2026.1.4「信仰生活の全体像 ヨハネ15:4-8」

私たちは自分たちに対してもそうですが、まだ信仰生活というものを知らない人たちに、その全体像を示す必要があります。なぜなら、キリスト教の教えはあまりにも広く、あまりにも深いからです。一体、どのように、どれくらい話して、説明したら良いか分からないでしょう。きょうは、私たちの信仰生活の全体像を分かりやすく3つのポイントでお話したいと思います。

1.キリストの救いを得る

 グーグルで「救われる」を調べてみたら、「AIによる概要」がありました。「苦しみや不安、絶望的な状況から解放され、助けや安らぎを得て、心が癒されたり、穏やかになったりすることを意味します」とありました。では、「キリストの救いを得るとは」どういう意味でしょう?マルコ1章に書いてありますが、イエス様は公生涯に入り、開口一番にこう言われました。「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)救いを得るとは、福音を信じて、神の国に入るということです。でも、「福音」とは何でしょう?福音は英語でgood newsですから「良いニュース」という意味です。この世には朝から晩まで、ニュースにあふれていますが、良いニュースはあまりありません。良いニュースは、聖書の4つの福音書に書かれています。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネという人物がそれぞれ、救い主イエス・キリストのことを言い表しました。これらを4つの福音書と言いますが、イエス様のご生涯を彼らなりに書いています。では、福音の中心とは何でしょう?「イエス・キリストが救いの道を作り、この方を信じれば救われる」ということです。イエス様はヨハネ14章で「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません」(ヨハネ14:6)と言われました。父というのは、父なる神さまのことです。この意味は、イエス・キリストの父なる神であり、私たちの父なる神でもあるということです。先ほど「救いとは福音を信じて、神の国に入ることである」と申し上げました。神の国という本当の意味は、“The kingdom of God”であり「神が治める王国」という意味です。つまり、神の国とは父なる神が治めている王国なのです。良いニュースとは、私たちが神の王国に入ることができるように、イエス・キリストがすばらしいことをしてくださったということです。

 ひとことでキリスト教の救いは、罪が赦されて、永遠のいのちをいただき、神の王国に入るということです。しかし、日本人にとって最も難しいのが「罪」です。罪とは必ずしも、警察にお世話になる犯罪のことではありません。聖書の神さまはこの世界と私たちを造られた神さまであり、支配者です。罪を犯すのは人の前ではなく、神さまの前なのであります。私たちはアダムからの罪、先祖が犯した罪、そして自分自身が犯した罪があります。義なる神さまは、私たちの罪をさばかなければなりません。「何でも赦すよ」と言ったら、もう神さまでなくなります。神さまは義なるお方ですが、愛なるお方でもあります。どうしたら罪ある人を赦すことができるのでしょうか?父なる神さまはひとり子を人間として、この地上に生まれさせました。それは、私たち人間の代表として正しく生き、最後に私たちの罪を負って死ぬためです。イエス様は死なれる直前、「すべてが完了した」と叫ばれました。それは、罪の代価をご自分が払ったということです。神さまは律法の行いではなく、信じることによって義とされる道を示されました。ローマ3:22「すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。」ローマ5:8「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」私たちはキリストによって与えられた罪の贖いを、ただ受け取れば良いのです。イエス様は「悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。悔い改めるとは、自分がこれまで犯した個々の罪を悔い改めるという意味ではありません。「自分は神の前に罪人であり、不完全です」ということを認め、神さまの方に向きを変えるという意味です。それは言い換えると、キリストを救い主、人生の主として信じるということです。でも、信じるだけで本当に救われるのでしょうか?その証拠とは何なのでしょうか?ローマ4:25「主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。」聖書にアンプリファイド・バイブルというのがあります。ここには「私たちの義の保証となるためによみがえらされた」と書かれています。つまり、「キリストの復活は、私たちが義とされる」ということを保証しているのです。義とされるとは法律用語であり、罪がなく神の国の入国にふさわしいということです。

 キリストを信じて義と認められるとどうなるのでしょうか?第一に、神の前でさばかれることなく永遠のいのちが与えられます。ヨハネ3:16「それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」と書いてあります。第二は、聖霊によって新しく生まれ変わります。イエス様は「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です」(ヨハネ3:5,6)と言われました。第三は、神の子という身分が与えられます。ガラテヤ4:6「そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。」私たちは神さまを天のお父さまと親しく呼べるのです。第四は古いものは過ぎ去り、新しくなります。Ⅱコリント5:14「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」過去の記憶はあります。でも、あなたは新しい存在です。あなたは新しい存在として神さまと共に生きているのです。第五あなたは聖徒です。救われて後、もっとも重要なことは「私はだれか」ということを知ることです。これをアイデンティティと呼びます。クリスチャンとは罪赦されたただの罪人ではありません。私たちは聖徒であり、罪は犯すことがあっても、罪を犯し続けることはできません。なぜなら、自分は義とされきよい存在だからです。また、私たちは虫に等しい存在ではありせん。神の御目では高価で尊い存在です。神さまが王であるなら、私たちは王子であり、王女なのです。私たちは神の子どもとして権威が与えられ、悪霊どもを踏みつけて生きることができるのです。

2.キリストにあって成長する

 一般の教会では洗礼準備会で、「教会員としての務め」みたいなものを教えます。聖書を読むこと、礼拝に出席すること、献金をすることなど、クリスチャンとしての義務みたいに指導します。そうすると、その人は「恵みで救われたけれど、やっぱり行いも必要なんだ」と思ってしまいます。確かに、聖書、礼拝、献金は良い事であり、なすべきことです。でも、それを義務や律法に取ってしまうと、信仰生活が苦しくなります。なぜなら、学校や会社などではこのような「きまり」に満ちているからです。ですから、その人は「入会して、やることが増えてしまった」と気が重くなるでしょう。忘れてならないのは、救われたのも恵みですが、救われた後も恵みなのです。つまり、救われると霊的な命があふれてきますので、聖書を読みたくなるし、礼拝をささげ、献金をささげたくなるのです。外から強いられてやるのではなく、内側から聖霊が私たちの意思に働きかけてくださるのです。そのためには、救われた後は3つのものに留まる必要があります。

 第一はキリストにとどまるということです。ヨハネ15:4「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」実とは私たちの人格的成長と私たちの行いの実です。ご存じのように、ぶどうの木からは、枝が出ており、その先に実がみのります。私たちは枝として、木であるキリストにとどまる必要があります。そうすれば、キリストからいのちが私たちに流れて来て、自然と実を結ぶことができます。私たちは、ぶどうの枝が必死に「実を結ぶぞー」と力んでいる姿を見たことはありません。今まで、そのように生きてきたかもしれませんが、信じたあとはそうではありません。ガラテヤ2:19,20「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。」クリスチャンは神さまの要求・律法から解放されているので、自らの力でがんばる必要はないのです。私たちの古い人はキリストと共に十字架につけられました。生きているのはキリストと共によみがえった新しい自分なのです。新しい自分はキリストのいのちで生きるのです。私たちの内に住んでおられる、キリストが何をしたら良いかという意思や願いと、それを行う力や能力を与えてくれるのです。自分が小さくなればなるほど、キリストが大きくなります。それはキリストに信頼し、キリストにより頼む信仰生活です。言い換えると、キリストの御霊によって歩むということです。

 第二はみことばにとどまるということです。ヨハネ15:7「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。」教会は「聖書のみことばは霊的な食物ですから、聖書を読みなさい」と指導します。聖書を読むことは良いことです。でも、聖書のみことばとイエス様を離して読むなら、当時のパリサイ人や律法学者と同じです。彼らは聖書の知識がありましたが、それが生活に結びついていませんでした。聖書はキリストとの交わりで読むべきであり、そうするとキリストがあなたに約束のことばを与えてくださいます。それは生きた約束のことばであり、そのことばを土台にして神さまに求めるのです。イエス様は「わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます」と言われました。多くのクリスチャンはひたすら聖書を読んでいるかもしれませんが、本当はつまらないのに、「なんとか一章でも読まなくっちゃ」と我慢して読んでいるのです。そうではありません。イエス様は聖書を通して、あなたに語りかけ、約束のことばを与えてくださいます。私たちがそのみことばを信じて、イエス様に求めるなら、それがかなえられるのです。そうすると、聖書を読むことが楽しくなります。イエス様が私に語り、必要なものを求めなさいと言われているからです。これは、物質的なものだけではなく、信仰、希望、愛という目にみえないものも与えられるということです。

 第三はキリストの教会にとどまるということです。教会は神の家族であり、キリストのからだです。ですから、洗礼を受けたあと教会に属さなければなりません。「でも、なぜ教会にとどまる必要があるのでしょう?「教会の人たちは人間離れしていて、気持ちが悪いです」と言う人もたまにいます。かつての私がそうでした。みんなニコニコして「感謝します」とか言っているからです。でも、教会の兄弟姉妹との交わりはこの世のものと全く違います。この世は、血縁関係、会社の上下関係、男女の恋愛関係、さまざまな利害関係がほとんどです。でも、私たちの場合は、キリストによって罪が赦され、永遠の御国に籍を置いている運命共同体です。このような関係はこの世には存在しません。教会では社長も大学教授もお医者さんも国会議員さえも、同じ兄弟姉妹です。もちろん礼儀を忘れてはいけませんが、神の前ではみな平等なのです。Ⅱコリント13:13「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように」とあります。教会は三位一体の神の愛をいただきながら互いに交わるところです。「交わり」はギリシャ語でコイノーニアであり、親密な関係を意味しますが、「協力する、分け与える心」という意味もあります。Ⅰコリント12章に御霊の賜物が記されていますが、私たち一人ひとりはキリストのからだに属している、手足であり、耳や目や口なのです。パウロは「一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです」(Ⅰコリント12:26)と言いました。私たちの関係は会社の組織とは違います。キリストのいのちを分かち合う有機体なのです。だから、互いに祈り、互いに愛し、互いに赦し合うのです。教会から離れ、一人で孤立して信仰生活を送っている人もいますが、それでは健全に成長することはできません。私たちは兄弟姉妹と互いに交わることによって、愛を学び、重荷を負い合って成長することができるのです。教会には救われたばかりの小さな者と若者と父がいます。私たちは霊的な父を目指して成長すべきなのです。

3.キリストの使命を果たす

 最終段階という訳ではありませんが、クリスチャンとして一人前である証とは、キリストの使命を果たすということです。神さまは何でも行うことができる万能なるお方です。しかし、あえてご自分の神の子、聖徒たちにいくつかの使命を与えておられます。確かにそれは、彼らがこの世において果たすべき使命なのですが、神ご自身が彼らを通して働きたいと願っておられます。つまり、私たちクリスチャンはキリストの弟子としてこのように歩むべきなんだということです。福音書を読みますと、イエス様はある人に「私について来なさい」とお声をかけられます。その人は「ただ、まず自分の家の者たちに、別れを告げることをお許しください」と答えました。イエス様は「鋤に手をかけてからうしろを見る者はだれも、神の国にふさわしくありません」(ルカ9:62)と言われました。「ただ、まず…」とは「その前に」という意味であり、イエス様の召命を後回しにするということです。ペテロやヨハネは「何もかも捨てて、イエスに従った」と書かれています。洗礼を受けてクリスチャンになった人の中は、「天国に行くまで、私の好きなようにやらせてほしい」という人がいます。神さまはすべての人たちに、何らかの賜物と召命をお与えになっておられます。それを英語でdivine destiny「神の運命」と言います。でも、中には「そんなのお断りです。私にはやることが他にありますので、構わないでください」という人もいます。キリストの弟子になることは強制ではありませんが、すばらしい特権であることは間違いありません。私たちは福音書からイエス様のそばにいた12弟子たちを見ることができます。彼らは他の群衆たちとは違い、深い教えを学び、奇跡を間近で体験することができました。そればかりか、権威と力が与えられ、神さまに仕えることができたのです。つまり、ただ神さまから受けるだけではなく、神さまの手となり足となり口となって仕えることができたのです。旧約聖書ではそのような人を「神の人」あるいは「神のしもべ」と呼びました・

 旧約聖書にエリヤという最も力ある預言者のことが記されています。彼はあるとき、牛と一緒に畑仕事をしているエリシャを見つけ、彼の上に自分の外套をかけました。エリシャは父と母に口づけをしてから、エリヤに従いました。「外套」は神の権威、あるいは神の油注ぎを象徴しています。エリヤがエリシャに外套をかけたという意味は、「お前を私の後継者にしたい」ということです。つまり、弟子への召命です。まもなくエリシャはエリヤから二倍の祝福をいただき、実際にエリヤの二倍の奇跡を行うことができました。パウロは12弟子のひとりではありませんでしたが、自らを「キリスト・イエスのしもべ」(ローマ1:1)と紹介しています。「しもべ」は英語の聖書にはbond servantと書かれており、自ら志願した奴隷のことです。出エジプト記21章には「戸または門柱のところに連れて行き、きりで彼の耳を刺し通す。彼はいつまでも主人に仕えることができる」と書かれています。よく耳にピアスをしている人がいますが、それは「しもべ」のしるしです。bond servantとはいやいやなるのではなく、自ら志願したキリストの奴隷です。新約的にはキリストの弟子となるということです。私は洗礼を受けて半年後、「私は道、真理、いのち」ということばによって、「小さくても良いから私をあなたの弟子としてください」と願いました。私が神学校に行くとき大川牧師はⅡテモテ2章のみことばを引用しながら、私を志願兵として認めてくださいました。聖書には「兵役についている人はだれも、日常生活のことに煩わされることはありません。ただ、兵を募った人を喜ばせようとします」(Ⅱテモテ2:4)と書いてありました。これはどういう意味かというと、自分のことは後回しにしてでも、司令官なるイエス様に喜んで仕えなさいということです。優先順位の筆頭がキリストになるということです。

 マタイ28章の後半に最も偉大な命令が記されています。英語でThe great commissionと書かれています。commissionというのは、「委託された任務、仕事」という意味です。このみことばは、イエス様が天にお帰りになる直前、11人の弟子たちに与えたものですから、とても大事なことです。しかし、多くのクリスチャンは「このみことばは11弟子に与えられたものなのであり、私に対してではない」とスルーします。もし、そのようにして聖書を読むならば、この命令は守るけれど、この命令は守らなくても良いという独りよがりのものとなります。ですから、マタイ28章の命令も私に対してものだと受け止める必要があります。このところでは「あらゆる国の人々弟子としなさい」が主動詞であり、他は修飾的なものです。福音派の教会は、「これは伝道してできるだけ多くの人を救いに導きなさい」と解釈してきました。しかし、よく見ると「国民を弟子としなさい」と個人レベルではなく、国レベルとして書かれていることに驚きます。つまり、「伝道して救いに導くだけではなく、国を変革させる弟子にしなさい」ということです。

ビル・ジョンソンがマタイ6章の「主の祈り」から「教会の使命は、天が地を侵略するように働くことだ」と言いました。その意味は、芸術、ビジネス、教育、家族、政府、メディア、宗教に神の国が臨むために働くということです。整えられた聖徒たちが、あらゆる場所に遣わされ、神からの知恵と創造力によって変革をもたらすということです。神さまは全知全能なるお方ですから、私たちの助けなしに、何でも行うことができるはずです。なのに、「どうして私たちにこのことをしなさい」とお命じになるのでしょうか?天国は全く問題ありませんが、この地上においてはご自分を制限しておられるようです。救われた神の子どもである聖徒たちを通して、ご自身が働きたいと願っておられるのです。そのために、イエス様はこの命令を与えるときに、「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています」とおっしゃいました。その命令の後で「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」とおっしゃっています。これは、「私が共にいて、一緒に働くよ」ということです。マルコ16章にも同じような命令がありますが、最後に「主は彼らとともに働き、みことばを、それに伴うしるしをもって、確かなものとされた」と書かれています。私たちはただ救われて天国に行く存在ではありません。神さまはあなたに賜物と召命を与え、あなたを通して働きたいと願っておられます。すばらしい生き甲斐、人生の目的があります。あなたは、どんな活動をしていても、神のしもべ・ミニスターとして、この地に御国をもたらすために召されているのです。