2024.2.18「イエス・キリストの黙示 ヨハネ黙示録1:1-3」

新約聖書においては、預言書はこの「ヨハネの黙示録」一冊のみです。もちろん、終末に関する預言的なことは福音書や書簡にも記されています。この書は解釈が難しいため、聖日礼拝の説教ではあまり語られません。黙示録1:3「この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを守る者たちは、幸いである。時が近づいているからである。」この書が完成してから、2000年近くたっていますから、「より、時が近づいています」。だから、難解でも、語らなければならないのです。

1.イエス・キリストの黙示 

この書物の著者は、伝統的には弟子のヨハネだと言われています。なぜなら、ヨハネだけが殉教せずにいたのは、この書物を書くためだったからです。イエス様がヨハネについてペテロに語ったことばです。ヨハネ21:23「それで、その弟子は死なないという話が兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスはペテロに、その弟子は死なないと言われたのではなく、「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか」と言われたのである。」このときは、イエス様が直ちに来られると思われていました。しかし、イエス様の再臨は思ったよりも遅かったのです。ですから、4つの福音書や他の書物が書き残され、最後にこのヨハネの黙示録が書かれました。この書物は、特別な意味があり、「聖書を書くために働いた霊感はこれが最後です」と表明していることです。黙示録22:18,19「私は、この書の預言のことばを聞くすべての者に証しする。もし、だれかがこれにつけ加えるなら、神がその者に、この書に書かれている災害を加えられる。また、もし、だれかがこの預言の書のことばから何かを取り除くなら、神は、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、その者の受ける分を取り除かれる。」このみことばは、ヨハネ黙示録だけに述べられているのではなく、聖書全体に対してであり、聖書がこれによって完結したということです。ですから、完結された聖書にことばをつけ加えたり、あるいは取り除くならば、神から呪われるということです。

まず、「イエス・キリストの黙示」とはどういう意味でしょうか?黙示録1:1「イエス・キリストの黙示。神はすぐに起こるべきことをしもべたちに示すため、これをキリストに与えられた。そしてキリストは、御使いを遣わして、これをしもべヨハネに告げられた。ヨハネは、神のことばとイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてのことを証しした。」これは、イエス・キリストによって示された黙示、あるいは、イエス・キリストに関する黙示と二通りに解釈することができます。順番で言うと、神からキリストに、そしてキリストが御使いに、御使いからヨハネに告げられたと考えることができます。「黙示」とは、ギリシャ語でアポカルュプシスであり、他の箇所では「啓示」と訳されています。このことばは、本来、隠されているものの覆いが、取り除かれて、露わにされるという意味です。ですから、英語ではrevelationと言い、「ベールをはがす」となっています。しかし、「啓示」ではなく、なぜ「黙示」なのでしょうか?実は、紀元前2世紀、シリヤ軍に対するユダヤの独立戦争がありました。マカベア時代に黙示文学という一連の書物が書かれました。エノク書、ヨベル書、12族長の遺訓、シビル託宣、ソロモンの詩篇等です。黙示文学の特色は、神のことばの啓示が、黙示つまり幻を通して示されるということです。ですから、ヨハネ黙示録には、巻物、鉢、ラッパなど、不思議なシンボル(象徴)がたくさん出てきます。また、サソリの針を持ついなご、7つの頭と10本の角を持つ竜など奇妙な生き物が出てきます。では、なぜこのような謎めいた書き方をしているのでしょうか?それは、ローマの迫害下で、書かれたからです。旧約聖書のダニエル書も黙示的ですが、敵国から悟られないように書いたのです。もう1つの黙示文学の特色は、現在と未来がはっきり対照されているということです。現在、聖徒たちが苦難を味わっていまが、未来において彼らは祝福にあずかるということです。まるで、勧善懲悪のテレビ番組みたいで、途中いろいろな苦難があっても、神の側が最後に勝つのです。

では、ヨハネ黙示録が書かれた目的とは何でしょう?1節の半ばに「神はすぐに起こるべきことをしもべたちに示すため、これをキリストに与えられた」と書かれています。そして、3節には「時が近づいているからである」とも書かれています。旧約聖書のダニエル書には、黙示録と同じようなことが書かれています。ダニエルが「終わりの日に起こることを」(ダニエル2:28)と言ったことが、ここでは「すぐに起こる」と言われています。「すぐに」とは、「速やかに、あるいは突然起る」ことを意味します。ヨハネは「時が近づいている」と預言の重要性を示しています。ここで言われている「時」とは、カイロスであり、一般的な時間を言うクロノスとは違います。カイロスということばは、「定まった(特定の)時、あるは時期」を意味します。ですから、ヨハネ黙示録の場合は、「終末の時、終末の一定期間が近づいている」ということです。でも、問題は「いつから終末が始まるか?」ということです。終末は、2000年前の聖霊降臨の時からはじまりました。その時、ペテロが「神は言われる。終わりの日に、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ」(使徒2:17)とヨエル書を引用しました。ヨエル書も世の終わりを預言している書物です。つまり、世の終わりにはある程度の長い期間があるということです。しかし、ヨハネ黙示録がいう「時」は少し違います。どういうことかと言うと、止まっていた時計が動くということです。ダニエル9章に「あなたの民とあなたの聖なる都について、七十週が定められている」と書いてありますが、70週の終わりとは祝福の到来です。しかし、69週でメシヤが断たれ、そのあと歴史が止まります。イスラエルが躓いたので、楔形に異邦人の時、つまり教会時代が入ってしまいます。しかし、ある時に69週目から再スタートし70週目で完成します。ダニエル書によると、1週が7年です。つまり、ヨハネによる黙示録は最後の1週である7年間のことが克明に記されている預言書であるということです。その7年は患難時代と呼ばれ、前半は比較的おだやかですが、後半の3年半は大患難が起ります。私は「最終末」の時計は、まだ動いていないと信じます。しかし、ある時、突然、69週目がスタートし、患難時代に突入します。

2.イエス・キリストの再臨

 ヨハネ黙示録のクライマックスとは何でしょうか?それは世の終わりに、イエス・キリストが再び来られるということです。これはヨハネ黙示録というよりも、全歴史におけるクライマックスと言えるでしょう。なぜなら、キリストの再臨によってアダム以来の罪が完全に除去され、サタンが滅ぼされ、新しい天と新しい地が到来するからです。そして、キリストを信じている者たちが完全に贖われ、恒久的な平和が訪れるからです。天国の完成形は、ヨハネ黙示録21章と22章に記されています。でも、イエス・キリストが悪魔とその手下を滅ぼすために、この地に現れるのはいつなのでしょうか?なんと、黙示録19章11節からです。黙示録1章に現れた再臨のキリストが、黙示録19章まで登場しないということです。その間、どこにいらっしゃるのでしょうか?なんと、ほふられた小羊として天上で礼拝を受けておられます。また、地に裁きをくだす、7つの封印のある巻物を解くお方でもあります。黙示録19章まで、わけのわからない象徴と幻が続くのであります。だから、この書を解説し、メッセージするのが困難なのです。でも、キリストの再臨とは何のことなのでしょう?

 黙示録1:7,8「見よ、その方は雲とともに来られる。すべての目が彼を見る。彼を突き刺した者たちさえも。地のすべての部族は彼のゆえに胸をたたいて悲しむ。しかり、アーメン。神である主、今おられ、昔おられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」神の子が肉体をとって来られたのが、キリストの初臨です。神の御子は2000年前のユダヤのベツレヘムでお生まれになられました。イエス様は30才までナザレで過ごされ、30才から公生涯を始められ3年半、福音を宣べ伝え、御国のことを教え、人々の病を癒されました。その間、12人の弟子たちを召して、彼らを訓練されました。最後はゴルゴタの丘で、十字架につけられ死なれました。歴史的にはローマに反逆した罪でありましたが、聖書的には人類の贖いのための身代わりの死でした。イエス様は3日によみがえられ、40日間、この地上におられました。その後、天におられる父のもとに昇られました。使徒1章にはこのように書かれています。使徒1:10,11「イエスが上って行かれるとき、使徒たちは天を見つめていた。すると見よ、白い衣を着た二人の人が、彼らのそばに立っていた。そしてこう言った。「ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。」このところには、主が再び、来られることが約束されています。でも、黙示録1:7はダニエル書7章から引用したものであり、マタイも24章で同じことばを引用しています。マタイ24:30「そのとき、人の子のしるしが天に現れます。そのとき、地のすべての部族は胸をたたいて悲しみ、人の子が天の雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見るのです。」興味深いのは、イエス・キリストが再び来られるというのに「地のすべての部族は胸をたたいて悲しむ」ということです。これは、まさしく、黙示録19章に記されている、キリストに戦いを挑む、獣と地の王たちと軍勢のことです。

 キリストの再臨のことで、キリスト教会で一致を見ていないテーマが2つあります。第一はキリストの再臨と千年王国(千年期)との関係です。黙示録20章には、キリストが再臨された後、千年王国がやってくることが記されています。千年間、悪魔であるサタンが縛られるということです。おそらく、地上ではイザヤ書に記されているような回復が訪れることでしょう。イエス様が「御国が来るように祈れ」とおっしゃったのが、千年王国であろうと思われます。ところが神学的には3つの立場があります。第一は「千年期後再臨説」です。これは、世の中がだんだん良くなって、そしてキリストが再臨するという考えです。二度の世界大戦を経た後、この立場は少なくなりました。第二は「無千年期再臨説」です。これは、千年期は象徴であり、本当は存在しないという考えです。ローマ・カトリックと新正統主義の教会がこの立場です。第三は「千年期前再臨説」です。これは、キリストの再臨後に千年期が訪れると考える立場です。福音派の多くの教会はこの立場をとっています。私は聖書を字義通り解釈する立場を取っています。黙示録20章に「千年」と6回記されているからです。黙示録20:6「彼らは神とキリストの祭司となり、キリストとともに千年の間、王として治める」と書いてあります。これは、イエス様が弟子たちに言われたことと一致しています。マタイ19:28「人の子がその栄光の座に着くとき、その新しい世界で、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族を治めます。」私は千年王国(千年期)は、イエス様がおっしゃる御国であり、すべてもののが回復される時だと考えます。イザヤ書にはイスラエルの回復と自然界の回復、身障者の回復が預言されています。つまり、千年王国(千年期)がないと、報われる時がないことになるからです。

 第二は「携挙」の問題です。携挙とは、キリストが来られたとき、天に移されるということです。携挙のことは、Ⅰテサロニケ4章、Ⅰコリント15章、マタイ24章に記されています。問題は、キリストがいつ来られるのかということです。7年間の患難期がありますが、患難期の前に来るのか、患難期の半ばに来るのか、あるいは患難期の終わりに来るのか、3つの考え方があります。アメリカのリバイバルで起った福音派の教会は「患難期の前に教会が引き上げられ、苦難に会うことがない」と主張しています。この考えだと、1度目はキリストが聖徒たちのために空中に来られ、二度目はキリストがさばくために地上に来られることになります。第二の説は「患難期中に携挙がある」という説です。第三の説は「患難期後に携挙がある」という説です。この節は、最も古くからある考え方です。この説だと、キリストの再臨を2回に分ける必要がなくなるからです。私は以前は、第一の患難期前でしたが、最近は第三の患難期後の立場を取っています。黙示録を読んで行くと、19章のイエス様が栄光の姿で来られる時ではないかと思います。

 このようにキリストの再臨は神学的にとても複雑であり、いろんな説に分かれています。私はヨハネ黙示録は、今の時代の人たちが、世の終わり何が起こっても、信仰に堅く立ち、耐え忍ぶことができるように書かれたものだと思います。遠い未来のことではなく、その「時」がまもなく開始します。すると大患難と大迫害が起り、その後、キリストが来られるのです。

3.イエス・キリストの栄光

ヨハネが再臨のキリストのお姿を目撃し、その場に倒れてしまいました。ヨハネ黙示録1:14-18「その頭と髪は白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬された、光り輝く真鍮のようで、その声は大水のとどろきのようであった。また、右手に七つの星を持ち、口から鋭い両刃の剣が出ていて、顔は強く照り輝く太陽のようであった。この方を見たとき、私は死んだ者のように、その足もとに倒れ込んだ。すると、その方は私の上に右手を置いて言われた。「恐れることはない。わたしは初めであり、終わりであり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、世々限りなく生きている。また、死とよみの鍵を持っている。」1つ1つ解説する方法もありますが、一口にいって、恐ろしいお方です。イエス様の姿は地上におられた時は、謙遜で柔和なお方でした。再臨のキリストは全く違います。聖さ、義、そして威厳に満ちておられます。口から鋭い両刃の剣が出ているというのは、神のさばきを象徴しています。その声も「大水のとどろきであり」シナイ山でモーセが聞いたような恐ろしい声であります。その姿を見た、ヨハネは倒れて、死人のようにかたまってしまいました。かつて、イエス様と最も親しかったヨハネが、主の御栄光を拝して、死人のようになりました。再臨のキリストは、まさしく神であり、王であり、さばき主です。罪ある人間が近づいたら、打たれてしまいます。

でも、どうでしょう?1:17,18「すると、その方は私の上に右手を置いて言われた。『恐れることはない。わたしは初めであり、終わりであり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、世々限りなく生きている。また、死とよみの鍵を持っている。』」アーメン。我らが愛するイエスさまは、ここが違います。この世の王様には平民が近づくことが許されないでしょう?ましては、主の主、王の王の場合はなおさらです。しかし、イエス・キリストはかつて人となり、弟子たちと一緒に寝食を共にされた方です。ヨハネはそのお方と最も近くにいて「イエスが愛しておられた弟子」と自分のことを紹介していました。かつてのイエス様のように、ヨハネに近づき、手を置いて「恐れることはない」と、お声をかけてくださったのです。嵐のガリラヤ湖で、弟子たちが舟をこぎあぐねていたとき、イエス様が湖の上を歩いて来られました。弟子たちは幽霊ではないかと恐れました。その時、「わたしだ。恐れることはない」(ヨハネ6:20)と言われました。恐ろしい形相のイエス様が一瞬、かつてのイエス様に戻られたのかもしれません。あるいは、姿はそのままで、お声だけが変わられたのか分かりません。でも、ヨハネは「かつてのイエス様だ」と内側に熱いものを感じたのではなかったと思われます。私たちも、いずれイエス様とまみえる時が来ると思いますが、恐れと歓喜が交互に湧き上がってくるのではないかと思います。涙と鼻水でドロドロになり、イエス様が一歩、ひかれるのではないかと心配です。

このところには、イエス様ご自身がご自分のことをこのように紹介しています。「わたしは初めであり、終わりであり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、世々限りなく生きている。また、死とよみの鍵を持っている。」1つ1つ見て行きたいと思いますが、最初は「わたしは初めであり、終わりであり、生きている者である」です。「初め」はギリシャ語でプロートスです。これは「第一の」「最初の」という意味です。地位だけではなく、そこには時間的な意味もふくまれています。コロサイ1:15「御子は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です」と書かれています。すべての被造物より、前におられた方です。このお方によって万物だけではなく、時間も創造されたということです。「終わり」はギリシャ語で「エスカトス」です。これは「最後の」「最も低い」という意味です。しかし、地位だけではなく、「空間の一番端」「時代の終わり」という意味もあります。イエス様は死んで陰府にまで下されました。だからどんな者でも救うことができます。十字架の片方の犯罪人に、「あなたは、今日、私と共にパラダイスにいる」(ルカ23:43)と約束されました。また、イエス様が「終わり」という意味は、歴史を完結させるお方でもあるということです。「エスカトス」は終末の時代を意味するので、再臨のイエス様とぴったりです。また、イエス様のおことばは、1章7節「わたしはアルファであり、オメガである」の全能者の神と一致します。御子イエスは、今も生きておられ、父なる神と共に、この世界を始め、そしてこの世界を完結されるお方です。

第二は「わたしは死んだが、見よ、世々限りなく生きている。また、死とよみの鍵を持っている」です。これは肉体を持たれたキリストが本当に死んだのであり、死んだように見えたのではありません。私たちの罪の贖いのために犠牲となられて死なれたのです。そして、陰府まで下り、よみがえりました。そのとき、陰府の一部を携え上げられました。イエス・キリストは神の右に座し、死とよみの鍵を持っておられます。これは、キリストがさばき主として、永遠の死と永遠の命をお決めになられるということです。明治二十三年制定された使徒信条の後半を引用します。「…十字架につけられ、死して葬られ、陰府に下り、第三日(だいさんじつ)に死者のうちより復活(よみがえ)り、天に昇りて、全能の父なる神の右に座し給へり、彼所(かしこ)より來たりて生ける者と死ねる者とを審判(さばき)たまわん。」聖歌に記されている使徒信条は「生ける者と死にたる者とを審きたまわん」です。しかし、最も古いものは「生ける者と死ねる者」となっていますので、明らかにキリストのご意志がこめられているように思われます。つまり、キリストが生殺与奪の権を持っているということです。マタイ10:28「からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。」新請書注解書にはこのように書かれていました。迫害する異教徒は、キリスト者の肉体しか殺すことができなかった。しかしキリストは、からだだけではなく、霊をも滅ぼすことのできる方である。これはヨハネをはじめ、当時迫害の苦難に会っている人々にとって、大きななぐさめとなったであろう」。私はそれだけではないと思います。私たちは今、世の終わりの終わりに直面しています。その時が迫っています。大患難と大迫害が一度にやってきます。殉教を覚悟しなければならない時代の私たちにとっても、なぐさめのことばです。