちの宣教は、説得力のある知恵のことばによるものではなく、御霊と御力の現れによるものでした」と言いました。英語の聖書では、demonstration of the Spirit and of power.です。demonstrationとは、実演、実物説明という意味です。ときどき、テレビショッピングを見ますが、ほとんどが実演販売です。美しいモデルさんがアクセサリーや宝石を身に着けています。視聴者は「ああ、私も似合うだろうな」と錯覚するのです。しかも、出演者の声のトーンが異常に高い。周りからも「わあー」とか「すごい」と歓声が沸き上がります。「今から30分以内に」と言われるので、つい電話してしまうのです。使徒パウロもダマスコの途上で、復活の主と出会って、信じました。聖書には、幻とか、夢、天使の来訪、主の御声…たくさん記されています。もちろん、聖書から信じるのは主流ですが、神さまはいろんなものを用いて、信じさせてくださいます。あとから、「信じたとき、不思議なことが起きていたんだなー」と気づきます。
また、信じると弟子たちのように、平安と喜びが与えられます。ガラテヤ5章に御霊の実は「愛、喜び、平安」とあります。これらの3つはキリストを信じたらすぐ与えられるものだと思います。私は1979年4月15日、イースターの夜、先輩に9時間も伝道されました。先輩は「もし、信じても、神さまがいなかったとしても、失うものはないじゃないか」と言われ、賭けました。「じゃ、信じるよ」と言いました。でも、信じたら本当でした。朝、起きたら、アパートの生垣の葉っぱ一枚一枚が輝いてみえました。心の中から暗闇が追い出され、光に満たされました。それから、礼拝も楽しくなり、聖書も分かるようになりました。平安は主観的なものかもしれませんが、それ以上のものです。イエス様は「わたしがあなたがたに与えるのは、世が与える平安とは違います。」(ヨハネ14:27)と言われました。また、喜びも、泉のように湧き上がる喜びです。サマリヤの女性は夫を五人替えても、心の中は渇いていました。イエス様がこのように招きました。ヨハネ4:14「しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」アーメン。この喜びは、神さまのいのちから来る喜びです。弟子たちはそれまで恐れて、身を隠していました。ところが、よみがえられたイエス様が彼らの前に立って、「平安があるように」と言われ、手と脇腹を彼らに示されました。弟子たちは主を見て喜びました。信仰は観念的なものではありません。seeing is believing「百聞は一見にしかず」という啓示の宗教であります。神さまはいろんな不思議やしるし、幻、天使の来訪、主のみ声、奇跡や癒しを与えてくださいます。その後、「聖書を読んで、その通りだ」と確認できます。信じたら、平安と喜びがやって来ます。
2.聖霊を受けなさい
ヨハネ20:21,22「イエスは再び彼らに言われた。『平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。』こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい』。」聖霊を受けることと、イエス様から遣わされることがつながっているようです。聖霊は彼らを遣わすための神の命であり、原動力のようなものです。実は、この箇所は神学的にとても物議をかもすところとして有名です。「弟子たちはいつ聖霊を受けたのか」ということです。多くの場合、「聖霊を受けたのは、この日から50日後、ペンテコステの日であろう」と言います。確かに使徒1章には「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます」とあります。また、使徒2章には「すると皆が聖霊に満たされ…」とあります。しかし、ペンテコステの日の聖霊は、「上から」であります。また、「満たされた」はウォッチマンニーによると、「外側から満たされた」という意味だということです。まるで人が洗礼槽にどっぷり浸かるのと同じです。その人は外側が全部水で満たされたことになります。同じことばが、使徒4:21「一同は聖霊に満たされ」とあります。弟子たちは、「力を着せられるため都にとどまっていました」(ルカ24:49)。この聖霊は、いわゆる聖霊のバプテスマであり、一般に信じたあと経験するものです。しかし、ヨハネ20章の弟子たちの経験はそうではないと信じます。
11人の弟子たちは、力ではなく、命として聖霊を内にいただいたということでしょう。イエス様は死なれる前、助け主を遣わすと言われました。そのことが、ヨハネ14章と16章に記されています。ヨハネ14:16「そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。」一般的に、このみことばはペンテコステ以降に実現すると考えられています。しかし、そうではないようです。復活の早朝、マグダラのマリアにイエス様がこう言われました。「わたしにすがりついてはいけません。わたしはまだ父のみもとに上っていないのです」。確かにそのときはそうでしたが、その後、イエス様は父のみもとに行っていたのです。そして、再び、地上にやってきたのです。復活して10日間は、イエス様は天と地を行ったり、来たりしていたのです。それから40日後のペンテコステの日、大体的に聖霊がやって来られ、11人を除く、120人は内からも外からも聖霊に満たされました。しかし、復活の夜、イエス様は11人かそれ以上の弟子たちに、「聖霊を受けなさい」と息を吹きかけて言われたのです。おそらくそのとき、弟子たちは霊的に生まれ変わるという、新生を経験したのではないかと思います。旧約聖書においては、神の人たちが、上から聖霊に満たされることは度々ありました。しかし、聖霊が内側に宿り、人が新生するということはなかったのです。エゼキエル11:19「わたしは彼らに一つの心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える」ということが初めて実現したのです。
イエス様の息を吹きかけるシーンは、創世記2章を連想させます。創世記2:7「神である【主】は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。」他の動物は神のことばで造られました。ところが、人間だけは土で造られ、その鼻にいのちの息を吹き込まれました。「人は生きるものとなった」とありますが、これは霊的に生きたということです。息は、ヘブル語でルアッフ、霊という意味です。ですから、神の霊が鼻に吹き込まれたということでしょう。その後、アダムとエバが食べてはならない木から実を取って食べました。それで、人は霊的に死んでしまいました。もちろん、聖霊も人からいなくなったのです。イエス様だけが聖霊によって生まれ、イエス様の中に聖霊がおられました。だから、マタイ1章に「『その名はインマヌエルと呼ばれる、それを訳すと、神が私たちとともにおられる』という意味である」と書かれています。イエス様が30歳になり、公生涯に入るとき、水のバプテスマを受けられました。その時、聖霊が鳩のように降り、聖霊に満たされました。つまり、そのとき力である聖霊に満たされたということです。「私たちはどうなるのか?」というと、イエス様を信じたら、聖霊を内側にいただき、霊的に生まれ変わるということです。クリスチャンであるなら、もれなく霊霊が内側に住んでおられます。パウロがこう述べています。ローマ8:9「…もし、キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。」クリスチャンであるなら、例外なく、内側に聖霊を宿しています。本来的には、聖霊が外側からも内側にも与えられるのはペンテコステの日です。しかし、その夜、イエス様は、弟子たちに息を吹きかけ「聖霊を受けなさい」と言われたのです。これはペンテコステの前の出来事です。
イエス様は復活後40日間、現れたり消えたりした後、天に帰られました。その後、10日たって、上から聖霊が降りました。合計50日、100人以上の他の弟子たちは聖霊を待ち望むことになります。でも、この11人の弟子たちが内側に聖霊をいただいていたので、他の人たちを励ますことができたのではないかと思います。イエス様が「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします」と言われましたが、これは全世界というよりも、残りの100名以上の弟子たちに遣わすという意味ではないかと思います。使徒1:14「彼らはみな、女たちとイエスの母マリア、およびイエスの兄弟たちとともに、いつも心を一つにして祈っていた」とあります。彼らの原動力になったのは、聖霊を内側にいただいた11人ではないかと思います。外側から聖霊に満たされ力を受ける聖霊のバプテスマもすばらしいと思います。しかし、イエス・キリストを信じて、聖霊を内にいただき、新しく生まれ変わることが基本です。外側からいただく聖霊はいわば奉仕のための力の聖霊です。しかし、キリストを信じていただく、いのちとしての聖霊も必要です。いや、こちらの方がもっと重要なのかもしれません。なぜなら、神である聖霊が私の内に住んでくださるからです。ルカ11章に「求めよ」とあります。ルカ11:13「ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」マタイ福音書はわかりませんが、ルカ福音書は私たちが求めるもっとも良いものは聖霊であるということです。お金や財産も良いですが、神さまである聖霊を内にいただくことが最も幸いなことなのです。
3.罪を赦す権威
ヨハネ20:23「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」あまり、この箇所は注目されないのではないかと思います。でも、イエス様がおっしゃったことばは理解に苦しみます。前後関係からみると、「聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります」となっています。聖霊を受けると、人の罪を赦したり、そのままにしたりする権威が与えられるのでしょうか?本来なら神さましか、人の罪を赦すことができないはずです。これと似たことばがマタイ28章の最後にもあります。マタイ28:18,19「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け…」となっています。私は25歳のとき洗礼を受けました。その時、大川牧師が「子よ、あなたの罪は赦されたり。見よ、私は世の終わりまであなたと共におるなり」と宣言してくださいました。私も他の人に洗礼を授けるときに、大川牧師と同じような宣言をします。しかし、「あなたの罪は赦されました」と何の権威で言うことができるのでしょうか?やはり、ヨハネ20章23節とマタイ28章19節が根拠になっているのではないかと思います。でも、イエス様がおっしゃられたことばは、何と重いことばでしょうか?「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります」(ヨハネ20:23)問題は、このことばは弟子たちにだけ与えられたのか、あるいは教会、クリスチャンにも与えられているのか?ということです。
かつて、イエス様が最後の食事の席で弟子たちにこう言われました。ルカ22:29,30新改訳第三版「わたしの父がわたしに王権を与えてくださったように、わたしもあなたがたに王権を与えます。それであなたがたは、わたしの国でわたしの食卓に着いて食事をし、王座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。」「さばく」とは治めるという意味でしょうが、同時に、善悪をさばくという意味にもとれます。かつて王様たちは、これら二つを行いました。弟子たちは、裁判官なるイエス様と大臣として座り、イスラエルをさばくということでしょう。私たちは異邦人ですから、関係がないように思われます。ところが、黙示録を見ると24人の長老たちが御座のまわりにいます。彼らは白い衣をまとい、頭に金の冠をかぶっています。これは私の考えですが、12人はイスラエルの弟子たちです。あとの12人は異邦人から選ばれた人たちではないかと思います。でも、なんとも言えません。けれども、黙示録2章から3章までは、7つの教会のことが記されています。それぞれに教会の指導者が立てられていますが、ある者にはいのちの冠、ある者には白い衣が与えられると書かれています。でも、キリスト教会には「天の御国の鍵」が与えられています。マタイ16:19「わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」当時の鍵は、鎖のようなものであり、縛ったり、解いたりするものでした。マタイ18章にも同じことが言われています。マタイ18:18「まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。」マタイ18章では、兄弟の罪を赦すかどうかの文脈で語られています。おそらく、縛るというのは「罪あり」と言うことであり、解くというのは「赦す」ということではないかと思います。このように考えると、イエス様が言われたことは、12弟子たちだけではなく、キリストの教会に与えられた神からの権威ではないかと思います。でも、なぜ、復活後にイエス様はこのようなことを改めて語られたのでしょうか?
イエス様はヨハネ16章でこのように語られました。ヨハネ16:9-11「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。また、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。」「その方が来る」とは、聖霊のことです。聖霊が来ると、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。これは、イエス様が復活の夜、弟子たちにおっしゃったことと一致しています。ヨハネ20:23「聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります」。結論的に言うと、聖霊が主体的に、人の罪を赦したり、さばいたりします。しかし、聖霊を受けている人たちも、聖霊と一緒に、人の罪を赦したり、さばいたりすることができるということではないでしょうか?でも、裁判官でもないのに、どうしてそんなことが可能なのでしょうか?実は聖書には、裁判所だけではなく、一緒に議論する評議会の存在も記されています。エペソ2章には「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」とあります。これは、これは神さまの御座の近くと解釈して間違いありません。私はこれまで恵みを得るために、天の御座に近づくことだけを考えていました。そうではなく、私たちも天の御座の席について、キリストと一緒に治めるのです。問題はサタンです。サタンは黙示録に「兄弟たちの告発者」と書かれているからです。黙示録12:10「私たちの兄弟たちの告発者、昼も夜も私たちの神の御前で訴える者が、投げ落とされたからである」とあります。イエス様の十字架と復活により、この世を支配する者がさばかれ、追い出されたのです。私たちは、イエス様が十字架で流された血によって、サタンの訴えを退けることができます。黙示録12:11「兄弟たちは、子羊の血と、自分たちの証しのことばのゆえに竜に打ち勝った。彼らは死に至るまでも自分のいのちを惜しまなかった。」黙示録のこの聖句は、この法廷闘争に勝利するために必要な3つのことを宣言しています。小羊の血、私たちのあかしのことば、そして死に至るまで自分のいのちを愛さないことによって、告発者に打ち勝つのです。アーメン。イエスは復活の日の夜、3つのことを言われました。平安があるように。聖霊を受けよ。そして、罪を赦す権威を与えるということです。これは弟子たちだけではなく、教会である、すべてのクリスチャンに与えられたおことばです。