先週は「初歩の教えを後にして」という題で学びました。きょうは、「成熟を目指して」という題で学びたいと思います。ただいま、お読みしたエペソ3章後半はパウロの祈りになっています。長くて複雑な祈りですが、3つの部分からなっていると思います。「内なる人が強められるように」「キリストが住まわれるように」そして、「キリストを知ることができるように」です。ただいまから、この順番でメッセージをさせていただきます。
1.内なる人が強められるように
パウロの祈りがエペソ3章14節から記されています。まず、最初の動詞にあたるものを調べたいと思います。エペソ3:15「どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。」いろんな修飾語がありますが、文章を理解するためには動詞がどれかということを見つけ出さなければなりません。主語が「御父」です。何が動詞でしょうか?「内なる人が強められるように」ということです。強めてくださるのは、御霊であり、御霊の力です。肉体を強靭にするためには、運動とかプロティンです。この世では、肉体に関することが主でありますが、パウロはそうは言っていません。「内なる人のことを気に掛けなさい」と言っています。パウロはⅡコリント4章で外なる人と内なる人の二つに私たちのことを分けています。Ⅱコリント4:16「ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」外なる人というのは、私たちの肉体です。パウロは肉体を朽ちていく幕屋(テント)にたとえています。一方、内なる人というのは、私たち自身のことであります。外なる人である肉体は、私たち自身の入れ物ということになります。パウロははっきりと書いてはいませんが、内なる人というのは、私たちの霊と魂のことではないかと思います。霊と魂をまとめて、「内なる人」と呼ぶのだと思います。「霊魂」と言うと、ちょっと異教的な響きがしますので、「内なる人」で良いと思います。
では、私たちの内なる人をだれが、どのように強めてくださるのでしょうか?エペソ3:15「どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。」私たちの内なる人を強めてくださる、根本的なお方は父なる神様です。神様が「その栄光の豊かさに従って」と書かれています。父なる神様はあらゆるものの源であられます。このお方が神の霊である御霊を私たちに送ってくださったのです。御霊と呼ぶ場合、それは私たちの内におられる聖霊のことです。聖霊が力をもって私たちに働いて、私たちの内なる人を強めてくださるということです。聖霊にはどのような力があるのでしょうか?ローマ8章には、「いのちの御霊」として紹介されています。いのちの御霊はどんなことに働いてくださるのでしょうか?ローマ7章からの流れから考えると、それは肉の法則に勝たせてくださる力です。私たちは古い人に死んでおり、律法からも解放さている存在です。でも、律法がそばにあると、古い人の残りかすである肉が反応してしまいます。「するな」と言われれば、したくなるし、「せよ」と言われれば、したくなくなります。まるで、天邪鬼を内に飼っているような状態です。もちろん、私たちの意志力で肉を封じ込めて、従わせることも可能です。そういう真面目なクリスチャンが私たちの周りにけっこういらっしゃいます。そういう人は、自分にも厳しい代わりに、他の人にも厳しい傾向があります。あまりに律法主義的で、近くに寄りたくない感じがします。本来なら主の恵みで生きるべきです。主の恵みにあたるのが、御霊によって歩むということです。「歩む」とは生活することであり、御霊の支配と導きにしたがって生きるということです。そのためには、私たちの内なる人が砕かれて謙遜になり、従順になる必要があります。不思議な事に、聖霊は私たちの内なる人を強めるために、まず、私たちを砕いて、弱らせてくれます。その結果、自分の意思力や力ではなく、御霊により頼むようにさせてくださるのです。
私たちの魂は知性、感情、意思の三つでできています。御霊はどのように働くのでしょうか?第一に知性ですが、生まれつき頭の良い人がいます。思考、記憶、問題を解決する知恵にたけた人がいます。しかし、御霊はそういう生まれつきの知性を砕きます。失敗を許したり、あなたの知性を嫉妬して敵対する人も置いてくれます。箴言3:6,7「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの進む道をまっすぐにされる」とあります。第二、あなたの感情は豊かで、愛と親切と同情心に富むかもしれません。人々もあなたをとても人格的だとほめるでしょう。でも、御霊はあなたの周りに愛せない人を置いて下さいます。伴侶であったり、教会の兄弟姉妹かもしれません。あなたは砕かれて、御霊が与える愛、親切、あわれみを求めるようになります。それは、つまり御霊の実のことです。第三は意思ですが、これは自我と言うことができます。あなたは一度決めたことを遂行する意志力があります。でも、それは頑固でもあり、たとえそれが間違っていても変えようとしません。悔い改めない頑なな心です。御霊はヨブやペテロのような人たちを砕きます。そして、私ではなくあなたに従いますという、従順な心になるのです。鍛錬されていない純鉄は硬いけれど、もろくてすぐ割れてしまいます。しかし、鍛錬された鉄はしなやかで、硬くてもすぐには割れません。
最後には霊ですが、霊には交わり、良心、直覚の3つがあります。あなたの霊が強められると、神様との交わりが頻繁になります。祈ることが苦痛でなくなります。神様と交わるのが楽しくなります。良心はどうでしょう?罪に対して敏感であり、神を恐れ、主のきよさを求めます。良心が魂に語りかけ、正しいことをするように促します。直覚は人知をこえた知識や悟りです。この世では知識や知恵がある人がたくさんいます。しかし、クリスチャンの霊には御霊が宿り、神様と連動して、人々に隠されたことを示してくださいます。旧約聖書のヨセフ、ソロモン、ダニエルがそうでした。そして、イエス様がそうでした。イエス様は人々の思いを見抜くことができました。このように内なる人が強められると、あらゆる環境においても主の王道を歩むことができます。多くの人は、つぶやいたり、不平不満を言ってしまいますが、私たちはそうではありません。万事を益としてくださる神様をほめたたえつつ、御霊によって歩むのです。
2.キリストが住まわれるように
キリストが住むとはどういう意味でしょうか?黙示録3章20節には有名なみことばがあります。「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」多くの場合、このみ言葉はキリストを信じていない、未信者に対して語られる伝道メッセージです。私もこのみ言葉によって、イエス様を心にお迎えし、救いの体験をしました。でも、このみことばは、ラオデキヤ教会に語られています。イエス様は彼らに「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと言っているが、実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていない」とおっしゃっています。つまり、彼らはクリスチャンでありながら、イエス様を心の外に締め出していたのです。神学的に物議をかもすかもしれませんが、イエス様を信じて救われていても、イエス様を心の外に締め出して生きることも可能だということでしょうか?パウロはどのように述べているのでしょうか?エペソ3:17,18「信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように」とあります。「信仰によって」と言われています。言い換えると、信仰がなければ心のうちにキリストを住まわせることができないということでしょうか?「信仰」というのは、分かりそうで、分からないことばです。へブル11章全体に「信仰」ということが説明されています。へブル11:6「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」信仰というのは、神に近づくことであり、報いを信じて求めることであることがわかります。
福音書を読むと、イエス様に信仰をもって近づいた人たちがたくさんおります。しかも、その人たちはみなイエス様から「あなたの信仰はすばらしい」と称賛を受けました。長血を患っていた女性は、「イエス様の衣の裾に触りさえすれば、きっと癒される」とつぶやきながら、イエス様に近づきました。自分がけがれていると思っていたので、迷惑がかからないように、後ろからそっと、衣の裾に触っただけです。そうすると、イエス様から力が流れてきて、癒されました。イエス様は彼女の信仰を喜ばれました。バルテマイは盲人で物乞いでした。「ダビデの子、イエス様、私をあわれんでください」と大声で叫びました。イエス様のもとに連れてこられたバルテマイは何がほしいかと言われ、「目が見えることです」と求めました。イエス様はあなたの信仰があなたを救ったのですと言われました。他には、スロフェニキアの女性、ローマの百人隊長も、彼らの信仰が喜ばれています。つまり、イエス様を信じるというのは、今も生きておられる救い主を信じて求めるということです。偶像礼拝のように、お題目を何度も唱えて、注意をこちらに向けさせるということではありません。イエス様を信頼し、イエス様と人格的な交わりを求め、イエス様と共に生活したいと願うことです。キリスト教は宗教ではありません。「イエス様、イエス様」と呼びつつ、今も生きておられるイエス様と共に生きることです。
パウロが「信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように」と願っていますが、私たちの心のすべての部屋に住まわせるという意味にもとれます。ヨハネ黙示録3章20節は友人としてのイエス様です。ただ一時、楽しい交わりで良いのでしょうか?そうではありません。ヨハネ15章のときもお話ししましたが、この「住まわせる」は英語のliveではありません。英語の聖書はdwellであり、「とどまる」とか「ある状態を続ける」という意味があります。一時ではなく、ずっと住んでいただくということです。この場合のギリシャ語はカトイケオゥであり、「神が神殿に住む」「神・キリスト・聖霊が人に宿る」というのが本来の意味です。パウロがⅠコリントで私たちが神の宮(神殿)であると言っています。Ⅰコリント3:16「あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。」、Ⅰコリント6:19「あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。」二か所とも、「知らないのですか」と強い口調で言われています。言い換えると、自分のうちに神の霊が住んでいることを理解することが難しいということでしょうか?総合的に考えると、「信仰によって」とありますので、キリストが住んで下さるように、意識して、強く願う必要があるということです。つまり、私たちの心のすべての部屋に住まわせるという意味です。イエス様は私たちの奴隷ではありません。確かに友ではありますが、王なるお方であり、人生のマスターです。マスターというのは、ユダヤ人でいうラビ(師)です。福音書を読むと、12弟子たちが、イエス様と一緒に生活し、イエス様から指導をいただいていることがわかります。私たちも彼らと同じように、イエス様のみそばで共に生活できるということです。
多くのキリスト教の指導者たちが「クリスチャンとは小さなキリストです」と言います。おそらく、私たちのふるまいや言葉を通して、人々がイエス様を知るという意味でしょう。確かに分かるような気はしますが、「小さなキリスト」というのはどうでしょう?イエス様は信じられないことをおっしゃっています。ヨハネ14:12「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。」ユダヤの教えでは、同じことを二回言うのは、そのことを強調するためです。イエス様は「わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います」とおっしゃいました。このところには、小さなキリストはありません。キリストと同じか、あるいはキリストよりも大きいというニュアンスがあります。これは私たちが大きくなるという意味ではないでしょう。私たちの内からキリストが現れたとき、福音書に記されているキリストよりも、大きくなるという意味です。そうです。私たちの内に住んでおられるキリストは、私たちを通して、この世に現れたいと願っておられるのです。ガラテヤ2:20「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。」アーメン。
3.キリストを知ることができるように
エペソ3:17後半から19節「そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。」
パウロは、キリストの広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようにと願っています。「理解する」は英語の聖書では、comprehendであり、「意味をとらえる」、「把握する」という意味です。どちらかと言うと、学校で新しいことを勉強するときの感覚です。小学校のときは時計の12進法が良く分かりませんでした。分数の足し算のときも大変でした。私は、微分積分は諦めました。私たちは聖書からキリストがどのようなお方か理解することができます。まず広さですが、イエス様はいろんな人を愛して、受け入れています。漁師、取税人、罪ある女、ツロフェニキアの女性、それからローマの兵卒、ヘロデの執事クーザ、7つの悪霊を宿していたマグラダのマリア…実に多くの人たちと出会っています。長さはどうでしょう?キリストはアルファであり、オメガ、世のはじめから、世の終わりまでおられます。ヘブル13:8「イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません」。高さはどうでしょう。ピリピ2章には「それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました」とあります。現在、イエス・キリストは父なる右の座に座っておられます。私たちにとって王であり、弁護者です。深さとはどいういう意味でしょう。Ⅰペテロ3章には、「捕らわれている霊たちのところへ行った」と書かれています。私たちは、イエス様は死後、陰府に下られ、その後、よみがえりました。イエス様は陰府の一部を引き上げパラダイスとされました。そのところから、セカンド・チャンスを言う人がいますが、それを断言するのは不可能です。私たちは神の啓示である聖書を勉強して、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する必要があります。
さらにパウロは「人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように」と願っています。このところの「知る」は、ギリシャ語のギノスコウです。知的に知ることだけでなく、人物を霊的・人格的な交わりによって知るということです。旧約聖書で「知る」は「ヤダー」であり、肉体的な交わりを意味していました。そういう意味で、情報的な知識だけではなく、イエス様を体験的に知るということも重要です。私は信仰暦50年になろうとしています。牧師としても長いので、キリスト教会のいろんな情報を知っています。信仰者の中には70年に達する人もいるでしょう。その人の中には、それまでの知識や経験がたくさんつまっているわけです。部屋でいうと、いろんなものが詰まっている状態です。たとえて言うと、ある人の部屋は整然としていますが、ある人の場合はごったがえしになっており、座るところもない状態です。人間はどちらかというと、スキャンダルに興味があります。また、こういうことをした、あのようなことをしたと自分を誇ります。また、あの人はこういうことをしたと、人を裁くようなものもあります。そういうものは粗大ごみとして出して、良いものだけを整理してとっておかないと大変になります。神さまは全知全能であり、すべてのことを知っておられます。一人ひとりのことを全部、知っているなら、嫌になるのではないでしょうか?でも、神さまのご性質は善であり、慈しみ深いお方です。善はgoodness,慈しみ深いはloving-kindnessです。つまり、善と慈しみでその人の人生をご覧になっているということです。それは、十字架の贖いを通してごらんになっているということです。信仰暦が長い人は、醜い事もいっぱい知っているので、その人から悪い物もばーと出てくるかもしれません。そうではなく、神さまのご性質のように、善と慈しみであふれていたなら、神の恵みや憐れみが出て来るのではないでしょうか?神さまがこんなことをしてくださった、こんなふうに引き上げてくださったと証できるでしょう。人は、自慢話は聞きたくないものです。「うん。うん」と聞いてはいますが、右から左へスルーしてしまいます。それよりも、私たちはイエス様が自分になしてくれたことを証ししたいです。
私がうなだれているとき、イエス様は励ましてくださいました。「お前を好きだよ」と言ってくださいました。私が高慢で何様のように振舞っているとき、聖霊の声がありました。内におられる御霊の声は静かですが、聖霊の声は大きくて威厳があります。怒りや憤りで心が満ちているときは、「私がさばく」とおっしゃってくださいました。ローマ12章に、「復讐はわたしのもの。わたしが報復する」と、主は言われます。イエス様はどの道を行くべきか悩んでいるとき、教えてくださいます。イザヤ30:21「これが道だ。これに歩め」と言うことばを、あなたの耳は聞く」とあります。また、イエス様は困っているとき、助け手であるガイドを与えてくださいます。それは、映画の窮地に立たされた主人公と同じです。このようにイエス様は今も生きておられ、私たちと共に歩んでくださっておられます。本来なら王の王、主の主であり、私たちの手の届かないところにおられるお方です。しかし、ペンテコステ以来、キリストの御霊として、私たちのところにおいでくださっています。イエス様はローマ・カトリックの教皇とは違います。女王陛下や天皇陛下のようなでもありません。福音書のように、一人ひとりに個人的に出会ってくださいます。そして、私たちのためパンを増やし、嵐を静めてくださいます。パウロが言うように、まさしく「人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように」ということです。
たまに、「私は信仰が弱いです」「神さまのことがよく分かりません」と言う人がいます。その解決は、イエス・キリストを知るということです。イエス様を知れば知るほど、信仰が深くなり、強くなります。父なる神は目に見えないきよいお方です。しかし、イエス様は「父のみもとから来られたひとり子であり、恵みとまことに満ちておられる」お方です。イエス様は私がどんな状況、どんな状態のときも、私を抱き、慰め、そして引き上げてくださいます。なぜなら、十字架で私たちの醜い罪、咎、呪いを引き受けて下さったお方だからです。悪いものを全部、取り去り、私たちを義として聖として、再生してくださいます。