2026.3.22「信用される人 マタイ25:20-26」

私たちは色んな人と会っています。その中には家族や親族、職場、教会、友人など大勢含まれています。私たちは色んな人と関係を持っていますが、浅かったり、深かったり様々です。でもそういう人達の中に、「この人は絶対信用できる」と言う人と、「この人はあぶない」という程度の差というのがあるのではないでしょうか?きょうは神さまからも人からも信用される人とはどういう人なのか共に学びたいと思います。ちなみに、今日、出て来る「タラント」は金などの重さの単位です。しかし、このたとえでは、神さまから与えられた賜物とか能力という意味です。

1.忠実な人 

 第一に信用される人は忠実な人です。マタイ25:21「主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』」このところに、「忠実」という言葉が何回も出ております。その反対が26節にありますが、「悪い、怠け者のしもべだ」と言われています。彼は自分が任されていた1タラントに不忠実であったということです。5タラント任されていた人も、2タラント任されていた人も、同じ「おほめのことば」をいただきました。主人は「それぞれの能力に応じて、一人には五タラント、一人には二タラント」とありますので、能力以上のことは期待されていなかったということでしょう。そういう意味で、神さまはそれぞれ違った能力をご自分の主権によって与えておられるということです。ですから、他の人と比べることなく、自分が与えられたタラントに忠実であれば良いということです。もし、5タラント任されていた人が2タラントしかもうけなかったなら、「良い忠実なしもべだ」とまでは言われなかったかもしれません。「まあ、まあ、かな?それでも良かったよ」ぐらいでしょうか。5タラント任されていた人がそれだけほめられていたのは、ご主人が期待していたとおりもうけることができたからです。これは自分が与えられた分に応じて、働いたということです。パウロもⅡコリント10章で「私たちは限度を超えて誇りません。神が私たちに割り当ててくださった限度の内で、あなたがたのところにまで行った」と言っています。ローマ12章にも似たようなみことばがあります。ローマ12:3「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがた一人ひとりに言います。思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深く考えなさい。」

 問題は「自分がどれくらいのタラントが与えられているのか」ということです。タラントの種類も違いますし、その量も違うでしょう。この場合、タラントは神さまが与えてくれた賜物や能力という意味です。同じ賜物であっても、人によって高いものと、中くらい、低いものがあります。私は説教者として召されていますが、50~60名くらいの会衆に語るように召されています。大川牧師は1200名くらいでしょうか?私は座間キリスト教会で大川牧師のメッセージを聞いていて、私は100名くらいの会衆に語れるだろうと思っていましたが、38年たっても無理でした。しかし、死ぬ前にリバイバルが起こって、最低でも500名の会衆に語れるだろうと密かに思っております。「人数じゃない」と人は言うかもしれません。それは、やったことのない人です。私もたまに、大和カルバリーでメッセージを依頼されるときがありますが、全然、違います。ある時、3回やりましたが死ぬかと思いました。その時、自分の霊の力が全部なくなったと思いました。上には上があると言えば、それまでですが、神さまはそれぞれに限度を与えたのだと思います。でも、限度を神さまの標準よりも低く見積もってはならないということです。ハイジャンプもそうですが、バーが落ちてはじめて、「ああ、限度なんだなー」と分かります。そういう意味で、上を目指してチャレンジすることが重要だと思います。

 しかし、このところに不思議なことが書かれています。「お前はわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう」と5タラントのしもべ、2タラントのしもべにも言われているということです。一方、1タラントを地に隠しておいたしもべにはどうでしょう?マタイ25:28-29「だから、そのタラントを彼から取り上げて、十タラント持っている者に与えよ。だれでも持っている者は与えられてもっと豊かになり、持っていない者は持っている物までも取り上げられるのだ。」1タラントのしもべは、持っていた1タラントを取り上げられてしまいました。そして、10タラント持っていたしもべに与えられたということです。これはどういう意味でしょう?忠実なことが示されたなら、神さまは忠実な人にもっとタラントを与えるということです。つまり、だんだん増やされていくということです。もし、一度で10タラント与えられたなら、そのタラントの重みで押しつぶされてしまうでしょう。経験と実力がついたら、増し加えられるのです。そういう意味で、今、与えられているものを忠実に果たしているどうか、テストされているということでしょう。忠実という言葉は英語の聖書ではfaithfulであり、真実という意味もあります。パウロがこう述べています。Ⅰテモテ1:12「私は、私を強くしてくださる、私たちの主キリスト・イエスに感謝しています。キリストは私を忠実な者(真実な者)と認めて、この務めに任命してくださったからです。」アーメン。私たちも同じで、キリストが私たちを忠実な者と認めておられるので、その真実にお答えしたいのです。私たちがまだ成し遂げていないのにも関わらず、「忠実な者と認めて」おられるのですから、本当にありがたいです。それにお応えしたいです。

 私もこれまでいろんな上司に仕えてきましたが、「鈴木で本当に大丈夫だろうか?疑わしいな?」という人もいました。上司がそうであれば、「ほどほど、やるさ」と責められない程度にやります。でも「鈴木だったらできるよ、任せるよ」と言ってくれた上司もいました。そうするとどうでしょう?残業してでも、休日を返上してでも、頑張ってしまうでしょう。「頑張る」というのはクリスチャンとしては表現が悪いですが、とにかく期待に応えようと思います。イエス様は「この人たちはどうだろう?」と思っていた12弟子に宣教命令を委ねました。1名は脱落しましたが、11名はその役目を十分果たしました。主は後でパウロを召して、欠けた1名を補填してくれました。パウロのことばです。「私は、私を強くしてくださる、私たちの主キリスト・イエスに感謝しています。キリストは私を忠実な者と認めて、この務めに任命してくださったからです。」

2.誠実な人

 第二に信用される人は誠実な人です。「誠実な」とは、英語でloyalです。loyalは夫、妻、友人、雇い主などに誠実な、義理堅いという意味です。他に「忠義な」「忠節な」という意味もあります。第一のポイントの「忠実」とほとんど似ているのですが、相手に対する心の姿勢において「誠実である」ということです。5タラント預けられたしもべは、どうしたでしょう?マタイ25:16「五タラント預かった者は出て行って、それで商売をし、ほかに五タラントをもうけた」とあります。口語訳聖書は「五タラントを渡された者は、すぐに行って、それで商売をして、ほかに五タラントをもうけた。」と「すぐに行って」と書かれています。パッションバイブルは”immediately went out”「直ちに出て行った」と訳しています。「時は金なり」と言いますが、時間を無駄にしていません。これは主人対する、忠義心にあふれた態度です。一方、一タラント預けられたしもべはどうでしょう?マタイ25:18「一方、一タラント預かった者は出て行って地面に穴を掘り、主人の金を隠した」とあります。彼は、預けられた1タラントを一度も使おうとしませんでした。何も手をつけず、そのままそっくり1タラントをふくさに包んで、地面に埋めたのです。あとから、主人から「銀行に預けておけば、利息としてもらえたのに」と言われています。当時、今と同じような銀行があったかどうか分かりませんが、いくらかの利息は入ります。主人は「利息ぐらいは受け取れるだろう」と期待していましたが、無理でした。

 一番の問題はしもべたちが主人をどのように思っているかであります。言い換えると、「主人とどのような関係を持っていたいか」であります。5タラント預けられたしもべと、2タラント預けられたしもべの共通点があります。それは「誠実さ」であります。「義理堅く、忠義で、忠節な」という意味です。現代の日本では、義理とか忠義は否定的であるばかりか死語になっているかもしれません。なぜなら、会社からいつリストラされるか分からないからです。昔は滅私奉公が美徳とされてきましたが、現代は、契約社員というのも増えて、存在価値が薄くなっています。だから、自分を雇ってくれた会社や社長に忠義を尽くすという考えがあまりありません。結婚においても、紙切れ一枚の関係になり、契約の観念がまったく薄れています。結婚式で「死が二人を分かつまで」と言われていたのに、忘れ去られています。中には結婚式をしない人がいますが、そんな約束ができないからでしょう。loyalty忠義、忠誠、忠節はとても重要です。でも、最も重要な鍵は、相手の人をどう思っているかであります。1タラントを預けられたしもべはご主人のことをどう思っていたのでしょうか?マタイ25:24「ご主人様。あなた様は蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからかき集める、厳しい方だと分かっていました。それで私は怖くなり・・・」面と向かって、良く言えたものだと思います。ご主人は1タラントをこのしもべに、確かに蒔いたのです。もし、彼が事業に失敗して1タラントを失ったとしても、叱られなかったと思います。それは、5タラント、2タラントを預けたしもべたちに対しても同じです。全く、チャレンジもせず、そのままそっくり渡すというのは、不誠実な人の証拠です。

 私たちは人々から信用されたいと思って生きているでしょう。それは、だれでも同じだと思います。でも、人から信用される前に、「その人をどのように思っているか」ということです。もし、大切な人だと思っているなら、こちらも誠心誠意で応えようとするでしょう。でも、その人がどうでも良い人だと思っているなら、こちらもいい加減な気持ちになるでしょう。言った約束は果たさないし、無礼な態度をとるならば、信用されなくなるのが当然です。つまり、人々から信用されたいと思うなら、まず、こちらが誠実に忠義を果たす者でなければならないということです。でも、中にはこちらの誠実を粗末に扱い、どぶに投げ捨てる人もいます。その人がどういう人なのか見極める方法があります。まず、こちらが先んじて誠実を示すことです。もし、ちゃんと返してくれたなら、その人は自分を重んじていることが分かります。つまり、私との関係を尊重しているということです。でも、当たり前のように搾取し、これからもさらに要求してくるなら問題です。箴言に蛭の娘が描かれています。箴言30:15「蛭には二人の娘がいて、『くれ、くれ』と言う。飽くことを知らないものが三つある。いや、四つあって、『もう十分だ』と言わない。」この世では、ホストに貢ぐ女性たちがいます。反対に、女性に貢ぐ男性もいるでしょう。こちらが一生懸命、誠意を示しているのに、全く返してくれません。あなたは「蛭」と付き合ってはいないでしょうか?1タラントのしもべは、「主人がとてもひどい人だ」と思っていました。主人を全く信用していなかったのです。だから、そのような不誠実なことができたのです。後で、主人もそのように彼を扱いました。

 相手を重んじることが、信用されることの前提条件と言えるでしょう。もし、こちらが相手を軽んじているなら、その人から信用されることはまずありません。パウロのことばです。ピリピ2:3,4「何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。…キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。」ピリピ2章はイエス様が「ご自分を空しくして、しもべの姿をとり…」と書いてあります。神であるお方が、私たちよりも低くなられたのです。パウロは「そのような思いで、人を自分よりすぐれた者と思いなさい」と命じています。私は8人兄弟の7番目で育ったので、家庭でも疎んじられ、学校でも疎んじられて育ちました。人から重んじられたことがないので、人を重んじるということが分からないで育ちました。人に従うのは怖いからであって、尊敬するからという気持ちはありませんでした。しかし、クリスチャンになって、あのイエス様が私の罪を身に受けて、十字架で死なれたことを知りました。ヨハネ13章にイエス様が弟子たちの足を洗った記事が記されています。ペテロは「やめてください」と断りました。イエス様は弟子たちにこう言われました。ヨハネ13:14「主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。」これは、言い換えると、こちらが低くなり、誠実さを示すということだと思います。誠実さが返って来れば、その人は信用するに値する人であることが分かります。まず、最初に、こちらが誠実さを示すことです。

3.一貫性のある人

 第三に信用される人は一貫性のある人です。「一貫性のある」とは、気分次第で、したり、しなかったりではなく、ずっとそのようにしているということです。言い換えると、そのことにコミットしているということです。commitというのは「関わる」という意味ですが、「献身的に関わる」「集中的に関わる」という方が良いかもしれません。人から信用されない人というのは、一貫性のない人です。ヤコブの手紙にはこのように書かれています。ヤコブ1:6-8「ただし、少しも疑わずに、信じて求めなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。その人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういう人は二心を抱く者で、歩む道すべてにおいて心が定まっていないからです。」「二心」は、英語の聖書ではダブル・マインドとなっています。この人は、「あれもこれも」と意志が定まっていない人です。人間の魂は、知性、感情、意志があります。意志は何かを選び、決断するという機能があります。生まれつき、意志が強い人もいますが、生まれつき意志の弱い人もいます。でも、クリスチャンは一度古い人に死んで、新しく生まれ変わった存在です。意志と霊が結びつくなら、たとえ意志が弱い人でも、十分強い人になります。なぜなら、御霊なる神が自分の意志を支えてくださるからです。そうすると、かつてのようにフラフラせず、安定した心構えで生きることができます。そのように言っている私がそうです。私は何をやっても三日坊主でした。中学ではブラスバンドを1週間でやめました。トランペットの空がなく、トロンボーンに回されたからです。陸上部に入りましたが、これも一週間でやめました。高校生のときはボクシング部に入りましたが半年でやめました。しかし、信仰だけは25歳以来、ずっと持ち続けています。ちなみに結婚も京子さん一筋、40年以上保ち続けています。なぜでしょう?聖霊が内側から支えていてくださるからです。かつては、母から「やす落ち着け、やす落ち着け」と遺言のように言われましたが、今はとても安定しています。

 では、一貫性のあるというのは具体的にどのような意味なのでしょうか?マタイ25:16「5タラント預かった者は出て行って、それで商売をし」とあります。2タラント預かった者も同じようにしました。「商売をし」は英語の聖書では、tradeとなっています。tradeは、商売、売買、貿易、物々交換という意味があります。私は「投資する」という意味でも良いかと思います。信用されるためには、たえず「商売をする」、「投資をする」ということです。私たちの心の中には、それぞれ預金通帳があります。不思議なことに、人それぞれに対して口座が開かれており、ある人に対してはたくさんの金額が蓄えられています。しかし、ある人に対してはプラスマイナス・ゼロです。そして、ある人はマイナスであり、たくさんのお金を損失しており、相当な被害額になっています。心の中にそれぞれの人に対する口座があるとは、どういう意味でしょう?私たちは意識する、しないに関わらず、信用できる人と信用できない人を振り分けているということです。何かひどいことをされたり、裏切られると出費したことになり、マイナスになります。しかし、親切にされたり、助けてくれたり、良いことをされるとプラスになります。あなたの周りを見渡して、おそらく、それぞれの口座の残高が異なるのではないでしょうか?中には残高が1億円もある人がいるでしょうか?その人はあなたのインナー・サークルの人であり、命を預けても良いくらい信頼している人です。そういう人は数名いれば良いかもしれません。インターネットとか、ラインで1000名くらい友達がいる人がいます。でも、それぞれの口座は100円くらいではないでしょうか?何かあるとすぐ関係が切れてしまう間柄です。現代の人たちは、そういう関係でも良いと思っているかもしれません。何千万円も赤字の人がいますか?そういう人は会いたくもない、口もききたくない人でしょう。キリスト教会ではみんな兄弟姉妹なのですから、「互いに愛し合いましょう」と言います。ありがたいことに、神さまは一人ひとりに莫大な愛を与えてくださいました。Ⅰヨハネ4:10「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」

 ですから、私たちは隣人に対して、一貫して愛を投資する必要があります。クレジット・カードのcreditは、「信用」という意味があります。クレジット・カードは信用でもっているのです。残念ですが、支払いが遅れると、一発で使えなくなります。ずっと払わないとブラックリストに加えられ、どのクレジット会社からも相手にされなくなります。私は毎月、びくびくします。買うのは簡単ですが、支払時はとても面倒です。私たちの互いの信用関係もそうです。一発で、赤字になることがあります。信用は失うのは簡単ですが、信用を取り返すためにはとても時間がかかります。人間は良いことよりも、悪い事をより鮮明に記憶する性質があるからです。脳には扁桃体があり、トラウマなど、受けたひどいことを記憶する図書館のようです。一度、ひどいことをされると、扁桃体にしっかり記憶され「もう、信用できない」となるのです。そういう意味で、人から信用される、信用し続けてもらうということは並大抵なことではありません。私もこのように講壇から説教していますが、女性関係で罪を犯すと、来週からだれも来なくなるでしょう。教役者は、まるでガラスの器のようです。日本では、一度、壊れたら修復できないのです。ですから、私がこの職を続けていられるのは、主の憐れみ以外の何物でもありません。なんとか、フィニッシュ・ウェル、ゴールまで走り終えたいと思います。私のためにも、お祈りください。

 結論です。信用される人とは、第一に忠実な人です。わずかな物に忠実であるなら、さらに与えられます。第二に誠実な人です。誠実とはloyalであり、相手を重んじることです。第三は一貫性のある人です。私たちは神さまから愛をいただいているので、相手に投資する必要があります。「私は損している」と被害者意識を持って生きている人はおられるでしょうか?箴言19:7「貧しい者に施しをするのは、【主】に貸すこと。主がその行いに報いてくださる。」イエス様もこのようにおっしゃっております。マタイ25:40「まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです」。投資して帰ってこないマイナスの口座を、神さまが補填してくれるとしたら、何と幸いでしょう。神さまが、ひとり子イエスを与えるほど私たちを愛しておられることを感謝しましょう。