2026.2.15「権威について考える 創世記9:18-27」

 聖書から「父親は権威の象徴である」ことが分かります。子どもは生活を通して父親から権威を学ぶのです。聖書は「あなたの父と母を敬いなさい」と教えています。子どもは「敬えるような両親だったら敬ってやるよ。でも、そんなの無理」と彼らに逆らい、ある時はバカにしたかもしれません。そうすると、その子どもには権威ということが分からないで育つことになり、とても風当りの強い人生になってしまうでしょう。世の中に「反骨精神」をモットーにして生きている人がいますが、安定感がなく、孤立した人生ではないかと思います。「父と母を敬う」、つまり権威を認めて、それに従う人は幸いです。きょうは、その理由を学びたいと思います。

1.旧約聖書から

 創世記9章にはノアがぶどう酒を飲んで酔っ払った記事が記されています。おそらく、ノアは酔いつぶれて裸で、しかも仰向けで寝ていたのではないかと思います。ノアには、セム、ハム、ヤフェテの3人の息子たちがおりました。最初に発見したのがハムであります。ある説によると、ハムは北アフリカ、エジプトに移り住んだと言われています。創世記9:22-24「カナンの父ハムは、父の裸を見て、外にいた二人の兄弟に告げた。それで、セムとヤフェテは上着を取って、自分たち二人の肩に掛け、うしろ向きに歩いて行って、父の裸をおおった。彼らは顔を背け、父の裸は見なかった。ノアは酔いからさめ、末の息子が自分にしたことを知った。」父の醜態を最初に発見したのがハムです。ハムはそんな父の姿をかばうどころか、面白い光景だと言わんばかりに、セムとヤフェテを呼びに行きました。セムとヤフェテはその話を聞くと、着るものを持って駆けつけますが、父の醜態を見ないために後ろ向きで近づいて行って、父の尊厳を守りながらその体に着物をかけました。そのことを後から知ったノアはこういうことを言うのです。創世記9:25-27「カナンはのろわれよ。兄たちの、しもべのしもべとなるように。」また言った。「ほむべきかな、セムの神、【主】。カナンは彼らのしもべとなるように。神がヤフェテを広げ、彼がセムの天幕に住むようになれ。カナンは彼らのしもべとなるように。」

 私はこの記事から2つの不条理を発見しました。不条理というのは無茶苦茶な報いです。1つは、父の裸を笑って吹聴しただけなのに、ハムは呪いを受けました。とても厳しい罰に思います。もう一つは実際、悪いことをしたのは、ハムなのにハムの子どもであるカナンが呪われたことです。カナンは「兄たちのしもべになるように」と呪われました。ノアの時代は紀元前2400年と言われていますが、紀元前1400年頃、セムの子孫であるヨシュアたちによってカナンは侵略されることになります。神様は「カナンに住む人たちを根絶やしにし、その土地を奪え」とおっしゃったのです。現代のヒューマニズムから言えば、ありえないことであり、躓きを与えてしまう出来事です。でも、それが聖書であり、神さまの主権であり、計画なのです。私たちがあれこれ、理屈をこねてもわからないことがいっぱいあります。

 このところから学ぶべきことは何でしょう。新約時代に住む私たちは、旧約聖書のこのような出来事を教訓として受け止める必要があります。それは、子は父を敬うと言うことです。別の表現では、権威を重んじるということです。後で学びますが、父親は子どもにとって、権威の象徴だからです。出エジプト記20章にはモーセの十戒が記されています。その五番目がこれです。あなたの父と母を敬え。あなたの神、【主】が与えようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。」レビ記には同じような戒めが2回記されていますが、とても厳しいものとなっています。レビ20:9「だれでも自分の父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない。その人は自分の父あるいは母をののしったのだから、その血の責任は彼にある。」申命記には同じような戒めが3回記されています。箴言20:20「自分の父や母をののしる者、そのともしびは、闇が近づくと消える。」昔、「エリヤハウス」で、このみことばから学んだことがあります。ともしびが消えるとは、「神を捉える視点が歪み、神との関係がうまくいかなくなる」ということです。つまり、子どもにとって、父と母は神のような存在です。しかし、子どもの心に苦い思いや裁く気持ちが生えてくると、神さまを見る目がゆがめられてしまうということです。もちろん父と母の責任もありますが、子ども自身も苦い根のさばきを刈り取るということです。

 私の場合は父が酒を飲んでは母に暴力をふるっていました。父がちゃんと家庭を治めていなかったので、兄弟同士も争っていました。機能不全の家庭で育った私には、守りというものがありませんでした。城壁のない町のようであり、ひどい環境の中で育ちました。落ち着きがなくて、学校の先生から一番叱られ、学校に来なくて良いとも言われました。それが、高校まで続きました。先生を馬鹿にしたわけではなく、自分を認めてもらいたいという願望はありました。それがほとんど叶いませんでしたが、中学の図工の先生が私の絵をほめてくれたのが救いでした。クリスチャンになってしばらくたち、本郷台の「エリヤハウス」で学びました。私が自分のチームの報告をすると、宣教師が「長いので短くして」と注意しました。私はまだ3,4分しかしゃべっていなにのにです。他の人は8分以上しゃべっています。報告会の後、宣教師に「どうして私のことを注意したのですか?」と聞きました。すると、「あなたの顔を見ていると『私を注意してくれ』と引き寄せられる感じがする」というのです。「なんてひどい!俺のせいかよ」と憤慨しました。その時、学校の先生がなぜ私を注意するか分かりました。他にもうるさい生徒がいるのですが、「この鈴木を叱ることによって、他の生徒が黙るだろう。こいつは叱っても大丈夫だから」と本能的に思ったのでしょう。あの宣教師も、他のリーダーたちの報告が長いけれど、この牧師に「長い」と注意すれば効果があると思ったのでしょう。まるでスケープゴート、身代わりの生け贄です。でも、なぜ、そのようなことが起きたのでしょうか?私の上に守りがなかったからです。つまり、機能不全の家庭で育ったので、私の存在価値がなかったせいでそうなったのです。

 父親は権威の象徴です。父親を敬えないような家庭で育った子どもは不幸です。でも、どのような親であれ、神さまが親として与えたのですから、子どもは何があっても敬う必要があります。そうでなければ、さまざまな呪いを招くことになるからです。

2.新約聖書から

 パウロは旧約聖書のように、父と母を敬うべきことを教えています。エペソ6:1-3「子どもたちよ。主にあって自分の両親に従いなさい。これは正しいことなのです。『あなたの父と母を敬え。』これは約束を伴う第一の戒めです。『そうすれば、あなたは幸せになり、その土地であなたの日々は長く続く』という約束です。」モーセの十戒では、第五番目だったのに、パウロは「第一の戒め」と言っているのは何故でしょう?モーセの十戒もそうなのですが、第一戒から第四戒までは、神さまとの関係における戒めです。そして、第五戒から第十戒は人との関係における戒めになっています。人との関係の戒めの筆頭が「あなたの父と母を敬え」なのです。パウロは神さまのことは解決済みなので、対人間のことを言っているのです。つまり、あなたの父と母を敬うなら、他の人間関係がうまくいくよということなのです。

 かつて「エリヤハウス」で、「父と母を敬わないことが、すべての人間関係の問題につながる」と教えられました。第一は自分自身との関係です。父と母を否定すると、自分のルーツを否定することになり、自分の存在価値もなくなります。第二は、自分と配偶者の関係です。夫もしくは妻との関係がおかしくなるということです。たとえば、父を敬うことを学ばなかった妻は、かしらとしての夫の権威を認めることができないでしょう。どうしても自分が出しゃばってしまう可能性があります。なぜなら、自分の父親が信頼できなかったからです。母を敬うことを学ばなかった夫は、妻から口うるさく言われると、まるで母親に歯向かった子どものようになるでしょう。第三は子どもとの関係です。自分に父の心、母の心がないので、どうしても冷たく当たってしまいます。愛情不足で、子どもを怒らせてしまうのです。第四は職場で問題が起こります。社長や上司を敬う気持ちがありません。どうしてもこっちが正しいと主張してしまいます。上司からは生意気で反抗的だと思われ、降格されるか左遷されます。決して、愛顧(可愛がり)を受けることはありません。もし、私が上司だったら、自分を敬う部下には良いものを上げたいと思います。第四は教会です。牧師は父親像であり、権威の象徴でもあります。ひどい父親のもとで育った息子や娘は、牧師の顔を見ると、「似ているなー」と思って、つい逆らいたくなります。牧師はどうしてこんなに批判を受けるのだろうと苦しみます。しかし、問題は自分よりも教会員自身が父親とうまくいっていない場合が多いのです。どうしても完璧な父親像を牧師に押し付けてしまうのです。第六は友人関係です。なぜ友人かというと、父の心、母の心がないので、すべての友人がライバルになるのです。友人が成功すると嫉妬心を抱いてしまいます。後輩にも「十年早い」とか言って、育てようとしません。第七は権威に対する問題です。

 このところで、権威に対する問題に時間を取りたいと思います。パウロはローマ13章で「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。したがって、権威に反抗する者は、神の定めに逆らうのです。逆らう者は自分の身にさばきを招きます。」(ローマ13:1-2)と言いました。権威の中で、大きいものでは国家権力があります。職場においても、権威は存在します。パウロは「奴隷たちよ、すべてのことについて地上の主人に従いなさい。…何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。」(コロサイ3:22,23)と言っていますが、現代の職場に適用可能です。家庭においては、父と母が権威の象徴です。そして、妻に対しては夫がかしらであり、権威の象徴です。なんと、イエス様のかしらは父なる神でした(Ⅰコリント11:3)。これは、身分の問題ではなく、機能的なものです。不思議なことに、イエス様が人間としてこの地上におられたときは、父なる神に完全に従いました。ヨハネ5:19「まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。」イエス様も神様ですから、自分で何もできたはずです。ところが、地上では父なる神に100%服従していました。それは、私たちの模範になるためです。イエス様が大変驚いたのは、ローマの百人隊長が「ただ、おことばを下さい」と自分のしもべの癒しを求めたことです。彼はイエス様に神からの権威があることを認めていました。なぜなら、自分も権威の下に置かれていたからです。

かなり前にジョン・ビビア著 ”Under cover『覆いの下に』という本を訳したことがあります。権威が何のためにあるかというと、私たちを守るためにあるということです。私たちはだれかからの権威でおおわれる必要があるのだということです。ジョン・ビビアが青年牧師のとき、主任牧師に従う必要に迫られました。彼は学生たちのセルグループを開きたいと願いました。しかし、主任牧師から「聖霊がそのようには、おっしゃっていない」と二度も断られました。彼は主任牧師が正しいか、間違っているからではなく、主任牧師の権威「覆いの下」で生きる必要があるのだということを悟ったそうです。ある人は職場でいつも冷や飯を食わせられているような感じがします。その人はクリスチャンなのに、いつも不安があり、守られていない気がします。なぜでしょう?私は「覆い」がないからだと思います。覆いは雨傘のようなものです。世の中の権威を認めない人は、雨傘に穴が開いている状態です。その人に知識や能力もあるかもしれません。しかし、いくら主張しても受け入れてもらえません。かえって、上司から生意気だと思われ冷遇されてしまうでしょう。もし、その人が世の中の権威も神様が与えたものだと認めらならどうなるでしょう?その人の上に、cover覆いがかぶせられることになります。不思議なことに、社長や上司はあなたに対して好意を示し、昇進させてくれるでしょう。なぜなら、あなたが彼らの権威を認め、喜んで従ったからです。私は昔、お巡りさんが嫌いでした。でも、今は市民の平和を守ってくれることに感謝をしています。私も霊の父である大川牧師を敬っています。これまで、けちょんけちょんに言われましたが、反旗を翻したことはありません。いつでも従順に従っています、するとどういう訳か、大川牧師は私を愛弟子として認め、愛してくださいます。私は自分の父と母を赦し、主にあって敬いました。そうしたら、家庭も祝され、平和に満たされました。Under cover『覆いの下に』いることは、だれのためでもない、あなたのためなのです。

3.癒しと回復

私は牧師としていろんな人に出会いますが、職業柄、どうしても気づいてしまうところがあります。それは、その人が「権威を重んじている人」か、あるいは「権威を軽んじている人」か、であります。私はありのままで生きていますが、人格的に欠けがあるせいか、牧師として敬われないところがあります。でもそれが、その人の権威に対する試金石になっていることも確かです。「このような人でも敬うべきだ」という人と、「こんな人は敬わなくても良い」と二種類に分かれるところがあります。別に私はすべての人から敬われるべきであるとは考えてもいないし、期待もしていません。でも、その人の権威に対する姿勢はどうなのか分かります。また、その人がどのような生き方をしているか、ある程度分かります。前のポイントでも説明しましたが、権威を認めていない人の人生は風当りが強いということです。心の中には不安があり、葛藤があります。その人の祈りの課題は、会社で上司から正当に扱われないことです。家庭においても、夫婦関係、親子関係に問題があります。もちろん、教会の牧師との関係もそうです。どうしても、牧師の粗が見えて、尊敬できません。「あれが悪い、これが足りない」と文句を言います。牧師も私の顔をさけているように思えます。「私は別に悪いことはしていないし、正統な事と述べているつもりなのに、どうして周りが正しく評価してくれないのでしょうか?」原因の一つは、その人が権威を認めて、それに従っていないからです。その人の上にカバー(蓋い)がないので、無情の雨が滴り落ちるのです。あまりにも一方的な見方で承服できないという人もおられるかもしれません。でも、それは真理であり、神が定めた法則に違反しているからです。

 でも、父と母を敬える環境ですくすく育った人も希なのではないでしょうか?父と母が愛情をこめて正しく育てたはずです。でも、子どもの心にはアダム以来の罪の種があるので、どうしても曲げて解釈するところがあります。矯正やしつけに対して、反抗心や怒りを持つことがあり、それが苦い根として育つ場合もあるからです。でも、最も不幸なのは機能不全の家庭で育った子どもたちです。現代は離婚率が急上し、シングルマザーが増えています。どうしても、お母さんが父親代わりをしなければなりません。経済的にも精神的にも余裕がないので、子どもに辛く当たったり、ぞんざいに扱ってしまいます。私のように、たとえ両親がいても、精神的、肉体的に虐待を受けたり、ニグレクトを受ける子どもがたくさんいます。自分がそのように育てられてきたので、そのように自分の子どもに接してしまうのです。まさしく、世代間連鎖です。旧約聖書の一番最後、マラキ書はこのように書いてあります。マラキ4:5,6「見よ。わたしは、【主】の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、この地を聖絶の物として打ち滅ぼすことのないようにするためである。」これは、父と子の関係における癒しと回復のため、エリヤが現れると言う預言です。このところから「エリヤハウス」という祈りのミニストリーが作られたようです。

 かなり前に、クリス・バロトン著の ”up rising“という本を読みました。「反乱」という意味かもしれません。なぜならこの本の副題に「歴史上、最も父親がいない世代の壮絶な戦い」と書いてあったからです。著者のクリス・バロトン師は2歳のとき、父親を亡くしました。ボートが転覆して、叔父を助けたのですが、ボートを取り戻しに再び海に向かっておぼれ死にました。それから母が二度、再婚しましたが、二人の継父がバロトンにとても辛く当たりました。最後に母は離婚しましたが、父がいなかったことの心の傷はとても深かったようです。幸い、逞しいおじいちゃんがおり、心の安らぎを受けることができました。10代の終わり、クリスチャンになり、自動車修理工場で働いていました。彼は自分の霊的な父親(メンター)を探し求めていました。ある時、突然、イエス様から声があり、「ジープに乗っている男がお前のメンターだ」と言いました。彼はおどろきましたが、去って行くジープを止めました。哀れな羊のような声で「あの、僕のメンターになっていただけますか?」と尋ねました。がっしりしたその男性は「おお、良いよ」と言ってくれました。彼はクリスチャンであり、その後、40年間、霊的な父としてクリス・バロトン師をささえてくれたそうです。クリス・バロトン師は30代半ば預言者として、ベテルチャーチに迎えられました。彼が最初やったことは、10代の少年たちを集め訓練することでした。多くが父親不在の家庭で育って、とても不安定で荒れていました。その少年たちが、癒され回復し、立派なクリスチャンの働き人になりました。今は、彼らがかつての自分と同じような10代の少年たちを訓練しているそうです。

 その本に書いてありましたが、ある自然動物園で若い象と年寄りの象を全く分けて住まわせたそうです。ある時、たくさんのサイが死んでいるのを発見しました。なぜだろうと調査したところ、若い象たちがサイに乱暴を働いて死なせたということが分かったそうです。どうしたら良いか試行錯誤した結果、こうしたそうです。若い象と年寄りの象を一緒に住まわせました。すると、若い象が落ち着いた生活をするようになったそうです。おそらく年寄りの象が若い象に、「こうすべきなんだ」と、手本を示したのだと思います。つまり、父親のいない家庭で育った子どもたちは、心の癒しと回復を受けたあと、父親とはこういう存在なんだよと手本を見せられる必要があるのです。あなたは父と母からひどい扱いを受けたので、「なにクソ」と権威に逆らって生きるでしょうか?それは怨念晴らしの世界であり、これで良いという地点に達しません。いつも、だれかを裁いて生きており、風当たりの強い人生になってしまいます。それよりも、イエス様のところに来るべきではないでしょうか?マタイ11:28「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」でも、その後がもっと重要です。マタイ11:29,30「わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」イエス様はすばらしいメンターです。ベテラン牛であるイエス様とくびきを負うならば、安定した人生を送ることができます。