2024.3.17「御国の完成 ヨハネ21:1-4」

2019年8月3回の礼拝で、「御国における報い」、「最後の審判」、「新天新地」について既にお話ししました。きょうはそれらを1回のメッセージでまとめたいと思います。なぜなら、聖書的な説教の最後、そして、黙示録の最後のメッセージとしてどうしても必要だと思ったからです。これまで「聖書的説教」として、マタイによる福音書から始めましたが、今日の分が62回目の最後です。4月からは、主題説教を再び始めたいと思います。

1.千年王国

黙示録20:1-4「また私は、御使いが底知れぬ所の鍵と大きな鎖を手にして、天から下って来るのを見た。彼は、竜、すなわち、悪魔でありサタンである古い蛇を捕らえて、これを千年の間縛り、千年が終わるまで、これ以上諸国の民を惑わすことのないように、底知れぬ所に投げ込んで鍵をかけ、その上に封印をした。その後、竜はしばらくの間、解き放たれることになる。また私は多くの座を見た。それらの上に座っている者たちがいて、彼らにはさばきを行う権威が与えられた。また私は、イエスの証しと神のことばのゆえに首をはねられた人々のたましいを見た。彼らは獣もその像も拝まず、額にも手にも獣の刻印を受けていなかった。彼らは生き返って、キリストとともに千年の間、王として治めた。」千年王国は象徴的なものであるとか、過去のものであるという聖書学者がいます。確かに「千年王国」という名称はこの黙示録20章しか出て来ません。しかし、私は3つの点で、必ず成就しなければならない出来事であると信じます。

第一は千年王国は御国のことであり、ユダヤ人が待ち望んでいたものと同一のものと考えるからです。使徒1:6,7「そこで使徒たちは、一緒に集まったとき、イエスに尋ねた。『主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。』イエスは彼らに言われた。「いつとか、どんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません。それは、父がご自分の権威をもって定めておられることです。」イエス様は死からよみがえられた後、40日の間、弟子たちの間に現れました。イエス様が聖霊を待ち望むように言ったとき、弟子たちが「主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか」と尋ねました。イエス様はそのことを否定せず、「いつとか、どんな時とかいうことは父が定めておられることです」と言われました。イスラエルの国を再興(回復」するということが、弟子たちの悲願であり、そのためにイエス様に従って来たのです。福音書に青年役員が財産を惜しんで、悲しみながら去って行った記事があります。その時、ペテロが「何もかも捨ててあなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか」と尋ねました。マタイ19:28「そこでイエスは彼らに言われた。『まことに、あなたがたに言います。人の子がその栄光の座に着くとき、その新しい世界で、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族を治めます。』」イエス様はペテロに「報いを求めるなんて、意地汚いぞ」とは言いませんでした。「新しい世界」とは、御国であり、千年王国であると考えられます。イザヤ書には千年王国とイスラエルの回復のことがたくさん預言されています。イザヤ2:3「多くの民族が来て言う。『さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を私たちに教えてくださる。私たちはその道筋を進もう。』それは、シオンからみおしえが、エルサレムから主のことばが出るからだ。」また、エゼキエル40章から48章までは、イスラエルの相続地と神殿のことが詳しく書かれています。

 第二は千年王国は自然界が回復するときです。イザヤ11:6-9「狼は子羊とともに宿り、豹は子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜がともにいて、小さな子どもがこれを追って行く。

雌牛と熊は草をはみ、その子たちはともに伏し、獅子も牛のように藁を食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子は、まむしの巣に手を伸ばす。わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、滅ぼさない。主を知ることが、海をおおう水のように地に満ちるからである。」また、生まれつき障害をもって生まれた人たちも回復すると書かれています。イザヤ35:5-6「そのとき、目の見えない者の目は開かれ、耳の聞こえない者の耳は開けられる。そのとき、足の萎えた者は鹿のように飛び跳ね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水が湧き出し、荒れ地に川が流れるからだ。」弱肉強食、病気や不自由さがあるのは神さまの計画ではありませんでした。これはアダムが罪を犯したために自然のしくみが壊されたからです。パウロはこう述べています。ローマ8:19-22「被造物は切実な思いで、神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいます。被造物が虚無に服したのは、自分の意志からではなく、服従させた方によるものなので、彼らには望みがあるのです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。」

 第三は千年王国において報いがなされます。ルカ19章にはミナのたとえが記されています。王が戻ってきたとき、それぞれのしもべたちに報いを与えています。一ミナで十ミナをもうけた人には、「十の町を支配する者になりなさい」と言われました。一ミナで五ミナをもうけた人には、「五つの町を支配する者になりなさい」と言われました。また、マタイ25章にはタラントのたとえが記されておりミナのたとえとよく似ています。しかし、一タラントを地の中に隠しておいたしもべには、一タラントを取り上げただけではなくこう言われました。「この役に立たないしもべは外の暗闇に追い出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ」(マタイ25:30)。私はこのしもべは、地獄に行ったとは思いません。御国においての報いが全くなかったと考えるべきです。同じマタイ25章に出てくる、予備の油を用意していなかった5人の娘のことはどうでしょう?「その後で残りの娘たちも来て、『ご主人様、ご主人様、開けてください』と言った。しかし、主人は答えた。『まことに、あなたがたに言います。私はあなたがたを知りません。』」(マタイ25:11,12)。彼女らが天国から締め出され地獄に行ったということではありません。御国において報いがないということです。しかし、この5人の娘も、さきの1タラント預けられていたしもべも、キリストを信じているなら新天新地には入ることができるでしょう。なぜなら、新天新地は行いではなく、信仰という恵みで入ることができるからです。聖書には命の冠、くちない冠、義の冠等が記されていますが、これらも千年王国で与えられる報いと考えらえます。このように、千年王国は平等ではなく、それぞれの報いによって異なるということを理解すべきだと思います。パウロは「キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです」((ピリピ3:14)と言いました。

 

2.最後の審判

 黙示録20章には千年王国ののち、サタンが解き放たれ、ゴグとマゴグの戦いがあると書かれています。千年王国でも人間の罪がきよめられていないのかと寂しく思います。黙示録20:10「彼らを惑わした悪魔は火と硫黄の池に投げ込まれた。そこには獣も偽預言者もいる。彼らは昼も夜も、世々限りなく苦しみを受ける。」これでやっと悪がなくなります。なぜなら、神に敵対するサタン(悪魔)が硫黄の池に投げ込まれたからです。本来、地獄は彼らのために備えられたものです。しかし、最後の審判で裁かれ、地獄に行く者たちがいることが分かります。黙示録20:11-15「また私は、大きな白い御座と、そこに着いておられる方を見た。地と天はその御前から逃げ去り、跡形もなくなった。また私は、死んだ人々が大きい者も小さい者も御座の前に立っているのを見た。数々の書物が開かれた。書物がもう一つ開かれたが、それはいのちの書であった。死んだ者たちは、これらの書物に書かれていることにしたがい、自分の行いに応じてさばかれた。海はその中にいる死者を出した。死とよみも、その中にいる死者を出した。彼らはそれぞれ自分の行いに応じてさばかれた。それから、死とよみは火の池に投げ込まれた。これが、すなわち火の池が、第二の死である。いのちの書に記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた。」このところからわかることがいくつかあります。まず、復活について考えたいと思います。イエス様もヨハネ5章でこのように言われました。ヨハネ5:28,29「このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。」復活には2つあります。「第一の復活」は、患難期にキリストの再臨されるときに起ります。パウロは「キリストにある死者がよみがえる」(Ⅰテサロニケ4:16)と言っています。彼らは御国である千年王国に住みます。「第二の復活」は千年王国の後に起ります。

 第二の復活の後に裁きがあります。これは大きな白い御座のさばきと言われています。そのとき、いくつかの書物が開かれますが、その中に行いの書があるはずです。つまり、キリストの贖いを受けていない人たちは、自分の行いによってさばかれるのです。キリストを信じている人たちは「いのちの書」に名前が記されているので、そのさばきを受ける必要がありません。大きな白い御座のさばきとは、いのちの書に名前が記されていない人が、神の前に立つのです。その時、行ないの書が開かれ、その人は1つ1つ申し開きをしなければなりません。自分の義によって、立たなければならないので、大変だと思います。人間でもパソコンにたくさんのデーターを保存することができます。文字だけではなく、画像も保存できます。その人が「記憶にございません」と言うなら、御使いがそのときのシーンをバーッと映し出すかもしれません。すべてのことが白日にさらされ、言い逃れができません。私はどのくらいの規準でさばかれるのか分かりません。中には「こういう決まりあるとは、知らなかった」と言うかもしれません。法律が制定された後、人がその法律を知らないで破ったとして罰せられないでしょうか?私も車で何度も切符を切られたことがありますが、「知りませんでした」で許してもらったことがありません。

 さばかれた人たちはどうなるのでしょうか?黙示録20:13-15「海はその中にいる死者を出した。死とよみも、その中にいる死者を出した。彼らはそれぞれ自分の行いに応じてさばかれた。

それから、死とよみは火の池に投げ込まれた。これが、すなわち火の池が、第二の死である。いのちの書に記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた。」ある人たちは、「愛なる神さまは地獄を造らない、全ての人を救って下さるに違いない」と言います。しかし、ここに明確に「火の池」があると書かれています。イエス様も福音書で「もし、あなたの目があなたをつまずかせるなら、それをえぐり出しなさい。両目がそろっていてゲヘナに投げ込まれるより、片目で神の国に入るほうがよいのです。ゲヘナでは、彼らを食らううじ虫が尽きることがなく、火も消えることがありません。」(マルコ47,48)と言われました。「ゲヘナ」は、もともと「ベン・ヘノムの谷」と呼ばれ、幼児犠牲の儀式が行われたところです。その後、ここは町の廃棄物、動物および罪人の死体焼却場にあてられました。こうしたところから自然にゲヘナは地獄の同義語として使われるようになりました。私たちキリストを信じて、何から救われたのでしょうか?救いにはいろんな内容があると思いますが、「永遠の滅びから救われた」ということではないでしょうか?ヨハネ3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」とあります。永遠のいのちを持つことも救いですが、滅びることがないということも救いであると思います。私は「万人救済論」全ての人が救われるとは信じません。パウロはローマ5章で、「一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入った」と言いました。つまり、アダムにあって全ての人が罪に定められているので、さばかれて永遠の死を受けても文句を言えないのです。ところが、イエス・キリストの恵みによって、いのちという賜物が与えられるようになったのです。これは、キリストを信じた人にだけに与えられる特権です。すべての人が罪を犯して滅びに行く運命だったのに、キリストによって義と認められ、いのちを与えられるようになったのです。これは例外中の例外です。死刑宣告を受けていた人は、いつ刑が執行されるのかビクビクして、生きたここちがしないでしょう。ところが、突然、恩赦によって無罪放免になったらどうでしょう?私たちがキリストにあって無罪放免になった元死刑囚なのです。これほどの喜びが他にあるでしょうか?

 

3.新天新地

 ヨハネ黙示録21:1,2「また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。」御国の究極的な完成形は「新天新地」と言えるでしょう。このことは、ヨハネ黙示録だけではなく、イザヤ書でも預言されていました。イザヤ65:17,18「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。先のことは思い出されず、心に上ることもない。だから、わたしが創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。」また、Ⅱペテロ3章にも記されています。「その日の到来によって、天は燃え崩れ、天の万象は焼け溶けてしまいます。しかし私たちは、神の約束にしたがって、義の宿る新しい天と新しい地を待ち望んでいます(Ⅱペテロ3:12,13)。これらのことから言えることは、現在、私たちが見ている太陽や月、この地球とは別な、新しい天体あるいは惑星で住むことが予想されます。黙示録21:23「都は、これを照らす太陽も月も必要としない。神の栄光が都を照らし、子羊が都の明かりだからである。」なんと、都には夜がないのです(黙示録22:5)。天文学者たちも、太陽に寿命があり、最後には爆発すると言っています。その前に地球は灼熱地獄になり、生命の住めない星になるということです。でも、それは何十億年も先の事なので、現在の私たちには関係ないと言われています。でも、聖書を読むと、科学者たちが言うよりも、もっと早く終わりが来るのではないかと思います。

 それはともかく、黙示録21章と22章には新天新地のことが書かれていますが、まず、聖なる都(新しいエルサレム)ことが記されています。これは、出エジプト記25章からの幕屋の作成と似ています。主は、幕屋を作る前に、まず神の箱を造らせています。聖なる都は立方体です。一辺が1万2000スタディオンとありますが、2,220㎞です。大体、北海道の宗谷岬から鹿児島の佐多岬までに相当する距離です。幕屋と神殿の至聖所も立方体でした。都の城壁の土台には高価な宝石が用いられています。城壁の高さは約50mです。そして、都の大通りは透き通った純金でできています。私は土木建設に5年程携わったことがありますが、建物の土台とか道路には、砂利や強度の低いコンクリート、そしてアスファルトという安価なものを使います。ところが、この箇所を読むと、神さまはなんて豊かで金持ちなんだろうと思います。都には神殿がありません。全能の神である主と子羊が、都の神殿である(黙示録21:22)と書かれています。都の大通りの中央をいのちの水の川がながれています。これはエゼキエル書47章よりもヴァージョン・アップされています。12の実をならせるいのちの木があり、毎月1つの実を結ぶとあります。つまり、毎月、違った種類の実を食べることができるということです。

 新しい天と新しい地にないものが上げられています。ヨハネ黙示録21:4 「神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」アーメン。「以前のもの」とは、英語の詳訳聖書でformer orderとなっていますので「以前の秩序」と言う意味です。つまり、この世にあるものが、新天新地においてはないということです。私たちは現在この世に住んでいます。この世は罪と死と悪魔が支配しています。そのため、人間が生きていくうちに、涙、死、悲しみ、叫び、苦しみが必ず伴います。「なぜ、こんなことが起るのですか?」と人々は叫んで生きています。善人であろうと悪人であろうと、災難が降りかかるのが、この世の常です。でも、新天新地においては、神さまは完全な秩序を与えて下さいます。他もにないものがあります。黙示録22:3-5「もはや、のろわれるものは何もない。神と子羊の御座が都の中にあり、神のしもべたちは神に仕え、御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の御名が記されている。もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、ともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは世々限りなく王として治める。」そのところには、「のろわれるものは何もない」とあります。そこには、神さまが忌み嫌われるものが存在しないということです。また、黙示録21章と22章に、新天新地に入れない人たちのリストがあります。3か所ありますが、共通してでてくるものがあります。人を殺す者、魔術を行う者、偶像を拝む者、偽りを行う者です。

 最後に、新しい天と新しい地にある絶対的なものとは何でしょう?黙示録21:3「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。」このことが神さまの永遠の計画でした。パウロもこのように述べています。エペソ3:11,12「私たちの主キリスト・イエスにおいて成し遂げられた、永遠のご計画によるものです。私たちはこのキリストにあって、キリストに対する信仰により、確信をもって大胆に神に近づくことができます。」アーメン。私たちは毎週、このとろで共に集まり、神さまを礼拝しています。礼拝とは信仰をもって神さまに近づくということです。でも、新しい天と新しい地においては今とは様子が違っているようです。Ⅰコリント13:12「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」信仰が不要であるとは言いませんが、直に神さまを仰ぎ見ることができるということです。この地上において、「私は神さまも、イエス・キリストも信じない」という人がおられます。言い換えると、その人たちは聖書の神さまもイエス様も嫌いだということです。その人たちが、嫌いな神さまとイエス様と一緒にいたのでは不幸であるとしか言えません。だから、「不信仰な者」は新しい天と新しい地に入れないと書かれているのです(黙示録21:8)。一番大きな罪とは何でしょう?殺人、偶像礼拝、魔術いろいろありますが、キリストを信じないことが最も大きな罪なのです。なぜなら、不信仰とは神さまの愛を拒むことだからです。義なる神さまはその人の犯した罪を責めるのではなく、「どうして私が与えたキリストを信じないで、私の愛を拒んだのか」その一点を問われるのです。ヨハネ黙示録の最後のことばです。「しかり、わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。主イエスの恵みが、すべての者とともにありますように。