2026.2.22「啓示を求める エペソ1:17」

パウロがエペソの人たちに願っている祈りは、私たちにも必要なことです。それは、「神を知るための知恵と啓示の御霊が与えられるように」ということです。聖書は神の啓示であり、聖霊によって書かれたものです。そして、聖霊が聖書の意味を解き明かしてくださいます。しかし、それだけではありません。日々の生活の中で、聖霊による知恵と啓示が与えられるように願い求めて良いのです。なぜなら、この世はいろんな情報が飛び交い、何が真実で神のみこころと一致したものであるか分かりません。私たちは霊的なアンテナを上げて、悪魔的なものを排除しながら、神からの啓示を受けるべきであります。

1.啓示を求める

「啓示」の動詞形はギリシャ語でアポカリュプトーであり、「被いを取り除く、開示する」という意味があります。英語で「啓示」はRevelationであり、ベールを剥がすという言葉から来ています。つまり、啓示とは「隠されていることがあらわにされる。それまで知られていないことが明らかされる」ということです。これは、私たちが知的に探究して知るというよりも、聖霊によって隠されていたことが露にされるという意味があります。なぜなら、私たちの知性では、神様と神様に関することは分からないからです。神さまご自身が、啓示してくれなければ分かりません。ですから、私たちの前にはたえず二つの道が用意されています。自分の知性や理性に頼って生きるか、あるいは神からの啓示を求めて生きるかであります。もちろん、神さまは私たちに知性や理性を一般恩寵として与えてくださいました。私たちは日常生活において、それらを用いて生活すべきであります。でも、とても難しい決断に迫られることがあります。人生の岐路に立たされ、運命に関わることがあります。その時に「何に頼るか?」ということです。箴言3:5-7「心を尽くして【主】に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの進む道をまっすぐにされる。自分を知恵のある者と考えるな。【主】を恐れ、悪から遠ざかれ。」これは、正しい啓示の用い方であります。自分の悟りや知恵ではなく、神からの導きに頼れということです。

イエス様はいつでも神の知恵と聖霊が与える啓示によって生活していました。ところが、パリサイ人や律法学者がイエス様に理屈をこねて対抗していました。彼らも自分たちは聖書を学んでおり、知恵や知識があると誇っていたからです。イエス様は父なる神に感謝しておられます。マタイ11:25,26「天地の主であられる父よ、あなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださいました。そうです、父よ、これはみこころにかなったことでした。」知恵ある者や賢い者というのは当時の宗教家たちであります。一方、幼子たちとはだれでしょう?ここでは、罪人や遊女、取税人のことであります。なぜなら、彼らが福音を聞いて、一番先に神の国に入ったからです。パリサイ人や律法学者たちは「もっとしるしを見せてくれたら信じる」と言いました。それは、彼らは神からの啓示を軽んじ、自分たちの知性や理性に訴えてほしいと願ったのです。そしてまた、17,18世紀ヨーロッパでは啓蒙主義が発展し、神からの啓示なんて、全く当てにならないものと考えられるようになりました。彼らは自分の理性で納得できないものは、偽りであり存在しないものであると切り捨てたのです。やがて、聖書にも理性のメスが入れられ、人間が作った間違いだらけの書物とみなされてしまいました。さらに人々は「この世には絶対的なものなどなく、すべて相対的なものである」と考えるようになりました。キリスト教会は最初抵抗しましたが、妥協策を取って身を守りました。聖書は人間の所産であり、たとえ間違いがあっても、「聖霊によって神のことばになる」と結論したのです。私から言わせると「嘘から出たまこと」ということになります。保守的な福音派はそういったリベラルの教えを拒否し、正統的な学問の道を追求しました。ペンテコステ、カリスマ教会は「聖霊による知恵や啓示」を強調しました。しかし、福音派の教会の多くは、そういうものは神秘主義だと、よりアカデミックな道を進みました。彼らは現代のパリサイ人、律法学者のようであります。

私は1980年代、座間キリスト教会でスタッフをしていたころ、たまに説教する機会が与えられました。その当時は説教を準備するとき、いろんな注解書や先生方の本を読みました。読めば読むほど、頭が痛くなりました。知的なものを求めると同時に恐れがやってきました。「私は何もわかっていない。こんな程度では説教などできない」とペンが止まりました。それでも、「のりとハサミ」でいろんな先生の「良いとこ取り」の説教を間に合わせのように作りました。夜の反省会で、大川牧師から酷評されたこともあります。ある夜、説教準備をしていましたが、「これではダメだ」とすべての注解書や先生方の本をとっぱらいました。そして、床に伏して祈ったのです。その時には自覚していませんでしたが、学問的な道ではなく、聖霊の啓示に頼る道を選んだのだと思います。1990年代、ディボーションを学びました。これは聖書のみことばを観察し、そこから教えをいただくという単純な手法です。それまでは、人に語るために聖書を読んでいたところがありますが、そうではなく、自分自身がみことばから養われるということを体験しました。それからは、メッセージを作るのに苦労しなくなりました。聖書のみことばを瞑想した後、神さまに「何を語った良いか」聞きます。すると、ばーっと「語るべきメッセージ」が示されるようになりました。目を開けたらすぐ、メッセージのアウトラインを書き留めます。その後、パソコンに向かい、仕上げていきます。その時、先生方の本や例話を加えます。神さまからメッセージが与えられてという確信があるので、それらを用いることは全く問題ありません。

今、振り返ると「学問的な道を突き進んで行ってなくて良かったなー」と思います。アダムとエバは「知識の木」から取って食べました。その時、目が開かれたとありますが、魂が異常に発達し、その代わり霊が死んだということです。それ以来、人間は神の啓示よりも、自分の知性や理性に頼るようになったのです。不思議ですが、知識が増すと恐れが増してきます。「これで良い」ということがありません。しかし、自分の知性や理性には限界があることを知り、幼子のようになって神様に求めるなら、不思議に隠されていることが露になります。キリスト教会においても、知的な欲求を満たすために学問の道を進み、博士号を取る牧師もいます。教団の教師になるためには留学が必須なところもあります。神様がそうしろとおっしゃるなら、悪くはありません。しかし、神からの啓示よりも人間の知識や知恵に頼るなら、険しい道を歩むことになります。なぜなら、自分よりも知識や知恵のある人がたくさんいるので、劣等感と優越感の間を生きることになるでしょう。私は神さまに頼りながら説教を準備しますが、どこの注解書にもないことが教えられます。私の尊敬する人たちに、ウォッチマン・ニーとウィットネス・リーがいます。彼らは教派的にはブラザレンです。牧師を兄弟として呼びます。かなり、時代的に偏ったところがあるかもしれません。でも、彼らの本を読むと、人間の知恵や知識から来たものでないことがはっきり分かります。一般の神学者たちは難しいことを難しく語ります。しかし、ウォッチマン・ニーとウィットネス・リーは難しいことを簡単に語ってくれます。まさしく、神からの知恵、神からの啓示だと思います。つまり、いくら学問を積んでも、神の啓示にはかなわないということです。それだったら、そちらの道をあきらめ、私のように啓示の道を歩むべきであります。博士号はなくても、聖霊の示しがあります。

神からの啓示を求める道は、謙遜な心です。イエス様が「あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださいました」と祈られました。神さまは隠す神です。申命記29:29「隠されていることは、私たちの神、【主】のものである。しかし現されたことは永遠に私たちと私たちの子孫のものであり、それは私たちがこのみおしえのすべてのことばを行うためである。」箴言25:2,3「事を隠すのは神の誉れ。事を探るのは王たちの誉れ。天が高く、地が深いように、王の心は測り知れない。」これら二つのみことばの共通点は、神さまは隠す神ですが、同時にそれを私たちに発見してもらいたいと願っているということです。つまり、意地悪で隠しているのではなく、それを発見することによって喜びを分かち合いたいのです。まるで、「イースターの日の卵探し」です。幼稚園児や小学生低学年には、見つけやすいところに卵を隠します。でも、中高生が相手であったら、見つけにくいところに隠すでしょう。なぜなら、発見したときの喜びが大きいからです。神さまは私たちにご自分の知恵や知識を与えたいのです。箴言にそのようなみことばがあります。箴言1:20、21「知恵は大通りで叫び、広場でその声をあげ、騒々しい街角で叫び、町の門の入り口で、そのことばを語る。」そんなに大きな声で叫んでいるんだったら聞こえそうであります。おそらく、この意味は、「私がこんなに語っているのに、どうして耳を傾けないのか」という苛立ちを表現しているのかもしれません。パウロは「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように」と祈っています。私たちは「物質やお金、健康が与えられたらもっと良いのに」と願うでしょう。でも、知恵と啓示の御霊こそが、すべての物を得るための、資源であり解決であるなら、これを第一に求めるべきでしょう。

2.啓示の種類

 後半のポイントでは啓示は具体的にどのように私たちに与えられるのかを共に学びたいと思います。Ⅰコリント2:6-7「しかし私たちは、成熟した人たちの間では知恵を語ります。この知恵は、この世の知恵でも、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。私たちは、奥義のうちにある、隠された神の知恵を語るのであって、その知恵は、神が私たちの栄光のために、世界の始まる前から定めておられたものです。」パウロはギリシャの宣教において、かんばしい結果を得ることができませんでした。彼らの哲学と対等に戦ったからです。パウロはそれを「説得力のある知恵のことば」と表しています。そのため、パウロは別の道を選ぶことにしました。「この知恵は、この世の知恵でも、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。私たちは、奥義のうちにある、隠された神の知恵を語るのです」と言いました。これは明らかに御霊が与える知恵であり、啓示のことです。そして、啓示についてもっと詳しく書いているのが、2章9節以降です。「しかし、このことは、「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことがないものを、神は、神を愛する者たちに備えてくださった」と書いてあるとおりでした。それを、神は私たちに御霊によって啓示してくださいました。御霊はすべてのことを、神の深みさえも探られるからです。」このところから、私たちに与えられる御霊の啓示が三種類あることが分かります。

 第一は「目が見たことのないもの」です。これは肉眼では見えない、霊的な映像であります。大体は止まっている映像、ピクチャーです。一瞬、ちらっと、私たちの前頭葉のスクリーンに映し出されます。時々、テレビのように動いている映像もあります。しかし、もっとすばらしいのが大画面のように目の前に映し出される映像です。クリス・バロトンはこれをオープン・ヴィジョンと呼んでいます。海辺で出会った青年の過去の出来事が、ばーと映し出されたそうです。旧約聖書ではエリシャのしもべが、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちているのを見ました(Ⅱ列王記6:17)。ペテロも天から大きな風呂敷が降りて来て、そこに四つ足の動物、地を這うもの、空の鳥が入っている幻を見ました(使徒10:11-12)。第二は「耳が聞いたことのないもの」です。これは肉声ではなく、霊的な声であります。御霊は私たちの魂に静かに語っておられます。私たちの魂はこれが自分の霊なのか、神の霊なのか分かりません。あるいは、自分自身の思いなのかもしれません。時々、悪魔の声も入ってきます。中高生のころ、夜中にラジオをかけると、訳のわからないことばが入ってきました。夜は電離層の関係で遠くの電波が入りやすいのです。私たちは霊的なアンテナと正しいチューナーが必要です。この声は「御霊の声だ」ということを経験的に知る必要があります。でも、大事なときは聖霊ご自身がお声を発するときがあります。とてもはっきり聞こえ、威厳があるお声です。私たちが危機的な状況に陥っているとき、聖霊が語るのです。第三は「心に思い浮かんだことのないもの」です。これは、心の印象impressionです。悪霊に対しては寒々とした感じがします。嘘、偽りに対しても「何かおかしい?」と感じます。私は人と会うと霊が交差するのを感じます。その人が口を開くと、霊が現れてくるのです。たまに、「苦い根」(ヘブル12:15)を持っている人と会いますが、その人の怒りや憎しみを感じます。その後、なんだか汚された思いになります。多くの場合、教会では兄弟姉妹の健康的な霊と出会います。とても透き通っていて、いつまでも交わっていたいような感じになります。たまに、本心を隠している人にも出会います。何か壁があって、その人のことが分からないのです。神さまと透明な関係を持っている人は、霊的に健やかであると思います。

 Ⅰコリント12章には啓示のたまものが挙げられています。第一は「知恵のことば」です。ソロモンはこの賜物を求めました。彼はこの知恵によって国を治め、諸外国と交易を行いました。ソロモンが書いたとされる、箴言や伝道者の書にも神からの知恵が満ちています。私の尊敬する大川牧師は「知恵のことば」の賜物があります。先生は正直言って、学者ではありません。ところが先生は読書量がすごく、そこから説教に使えそうなものを一瞬に取り出します。また、人が話したあと、とても上手にまとめることができます。その人が直接話した証よりも、大川牧師の話を聞いた方がもっとリアルでダイナミックです。まるで、見て来たように話します。私も大川牧師から何度も按手を受けたので「知恵のことば」があると信じています。傲慢かもしれませんが、説教を作るとき、あるいは人々の質問に答えるとき、何か解説するとき「知恵のことば」が出ているようです。もちろん、余計なことまで言うときがありますが、私にはこの賜物があると信じています。第二は「知識のことば」です。これは調べたわけでもないのに、一瞬に情報が伝えられるということです。イエス様がサマリアの女性の素性を知っていたのもこの賜物でした。イエス様は、いちじくの木の下で祈っているナタナエルも、木の上で隠れているザアカイのことも遠くから分かっていたのです。この賜物を用いて癒しを行うのはランディ・クラーク師です。彼はたくさんいる会衆の中から、「こういう人がいるはずです。立ってください」と言います。その人は、立った瞬間癒されます。特にすごいのが、大けがをしたためボルトや金具で支えている人が癒されることです。しかも、これまで埋まっていたボルトや金具が消え去ることです。彼の本によると、これまで400人以上がそのような奇跡が起こったそうです。金具の専門家です。第三は「霊の見分け(識別)」です。これは、「印象」の時、申し上げました。奇跡や癒しが起こった場合、聖霊からのものか、悪魔からのものか分かります。預言や異言もそうですが、悪霊からのものもあります。彼らはそれがどこから来ているのか分かるのです。

 最後に、私たちのどのような態度が、聖霊による知恵と啓示が与えられるのか考えてみたいと思います。第一は聖書を読むことです。なぜなら、私たちにとって、一番の知恵と啓示は聖書だからです。聖書をいつも読んでいれば、聖霊によって知恵と啓示が与えられることは間違いありません。最近は「預言カフェ」というのがあるようです。預言を受けることは反対しません。しかし、自分で聖書を読んで祈っていないのに、他の人から預言を受けるというのは占いに等しいです。聖霊は聖書を通して最も多く語られるからです。また、与えられた啓示が本物かどうかは、それが、聖書が言っている一般的な啓示と矛盾していないかどうか知る必要があります。そのためには、常に聖書から教えられている人でなければなりません。本物といつも接している人は、偽物が来た時、分かるからです。詩篇119:105「あなたのみことばは私の足のともしび私の道の光です」とあります。

 第二番目は聖霊と親しく交わっているかどうかです。私たちの人間関係においても、最も親しい人には何でも話します。「この人はどうかな?」と思う人には自分の弱みや秘密を話したりはしません。聖霊から信用される人物になれば、聖霊は何でも語ってくれると思います。創世記18章には、御使いたちがアブラハムを訪れてソドムとゴモラのさばきを打ち明けました。アブラハムは必死に交渉して最後は「10人正しい人がいたら滅ぼさないでください」とお願いしました。アブラハムは「神の友」と呼ばれました。私たちも聖霊様とそのような親しい関係を持ちたいです。聖霊様はご人格をもっていらっしゃいます。エペソ4:30「神の聖霊を悲しませてはいけません」とあります。聖霊に好まれる人になりたいと思います。

 第三番目は求めるということです。ヤコブ1:5「あなたがたのうちに、知恵に欠けている人がいるなら、その人は、だれにでも惜しみなく、とがめることなく与えてくださる神に求めなさい。そうすれば与えられます。」ビル・ジョンソンは飢え渇きが最も重要であるとおっしゃいます。「そういう超自然的な知恵や啓示は今日、存在しない」と言う神学者たちがいますが、非常に残念です。そういう人たちは学問的かもしれませんが、人間の知性を過信している人たちです。現代のパリサイ人や律法学者になってはいけません。神さまの奇跡的な働きは今も変わりなく存在します。問題は私たちの姿勢なのです。私たちがへりくだって、神さまに求めるなら、必ず答えてくださいます。エレミヤ33:3『わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。』今日はたくさんの情報が飛び交い、そして溢れています。ちょっと調べたいことがあれば、インターネットで検索するとすぐ分かります。若い人たちはスマホのSNSなどの情報で動いていますが、多くは断片的で、不確かなものです。神さまからの深い知恵や啓示はそういうものでは得られません。静まって神の霊と交わるしかありません。昔は静まることが容易でしたが、現代の人たちはスマホを偶像のように扱い、手放すことができません。信仰のない人たちは、それでも構いませんが、私たちクリスチャンはそうであってはなりません。詩篇46:10「やめよ。知れ。わたしこそ神」とあります。私たちはすべてのことを後回りにしても、神さまと交わり、神さまに聞く必要があります。そうすれば、3日かかる仕事をたったの数時間でできるかもしれません。人間の知恵や知識よりもすばらしいのは、神からの知恵と知識です。神さまは多くのことを隠しておられますが、本当は私たちに見つけ出して、活用してもらいたいのです。これまで多くのものが発見されたり、発明されましたが、人々が必死に探し求めたからです。私たちは神さまの愛する子どもですから、天の父は隠れたすばらしいことを教えたくて仕方がないのです。知恵と啓示の御霊が豊かに与えられますように。