クリスチャンでなくても聖書を読んでいる人たちがいます。聖書の中に、すばらしい知恵や教訓が満ちているからです。人々は「聖書から教えられました」と感動して言うかもしれません。クリスチャンは何故、何のために聖書を読むのでしょうか?昔から「聖書は心のごはんです」と言われますので、霊的な食物を得るために聖書を読む必要があるでしょう。でも、ただ読むだけでは、当時のパリサイ人や律法学者と変わりありません。彼らは聖書の知識にあふれていましたが、肝心なことを抜かしていたようです。きょうはどのように聖書を読んだら効果的なのか、3つのポイントで学びたいと思います。
1.聖書をそのまま読む
自分の考えや先入観をはさまずに、聖書をそのまま読むということがとても重要です。私たちは過去の知識がありますので、ある聖書の箇所を読もうとすると、「ああ、こういうことを教えているんだろうな」と半分、分かったつもりになります。すると、聖書を色眼鏡で見ることになり、大した発見は生まれません。なぜなら、自分の考えや好みに合わないところをカットしてしまうからです。私たちの目や耳はとても便利にできていて、雑音や背景をカットして、1つのことに集中することができます。なぜなら、私たちの目や耳にたくさんの情報が流れてくるので、選別しないと脳が処理しきれずパンクしてしまうからです。しかし、聖書を読むときは別です。まるで、はじめて読むかのように、その箇所を読むのです。すると、思わぬことを発見することができます。たとえば、ヨハネ2章を見るとどうでしょう?2章1節「それから三日目」とあり、「いつから三日目なんだ?」と思うでしょう?母、マリヤはどうしてイエス様に「ぶどう酒がありません」と言ったのでしょう?なぜなら、イエス様は結婚式の主催者ではないからです。すると、イエスさまは「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか」と答えました。「私と何の関係がありますか」は分かりますが、「女の方」とはずいぶんよそよそしい呼び方です。このように、先入観なしで聖書を読むと、つじつまが合わないというか、不思議なことばかりです。重要なことはすぐ解釈しようとしないで、クエスチョンマークをつけながら、数回、読むということです。そうすると、「ああ、こういうことなのかな?」とある考えが浮かんできます。このように自分で発見することが重要なのです。ただ、そのまま読むことを「観察」observationと言います。自然科学の分野においては、このような観察が何よりも大事なステップではないかと思います。
第二番目はそのまま読むのですが、その時代の観点で読むということです。モーセの時代は紀元前1500年くらいで、ダビデは紀元前1000年くらいの人です。福音書のイエス様は紀元後30年くらいです。イエス様のたとえを読むと、その時代の暮らしぶりが良く分かります。つまり、そのみことが語られている背景を知るということがとても重要です。また、その時代の価値観によって書かれているので、今の時代と合わない可能性があるということです。たとえば、コリントの教会に対して「教会で女性はかぶりものをしなさい」と言われています。ローマ・カトリック教会やブラザレンでは今も女性は礼拝でかぶりものをしています。コリントやエペソでは女神を祀っており、たくさんの神殿娼婦がいました。おそらく、パウロがそのように命じたのは、そこが特別な地域だったからかもしれません。ですから、「それを普遍的にあてはめるのはどうかな?」と思うのです。でも、矛盾するようですが、当時の価値観や文化的な背景をもとにして読むということはとても重要です。私は法律の専門家ではありませんが、法律で何か事例を裁くとき、とても忘れてならない鉄則があるようです。それは、その法律が作られた時代の背景はどうであったかということです。何をもとにして作られたかです。多くの場合、法律は何か事件があって、「今後、このようなことが再び起こらないように」と法律を作ります。法律制定の真の意味というか、精神があると思います。私たちの場合は、それを律法とか契約と呼んでいます。ですから、私たちはその律法や契約が作られた時代背景、あるいは精神を知ることがとても重要になります。
私たちはモーセの十戒を良く知っています。ほとんどのキリスト教会は「モーセの十戒」を重んじており、その律法を守り行うとするでしょう。でも、モーセの十戒は私たちに与えられたものなのでしょうか?出エジプト20章のはじめ、このようなことばがあります。出エジプト20:2,3「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、【主】である。あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。」少し、驚いたでしょうか?モーセの十戒はエジプトから贖い出されたイスラエルの民に与えられたのであって、私たち異邦人に対してではないということです。さらに読んでいくと、モーセの十戒の他に、200個以上の律法があります。教会が発足したころ、たくさんの異邦人が救われました。ユダヤ教から救われた人たちは、「異邦人にも割礼を受けさせ、モーセの律法を守るように命じるべきである」と言いました。ペテロは「私たちの先祖たちも私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みるのですか」と言いました。そして、「主イエスの恵みによって救われる」という結論に達しました。たとえ話を解釈するときも重要ですが、「これは誰に対して語られているのか」ということを知ることです。いきなり、現代の私たちに適用するのではなく、その当時の時代背景を考慮しながら読むということです。時代背景を知るためには、聖書カラーガイドブックとか、ハーレーのハンドブックというのがあります。私は昔、ウィリアム・バークレーの注解書を読みました。背景を知るためには、とても良い本なのですが、彼は奇跡を信じていないので、途中でやめました。西洋周りのキリスト教は合理主義の影響を受けているので、奇跡を霊的に解釈してしまう危険性があります。でも、いきなり参考書を読まないで、まず、聖書をそのまま読むということです。アジや鯛を頭から食べる人はいません。骨は皿の脇にどかして、身を食べます。同じように、分からないところは、脇にどかしながら、わかるところをどんどん読むのです。いずれ、分からなかったところが、分かるようになります。まずは、素直な心で、聖書をそのまま読むということが大事です。詩篇119:18「私の目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください。」
2.キリストを見出す
ヨハネ5章にはイエス様とユダヤ人との問答が記されています。ヨハネ福音書は「ユダヤ人」と書いていますが、他の福音書を見ると「パリサイ人や律法学者」であることが分かります。彼らはだれよりも多く聖書を深く学んでいました。しかし、肝心なことを忘れていたのです。イエス様は彼らにこう述べています。ヨハネ5:39、40「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」これはどういう意味でしょう?「聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べる」のは悪いことではありません。でも、イエス様がおっしゃりたいことは、いのちを与えるのは、聖書ではなく、イエス様であるということです。聖書は「いのちを与えるお方がイエスさまであり、この方からいのちをいただく必要がある」と教えています。彼らはモーセのことを良く知って、モーセのことを信じておりました。しかし、イエス様は「モーセが書いたのはわたしのことなのですから。モーセを信じたなら、わたしを信じたはずです。」とおっしゃいました。彼らが言う聖書は、私たちで言うと旧約聖書のことです。旧約聖書はイエス・キリストを予言しており、ところどころに、キリストの型(予表)というものがあります。たとえば、過ぎ越しの羊とは、イエス様のことです。バプテスマのヨハネは「世の罪を取り除く、神の子羊」と呼びました。パウロは「モーセが岩を打って水を出しましたが、岩とはキリストのことです」(Ⅰコリント10:4)と言いました。他にもモーセが描いた幕屋がありますが、その一つ一つがキリストを表しています。生け贄はもちろんですが、ささげたパンや燭台、契約の箱もキリストのことを表しています。このように考えますと、どうしてユダヤ人がそこからキリストを見出して、キリストを信じなかったのか不思議でたまりません。でも、その理由は「自分たちは聖書を知っている、聖書の専門家である」という自負から来たものでした。パウロは「知識は人を高ぶらせる」(Ⅰコリント8:1)と言いました。
このことは、現代の教会にも言えることであります。特に日本の神学校は世界のどこの神学校よりもレベルが高いと言われています。ヘブル語、ギリシャ語から聖書を釈義し、事細かく調べ上げることができます。「学問的」というのと「信仰的」と言うのは、どうも違うらしいのです。本来は信仰を助けるのが、神学であるはずなのですが、神学の方がより重んじられています。私はあるとき、ある神学校の校長のメッセージを聞きました。そこにはキリストの福音が全く語られていませんでした。イエス様が「その聖書は、わたしについて証ししているものです」とおっしゃったヨハネ5章のとおりでした。その神学校は確かに教師の賜物があるのかもしれませんが、現代のパリサイ人や律法学者のように思えてなりませんでした。なぜなら、いのちをもたらすキリストを語っていないからです。さらには、「こうしなさい」「ああしなさい」と、律法を語っていたからです。聖霊の油注ぎがないので、聞いている私はとても苦しくなりました。Ⅱコリント3:6「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者となる資格です。文字は殺し、御霊は生かすからです。」たとえ、説教者が新約聖書から語っていても、石の板に書かれた文字のように人を殺してしまうのです。私たちは新しい契約に仕える者です。新しい契約とは、イエス・キリストが十字架の贖いを成し遂げることにより、律法に終わりを告げたということです。旧約の時代は、律法が人々に命じました。しかし、彼らは守り行うことができませんでした。使徒パウロは律法の要求の前に、「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか」と絶望しています。キリストは贖いを成し遂げたあと、父のみもとから聖霊を与えてくださいました。この聖霊はキリストの御霊とも呼ばれていますが、律法を守れるように私たちの内側に働いて下さるのです。私たちはキリストの贖い、キリストの恵みを語れば語るほど、御霊が働いて下さるのです。ですから、聖書から単なる教えを語っただけでは、不十分なのです。なぜなら、私たちの中には、その教えを守る力がないからです。
イエス様は「その聖書は、わたしについて証ししているものです」とおっしゃいました。もちろん、その聖書は私たちで言うなら旧約聖書のことですが、新約聖書もそうなのです。どの書物、その聖句を読んでも、そこからキリストを見出す必要があります。そうすれば、厳しい律法ではなく、恵みによって読むことができるからです。『66巻のキリスト』という名著があります。メアリー・ホッジキンという人が書いた本で、笹尾鉄三郎師が訳しています。ざっと目次を見ると、創世記のキリスト、出エジプト記のキリスト、レビ記のキリスト、民数記のキリスト、申命記のキリスト…新約聖書もそのようになっています。「本当にそうなの?」と疑いたくなりますが、使徒パウロも結構そのように解釈しています。ローマ5章では、アダムとキリストを比較しています。キリストがいのちをもたらす者として述べられています。私たちが旧約聖書をそのまま読むと、いのちがいくつあってもたりません。しかし、キリストの贖いを通して読むならば、「ああ、良かった」と主の恵みを感謝せずにはおられません。なぜなら、キリストが律法の要求を満たして下さったからです。私も説教のとき、キリストの贖いをベースにし、キリストの恵みを語るように努力しています。私が神学校で説教学を学んだとき、講師の泉田昭師がこう言われました。「説教とは聖霊によってキリストを語ることである」と。名言だなーと思いました。もちろん、聖書の箇所によってはキリスト様が登場しないこともありますので、無理矢理は困ります。でも、キリストの恵みをもって、結論付けるなら、どんな命令や戒めでも、「アーメン」と答えることができます。パウロはコロサイ3章でこのように勧めています。「キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。」この「豊かに住む」とは、「キリストのことばを受肉させるように」ということでしょう。私たちはついつい頭で聖書を読んで、知性を満足させようとします。そうではなく、「キリストのことばが、私たちのうちに豊かに住むように」読むのです。そうすれば、キリストの恵みが内側からあふれてきます。
3.聖霊よって適用をいただく
聖書は聖霊によって書かれたので、聖霊に聞くのが一番です。ヨハネ16:13「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。御霊は自分から語るのではなく、聞いたことをすべて語り、これから起こることをあなたがたに伝えてくださいます。」弟子たちは、3年半もイエス様から直に教えを受けました。でも、よく理解できないことがたくさんありました。特に、十字架と復活については、さっぱり分かりませんでした。イエス様が死なれたときは、もうおしまいだと思いました。よみがえられたイエスに会っても、疑っていました。ところが、ペンテコステの日、聖霊が注がれてから全く変わりました。ペテロは聖書からイエス様の受難と復活の意味を集まって来た人たちに語りました。今の時代、聖霊が真理の御霊として私たちのところに来ていらっしゃいます。ある人たちは「勝手に聖書を読んだら、間違って解釈するので危ない」と言います。そういう人たちに限って、自分が信奉している有名な神学者を上げます。特に新正統主義の教えを受けた人たちは、「聖書には誤りがあるので、どれが神のことばなのか調べる必要がある」と言います。私は創世記からヨハネ黙示録まで、聖霊の霊感によって書かれたと信じています。間違っているとか、間違っていないとか、私たちの知性で判断してはいけません。すべてが、誤りのない神のことばなのです。そのように信じて、聖霊に頼るならば、「これはこういう意味です」と教えてくれます。最も大事なのは、今、生きている私たちにどのように適用するかです。多くの場合、教えを受けて終わってしまいます。それだと頭だけの信仰になります。ヤコブは「みことばを行う人になりなさい」(ヤコブ1:22)と言いました。みことばを行うと、その教えが自分のものになり、健全に成長することができます。もし、私が牧師にならないで、ただ神学校に行って勉強していたらどうなっていたでしょう?牧師の説教を「浅いとか深い」とか裁いていたでしょう。しかし、自分で教えた通り、生活しようとすると、とても困難を覚えることがあります。だから、教えっぱなしではなく、「自ら苦しみながら行っていますよ」という体験談を通して語ることができるのです。自分の証をちっともしないで、ただ教えていても、「あなたはどうなんだ」と言われ、説得力がありません。ですから、みことばを行う、適用するということがとても重要になります。みことばは、人に教えるためではなく、まず、自分のためにあるからです。
もう一つ、どうしても語りたいことがあります。聖書のことばと神さまは永遠ですが、キリスト教会はそうではありません。教会が発足した当時は、人々は聖霊の働きを喜んで認めました。ところが、4世紀、コンスタン・ティヌスがローマ国教としてから、教会が聖書の教える基準となりました。ローマ・カトリック教会になると、聖書よりも教会の教えが権威を持つようになりました。しかし、1517年、マルチン・ルターによって聖書の権威が回復されました。それと同時に、信仰によって義と認められるというローマ3章の信仰義認が回復されました。そして、18世紀、ジョンウェスレーによって、信じた後、きよめられていくという聖化が回復されました。19世紀には、ペンテコステ運動がおこり、聖霊のバプテスマが回復されました。20世紀になると、奇跡や癒し、預言が回復されました。そして、現在は使徒と預言者が回復されるようになりました。エペソ4:11「こうしてキリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました」とあります。ところが、現代の多くの教会は伝道者、牧師、教師は認めていても、使徒と預言者を認めていません。聖書が完成したので、その二つは不要であると言います。でも、Ⅰコリント12:28「神は教会の中に、第一に使徒たち、第二に預言者たち、第三に教師たち…」とありますので、教会が第一と第二を忘れたらどうなるでしょう?使徒と預言者は神さまからの設計図を持っています。教団はリバイバルが起きた当時の教義を守って、それを維持しています。ルター、カルヴァン、ジョンウェスレーはすばらしい改革者ですが、過去の教義にとどまっていてはいけません。聖書は聖霊によって時代とともに回復しています。私は牧師ですから、どうしても自分の群れのことしか考えていません。しかし、使徒と預言者はこれから先、教会はどのように歩むべきか教えてくれます。
私は新型コロナウィルスがまん延していた当時、教会にこもっていました。そのとき、ビルジョンソン師やクリスヴァロットン師の本を片っ端から読みました。読むだけではなく、翻訳も始めました。その数がどんどん増えました。彼らが言うのは、建物の中で宗教活動をしているだけではなく、外で活動している聖徒の時代がやってくるというのです。「終わりの日、宗教、家族、教育、政治、メディア、芸能、ビジネスと7つの山を教会が支配するときがくる」というのです。そのようにして聖書を見ていくなら、本当にすばらしいです。福音派は「もうすぐ世の終わりが来るので、天に引き上げられる日を待つ」という「世捨て人」のような生活をしてきました。そうではなく、キリストが来るのは、麗しい花嫁として着飾った教会を作った後です。ですから、世の終わりの教会は、迫害の中にあっても、ますます栄えるのです。ルターは「聖書は古いものでもなければ、新しいものでもない。聖書は永遠のものである」と言いました。最近、「天の物理学」をいう本を読みました。量子物理学が天地創造の真実を証明しています。創造主が無の状態から物質のもとである「量子」を造りました。でも、まだかたちはありませんでした。聖霊がその上を振動していました。イエス・キリストがことばを発すると、さまざまな物質ができたというのです。科学が発展するにつれて、聖書の真実が証明されています。また、隠されていた聖書のみことばが、今日なおも再発見されています。出エジプト記では、アマレクは神の民を攻撃していました。サウル王は命令を破り、アマレクを滅ぼし尽くしませんでした。エステル記のハマンはアマレクの末裔であり、ユダヤ人を撲滅しようとしました。エステルはハマンと彼の10人の息子も殺しました。10人の息子一人ひとりに意味があることを知りました。しかし、アマレクの霊は今も存在しており、聖徒たちから神の運命を盗んでいます。このように、聖書は古いただの書物ではありません。天地は滅び去ります。しかし、イエス様のことばは決して滅びることがありません。時代は益々混迷していくでしょう。変わることのない聖書のことばに留まりましょう。