2024.5.19「公の礼拝 詩篇100:1-5」

 礼拝は大きく分けて、個人が捧げるものと、共同体によって捧げるものと二種類あります。この聖日礼拝は後者の礼拝であり、しかも公の礼拝ということになります。きょうは、このような公の礼拝でなされるいくつかのプログラムを取り上げ、聖書的にはどのような意義があるのか学びたいと思います。

1.聖日礼拝

 教会では一般的に日曜日に行われる礼拝を「聖日礼拝」として特別視しています。なぜ、日曜日、私たちはこのように集まって礼拝をささげるのでしょうか?旧約聖書では安息日は土曜日でありました。そのため、ユダヤ教は土曜日に礼拝をささげています。私たち教会は、日曜日に礼拝をささげていますが、聖書に「そうしなさい」と命じている箇所はありません。ただし、イエス・キリストがよみがえられた日が、日曜日の朝でありました。次の週、弟子たちが集まっているとき、再びイエス様が現れ、トマスがイエス様を礼拝しました。習慣的に初代教会は週の初めである、日曜日に集まっていたようです。使徒20:7「週の初めの日に、私たちはパンを裂くために集まった。パウロは翌日に出発することにしていたので、人々と語り合い、夜中まで語り続けた。」Ⅰコリント16:2「私がそちらに行ってから献金を集めることがないように、あなたがたはそれぞれ、いつも週の初めの日に、収入に応じて、いくらかでも手もとに蓄えておきなさい。」キリスト教会はかつての土曜日の安息日を、キリストが復活した日曜日へと移行したのではないかと思います。しかし、日曜礼拝を制度化したのが、ローマ帝国のコンスタンティヌス帝からです。そのことがローマ・カトリック教会、プロテスタント教会へと受け継がれています。伝統的には、イエス・キリストが日曜日に復活したので、日曜日に公の礼拝、聖日礼拝にしてきたのです。セブンスディ・アドベンティスト教会は、安息日である土曜日に礼拝をささげるのが聖書的であると主張しています。私は十戒の安息日はイスラエルに対しての律法であり、キリスト教会はそうではないと考えます。ペンテコステに誕生したばかりの教会は、毎日、宮と家々に集まり主を礼拝していました(使徒2:46,47)。理想的には毎日、365日礼拝が良いのです。

 では、どうして一人ではなく、このように大勢集まる必要があるのでしょう。これは、イスラエルの民が集団で神さまの前に出て礼拝をささげたからです。新約聖書で教会をエクレーシアと言いますが、「神さまを中心とした集まり」という意味です。現在、神殿は存在していません。私たちが神殿、生ける宮です。Ⅰコリント3:16「あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。」これは個人が神の神殿という意味と、ともに集まる私たちが神殿であるという2つの意味があります。つまり、このように聖徒たちが集まるただ中に、主がおられるということです。マタイ18:20「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」教会は建物ではありません。私たちこそが教会であり、いつどこででも、共に集まり礼拝をささげることができるのです。

2.聖日礼拝のプログラム

 聖日礼拝で行われる1つ1つのプログラムの意義について説明したいと思います。聖書に、「聖日礼拝をこのように守りなさい」という一定の規則はありません。神学には「礼典論」というものがありますが、細かく追及したならキリがありません。大きく分けると、儀式的(リタージカル)な礼拝と、形式にとらわれない自由な礼拝があります。それぞれの教会が、「これが聖書的、これが正統的である」と主張していますので、統一的なものはありません。ローマ・カトリックや聖公会、ルター派の教会は儀式的です。一方、ペテンテコステ系の教会はきちんとした礼拝プログラムはありません。当亀有教会は、その真ん中に位置しています。2002年頃から、「祭典的な礼拝」に切り替えました。それまでは、日本キリスト教団の式次第にのっとっていましたが、10以上の項目がありました。司会者が前で導き、会衆は立ったり座ったりするので、霊的な流れがプッツン、プッツンと切れる感じがしました。現在は、ワーシップリーダーが前に立って礼拝を進めており、かなりシンプルになっています。詩篇には「手を打ちならせ」とか「声を上げよ」「踊れ」という箇所があります。アフリカの教会はまさしくそのようにしています。しかし、当教会は公の礼拝ということで、割と秩序ある礼拝を行なっています。それでは、礼拝で行われる1つ1つの項目を見て行きたいと思います。

①賛美

 詩篇100 :2-4「喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。知れ。主こそ神。主が私たちを造られた。私たちは主のもの主の民その牧場の羊。感謝しつつ主の門に賛美しつつその大庭に入れ。主に感謝し御名をほめたたえよ。」このところには、礼拝への招きが記されています。つまり、神さまが私たちを招いておられるということです。「喜びをもって主に仕えよ」と書かれていますが、英語の聖書はserveです。礼拝をworship serviceというのはそのためです。ある日曜日、ホテルで一人のアメリカ人が「morning serviceはどこにありますか?」と受付に聞いたそうです。受付の人は「あちらです」とレストランを指さしたそうです。彼は朝の礼拝の場所を尋ねたのですが、受付はパンとコーヒーのモーニングサービスだと勘違いしたのです。つまり、礼拝は神さまに仕える行為、サービスであるということです。しかも、王なる神さまが私たちを招いているのですから、遅刻するのは失礼です。ある司会者が、集まりがまばらなので、「賛美でもして待ちましょうか?」と言ったそうです。とんでもありません。賛美こそが礼拝なのです。ある人は、説教が始まる直前に会堂に入って来て、「ああ、礼拝に間に合った」と言いますが、それは間違いです。でも、何故、賛美がそれほど重要なのでしょう?旧約は、神さまの前に近づくときは動物の生贄を携えてきました。レビ記には5種類の犠牲が記されています。しかし、キリストがすべての犠牲を成就したので、私たちはキリストの血潮を通して、御前に近づくことが可能になりました。新約の私たちが捧げるのは、さんびの生贄です。ヘブル12:28「感謝しつつ、敬虔と恐れをもって、神に喜ばれる礼拝をささげようではありませんか。」ヘブル13:15「それなら、私たちはイエスを通して、賛美のいけにえ、御名をたたえる唇の果実を、絶えず神にささげようではありませんか。」アーメン。

 賛美がイコール、賛美を歌うことではありません。音楽なしでも可能ですが、詩篇150篇ではあらゆる楽器で神さまを賛美するように命じられています。問題はどのような曲を歌うかであります。伝統的な教会は讃美歌か聖歌です。しかし、最近はワーシップ・ソングやプレイズなど、コンテンポラリーなものを賛美するようになりました。当教会は2002年頃、急に後者に変えました。すると、賛美が始まったとたん退席する人がいました。実は、教会がどのような賛美を歌うかで、集まってくる会衆を決定してしまうという法則があるようです。1998年、サドルバック教会牧師のリック・ウォレンが書いた本が『健康な教会へのかぎ』として翻訳出版されました。ところが、原書の14-16章が割愛されていました。なぜかと言うと、そこにリック・ウォレン師独自の、礼拝形式と音楽と説教が述べられていたからです。15章の「音楽を吟味する」という項を少し引用したいと思います。「音楽はしばしば、説教にできない方法で人の心に触れることができる。理性の壁を通り抜け、直接、心にメッセージを届ける。音楽は有効な伝道の道具である。…サドルバック教会の開拓時の私は、音楽の力を過小評価していただけではなく、あらゆる人の趣向に合わせようとして失敗した。時には、ひとつの集会で『バッハからロックまで』をカバーしたこともある。伝統的な聖歌と讃美歌と現代的クリスチャン音楽とを交互に賛美した。…その結果、満足する人はひとりもなく、かえってすべての人を欲求不満にしてしまった。繰り返すようだが、すべての人の音楽趣向や好みを満足させるのは不可能である。…教会がまずすべきことは、だれに福音を伝えようとしているのかを決めて、その人たちが好む音楽を見分け、その音楽を用いることである。教会員のすべてが納得できる音楽スタイルをひとつだけ捜し出そうとしても、それは時間の無駄である。」

 リック・ウォレン師の礼拝形式と音楽と説教の特徴は、教会が目指す求道者に合わせるということです。彼はサドルバック教会がどのような人たちを伝道のターゲットにするのか、そのことに合わせたということです。簡単に言うと、「今来られている教会員は、伝道のために少しがまんしなさい」ということです。私も彼の本に倣って、若い人が救われるように、2002年頃、礼拝形式と音楽を変えました。「なし崩し的」かもしれませんが、今日に至っています。今、目を上げて会衆を見回してみると、私が赴任した頃とはかなり入れ変わっています。多くの兄姉が天にお帰りになったせいもあります。あの当時は「新しいぶどう酒は、新しい皮袋に」と意気込んでいましたが、私自身が古い皮袋になったことは否めません。私はゴスペル・クワイヤーのメンバーでありますが、やっぱり1960年代の歌が好きです。Why does the sun go on shining, why does the sea rush to shore.でも、詩篇には「新しい歌を主に歌え」と言われています。これは主によって贖われ、主によって新しくされた者へのチャレンジであり、特権です。そのために、私たちは主の前に、賛美のいけにえ、御名をたたえる唇の果実をささげるのです。

②説教

 ローマ・カトリック教会のミサの中心は、聖体をいただくという聖餐式です。聖公会もそうですが、サクラメントの方に力を入れて、聖書からの説教は10数分間だと思います。一方、プロテスタント教会はこの説教をとても重要視するところがあります。そこには2つの理由があります。1つはユダヤ教のシナゴーグで行われるみことばを中心とした礼拝です。南ユダ王国はバビロンによって滅ぼされ、多くの人たちは捕囚となりました。彼らは神殿での礼拝ができなくなったので、会堂(シナゴーグ)で礼拝を行ないました。アブラハムがソドム・ゴモラをとりなすとき「10人の義人がいたら滅ぼさないでください」と願いました。ですから、ユダヤ人は男性10人が集まれば礼拝をささげられるという制度を設けました。その際、聖書の巻物をだれかが読み、だれかが説教するというような礼拝でした。これをプロテスタント教会が受け継いだと思われます。第二は宗教改革者ジョン・カルヴァンの神学的な影響です。彼はローマ・カトリック教会で行われていたミサをことごとく否定しました。教会からパイプオルガンも聖歌隊すらも排除しました。一方、ルターは自らも楽器を弾き、酒場で歌われている曲に、聖書的な歌詞をつけて賛美しました。プロテスタント教会での礼拝形は教派によって異なりますが、説教を重要視するところは共通しています。ヘブル書に書いてありますように、イエス様がすべての贖いを全うされたので、犠牲をささげる神殿での礼拝はなくなりました。その代り、私たち自身をささげ、私たちが主のみこころを行なうという礼拝になったのです。

 イスラエルの歴史を見ますと分かりますが、神殿で生贄をささげても、彼らの心が全く変えられておらず、悪を行なっていました。小預言書のアモス書にはこのようなみことばがあります。アモス5:21-22-27「わたしはあなたがたの祭りを憎み、退ける。あなたがたのきよめの集会のときの香りも、わたしはかぎたくない。たとえ、あなたがたが、全焼のささげ物や穀物のささげ物をわたしに献げても、わたしはこれらを受け入れない。肥えた家畜の交わりのいけにえを献げても、わたしは目を留めない。あなたがたの歌の騒ぎを、わたしから遠ざけよ。あなたがたの琴の音を、わたしは聞きたくない。公正を水のように、義を、絶えず流れる谷川のように、流れさせよ。」おどろくべきことが記されています。宗教的な儀式よりも、「公正と義を行なえ」と命じています。そういう影響もあって、プロテスタント教会の説教は預言者的な面があります。私たちの生活をもって神さまを礼拝すべきであると考え、聖書から教えるところがあります。しかし、それだけでは律法的になりますので、キリストがなされた贖いを土台として、恵みを語るようにしています。ですから、説教は聖書から教えることと、キリストの福音を宣言することの2つが主になっています。新正統主義は「聖書は書かれた神のことばであり、説教は語られた神のことばである」と言いますが、私はそこまで説教を高めていません。私は、説教は神のことばである聖書を説き明かすことであり、会衆がキリストを仰いで生活するように励ますことであると考えています。説教をしている人も、聴いている人も神を礼拝しているのです。

③祈り

 祈りは個人が捧げる祈りと会衆の代表として捧げる祈りがあります。まず、私たちは礼拝の初めに祈ります。私は神さまの前に近づいているのですから、詩篇100篇にあるように、感謝と賛美を捧げる時間であるべきです。先週一週間、守っていただいたことを感謝します。キリストによる贖いによって罪赦されていること感謝します。このように健康が守られ、礼拝に来られたことを感謝します。あるいは先週、犯した罪を悔い改める祈りもあるかもしれません。でも、礼拝の初めの祈りは、求める祈りや願う祈りをする時間ではありません。なぜなら、本来、感謝と賛美を捧げるのが礼拝なのに、私たちの求めや願いが最初に来るのは神さまに失礼だからです。願いや求めをしてはいけないと言っているわけではありません。ピリピ4:6「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」このみことばに、はっきりと「感謝をもってささげる祈りと願い」とありますので、神さまに近づくためには感謝の祈りが最初に来るべきなのです。また、礼拝説教の応答の祈りがあります。これは、個人の祈りなので、何を祈っても大丈夫です。でも、あまり大声で祈ると隣の人に聞こえるので恥ずかしいかもしれません。説教の中で、いつくか示されたことがあると思います。その時、重要なことがあります。「たい」ではなく、「ます」と祈るべきです。魚はマスよりもタイが高級ですが、祈りはその逆です。たとえば、「信じたい」ではなく「信じます」です。「従えるように助けてください」ではなく、「従いますので助けてください」です。「赦したい」ではなく、「赦します」と神さまの前に告白するのです。そうすると、イエス様は「あなたの信仰どおりになるように」と奇跡を起こしてくださいます。奇跡を期待して良いのです。

 また、公の祈りがあります。牧師の祈り、ワーシップリーダーや献金の祈りも公の祈りに入ります。当教会では献金の祈りをだれかが行うようになっています。大和カルバリーは、セレモニー的になっていますので、信徒の祈りを割愛しています。当教会では個人のありのままの思いや願いを述べる傾向があります。「とても正直だなー」と感動します。純粋であり、悪いとは言いません。でも、公の祈りですので、できるだけ平らにすべきです。代表としての祈りなので「私たち」が主語になるからです。「立て板に水」の心のこもっていない祈りもどうかと思いますが、あまりにも個人的な祈りは、どうぞお家で、隠れたところでなさってください。でも、偽善的な祈りよりも、心の中から湧き上がる素直な祈りが良いことをお忘れなく。ルカ18章にパリサイ人と取税人の祈りが記されています。パリサイ人は「私は週に二度断食し、十分の一を献げております」と、自分のことを自慢しています。一方、取税人はこうべを垂れて、自分の胸をたたいて「罪人の私をあわれんでください」と祈っています。イエス様は神さまに義と認められたのはパリサイ人ではなく、取税人であるとおっしゃいました。イエス様は私たちの心の内側を知っておられます。私たちは普段からイエス様と裸の付き合いをして良いのです。でも、公の礼拝時は、イエス様を高く上げ、神さまとしてあがめたいと思います。

④献金

 公の礼拝で捧げられる献金があります。私たちは慣例として、献金袋を回して集めたり、また月定献金袋で収めたりします。しかし、教会によっては、入口に箱があって、そこに自由に献げるシステムになっています。つまり、だれがどれだけ献げたかは神のみぞ知るということです。本来はそのようにすべきなのですが、人間は自己管理の難しいところがあります。また、教会の予算を立てるために、どうしても今のようなシステムになってしまいました。そこで問題になるのが、「献金はだれに、何のために献げるか?」であります。旧約聖書を見ますと、神さまの前に出るときは、手ぶらでということはなく、必ず動物か採れた穀物などを携えてきました。また、マラキ3章には「十分の一をことごとく、携えて来て、私の家の食物とせよ。あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうか、私を試して見よ」と記されています。新約聖書ではどうなのかということが問われます。マタイ福音書で、イエス様は「十分の一もおろそかにしてはいけない」(マタイ23:23)と言われ、そのことを肯定しています。

献金において重要なことは、献金は会費ではないということです。献金は神さまへの感謝と献身のしるしです。本来は私たち自身を献げるべきなのですが、私たちの労働の実を神さまに献げているのです。厳密に言うと、教会や神さまの働きのために捧げるのではありません。もしそうであれば、それは献金ではなく募金になってしまいます。屁理屈に聞こえるかもしれませんが、私たちが感謝のしるしとして神さまに献げた献金を、神さまが教会の働きのために使うように教会に戻してくださるのです。繰り返しますが、献金は教会の維持費や働きのためにではなく、ただただ神さまへの感謝として献げるのです。献金の使い方は神さまにお任せすべきなのですが、教会では公正を図るために会計報告を出しています。『教会の処方箋』という本で辻宣道師は、「概して信仰のある人はよく献金します。これを聞いて怒り出す人がいますが、平気です。献金は信仰のバロメーターです。たとえ額は少なくても、その人にとって精一杯の献げものがされるなら、その信仰は澄んで正常です」と言っています。私は洗礼を受けた日に、二種類の献金袋を渡されて躓きました。月定献金と会堂献金でした。洗礼準備会で聞いていなかったので、「なあんだ、教会もこの世と同じか!」と躓いたわけです。でも、私を導いてくれた先輩があとから説明してくれました。建設業で働いていた時は、遊んでいたので、毎月2万円前借をしていました。しかし、クリスチャンになってから、心が満たされたので無駄使いしなくなりました。

⑤祝祷

 祝祷は三位一体の神さまからの祝福です。神さまは手ぶらで帰しません。必ず礼拝に来られた一人一人を祝福します。また、礼拝が終わって家に帰るのではありません。聖霊と信仰に満たされ、神さまから派遣されるのです。家に帰るのではなく、あの弟子たちのように使命を帯びて、家や職場や地域社会に派遣されるのです。「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。…見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」