2024.3.3「患難期の前半  ヨハネ黙示録5:11-14」

ある時から患難期がはじまります。患難時代とも呼ばれていますが、期間が短いので、患難期と呼びました。その期間は7年であり、3年半は比較的穏やかですが、後の3年半は反キリストが猛威を振るう大患難となります。きょうは、「患難期の前半」について学びますが、天上においてどのようなことが起っているのか、また地上ではどのようなことが起るのか3つのポイントで学びたいと思います。黙示録の複雑さは、天上と地上が平行して書かれているということです。

1.天上の光景 

ヨハネ黙示録4章からがらりと変わります。黙示録4:1-4「その後、私は見た。すると見よ、開かれた門が天にあった。そして、ラッパのような音で私に語りかけるのが聞こえた、あの最初の声が言った。『ここに上れ。この後必ず起こることを、あなたに示そう。』たちまち私は御霊に捕らえられた。すると見よ。天に御座があり、その御座に着いている方がおられた。その方は碧玉や赤めのうのように見え、御座の周りには、エメラルドのように見える虹があった。また、御座の周りには二十四の座があった。これらの座には、白い衣をまとい、頭に金の冠をかぶった二十四人の長老たちが座っていた。」この状況から察すると、ヨハネはパウロのように第三の天に引き上げられたのでないかと思います。ここではおもに2つのことがなされています。第一は礼拝で、第二は裁判です。後で分かりますが、天上における裁判の評決である審判が、次々と地上に下されていきます。まず、天上においてはどのようなことがなされているのか、調べて行きたいと思います。黙示録4章を見ると分かりますが、天には光り輝く御座がありそこには神さまがおられるようです。その周りには24人の長老が座っています。さらに見て行くと4つの生き物が「聖なる、聖なる、聖なる」と賛美しています。イザヤ書6章に書いてありますが、天使のセラフィムかもしれません。24人の長老は御座に着いておられる方を礼拝しています。黙示録4:11「主よ、私たちの神よ。あなたこそ栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。あなたが万物を創造されました。みこころのゆえに、それらは存在し、また創造されたのです。」彼らは、万物を創造された神さまを礼拝しています。まさしくこのお方は旧約聖書の創造主であり、イスラエルの主であり、私たちの父なる神であります。長老たちの12人は旧約聖書の代表者、あとの12人は新約聖書の代表者(使徒たち)かもしれません。

黙示録5章を読んで行くと、「子羊」が出てきます。子羊とは、ユダ族から出た獅子、ダビデの根と言われています。さらに、「長老たちの真ん中に、ほふられた姿で子羊が立っている」と書かれています。そして、「巻物の封印を解くのにふさわしい方である」と言われています。その理由は、この方の血によってすべての部族、国民が贖われたからです。そして、御座にいる方と子羊が共に賛美と礼拝を受けています。黙示録5:12-14「彼らは大声で言った。『屠られた子羊は、力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美を受けるにふさわしい方です。』また私は、天と地と地の下と海にいるすべての造られたもの、それらの中にあるすべてのものがこう言うのを聞いた。『御座に着いておられる方と子羊に、賛美と誉れと栄光と力が世々限りなくあるように。』」これらのことから子羊とは、主イエス・キリストのことだと分かります。黙示録1章では口から鋭い両刃の剣が出ている恐ろしい姿でしたが、このところでは「ほふられた子羊」として描かれています。この賛美と礼拝の光景から分かることは、御座に着いておられる方と子羊の両方が神として礼拝されているということです。あるキリスト教の異端は、「イエスは神ではない、神だとしても劣る神である」と言います。しかし、このところでは、創造主なる神とイエス・キリストとが同等に「賛美と誉れと栄光と力が世々限りなくあるように」と礼拝されています。天上におけるこのような礼拝は、私たちが地上で行っている礼拝の理想の姿であるということがわかります。私たちが父なる神と子なる神を共に礼拝しているということは、聖書的に正しいことなのです。あえて、ほふられた子羊として描かれているのは、地上の私たちの十字架で罪を贖われたイエス・キリストを礼拝するべきであるということです。私たちの行いや聖さで神さまに近づくことはできません。キリストの血こそが、キリストの贖いこそが、神に近づくための根拠であるということです。

私は現在において、天上においてこのような礼拝がなされ、同時に裁判がなされていると信じます。イエス・キリストはほふられた子羊でありますが、同時に父とともに審判を任されている王だからです。イエス様は休んでおられるのではなく、父の右の座にお座りになり、王として治めているのです。Robert Hendersonが書かれた『天の法廷』のシリーズを読みました。ロバート・ヘンダーソン師はこのように述べています。天においては「礼拝は、裁判に付随する重要なことがら」なのです。天で礼拝される子羊は礼拝の対象であり、そして王なる裁判官でもあります。子羊は父なる神さまと御座に座っておられます。地上の裁判と同じように、陪審員、証人、検察官、弁護士たちがおり、いろんな評決がなされることでしょう。地上と違うのは、4つの生き物と24人の長老、無数の天使たちがいるということです。彼らは審判と礼拝の両方を司るのかもしれません。いろんな訴えがなされ、それらの1つ1つの評決が下されるのでしょう。…その後、4つの生き物、24人の長老、数えきれないほどの御使い、全ての生き物が御座にすわる神さまと子羊であるイエス様を礼拝しています。天の法廷では、この地上の法廷と同じようにあらゆる裁判がなされ、その後、評決が下ります。しかし、天の法廷は地上と比べることができないくらい、力と権威があります。そして、天の法廷を満たしているものが礼拝です。「礼拝は議事の進行と評決に敬意を表する雰囲気をつくる大事なものである。そのため、私たちも天の法廷の礼拝に加わるように召されている」と言っています。つまり、地上の礼拝が天の法廷の礼拝にジョイントするように召されているということです。ヘブル12:22-24「しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。また、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者である神、全うされた義人たちの霊、さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血に近づいています。」私たちが天の礼拝とジョイントして礼拝していることを忘れてはいけません。

2.七つの封印の幻 (6:1-8:6)

黙示録6章から、巻物の封印が1つずつ解かれていきます。すると、地上に裁きが下り、災いが起ります。私は封印が1つ目の封印が解かれる時こそが、患難期(患難時代)のはじまりではないかと思います。期間はダニエル書が言う1週であり、現代的には7年間です。つまり、止まっていた時が動き出すということです。巻物の封印は7つあり、黙示録8章1節で、7つ目の封印が解かれます。いよいよ7つの封印が、子羊より1つずつ解かれていきます。そして、種々の災害が起こります。まず、第一の封印から第四の封印までお話ししますが、そこには白、赤、黒、青ざめた馬が出てきます。ビリーグラハム師が『迫りくる終わりの日』と題して、これらの馬がもたらす災害について述べていますので、所々、引用したいと思います。

第一の封印が解かれ、白い馬が出てきました。彼は弓を持ち、冠を与えられ、勝利の上にさらに勝利を得るために出て行ったと書かれています。白い馬の乗り手は、キリストに似ていますが、その風采はあてになりません。この白馬の乗り手は詐欺師であり、本当のキリストの代わりに、彼自身を主と認めさせようとしているのです。かつてイエス様が弟子たちにこう言われました。マタイ24:4,5「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わします。」偽りの宗教(にせの宗教)の見分け方は、第一に、キリストが救い主また主として礼拝されているか。第二に、聖書が信仰と実践の唯一の真の指針として中心になっているか。第三に、地域教会の交わりへの参加が奨励され、実践されているか。邪教に共通している1つの性格は、全部の真理を持っているのは、自分たちだけだと主張していることです。

第二の封が解かれ、赤い馬が出てきました。黙示録6:4「それに乗っている者は、地から平和を奪い取ることが許された。人々が互いに殺し合うようになるためである。また、彼に大きな剣が与えられた。」「地から平和を奪い取ることが許された」とは、国家間の戦いや内乱が起こることを意味します。戦争の原因は神ではありません。自由意志を持つように造られた人間は神に従わない道を選び、その結果、堕落した彼の性格は、平和でなく、戦争をもたらすようになりました。現在、核兵器を保有している国が8つあり、保有が疑われている国が5つくらいあります。2023年6月時点の核兵器保有数は12,520個ですが、1986年は、65,000個ありました。日本では北朝鮮の核問題ばかり報道されますが、イスラエルを含む中東地域が世の終わりの兆候です。

第三の封印が解かれ、黒い馬が出てきました。黙示録6:6「小麦一コイニクスが一デナリ。大麦三コイニクスが一デナリ。オリーブ油とぶどう酒に害を与えてはいけない」。これは、ききんの象徴です。オリーブ油とぶどう酒はぜいたく品であり、貧富の差が激しくなることが暗示されています。イエス様は、ご自身の再臨の前にききんが地上に広がり、世界の方々の人たちが飢えるとお話しになられました(マタイ24:7)。ヨーロッパとアメリカ人の60%は太り過ぎています。しかし、世界の34か国が食糧不足で苦しんでいると国連が発表しています。原因は、水不足、洪水、などの気象的なものですが、長期的な紛争と内戦も農業に悪影響を与えているということです。尚、日本食糧自給率は39%で、61%が輸入に頼っています。輸出国がかんばつ等で不作になると、日本に入って来なくなるのは言うまでもありません。

第四の封印が解かれ、青ざめた馬が出てきました。「青ざめた」は病人の顔色を意味します。黙示録6:8「これに乗っている者の名は『死』で、よみがそれに従っていた。彼らに、地上の四分の一を支配して、剣と飢饉と死病と地の獣によって殺す権威が与えられた。」世界の総人口が約78億人ですから、4分の1の19億人が死ぬということです。人間の長い歴史を通じて、憎悪に満ちた戦争、飢饉、疫病がありましたが、未来のこの出来事に比べうるものはありません。「死病」とは、命にかかわる伝染病をも意味します。2020年は新型コロナウィが大流行しました。「人類を脅かす感染症のパンデミック(世界的大流行)」と言われました。これも、「世の終わりの兆候である疫病」と言っても過言ではありません。白、赤、黒、青ざめた馬は、イエス様が世の終わりの前兆として既に預言しておられたことです。私たちはこのようなことが起っても、世の人たちと同じように右往左往してはいけないということです。それよりも、「ああ、患難期に入っているんだ」と気づく必要があります。そして、再び来られるキリストをひたすら待ち望むということです。

 この後、第五と第六の封印が解かれます。世の終わりには殉教者が益々増えることでしょう。また、大地震と天変地異が起ると預言されています。ある人は、これを核爆発ではないかと言っています。現代は世の終わりについて、ユーチュブなどで過激な発言をしている人たちが増えています。どの時代も、急進派の人たちがいて、世の終わりの脅威をあおりたがります。私たちは聖書のみことばをかみしめながら、飛躍した解釈に巻き込まれることなく、落ち着いた信仰生活を送りたいと思います。イエス様がマタイ24章でこのように注意を促しておられます。マタイ24:25-28「いいですか。わたしはあなたがたに前もって話しました。ですから、たとえだれかが『見よ、キリストは荒野にいる』と言っても、出て行ってはいけません。『見よ、奥の部屋にいる』と言っても、信じてはいけません。人の子の到来は、稲妻が東から出て西にひらめくのと同じようにして実現するのです。死体のあるところには、禿鷹が集まります。」私たちは偽キリストや偽預言者だけではなく、急進派な人たちの発言にも注意を払う必要があります。現代はインターネットの配信ニュースを見る人たちがたくさんおられます。急進派は「この世のニュースすべてが反キリスト的で信じてはならない」と言うかもしれません。確かに世の終わりには、マスコミに対する操作が加えられるでしょう。かといって、私たちは教会に属していない急進派の発言を全部信じてはいけません。私たちが頼るべき最もニュースは聖書であり、また聖霊と健全な教会に留まることが重要です。黙示録1章には「7つの星は7つの教会の御使いたち、7つの燭台は7つの教会である」と記されています。どんなことが起きても、聖書の霊感を信じる教会に属して、霊的に目を覚ましていることが重要です。そういう人は、恐らく携挙されるかもしれません。たとえそうでなくても、忍耐してキリストの再臨を待ち望みましょう。

3.七つのラッパの幻

しかし、さばきはそれではありません。7つ目の封印が解かれると、今度は7つのラッパのさばきが始まります。7つのラッパを7人の御使いが、次々に吹いていきます。そうすると、地上に新たな災いが起ります。この7つのラッパのさばきは、黙示録8章7節から11章の終わりまで続きます。しかし、黙示録11章1節から様子が変わります。「聖なる都を42か月の間踏みにじる」とか「二人の証人が1260日間預言する」などという特定の期間が出てきます。ユダヤでは1年が360日であり、1260日とは、3年半のことです。42か月も3年半です。つまり、第七の御使いが7つ目のラッパを吹く前後から、患難期の後半が始まるということです。それから先のことは、次回のメッセージで学びたいと思います。

まず、第一のラッパから第四のラッパまで取り上げたいと思います。ヨハネ黙示録8:7「第一の御使いがラッパを吹いた。すると、血の混じった雹と火が現れて、地に投げ込まれた。そして地の三分の一が焼かれ、木々の三分の一も焼かれ、すべての青草も焼かれてしまった。」出エジプト記9章には「主が雷と雹を送ったので、火が地に向かって走った。…雹はエジプト全土にわたって、人から家畜に至るまで野にいるすべてのものを打った。またその雹は、あらゆる野の草も打った。野の記もことごとく打ち砕いた」と書かれています。「火」というのは、雷による火の球のような稲妻である可能性があります。「木々の三分の一も焼かれ」とありますが、三分の一という割合がこのあとも続きます。後の三分の二は免れるということなので、究極的な裁きではなく、警告的なものであると考えられます。黙示録8:8-9「第二の御使いがラッパを吹いた。すると、火の燃えている大きな山のようなものが、海に投げ込まれた。そして海の三分の一が血になった。また、海の中にいる被造物で、いのちのあるものの三分の一が死に、船の三分の一が壊された。」「火の燃えている大きな山のようなもの」は、巨大な隕石が大洋に墜落した光景、あるいは、核爆弾が投下された光景にも似ています。海も津波が起り、その衝撃で船舶が大打撃を被ります。海水も汚染されて魚類の三分の一が死滅します。黙示録8:10-11「第三の御使いがラッパを吹いた。すると、天から、たいまつのように燃えている大きな星が落ちて来て、川の三分の一とその水源の上に落ちた。この星の名は「苦よもぎ」と呼ばれ、水の三分の一は苦よもぎのようになった。水が苦くなったので、その水のために多くの人が死んだ。」これも隕石の落下のようであり、ある種の鉱物が地上に激突してその粉末が空宙に飛散し、川の水に影響を与えたと考えられます。旧ソ連原子力発電所チェリノブイリの意味が「苦よもぎ」ですから、最近の化学兵器である可能性もあります。黙示録8:12「第四の御使いがラッパを吹いた。すると太陽の三分の一と、月の三分の一、また星の三分の一が打たれたので、それらの三分の一は暗くなり、昼の三分の一は光を失い、夜も同じようになった。」小石豊師はヨハネの黙示録について本を出しています。彼は「核爆発が起った地域では、大気圏は乱積雲が覆い光度が失われて昼なお暗い有様となります。海洋資源の汚染、食糧不足、輸送手段としての船の喪失、植物の育成が止まっては、もはや人類の生存も失われてしまうでしょう」と述べています。ひところよりは少なくなりましたが、現在まだ、12,520個あるのですから可能性がないわけではありません。

この後、第五のラッパ、第六のラッパ、第七のラッパと続きます。不思議なことに、第五のラッパは「第一の災い」、第六のラッパは「第二の災い」、第七のラッパは「第三の災い」と言われています。黙示録9:1「第五の御使いがラッパを吹いた。すると私は、一つの星が天から地に落ちるのを見た。その星には、底知れぬ所に通じる穴の鍵が与えられた。」さらに読み進んで行くと、無数のいなご現れ、サソリのような毒針で人々に害を加えます。その名はヘブル語でアバドン、ギリシア語でアポリュオンと言います。このいなごは、人を殺さないが極度の苦痛を与え、死にたくても死ねないと書いてあります。黙示録9:13-16「その声は、ラッパを持っている第六の御使いに言った。『大河ユーフラテスのほとりにつながれている、四人の御使いを解き放て。』すると、その時、その日、その月、その年のために用意されていた、四人の御使いが解き放たれた。人間の三分の一を殺すためであった。騎兵の数は二億で、私はその数を耳にした。」「大河ユーフラテスのほとり」というのは中東であり、イスラエルを囲むアラブ石油問題がずっと尾を引くように思われます。「つながれている、四人の御使い」とは、サタンの使いであり、人類の三分の一を殺すために二億の騎兵を扇動します。少し前の第四の封印で人類の四分の一が殺されました。今度は、その三分の一が殺されました。合計、人類の半分が失われる計算になります。災害はますます激しさを増し加えますが、生き残った人々は依然として悔い改めようとしません。黙示録9:20,21「これらの災害によって殺されなかった、人間の残りの者たちは、悔い改めて自分たちの手で造った物から離れるということをせず、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木で造られた偶像、すなわち見ることも聞くことも歩くこともできないものを、拝み続けた。また彼らは、自分たちが行っている殺人、魔術、淫らな行いや盗みを悔い改めなかった。」これだけ、人間は罪深く、頑固であるということです。パウロは「今は恵みの時、今は救いの日です」(Ⅱコリント6:2)と言いましたが、人は神の恵みなしには悔い改めて救われることができないということです。

黙示録10:6,7「もはや時は残されておらず、第七の御使いが吹こうとしているラッパの音が響くその日に、神の奥義は、神がご自分のしもべである預言者たちに告げたとおりに実現する。」とあります。御使いが第七のラッパを吹くと、反キリストが猛威を振るう大患難に突入します。「もはや時は残されておらず」とは、「もはや時がのばされることがない」という意味です。聖徒たちが「いつまでさばきを行わず、地に住む者たちに私たちの血の復讐をなさらないのですか」(黙示録6:10)と祈りをもって叫んでいます。神さまは預言者たちに告げたとおり、さばきを実現するお方です。キリストの来臨は、神に背く者たちにはさばきでありますが、救いを求める人たちには勝利の時です。すべてのクリスチャンが患難の前に天に引き上げられるわけではありません。患難中かもしれないし、患難後かもしれません。大切なことは、いかなることが起きても、イエス・キリストを主と崇め、決して信仰を棄てないということです。