2026.3.1「私たちの死生観 ピリピ1:21-24」

私たちが自分の死ということを考える時はどのような時でしょうか?身近な人が亡くなった時、あるいはテレビでだれか有名人が亡くなった時でしょうか?私が若かった時はそうでもなかったですが、70代になったのでいつ、いつお迎えが来ても感謝であります。お葬儀の時にしか、このようなメッセージはしませんが、たまには「死について」聖書から考えても良いと思って準備をさせていただきました。

1.旧約の死生観

 旧約というのは「古い契約の時代」という意味です。では、新約はいつから始まったかと言うと、キリストが死なれてよみがえられた後からです。ですから、新約聖書の福音書が全部、新約かというとそうでもないということです。ルカ16章に「ある金持ちとラザロの死」のことが書かれていますが、あの時はまだ旧約であったのです。「死はどういうものなのか、また死後どこにいくのか?」ということを、旧約聖書からいくつか引用させていただきます。創世記35章にはラケルの死が書かれています。彼女はベニヤミンを産んでまもなく死んでしまいました。創世記35:18「彼女が死に臨み、たましいが離れ去ろうとしたとき」とありますので、肉体からたましいが離れることを死と考えられます。創世記37章には、兄弟たちがヨセフをエジプトの奴隷として売り渡しました。ところが、彼らは「獣が食い殺した」と父ヤコブに報告しました。ヤコブは「私は嘆き悲しみながら、わが子のところに、よみに下って行きたい。」(創世記37:35)と言いました。つまり、その当時の人たちは、死んだらよみに下ると考えていました。ヨブ記も大変古い書物ですが、ヨブは「そのように、よみに下る者は上っては来ません。その人はもう自分の家には帰れず、彼の家も、もう彼のことが分かりません。」(ヨブ7:9,10)と言いました。詩篇16篇には、よみから救ってくださる希望があります。「あなたは私のたましいをよみに捨て置かずあなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならないからです」(詩篇16:10)このみことばは、ペンテコステの日、使徒ペテロがイエス様が復活された根拠として引用しました。

 そして、葬儀のときによく引用されるみことばは詩篇90篇でしょう。「私たちのすべての日はあなたの激しい怒りの中に消え去り私たちは自分の齢を一息のように終わらせます。私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。そのほとんどは労苦とわざわいです。瞬く間に時は過ぎ私たちは飛び去ります。」(詩篇90:9,10)この詩篇は「モーセの祈り」とありますので、モーセの体験から来たものと思われます。モーセは40歳のとき「私がヘブル人を救い出すのだ」と意気込み、エジプト人を殺して砂の中に埋めました。ところが、そのことをファラオが知ったので、彼はミデヤンの荒野に逃げました。そこで羊を飼う者となり、あっという間に40年が過ぎ、80歳になりました。「そのほとんどが労苦とわざわい」と書いていますが、モーセ自身のことでしょう。モーセは120歳まで生きましたが、それは人間の最長の寿命であると創世記6章に記されています。現代の医学でも、人間の限界寿命は120歳と証明されているようです。でも、「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年」という見方は現代にも通用するかもしれません。健康寿命というのがありますが、100歳でも寝たっきりでは寂しい感じがします。とにかく、アダムが罪を犯したために、死が人類に入ったということは間違いありません。歴史上、死をまぬがれて天に上った人は、エノクとエリヤぐらいでしょう。「人間は一度生まれたら、必ず死ぬ」というのは避けて通れない道であることは間違いありません。問題は、「死後、人はどこにいくのか?」また、「死後、何らかの希望があるのか」ということでしょう。

 昔、鴨長明という人が『方丈記』を書きました。彼は京都に住んでいましたが、洪水や火災、竜巻、飢餓のために大勢の人が死ぬのを目撃しました。彼は「人とすみかは、よどみに浮かぶうたかた(泡)のようだ。…生まれ死ぬ人、どこから来て、どこへと去ってゆくのか」と無常を歌いました。伝道者の書を読むと『方丈記』と似ている感じがします。伝道者の書は、死後のことをこのように述べています。「母の胎から出て来たときのように、裸で、来たときの姿で戻って行く。自分の労苦によって得る、自分の自由にすることのできるものを、何一つ持って行くことはない」(伝道者5:15)。「あなたの手がなし得ると分かったことはすべて、自分の力でそれをせよ。あなたが行こうとしているよみには、わざも道理も知識も知恵もないからだ」(伝道者9:10)。彼は死んだら何もなくなるので、若いうちに楽しむがよいとも言っています。伝道者の書はソロモンの作と言われていますが、彼の後半の生涯は神から離れ、虚無的な生活をしていたと思われます。しかし、「神のいない生活は本当に空しい」と言っているようであります。この世においても、生きているのか、死んでいるのかわからない人がいるでしょう。

 旧約時代は「死んだらおしまい。人よみにくだり、そこには何もない」と言うのが定説です。しかし、イエス・キリストはよみにくだり、復活したとき、陰府の一部を引き上げて、そこをパラダイスにしてくださいました。おそらく、旧約の時代はよみが二階建てのようであったと思われます。ルカ16章は旧約の話です。貧しい人、ラザロは死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れていかれました。これはよみの上の部分です。一方、金持ちは死んで目をさますと、そこはよみでした。よみはよみでも、地獄がそこまで来ており、彼は炎の中で苦しみもだえていました。はるか上に見えるアブラハムに「ラザロが指先を水に浸して、私の舌を冷やすようにしてください」とお願いしました。すると、アブラハムは「私たちとお前たちの間には大きな淵がある。ここからお前たちのところに渡ろうとしても渡れず、そこからわたしのところへ超えてくることもできない」と言いました。つまり、上のよみと下のよみの間には、深い淵があって行き来できないということです。おそらく、旧約で死んだ善人たちはよみの上の階にいて、死んだ悪人たちはよみの下の階にいたのではないかと思います。でも、善人とはどういう人で、悪人とはどういう人なのか分かりません。モーセの祈りです。詩篇90:12-13「どうか教えてください。自分の日を数えることを。そうして私たちに知恵の心を得させてください」と言っていますが、それは必ずやってくる死ということを良く考えよということです。

2.新約の死生観

 イエス・キリストが死んで陰府にくだったことが「ペテロ第一の手紙」に二か所記されています。Ⅰペテロ3:19「その霊においてキリストは、捕らわれている霊たちのところに行って宣言されました。」Ⅰペテロ4:6「死んだ人々にも(生前)、福音が宣べ伝えられていたのです。彼らが肉においては人間としてさばきを受けても、霊においては神によって生きるためでした。」新改訳2017度版には「生前」と書かれていますが、それは補足であり、原文には書かれていません。イエス・キリストが十字架の死後、陰府に下ったことは事実です。そこでイエス様が死んだ人たちに、福音を伝えたのか、勝利を宣言しただけのかどちらとも言えません。また、その対象がノアの時代の人たちに限定されるのか、それとも福音を聞くことのできなかった人たち全員なのか分かりません。でも、それを強調しすぎるとセカンド・チャンス(死後にも救いはある)となり、福音派の人たちはそのことを大変危惧しています。聖書において、このようなグレーの部分は全体の10分の1くらいでしょう。あとの10分の9は、キリストを信じなければ救われないと書いてあります。だれが救われるのか、だれが滅びるのか私たちは分かりません。確かに言えることは、「御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つ」ということです。

エペソ4章にイエス様がよみの一部を引き上げて、パラダイスにしたのではないかというみことばが記されています。エペソ4:8 そのため、こう言われています。「彼はいと高き所に上ったとき、捕虜を連れて行き、人々に贈り物を与えられた。」文脈的には、キリストが教会を治めるために、使徒、預言者、伝道者、牧師、教師という5つ賜物を与えたということです。しかし、神学者はキリストがよみにくだったとき、義人のいるよみの一部(とりこ)を携え上げ、それをパラダイスにしたと言います。これ以降、キリストを信じていな人はよみに行き、クリスチャンはパラダイスに行くということです。そして、世の終わり、再臨のとき、その人たちは千年王国に移り住むということです。パラダイスはペルシャ語の「囲い地」「公園」から来ています。キリスト教会では天国のことを言います。パラダイス(天国)は、中間状態で未完成の場所です。私たちクリスチャンは死んだらそこに行くことになっています。でも、私の考えではパラダイスにおいて「キリストのさばき」を受けるために、一度「大きな部屋」に入れられ、さばきを受けるのではないかと思います。それは、地獄に行くためのさばきではなく、いかに忠実であったか問われます。それは、千年王国のどのような報いを受けるかの監査みたいなものです。私が頭を打って二回目に入院したことがあります。退院する早朝、キーンという音と共に、ベッドのまま天に引き上げられました。まばゆい光の中に、チーク色の天井桟敷もしくは、裁判官の席なのか、壁際にいくつもありました。とても大きな円形の会場で、天上は見えても人は見えず、ざわざわとした声だけ聞こえました。私が「何人くらいいるのですか?」と聞きました。するとだれかが「5000人くらいかな」と答えてくれました。その後、すぐに下にもどりました。20年以上の前のことですが、インドネシアのある島の神学校がイスラム・ジハードに襲撃されました。何人もの神学生たちが大きな刀で首を切られて殺されました。真夜中、救急隊が倒れている小柄な神学生を発見しました。首がプラプラしているので、タンカで運ぶために首の皮を荒っぽく縫ったそうです。ところが、朝方、彼は生き返りました。2時間半死んでいたそうです。その間、彼は、パラダイスにのぼりました。いくつもの大小の部屋があり、どこかの部屋に自分が入れられたそうです。その先の話は忘れましたが、とにかく、死んだのち振り分けられるようです。

使徒パウロがパラダイスに引き上げられたという証を第三者のような口調で述べています。Ⅱコリント12:2,4「私はキリストにある一人の人を知っています。この人は十四年前に、第三の天にまで引き上げられました。肉体のままであったのか、私は知りません。肉体を離れてであったのか、それも知りません。神がご存じです。…彼はパラダイスに引き上げられて、言い表すこともできない、人間が語ることを許されていないことばを聞きました。」パウロはおそらく、イエス・キリストと会ったのでしょう?そして、すばらしい啓示をいただいたに違いありません。彼はそのことで、福音書に書いていない奥義を、書簡に書いています。これまでも、多くの人たちがパラダイスに上って主とお会いしたとか、死んだ人と再会したというお話を聞きます。多くの場合、そういう人は肉体から魂だけが離れて、天国にしばらくいるようです。肉体は心臓だけが動いていますが、まるで死んでいるように動きません。嘘か本当かわかりませんが、そういう証は数えきれないほどあります。使徒パウロはそこがあまりにもすばらしかったので、すぐにでも行きたいと願っています。ピリピ1:21-24「私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。しかし、肉体において生きることが続くなら、私の働きが実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいか、私には分かりません。私は、その二つのことの間で板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。そのほうが、はるかに望ましいのです。しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためにはもっと必要です。」パウロはその時、ローマの獄中に捕らえられており、いつ殺されるかどうかわからない状態でした。パウロの本当の願いは何でしょう?世を去ってキリストとともにいることです。その方がはるかに望ましい。つまり、私は死んでも構わない、イエス様がおられるパラダイスの方が良いと願っているのです。でも、肉体にとどまる、つまりこのまま生きている方が、ピリピの人たちにはもっと必要かもしれないということです。その方が働きの実を結ぶということなのでしょう。パウロは「私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です」と言っています。簡単に言うと、生きても、死んでもどちらでも構わないということです。私たちにとって、生とは、死とはどういうものでしょう?日本語の「使命」は「命を使う」と書きます。おそらく、まだこの地上に使命が残されていれば生きる理由があるということです。使命が尽きるときが、命が尽きるときであるなら本望です。クリスチャンは一度、キリストと共に死んだ存在です。この体はキリスト共によみがえった新しい存在です。そして、私たちの命は、私たちのものであって、私たちのものではありません。神さまからしばし、預かったものです。この命を神さまにお返しする時が死です。

3.私たちの死生観

すでに聖書から死生観を学びましたので、解決済みかもしれません。最後のポイントでは、それらを踏まえて、現実の生活においてどのように適用して行ったら良いか考えたいと思います。私たちは血肉を持った存在であり、この地上で、食べて飲んで、呼吸して生きています。死ぬということは、医学的には呼吸が止まり、心臓が止まり、生命反応がなくなることです。本当に死んだかどうか判断するのは医者であり、私たちではありません。ですから、たとえその人が死んでいても、後から「死亡が確認されました」ということがあります。私たちはこのような物質の世界で生きていると、どうしても生物学的にしか、死のことを考えられなくなるということです。そうすると、この世の人たちと同じように、「死んだら何もなくなる、宗教は精神的なものに過ぎない」という唯物論に巻き込まれてしまいます。信仰は気持ちでも、精神論でもありません。私たちはこの地上で生きていながら、ちゃんとした聖書の考えと価値観の中で生きる必要があります。パウロはⅡコリント4章で「私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです」と言っています。このところで、見えるものというのは、肉体のことであり、見えないものとは霊の入った魂です。私たち自身は肉体という入れ物の中に、何十年間かとどまっている存在です。パウロは私たちの肉体を「外なる人」と呼んでいます。外なる人は地上の住まいのことであり、幕屋(テント)になぞらえています。幕屋は動物の皮とか布でできており、年数がたつと朽ちてボロボロになります。しかし、パウロは永遠の住まいがあると言っています。それは栄光のからだであり、キリストが復活した死なないからだです。死ぬというのは、この幕屋を脱いで、あちらの永遠の住まいに移り住むということです。パウロは「天からの与えられる住まいを着たい」と切望しています。

もう一度確認したいと思いますが、肉体は魂の入れ物だということです。言い換えると私たちの本体は魂であり、肉体そのものではないということです。でも、地上においては肉体が必要です。この肉体があってはじめて物質的な世界と交渉しながら色んな作業ができるからです。魂だけだと、パソコンを打つことも、人と話すことも、ジョギングさえもできません。この地上における健康な肉体は神さまの賜物としか言えません。でも、この肉体は車のように年数がたつと、どこか壊れたり、最後には動かなくなります。神さまは大体、70年か80年、健康寿命を与えていますから、不摂生しないでちゃんと管理する必要があります。でも、最後にはこの朽ちていく肉体とお別れして、朽ちない天の体を手に入れる必要があります。なぜなら、人は魂だけでは生きていけないからです。パウロも「裸の状態でいることはありません」(Ⅱコリント5:3)と言っています。おそらく、パラダイスにおいては体がないので、魂だけの、裸の状態なのかもしれません。ちゃんとした栄光のからだが与えられるのはキリストが再臨して、肉体が復活してからのことでしょう。そのとき、魂が栄光のからだを着るのです。そして、千年王国と、新天新地で永遠に暮らすことができるのです。残念ながら、この肉体では永遠に暮らすことはできません。

さて、このように私たちの死生観がはっきりしたので、後は、この地上を去るための準備が必要です。世の人たちはそのことを「終活」などと言うかもしれません。彼らの場合は、お墓とか遺言状、葬儀のことを言うのでしょう。遺品整理もだれかがしなくてはなりません。あんまり、迷惑をかけないように生きているうちに整理をしておく必要があるでしょう。こう言っている私自身がダメな存在です。家内から「着ない服は捨てなさい」と良く言われます。物置にも不要なものがあり、牧師室にはたくさんの本やファイルがあります。パソコンの中にもたくさんのデーターが詰まっており、私が死んだらだれも取り出せないかもしれません。ヒゼキヤがかつて、預言者イザヤから「あなたは家を整理せよ。あなたは死ぬ」と言われました。彼は、泣いて神さまにお願いしてあと15年生きながらえることができました。しかし、その15年は、本当は不必要なものでした。バビロンから来た使者に宝物蔵を見せてしまいました。最もひどいマナセ王を生んでしまいました。ですから、主が「地上を去る時が来ましたよ」と言われるときが最善な時なのかもしれません。多くの場合、お声がはっきり聞こえることはありません。でも、なんとなくは分かりますので、いつお迎えが来ても良いように整理しておく必要はあります。

三浦綾子さんはたくさんの病気と闘って、主のみもとに召された方です。彼女は「最後に、死ぬという仕事が私に残されている」と言いました。名言だと思います。ジョンバニヤン著『天路歴程』に、キリスト者が天国に行く前のことが書かれています。さて、私がなおも見ていると、彼らと門との間には川があったが、それを渡る橋もなく、その川は非常に深かった。巡礼者たちはこの川を見て肝をつぶしたが、同行の人たちは言った、中に入って渡らなくてはなりません、さもないと門には着きません。キリスト者が水に入って「ああ、友よ、死の悲しみが私を囲んだ」と叫び、ひどく気を取り乱しました。すると、有望者は元気を出しなさいと励ましてくれました。そして、「あなたが水の中を過ぎるとき、私はあなたと共におる。川の中を過ぎるときも、水はあなたの上にあふれることがない」と語ってくれました。こうして二人は渡り終えましたが、彼らは死の衣を川の中において来た。入るときは着ていたが出てくるときは脱いでいた。都の築かれてある基礎は雲よりも高かったか、身軽に足早に登って行った。…と書いてあります。つまり、死の川浪を渡るときは、結構大変だということです。しかし、有望者であるキリストの御霊が最後まで共にいてくださり、共に渡ってくださるということです。イエス様がマタイ28章で「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」とおっしゃったとおりです。

死が臨むとき、目の前の人に何か言いたくても、言葉が出ないかもしれません。人々の言うことは聞こえるのですが、こっちからは何も言えない歯がゆさがあるでしょう。でも、大丈夫です。イエス様が共にいて、イエス様が私の叫びを聞いてくださいます。ですから、周りの人も良いけれど、イエス様と一緒に死の川を渡り終えることができます。私がイエス様を信じていなかったら「ちくしょう」「ちくしょう」と叫んでいたでしょう。でも、イエス様を信じた私は「ありがたいな、ありがたいな」と感謝しながら逝くことでしょう。皆さんは備えができているでしょうか?