2024.2.11「偽宗教 ユダ3-8」

 挨拶で「ヤコブの兄弟ユダ」とありますので、イエス様の兄弟であろうと思います。ヤコブと同じような辛口のメッセージをしていることからも分かります。また、時代とテーマがペテロ第二の手紙と似ているところがあります。AD.60年後半あるいは80年代、偽教師あるいは異端的な教えに対して書かれたものと思われます。特徴は、「エノク書」や「モーセの召天」という外典から引用していることです。そのためこの書を読むと、おどろ、おどろしたものを感じます。もちろん、霊感された聖書ですから、すばらしい教えが含まれていることは確かです。

1.偽宗教の動機

異端とか偽教師、偽キリストよりも、私は「偽宗教」の方が分かりやすいのではないかと思います。世の終わりになると、数えきれないほどの偽宗教がはびこります。イエス様はマタイ24章でこのように言われました。マタイ24:23,24「そのとき、『そら、キリストがここにいる』とか、『そこにいる』とか言う者があっても、信じてはいけません。にせキリスト、にせ預言者たちが現れて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。」キリストという意味は、メシヤとか救い主という意味です。ある人は自分を教祖、あるいは神の化身と言うかもしれません。しかし、どうしてある人たちは宗教を作り、自分を教祖だと言うのでしょうか?どうして、人々は偽宗教を作りたがるのでしょうか?

第一は、宗教はお金が儲かるからでしょう。特定な名前を上げて失礼かもしれませんが、「幸福の科学」は(昨年亡くなった)大川隆法が創設した宗教団体です。彼は東大法学部卒業で大変頭が良い人だと思います。仏教を土台としたもので哲学的で実践的な教えです。おそらく、彼は「宗教というのは儲かる」ということから「幸福の科学」を創設したのではないかと思います。他にもたくさんの宗教がありますが、やはりお金が儲かるというのが第一の理由だと思います。ちなみに、信者という字を2つ合わせると、「儲かる」という字になります。「そういう人造的な宗教に行く奴が馬鹿なんだ」と言えば、それまでですが、やはり何等かのご利益、あるいはメリットがあるはずです。そういうものがないのに、高いお金を捧げてやるわけがありません。たとえ対象が間違っていても、「信じる信仰」には力があるのです。商売繁盛、心の満たし、病の癒し、ビジネスの成功があるのです。全く、そういうものがなければ人々はやりません。私から言わせると悪魔が背後で働き、「この世のものを与えるけれど、永遠の命は与えないよ」という掟があることは間違いありません。

第二は、人が偽宗教を作るのは支配欲が満たされるからです。キリスト教の異端もそうですが、自分が神あるいは、キリストになるのですから、人々が自分を崇めてくれます。また、「これは神の御心です」と言えば、人々が従います。つまり、生まれつき人は、「人々を支配したい、意のままにコントロールしたい」という欲望があります。自分が教祖になれば、学問のある人、金持ち、美しい女性、権力者を自由に操ることができます。人々は先のことが不安なので、神さまからのお告げが欲しいのです。教祖は占いの霊によって、ある程度の預言ができると思います。「あの先生の預言はよく当たる」と評判になれば、どんどん人々が集まります。やがて信者たちはマインドコントロールされ、自分の意思がなくなります。教祖の言うことが一貫性がないのに、「それで良いのだ」と全く疑わないようになります。第三者から見れば、全くの詐欺なのに、マインドコントロールされているので、自分で判断できなくなっているのです。だいたい、そういう人は心理学とか人を支配する「帝王学」みたいなものを学んでいるので、人の心を操ることの天才なのです。豊臣秀吉もそうでしたが、「人たらし」です。「人たらし」というのは、「人の心をつかむのが上手な人」のことです。 不思議と惹きつけられる雰囲気をもった人のことを、「人たらし」と呼ぶそうです。とにかく、そのような宗教家はカリスマ的な人が多く、人の心を操ることの天才なのです。しかし、動機は汚れており、人々を支配したいからです。

 第三はキリストに対する憎しみがあります。彼らが反キリストと呼ばれるのはそのためです。彼らは心の中で「何がキリストだ、キリスト教会をダメにしてやるぞ!」という憎悪があります。その人は洗礼を受けて、一時はまじめなクリスチャンであったかもしれません。しかし、何かのことで躓き、キリスト教会が大嫌いになったのです。いわゆる背教者であり、未信者よりも始末に負えません。なぜなら、平気でキリストの名前を汚すようなことを言うからです。あえて、サタンを礼拝し、教会やクリスチャンたちを呪います。彼の対象は未信者ではなく、教会に通っているクリスチャンです。クリスチャンを惑わし、信仰の道から逸らして、救いを奪い取ろうとするのです。彼らは自分たちの仲間を信者のふりをさせて、教会に送り込み、しまいに教会を乗っ取るようです。はじめはとても真面目で信仰熱心で、たくさんの奉仕もします。しかし、そういう人が教会の役員になり指導権を握ると、本性を現わすのです。「教会を乗っ取るなんて本当にあるのかな?」と思いますが、彼らはそこまで考えているのです。パウロがこのように警告しています。ガラテヤ2:4「忍び込んだ偽兄弟たちがいたのに、強いられるということはありませんでした。彼らは私たちを奴隷にしようとして、キリスト・イエスにあって私たちが持っている自由を狙って、忍び込んでいたのです。」歴史をたどると反キリストになった人は、キリスト教に躓いた人がそうなります。ニーチェは牧師の子どもでした。大学で無神論に走り、やがては「神は死んだ」という神学まで打ち立てました。マルクスの父はユダヤ教のラビでした。しかし、大学卒業後は、当時の風潮に流され、無神論、反キリスト者になります。川上宗薫というポルノ作家がいましたが、彼は牧師の息子です。長崎の原爆のため母と2人の妹を失い、父は棄教しました。そういうこともあって、別の道に走ったのではないかと思います。中川健一牧師がおっしゃっていました。「世の中で最も麗しい人はクリスチャンです。そして、世の中でもっともひどいのもクリスチャンです」と。つまり、信仰を棄てたクリスチャンは未信者よりも悪くなるということです。未信者は神を恐れますが、躓いた人は神を恐れず、キリストに敵対する人になってしまうからです。私たちは、救いは神の恵みであることを覚え、ひたすら信仰の道を歩みたいと思います。

2.偽宗教の実体

ユダは、彼らの結末を、堕落した御使いたちのことを引用しています。ユダ6節「またイエスは、自分の領分を守らずに自分のいるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日のさばきのために、永遠の鎖につないで暗闇の下に閉じ込められました。」新改訳聖書2017年訳は「イエス」と訳していますが、主の方が良いのではないかと思います。黙示録12:4「その尾は天の星の三分の一を引き寄せて、それらを地に投げ落とした」と書いてあります。おそらく、星というのは御使いのことであり、サタンが堕落したとき、御使いの三分の一を引き連れたのだと思います。それが現在、悪霊となっているのです。おそらくユダはⅡペテロ2:4をここで引用したのだと思います。Ⅱペテロ2:4「神は、罪を犯した御使いたちを放置せず、地獄に投げ入れ、暗闇の縄目につないで、さばきの日まで閉じ込められました。」ユダ6節の文章とほとんど同じです。これはどういうことかというと、サタンに加勢して堕落した一部の御使いが、そのまま地獄に投げ入れられ、鎖に繋がれ、閉じ込められたままなのです。他の御使いはサタンとともに、神に敵対し、偽預言者や反キリストの背後で働いています。

続いて、ソドムゴモラのさばきを引用しています。ユダ7、8節「その御使いたちと同じように、ソドムやゴモラ、および周辺の町々も、淫行にふけって不自然な肉欲を追い求めたため、永遠の火の刑罰を受けて見せしめにされています。それにもかかわらず、この人たちは同じように夢想にふけって、肉体を汚し、権威を認めず、栄光ある者たちをののしっています。」外から見たら分かりませんが、私たちは彼らの実際の生活ぶりから本物かどうか判断することができます。それは、彼らの放縦な生活です。大体、教祖たちは多くの女性たちを囲って、ハーレムみたいにしています。信者の妻にも手を出します。だから、スキャンダルが絶えません。新興宗教の教祖はそういう噂が絶えません。権力と富がどうしても、放縦な生活へと進ませるのです。テレビに出るようなキリスト教の大伝道者もその誘惑に勝つことができません。パウロは「ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい」(Ⅰコリント10:12)と言っています。

ヨハネ黙示録17章に「大バビロン」が出てきます。これは、偽宗教の総本山みたいなものです。世の終わりには、政府の力で世界の宗教が1つに統一されるでしょう。その総本山が、ローマ・カトリックのバチカンだと言われています。黙示録17:4,5「その女は紫と緋色の衣をまとい、金と宝石と真珠で身を飾り、忌まわしいものと、自らの淫行の汚れで満ちた金の杯を手に持っていた。その額には、意味の秘められた名、『大バビロン、淫婦たちと地上の忌まわしいものの母』という名が記されていた。」「紫と緋色の衣、金と宝石と真珠で身を飾る」とありますが、ローマ・カトリックの異教的なきらびやかさを思い起こさせます。大バビロンは偽宗教であり、背教の教会です。現在、着々と宗教が1つになるような運動が勧められています。リベラル教会では、他の宗教との対話というのがさかんに行われています。どの宗教も、現れ方は違っていても、めざす神さまは同じだと言うわけです。しかし、黙示録18章には裁きの様子が記されています。「これらのことのため、一日のうちに、様々な災害、死病と悲しみと飢えが彼女を襲います。そして、彼女は火で焼き尽くされます。彼女をさばく神である主は、力ある方なのです。」彼女と淫らなことを行い、ぜいたくをした地の王たちは、彼女が焼かれる煙を見ると、彼女のことで泣いて胸を打ちたたく。」(黙示録18:8,9)。私たちはまさしく、このような時代に生きています。私たちは信仰の純潔を守らなければなりません。たとえ数が少なくても、霊的な姦淫から自分たちを守っていかなければなりません。

ユダは偽宗教の特徴をこのようにまとめています。ユダ12,13節「この人たちは、あなたがたの愛餐のしみです。恐れる心もなく一緒に食事をしますが、自分を養っているだけです。彼らは、風に吹き流される雨無し雲、枯れに枯れて根こそぎにされた、実りなき秋の木、自分の恥を泡立たせる海の荒波、真っ暗な闇が永遠に用意されている、さまよえる星です。」よく、このように詩的に書いたものだなーと関心します。新聖書注解がとても分かりやすく解説していますので、引用させていただきます。第一は「風に吹き流される雨無し雲」。これは、彼らが全くあてにならないことを言う。現代のいろいろな神学も、一見世の時流に沿った、もっともらしいことを語る。しかし真に教会の徳を建てるものではなく、いずれ吹き飛ばされてしまう。第二は「枯れに枯れて根こそぎにされた、実りなき秋の木」とは、彼らが主から離れて、全く役に立たない者であることを言っている。「実を結ばない者は、いずれ刈り取られてしまう。それは主に結びついていないで、根こそぎにされているからである。枯れに枯れては、直訳では「二度死んで」ということであり、主の恵みを一度味わって後、またもとの状態に戻ることである。第三は、「自分の恥を泡立たせる海の荒波、真っ暗な闇が永遠に用意されている、さまよえる星です。」これは、彼らの行いは落ち着きがなく、とどまることを知らないという意味である。「さまよう」とは、正しい道を捨てて真理から迷い出た無軌道な生き方をさしている。彼らを待っているのは真っ暗な闇である。まことに寂しい末路です。

この世においては、本物も偽物も分かりません。むしろ、偽物の方が幅を利かせて、私たちを時代遅れだと言うかもしれません。世の中の人たちも「新しいものは良い。進化を遂げたものが良い」と言うでしょう。確かにキリスト教は2000年前に完成した聖書を手にして、これが神のことばであると言います。でも、世の終わりになると白黒がつけられます。イエス様が毒麦のたとえを話したとき、弟子たちは「それでは、私たちが行って毒麦を抜き集めましょうか?」と言いました。それに対してイエス様はこのようにお答えになられました。マタイ13:29-33「いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。」今のところ、毒麦の方が栄えているように見えるかもしれません。でも、世の終わり、イエス様が来られた時に、御使いたちによって毒麦が集められ、火で焼かれてしまうのです(マタイ13:39-40)。

3.信仰の堅忍

ユダは偽宗教や異端に対して、辛口でぶちまけた後、一連の気高い命令を与えています。私はこの部分があるから、聖典に加えられる価値があるのではないかと思います。ユダ20-23節「しかし、愛する人々よ。あなたがたは、自分の持っている最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げ、聖霊によって祈り、神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに至らせる、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。疑いを抱く人々をあわれみ、火の中からつかみ出して救い、またある人々を、恐れを感じながらあわれみ、肉によって汚されたその下着さえも忌みきらいなさい。」このところには、4つの命令文があります。これは終わりの時代に住む私たちにとってはとても重要な命令であろうと思います。英語の聖書を読むととてもはっきりしていますので、ご紹介させていただきます。

第一は、building upです。これは「築き上げる」という意味です。何を築き上げるのでしょうか?ユダはあなた自身を築き上げよと命じています。何の上に築き上げるのでしょうか?「あなたが持っている最も聖い信仰の上に」です。ここから分かることは信仰は土台であり、私たちの行ないや人格がその上に築きあげられる必要があるということです。私たちは口では「信仰第一」と言うかもしれません。もちろん、そうですが、それは土台であり上物が必要だということです。それはヤコブ書でも学びましたが、行ないや人格だということです。Ⅰコリント3章では、「金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てる」とありましたが、安価で価値のないものだと火で焼かれてしまいます。金、銀、宝石など、価値のあるもので築き上げられたら幸いです。

第二は、prayingです。これは「祈る」という意味です。でも、色んな祈り方がありますが、ユダはどのように祈れと言っているのでしょうか?「聖霊によって祈りなさい」と言っています。これは、パウロがエペソ6章で「どんなときにも御霊によって祈りなさい」と同じです。ジョンバニヤンの頃は、教会が祈祷書に従って祈ることを信徒に強要しました。なぜなら、専門家が作った欠けのない美しい祈りだからです。しかし、ジョンバニヤンは「祈りは、聖霊によって祈るのだ」と断固反対しました。私たちが神さまに心を向けると、祈るべき事柄を聖霊様が教えてくださいます。たとえ流れるような美しい祈りでなくても、真実な祈りこそが神の御前に届くのです。

第三はkeepです。これは「保つ」という意味です。何を保つのでしょうか?神の愛のうちに自分自身を保つということです。神の愛とは、Ⅰヨハネで学んだように、まず、神が私たちを愛してくださったという愛です。この無条件で一方的な愛をキリストにあって私たちはいただいているのです。ですから、私たちの状況や状態は全く関係ありません。その次に、私たちがその愛によって神さまを愛するということです。Ⅰヨハネ5:3「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。」アーメン。神の愛のうちに自分自身を保つというのは、とても地味な感じがします。ずっとそこに留まる、キープするというのは、そこから離れないということです。イエス様はヨハネ15章で「わたしの愛の中にとどまりなさい」と言われました。私たちは何か活動していないとサボっているみたいに思うかもしれません。信仰生活は必ずしも奉仕に明け暮れることではありません。イエス様につながっている、イエス様の愛のうちに自分を保っていることも信仰です。

第四はlooking forです。これは「捜す」という意味です。何を捜すのでしょうか?キリストのあわれみを待ち望むということです。しかし、そのあと「あわれみなさい」という命令形が2回出てきます。これは自分に対するあわれみではありません。自分が神さまからのあわれみを受けたら、今度は他者をあわれむということです。このあわれみはとっても積極的です。22節「疑いを抱く人々をあわれむ」。そして、「火の中からつかみ出して救い、またある人々を、恐れを感じながらあわれむ」のです。これらの人は信仰があるのですが、疑ったり、滅びの中に逆戻りしそうな人たちのことです。「つかみ出し」というのは、強制的に滅びの道から引き戻すということです。まるで、信仰のレスキュー隊です。でも、人を助ける時というのは、とても危険であり、自分も罪に巻き込まれる恐れがあります。「またある人々を、恐れを感じながらあわれみ、肉によって汚されたその下着さえも忌みきらいなさい」と書いてあります。これは、自分自身も罪に陥らないように、神に対する恐れをもって臨むべきだということです。罪に陥っている人をあわれむが、しかし罪そのものは憎みなさいということです。

「築き上げる」「祈る」「保つ」「捜す」「あわれむ」これらは、私たちがすべきことです。A.Mハンターは『現代新約聖書入門』でこう述べています。「ユダは、神が目をさまして愛をもって守って下さることに釣り合うように、人間は目をさまして努力しなければならない、このことが『クリスチャンの堅忍』と呼ばれることであると、思い起こさせる」。「堅忍」は、ジョン・カルヴァンが言ったことです。カルヴァンは予定説、神の選びを強調しました。でも、人間の方は選ばれているからと言って、ぼーっと立っているだけではダメなのです。改革派の人がこのように解説しています。「『堅忍』とは、固く忍耐することを意味します。真の信者は、いろいろなことがあっても信仰で固く忍耐して、救いの完成に至ることができることを意味します。すなわち、真の信者は、全面的にも最後的にも、信仰から、救いから、恵みから落ちたり、外れたりは決してしない。何があっても必ず固く忍耐し、耐え抜き、持久して、救いのすばらしい完成に導かれ、至るという教えを意味します。」とても堅い表現ですが、なんとなく分かります。神さまの選びによって、私は救いから落ちることはない。そのことをふまえながら、どんなことがあっても自分は堅く忍耐してイエス様につながっているということでしょう。神さまは私たちに自由意志を与えてくださいました。ロボットだと、信じることに一回プログラムすれば、ずっとそのままです。しかし、人間には自由意志があるので、たとえどんなことが起きても、信じ続ける必要があります。世の終わりには、偽教師、偽預言者、偽キリストがはびこる預言されています。そういうものに惑わされないで、キリストを信じ続ける、神の愛のうちに自分を保ち続けましょう。生きることはキリスト、死ぬことも益です。キリストにはかえられません。アーメン。