2024.2.25「7つの教会 ヨハネ黙示録1:10-11」

黙示録1章の後半から3章まで、「アジヤの7つの教会」について記されています。おもに、二つの解釈があります。第一は、当時の苦難にある教会を励ますために書かれたもので、そこからすべての時代のクリスチャンが教訓を受けるというものです。第二は、未来主義と言われるもので、歴史上の各時代の教会を表わすものとして解釈します。奥山実師はご自身の本で、「7つの教会は教会史全体の預言である」述べています。きょうのメッセージは、奥山実師の本とウィットネス・リーの本を参考にしました。

1.エペソにある教会

私たちが新約聖書に「〇〇人への手紙」という表題を見ますが、すべて1世紀の教会に宛てられた書簡です。ローマ教会やコロサイ教会を除いて、ほとんどパウロが開拓した教会です。エペソ教会は霊的戦いを乗り越え、そこからたくさんの教会が生み出されました。ここで言われている「エペソにある教会」というのは、使徒たちが天に召された後の教会の総称と考えられます。使徒たちの弟子、「使徒後教父」と呼ばれる人たちが教会を指導していました。では、第二世代の教会は、どうなっているのでしょうか?黙示録2:4,5「けれども、あなたには責めるべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたのか思い起こし、悔い改めて初めの行いをしなさい。そうせず、悔い改めないなら、わたしはあなたのところに行って、あなたの燭台をその場所から取り除く。」主は「あなたは初めの愛から離れてしまった」と責めておられます。ギリシャ語の「初めの」は、「第一の」とか「最高の」という意味もあります。「あなたは最高の愛から離れてしまった」と言い換えることもできます。第一代目のクリスチャンは粗削りではありますが、イエス様への愛と情熱があふれています。しかし、息子や娘、つまり二代目になると信仰的に穏やかになります。悪いことはしないけれど、第一代目のような情熱はありません。教会も開拓当時は、教会員たちがすべてをささげて伝道します。やっとのことで新会堂も建てられました。人々が救われて一杯になりました。でもどうなるでしょう。形式的になり、伝統的になります。教会の規則を作ります。守りに入り、チャレンジをしなくなります。気が付いたら、初めの愛から離れてしまっていました。そういう教会に対して、イエス様は「どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい」と警告しておられます。つまり、「あなたはイエス様を最高に愛する、正しい道に戻りなさい」ということです。

 

2.スミルナにある教会

黙示録2:9「わたしは、あなたの苦難と貧しさを知っている。だが、あなたは富んでいるのだ。ユダヤ人だと自称しているが実はそうでない者たち、サタンの会衆である者たちから、ののしられていることも、わたしは知っている。」「スミルナにある教会」は、苦しみと貧しさの中にある、迫害下にある教会です。スミルナはギリシャ語で「没薬」を意味します。没薬は、亡くなった人に用いるので、「苦難」を表徴しています。スミルナにある教会は1世紀後半から、313年のミラノ勅令までの約200年間の教会です。私たちは皇帝ネロのことを知っていますが、それ以降もひどい迫害が起りました。ドミティアヌス帝は自らを「主にして神」と称し、公式の誓いを強要しました。そして、トラヤヌス帝のときから、迫害は組織的になってきました。外には迫害の嵐が吹き荒れ、内においては異端の活動が活発となりました。その頃、教会を指導したのが、「弁証家」と呼ばれる人たちです。当時の異端に対して、かなり哲学的ですが、信仰の基準や真理の基準を示しました。

帝国規模の迫害は紀元後249年に即位したデキウス帝のときにやってきました。彼は、これまでの「キリスト教徒を探し出してはならない」という原則を破りました。皇帝礼拝を含め、偶像に供物を捧げ、礼拝した証明書(リベルス)の提示を求めたのです。これを公然と拒否するキリスト教徒は拷問にかけられ、棄教を求められました。ヨハネ黙示録はその背後の力が何であるか教えています。黙示録2:10「あなたが受けようとしている苦しみを、何も恐れることはない。見よ。悪魔は試すために、あなたがたのうちのだれかを牢に投げ込もうとしている。あなたがたは十日の間、苦難にあう。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与える。」殉教覚悟で迫害を乗り越えた聖徒たちには、いのちの冠が与えられます。

 

3.ペルガモにある教会

 黙示録2:13,14「わたしは、あなたが住んでいるところを知っている。そこにはサタンの王座がある。しかしあなたは、わたしの名を堅く保って、わたしの確かな証人アンティパスが、サタンが住むあなたがたのところで殺されたときでさえ、わたしに対する信仰を捨てなかった。けれども、あなたには少しばかり責めるべきことがある。あなたのところに、バラムの教えを頑なに守る者たちがいる。バラムはバラクに教えて、偶像に献げたいけにえをイスラエルの子らが食べ、淫らなことを行うように、彼らの前につまずきを置かせた。」この書簡は、ペルガモにある教会に対するものです。この書簡で、私たちは教会の性質と形に大きな変化を見ることができます。歴史によれば、コンスタンティヌス帝がキリスト教を国教にして、人々にクリスチャンになるよう奨励して、教会をその性質と形において変えてしまいました。ギリシャ語で「ペルガモ」という言葉には2つの意味があります。1つは「結婚」です。結婚は結合です。この時、教会は、この世と結合するようになり、この世的な教会となりました。「ペルガモ」のもう1つの意味は、「城壁を巡らした塔」です。その当時、教会は低いものではなく、地上で高いもの、高い塔になりました。

 黙示録2章13節「そこにはサタンの王座がある」14節「バラムの教えを奉じている人々がいる」15節「ニコライ派の教えを奉じている人々がいる」と書いてあります。サタン、バラム、ニコライが、まるで悪魔の三位一体のようです。バラムは、神の民に淫行を犯し、偶像を礼拝させることをバラク王に教えた異邦の預言者です(民数記22章、25章)。コンスタンティヌス帝がキリスト教に入信したことは、異邦の預言者の教えと異教の教えの始まりでした。こうして、この世と結合して霊的姦淫を犯し、偶像崇拝をするようになりました。これは、主にとって邪悪でした。次にニコライ派の教えとは何でしょう?歴史の綿密な研究によって、聖職者・平信徒制度、階級組織、すなわち、「聖職者階級」の教えであることが分かりました。ニコライのギリシャ語は「民を征服する」という意味です。いわゆる聖職者・階級組織は、教会の中で他の人々を征服します。本来教会は、信徒の群れだったのですが、聖職者によるピラミッド型の組織体になってきました。また、法律によって、国民であるならだれもが洗礼を受けて、教会に属することが定められました。ですから、キリストを信じて新生していない人でも教会の一員でした。そのため、教会はこの世と全く区別がつかなくなりました。黙示録2章17節に「勝利を得るものに隠れたマナを与える。また白い石を与える」と書かれています。今日の教会にも言えることですが、悔い改めて初めの愛に立ち返り、この世的なものを排除し、キリスト中心に生きることが必要です。イエス・キリストこそ隠れたマナであり、勝利ある御名だからです。

 

4.テアテラにある教会

ヨハネ黙示録2:20-22「けれども、あなたには責めるべきことがある。あなたは、あの女、イゼベルをなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて惑わし、淫らなことを行わせ、偶像に献げた物を食べさせている。わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は淫らな行いを悔い改めようとしない。見よ、わたしはこの女を病の床に投げ込む。また、この女と姦淫を行う者たちも、この女の行いを離れて悔い改めないなら、大きな患難の中に投げ込む。」このところに「イゼベル」という名前が出てきます。旧約聖書に出てきますが、彼女はアハブ王の妃でした。バアル信仰をイスラエルに大々的に持ち込んで堕落させた張本人です。このとき、預言者エリヤが立ち上がり、バアルの預言者と戦い、勝利して450人を切り殺しました。ところが、エリヤは、イゼベルの脅迫のことばを聞いて荒野に逃れました。イゼベルの霊は新約聖書でも働いています。バプテスマのヨハネはヘロデヤによって首を切られましたが、これもイゼベルの霊です。なぜなら、バプテスマのヨハネはエリヤの再来だったからです。また、使徒の働き16章にはテアテラ伝道のことが記されています。その町は、染色業などの取引が中心地であったようです。考古学的には、多くの職人組合があったようです。この職人組合には、クリスチャンは入ることができませんでした。なぜなら職人たちは、偶像礼拝をしていたからです。しかし、組合に入らなければ商売は上手く行きません。そこで教会の中にも、「偶像礼拝をしてもいいのではないか」と、妥協する人々がいたようです。

 イゼベルは自分自身を預言者と呼んで、主の民を教えています。新約の原則によれば、主は女が権威をもって教えることを決して許しません(Ⅰテモテ2:12)。同様に、教会自身は教えてはなりません。主の目には教会は女の地位にあるからです。しかし、歴史と現在の状況によれば、カトリックの人たちは言います、「教会はこう言っている」と。カトリックの人たちに納得させることは困難です。私たちがどんなに多くの個所を聖書から引用しても、彼らは「教会はこう言っています」という1つの返事を持っているだけです。このように、彼らは聖書を顧みません。彼らは教会が言うことだけを顧みます。教会は最高の権威を持っています。教会が言うことはすべて正しいのです。この「教会」は邪悪な女イゼベルです。ローマ・カトリックは教える女です。この女の教えによって、多くの異教と異邦のものが教会の中にもたらされて、姦淫と偶像礼拝を引き起こしました。有名なローマ・カトリック教会の大聖堂は、イエスとマリヤの像だけでなく、ペテロやパウロや他の多くのいわゆる聖人の像を含む偶像礼拝で満ちています。多くの人々は、ろうそくをもって、これらの「教会」の中に入り、もっぱらこれらの偶像を礼拝します。カトリック教会内部の多くの邪悪な奥義は、過去、文書で公表されました。もし教会史を読むなら、私たちはテアテラに書き送られたこの書簡にある主の預言の実際の成就を発見するでしょう。黙示録2:25,26「ただ、あなたがたが持っているものを、わたしが行くまで、しっかり保ちなさい。勝利を得る者、最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与える。」

 

5.サルディスにある教会

ヨハネ黙示録3:1-2「また、サルディスにある教会の御使いに書き送れ。『神の七つの御霊と七つの星を持つ方が、こう言われる──。わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。目を覚まし、死にかけている残りの者たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行いがわたしの神の御前に完了したとは見ていない。』「サルィデス」のギリシャ語は「残された者」あるいは「復興」を意味します。この箇所を霊的に解釈すると、サルディスは宗教改革時代の教会を描写しています。確かに、マルチン・ルターの時代に始まった宗教改革は黙示録3章の預言の成就でした。宗教改革は良かったのですが、その中にあるすべてのものは極めて貧弱でした。歴史によれば、その働きは何一つとして完成しませんでした。一方で、多くのものは宗教改革で回復されましたが、他方では、それらの多くは衰退しました。改革の教会、すなわち、プロテスタント教会には、常に回復があり、次に衰退があります。多くの回復、そして多くの衰退が続きます。多くの復興もありますが、その後に堕落があります。プロテスタント教会の歴史は、復興と堕落、回復と衰退の歴史です。そこには、力強くて、適切で、生きている、永久のものは何もありません。ですから、主は改革の教会であるサルディスには満足しておられないのです。

 一方、ローマ・カトリックは国際的な教会となり、1つの頭である法王の下で、すべての国々と混合しました。宗教改革の時に、教会は国際的な性格を捨てましたが、堕落して国教会になりました。ルター自身はこれが間違いであることを認めましたが、その政治的な影響があまりにも大きかったため、彼はそれを避けることができませんでした。ルターは主の最も偉大なしもべの一人でした。彼はローマ法王との対決には強かったのですが、王たちの前では弱かったのです。彼も一人の人間ですから、仕方ありません。彼は強硬にカトリックとローマ法王に対決しましたが、ドイツ国王や諸侯には弱かったのです。その証拠に、農民が反乱を起こしたとき、ルターは「農民の殺人・強盗団に抗して」という痛烈な小冊子を著して非難しました。ドイツ諸侯は農民の反乱鎮圧に本腰を入れることが可能になりました。反乱は恐ろしい流血をもって鎮圧されたのです。ルターの主張に対する共感は、ドイツの低社会層の間で大幅に失われ、改革は世俗の諸侯の手に委ねるべきであるという気持ちが強まりました。最終的に、ドイツ王国は国教会を設立しました。そして他の国々も先例にならいました。だから、今日もいたるところに国教会が存在しているのです。デンマークには、国王がデンマークの教会の長です。そして、それはルーテル教会です。英国では、女王が国教会である英国国教会の長です。黙示録3:4,5「しかし、サルディスには、わずかだが、その衣を汚さなかった者たちがいる。… 勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。またわたしは、その者の名をいのちの書から決して消しはしない。」

 

6.フィラデルフィヤにある教会

黙示録3:7「また、フィラデルフィアにある教会の御使いに書き送れ。『聖なる方、真実な方、ダビデの鍵を持っている方、彼が開くと、だれも閉じることがなく、彼が閉じると、だれも開くことがない。その方がこう言われる──。』「フィラデルフィヤ」は「兄弟愛」と言う意味です。主は彼らに「だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた」と言われました。主にある兄弟たちは最初、互いに争いました。ドイツ30年戦争では多くの人たちが血を流しました。フランスでもカトリックがユグノーの貴族たちを虐殺しました。イギリスでは国教会とカトリックが争いました。互いに戦って尊い人命を失ってから、やっと条約が締結され、平和が訪れました。兄弟愛とまでは言えませんが、交わりを回復していったことは確かです。戦争は悪魔のリバイバルです。何故、同じ神さまを信じているのに、あのように戦うのか信じられません。歴史を学んだ人たちが必ず躓く汚点です。でも、人間は多くの過ちを犯した後で、目が覚め、神さまに目を向けるようになります。プロテスタント教会は、カトリックから色んなきっかけで出たため、たくさんの教団教派が生まれてしまいました。教義や神学は違いますが、キリストを救い主として信じていることは変わりありません。三位一体の教理も共通して持っています。かなり不完全ではありますが、17,18世紀の教会はフィラデルフィヤ「兄弟愛」教会と言うことができるかもしれません。黙示録3:8前半「私は、あなたの行いを知っている。見よ。私はだれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた」とあります。奥山実師は「世界中に福音の門戸が開かれ、世界宣教が盛んに行われた時期である』と言っています。宗教改革の後、カトリックは目が覚めたように世界宣教をしていきます。この宣教は実際には、バチカンではなく、イエズス会やフランシスコ会などの修道会が行ったのです。だいぶ遅れてから、プロテスタントもウィリアム・ケアリーによって宣教会を持つことができるようになりました。ウィットネス・リーは「兄弟愛(フィラデルフィヤ)」は、ブラザレンの実行によって成就された」と言っています。ブラザレンは、多くの霊的な事柄を回復し、神のみことばを聞きました。ブラザレンは、バラムの教え、ニコライの者たちの教え、イゼベルの教えが教会の中にもたらしたすべてのものを否み、捨て去りました。ブラザレンは、兄弟愛と主のことばを守ることと主の名を否まないこのと模範であったということです。黙示録3:8後半「あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。」

 

7.ラオデキアにある教会

黙示録3:15「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。」ラオデキアの教会は世の終わりの教会です。主は「あなたが冷たいか、熱いかであってほしい」と皮肉を込めておっしゃっています。「いのちのことば社」の注解書から引用します。「ラオデキアの教会には迫害の危険もなく、偶像崇拝や不品行の罪もなかった。むしろ、彼らは平和と繁栄のゆえに、自己満足に陥り、なまぬるい信仰になってしまったのです。キリストを知りながら、積極的な服従も奉仕もせず、いたずらに無関心と不徹底な信仰生活を送ることは、決して主に喜ばれる道ではない」。洗礼は受けたものの、礼拝に出ていない我が子のことを考えると耳が痛いです。礼拝に出て、奉仕をしていれば熱心なクリスチャンであると一概には言えないかもしれませんが、1つのバロメーターであることは間違いありません。パウロは、以前は、キリスト教に激しく反対していました。本当に冷たい人でした。しかし、キリストに出会って、悔い改めて、熱心に仕える者となりました。パウロは冷やかし半分の反対ではなく、真剣な反対だったからでしょう。いい加減な、どっちつかずの信仰は「なまぬるいものであり」主から見たら、気持ち悪くて吐き出したくなるのでしょう。しかし、このことは現代の教会、世の終わりの教会のことも言っています。私は「キリストは道、真理、命であり、キリスト以外に救いはない」と本当に信じて従ってきました。ところが、「キリスト以外にも救いがある」という多元主義の神学者が出てきました。つまり、仏教やイスラム教、そのほかの宗教に現されている神さまは同じ神さまを指しており、現れ方が違うんだということです。「他にも救いがある」と信仰を相対化してしまうと、命をかけなくてよくなります。ヨハネ黙示録3:20「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」このみことばは、伝道説教でよく使われますが、実際には教会がイエス様を教会の外に締め出してしている状態を現しています。終わりの時代に直面している教会へのことばです。イエス様の招きです。私の声を聞いて戸をあけるなら、私は彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼も私とともに食事をする。