2021.1.28「愛するガイオへ Ⅲヨハネ1-6」

ガイオは教会の監督か長老であろうと思いますが、だれかは分かりません。2節の「あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります」とのことばは有名で、ここだけ取り上げられがちです。しかし、このシリーズは「聖書的説教」を目指していますので、だれかからの本の引用ではなく、聖書そのものから説教したいと思います。ガイオはヨハネからとても愛されていますが、3つポイントで学びたいと思います。

1.真理に歩む

3-5「兄弟たちがやって来ては、あなたが真理に歩んでいることを証ししてくれるので、私は大いに喜んでいます。実際、あなたは真理のうちに歩んでいます。私にとって、自分の子どもたちが真理のうちに歩んでいることを聞くこと以上の大きな喜びはありません。愛する者よ。あなたは、兄弟たちのための、それもよそから来た人たちのための働きを忠実に行っています。」この短い聖句の中に、真理が3回記されています。真理はギリシャ語でアレセイアで「真理、本当」という意味です。また、客観的には「真実、実際」という意味です。また、「真理に歩む」とは、旧約的表現であり、みせかけではなく真実にという意味になります。

日本では「誠実」とか「真面目」が美徳とされています。しかし、何に対して誠実であり、何に対して真面目なのかは、あまり問われません。ということは、悪いことを真面目にやっている場合もあるということです。そう言ったら、悪魔も真面目に神に逆らい、人を誘惑して悪い道にいざなっています。それでは、ダメです。一方、真理に歩むとは、何か絶対的な基準に合わせるという意味が含まれています。私たちにとって真理とは神のみことば、聖書です。これは倫理道徳ではないので、時代に流されず、不変であります。「聖書が何と言っているか?」これを問い続けることはとても重要です。もう1つ、真理とはイエス・キリストのことです。真理の背後に、人格があり、愛があり、恵みがあります。これは妥協するという意味ではなく、律法主義でなくて、血の通った適用です。ヨハネ8章に姦淫の場で捕えられた女性が出てきます。本来なら律法によってさばかれるところですが、イエス様は彼女を裁かないで赦してあげました。その後、イエス様は「私の証は真実です」「わたしのさばきは真実です」と言われました。これは、イエス様が真実の創設者であり、真実の根源だということです。教会は「聖書にこうかいてあるじゃないか」と強調し過ぎて、パリサイ人や律法学者のような間違いを犯す可能性があります。

 ところで、ガイオは教会の監督、もしくは長老であろうと思います。Ⅰテモテ3章では「監督は、「よくもてなし、教える能力があり」と書かれています。また、テトス1章でも「人をよくもてなし、善を愛し」と書かれています。当時は巡回伝道者がいたので、監督として、彼らをもてなす責任があったと思われます。聖書注解に、旅人のもてなしがキリスト者の習慣となった理由についてこのように書かれていました。「当時の旅行は時間がかかり、長期に渡った、貧しい人々が多かった、当時の旅館は悪名の高いものだったからであるという理由からです」。ですから、これを現代にどのくらい適用するかは多少違ってきます。兵庫県の高砂教会に松見先生が研修会の奉仕に行ったそうです。「講師のために」と、ビジネス・ホテルを用意してくれたそうです。松見先生は「ホテルにホッテいるのか」とダジャレを言ったそうです。二回目に、来られたときは教会のゲストルームに泊めて差し上げたそうです。ところが、高砂教会の信徒たちは朝早くから奉仕をし始めるので、物音で目が覚めてしまいました。先生は「うるさくてかなわん、次からはホテルで良い」と言ったそうです。その次があったかどうかは分かりません。私も兵庫県の井上牧師に招かれたことがあります。ツインのとても豪華なホテルでした。「いやー、一人じゃ広すぎる。家内を連れてこれば良かった!」と思いました。大和カルバリーに奉仕に行くと、豪華なもてなしをしてくださいます。私はそういうのが慣れていないので、かえって居心地が悪くなります。つっけんどにされるのも淋しいですが、「VIP扱いもどうなか?」と思います。

 ガイオの奉仕は「真理」に基づいていました。だから、「兄弟たちのために、よそから来た人たちのための働きを忠実に行っています」と書かれています。おもてなしは、招く側は、人によって程度を変えるのではないかと思います。当人には言わなくても、A、B、Cとランク付けするかもしれません。ガイオは「この人はどうかな?」と思う人に対しても、真理に基づいて、忠実に仕えたのではないかと思います。マタイ25章である人が「いつ、旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せて差し上げたでしょうか」と聞いています。すると、王は「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです」と言いました。ガイオはおそらく、人間的な損得やかけひきなしで、主をもてなすように人をもてなしたということはないでしょうか。なぜ、ヨハネは「愛するガイオへ」と書いているのでしょう?それは、真理を愛しているヨハネが、ガイオが真理を愛していると分かったからです。ヨハネによる福音書には「真理」とか「まこと」ということばに満ちています。また、ヨハネ第一の手紙には、「真理」もしくは「真実」が13回、第二の手紙には4回出てきます。ヨハネは真理が大好きなのです。だから、ガイオが真実のうちに歩んでいることを喜んでいるのです。真理や真実の反対は何でしょう?偽り、嘘、虚偽です。ヨハネはこれらが大嫌いでした。本当に偽キリスト、偽預言者たちを憎んでいます。

 ヨハネはガイオに「愛する者よ。あなたのたましいが幸いを得ているように」と言っています。これは、ガイオのたましいが既に幸いを得ているということです。そうだから、「すべての点で幸いを得、また健康であるように祈ります」と言っているのです。ガイオが真理のうちを歩んでいるということは、ガイオのたましいが幸いを得ているしるしなのだとヨハネは分かっていたのです。私たちもヨハネのように、またガイオのように、真理のうちを歩みたいと思います。それは、神のみことばに、そしてイエス・キリストに従って歩むということです。なぜなら、神のみことばは真理であり、イエス・キリストご自身も真理だからです。

 

2.愛の行い

5節~8節まで、リビングバイブルでご紹介いたします。「ガイオよ。あなたは旅行中の教師や伝道者を、もてなしてくれているそうですね。さぞかし、神さまはお喜びでしょう。世話になった人たちが、こちらの教会に立ち寄って、あなたの友情と愛にあふれたもてなしについて、話してくれました。あなたが物惜しみせず、心からもてなし、彼らを次の旅へ送り出してくれることは、私にとっても、大変うれしいことです。それは主のための旅行であり、信者でない人々に、ひたすら良い知らせを伝えているのです。そのために必要な食物も衣服も、泊まる所もお金も、信者でない人々から受け取るわけにはいきません。ですから、私たちが強力して、そのめんどうをみるべきです。そうすれば、一緒に主の働きに参加していることになりますから。」つまりこういうことです。ヨハネはガイオの教会に立ち寄った教師や伝道者から、その様子を聞いたようです。ガイオが物惜しみせず、心からもてなして、次の旅行のための必要も与えてあげたということです。ここに「信者でない人々」と書かれていますが、これは信仰をまだ受け入れていない異邦人のことです。教師や伝道者たちが、彼らに伝道して救われたとしても、金銭を要求するわけにはいきません。当時、そんなことをすると「にせ預言者」と思われたようです。だから、経済的に困窮している中で、教会から食べ物や衣服、泊まる所やお金が与えられたら、なんと助かることでしょう。ガイオは彼らのために物惜しみせず、心からもてなし、彼らを次の旅へ送り出してあげたのです。それは、自分も一緒に主の働きに参加していることになるからです。まさしく、愛の行いです。

ヨハネは第一の手紙で、「私たちは、ことばや口先だけではなく、行ないと真実をもて愛し合いましょう」(Ⅰヨハネ3:18)と教えていました。現代は教団教派が整っているので、巡回する教師や伝道者はあまりいません。ときたま研修会や伝道集会でお招きするくらいです。でも、日本では牧会している教会が伝道者を支えてあげないと、謝礼だけでは生活できません。この世においては、有名人を招くと、1回の講演で100万円くらい差し上げると聞いています。ところが、キリスト教会では一桁ですので、それだけでは生活できません。ですから、信仰だけで巡回伝道者をするということはものすごく大変です。私の尊敬する伝道者に申賢均牧師がいらっしゃいます。韓国のリバイバリストで、既に天に召されている先生です。先生のメッセージが大好きで、日本に来られた時はよく行きました。韓国では伝道者をとても大切に扱うそうです。宿泊するときは、大体、その教会の長老宅です。焼肉をご馳走し、お風呂上りは下着とワイシャツを備えておくそうです。そして、家族全員、孫まで集めて先生から按手の祈りをしていただくそうです。それを「聞いたら羨ましいなー」と思いました。でも、韓国の伝道者はとてもハードで、早天祈祷会、断食祈祷会、リバイバル聖会、そして病の癒しや聖霊の満たしの按手をするので大変です。「ああ、この先生に霊力がないなー」と思われると、ピタッと来なくなります。だから、韓国の牧師や伝道者は糖尿病になるか短命であると聞いています。あまり用いられないで長生きするか、一杯用いられて天国へ旅立つか、どちらが良いか迷ってしまいます。

ヨハネは「私たちは、ことばや口先だけではなく、行ないと真実をもて愛し合いましょう」(Ⅰヨハネ3:18)と教えていました。ですから、愛を示すためには、ことばだけではなく、具体的な行いも必要だということです。考えてみれば、神さまは最初、預言者たちを遣わして、イスラエルの民を導かれました。預言者は「主はこう言われる」とおことばを取り次ぎました。でも、イスラエルは罪を重ね、反逆の子らでした。世の終わり、神さまはひとり子をこの世に遣わしました。そのときに、ことばが肉体となったのです。ヨハネは第一ヨハネの書き出してこう証言しています。「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。」弟子たちが、ことばが肉体をとって、この地でおられたことを証言しています。最後に御子イエス様は私たちを贖うために、十字架で釘打たれ、血を流してくださいました。ヨハネが「ここに愛がある」と言っていますが、ことばだけではなく、ご自身を十字架にささげて、愛を現わしてくださいました。私たちは人を愛するとき、多少の痛みを感じます。労力、お金、時間、何等かを提供しなければならないからです。自分の子どもだったら、出し惜しみすることなくささげることができます。しかし、他人となると、出し惜しみするのではないでしょうか?ここに出てくるのは巡回する教師や伝道者です。神さまに仕えている方々です。私たちが行けないところに彼らは行って福音を宣べ伝え、人々を教え導きます。ヨハネは8節で「私たちはこのような人々を受け入れるべきです。そうすれば、私たちは真理のために働く同労者となれます」と述べています。これは、巡回する教師や伝道者たちの同労者となれると言うことです。彼らの働きの報いを受けることができるということです。

かなり前に、私が税務署に行く途中、車のタイヤがバーストしてしまいました。大雨が降っていて、「どこかに屋根があればそこでタイヤ交換ができるのに」と思いました。でも、見つからずどこかの工場の広い駐車場を見つけました。そこの端っこに車を止めて、タイヤ交換をしようとしました。ところが、工場長らしき人が現れ、「そこで何をしているんだ。人の用地に勝手に入るな。道路でやれ!」と追い出されました。しょうがないので、道路脇に駐車して、車の下に潜り込み、スぺヤタイヤをはずそうとしたができません。道路脇に水がじゃんじゃん溜まりプールに浸かっているようでした。なんとか、スぺヤタイヤをはずして、交換できました。ずぶぬれで、税務署に行くと25分待たされ、書類の手違いだったというのです。工場長と言い、税務署と言い、やり場のない怒りと悲しみがこみ上げました。そのとき、みことばを思い出しました。マタイ10:42「まことに、あなたがたに言います。わたしの弟子だからということで、この小さい者たちの一人に一杯の冷たい水でも飲ませる人は、決して報いを失うことがありません。」工場長の言うことは正論です。でも、「良いですよ。そこで取り換えても」と許してくれたらどうだったでしょうか?イエス様が「私の弟子だからと言うことで、親切にしてくれました。あなたは決して報いを失うことはありません」とおっしゃったでしょう。彼は神さまの報いを失ったのだと思いました。

3.善を見習え

 9節以降読むと分かりますが、ヨハネがこの手紙を書いた主な目的はこのことであると思います。9-10節「私は教会に少しばかり書き送りましたが、彼らの中でかしらになりたがっているディオテレペスが、私たちを受け入れません。ですから、私が行ったなら、彼のしている行為を指摘するつもりです。彼は意地悪なことばで私たちをののしっています。それでも満足せず、兄弟たちを受け入れないばかりか、受け入れたいと思う人たちの邪魔をし、教会から追い出しています。」ディオテレペスはガイオと同じ教会に属している長老の一人かもしれません。彼はヨハネを受け入れないばかりか、ヨハネをののしっています。さらには、自分に従わない兄弟たちを教会から追い出しています。そのことを、ヨハネは手紙で譴責したのですが、受け入れてくれませんでした。コリント教会の教会でも同じようなことがありました。パウロの使徒性を認めず、パウロの悪口を言っている人たちがいました。ディオテレペスも同じような人物で、ヨハネの使徒性を認めず、教会内で勝手なことをしています。彼はヨハネに逆らうということよりも、権威そのものに逆らいたいのではないかと思います。そして、自分が教会のかしらになり、人々を思い通りに動かしたいと願っていたのではないでしょうか。

 サタンが堕落したのはなぜでしょう?彼は「密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう」(イザヤ14:14)と思って堕落したのです。サタンは天使長の一人だったと思われます。彼は「全きものの典型であった。知恵に満ち、美の極みであった」(エゼキエル28:12)と言われています。だから彼は神のようになりたいと願って、他の御使いたちをそそのかしました。そのため、神にさばかれ「よみに落とされ、穴の底に落とされました」(イザヤ14:15)。このことから分かるように、高慢は神の前では最も大きな罪です。ディオテレペスの罪はサタンと同じ高慢であると言えます。権威とはどのようにして与えられるのでしょうか?権威は自分で勝ち取るものではありません。まず、その人は自分の上にある権威に従う必要があります。そうすれば、いずれその人に権威が与えられます。ルカ福音書7章にローマの百人隊長の物語が出てきます。彼はイエス様に「ただ、おことばお下さい。そうして私のしもべを癒してください」とお願いしました。そして、彼は続けてこう言いました。「と申しますのは、私も権威の下に置かれている者だからです。私自身の下にも兵士たちがいて、その一人に『行け』と言えばいきますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに「これをしろ」と言えば、そのようにします。」(ルカ7:8)。イエス様は「これほどの信仰をみたことがありません」と驚かれました。どういうことかと言うと、百人隊長はイエス様には病を癒す神的な権威があると理解していました。なぜなら、自分自身が権威の下に身を置き、権威がどれほど力があるのか知っていたからです。もし、ディオテレペスが本当に権威を持ちたかったなら、まず、自分よりも上の権威に服する必要があるのです。そうすれば、その権威の下で、自分に与えられた権威を行使することができるのです。

 ヨハネは続けてこう述べています。11-12愛する者よ。悪を見習わないで、善を見習いなさい。善を行う者は神から出た者であり、悪を行う者は神を見たことがない者です。デメテリオについては、すべての人たちが、また真理そのものが証ししています。私たちも証しします。私たちの証しが真実であることは、あなたも知っています。」ヨハネは「悪を見習わないで、善を見習いなさい」と言った直後、別の人物について言及しています。はじめて出てきましたが、デメテリオです。彼はすべてお人から認められている人のようです。ヨハネが彼の証は真実であると保証しています。ですから、「悪を見習うな」とは、ディオテレペスのような悪を見習うなということです。一方、「善を見習いなさい」とは、ガイオやデメテリオのような善を見習えということです。言い換えると、真理の敵はディオテレペスであり、真理のあかしはガイオやデメテリオということになります。Ⅰヨハネ4:6「私たちは神から出た者です。神を知っている者は私たちの言うことを聞き、神から出ていない者は私たちの言うことを聞きません。それによって私たちは、真理の霊と偽りの霊を見分けます。」結論から言って、神から出た者は、私たちつまり使徒ヨハネたちの言うことを聞くということです。おそらく「神から出る」というのは「神から生まれる」と置き換えても良いのではないかと思います。

 私たちはどのような人物の善を見習うべきでしょうか?あるいは、どのような人物の悪を見習わないようにすべきでしょうか?もちろん100%その人が善であるとか、100%その人が悪であるということはないでしょう。ポイントはその人に現れている顕著な性格、行為、態度と言えるのではないでしょうか?私たちは愛のメガネをかけてできるだけ人をさばかないようにすべきです。でも、真理を見分けるメガネも必要です。ヨハネはこの2つを同時に身に着け、ある人には優しく、ある人にはとても厳しく対処しています。私は思っていることをすぐに口に出すという欠点を持っています。正しいのは、この人がどういう人物であるか分かったとしても、口に出してはならないということです。決して、偽善者になれということではありません。どういう人であるか見極めながらも、クリスチャンとして正しいふるまいをするということです。そして、「この人のこのような善を見習おう」とか「この人のこのような悪を見習ってはいけない」と判断しながら生活するということです。第三ヨハネの主題は2つありました。第一は真理のうちを歩むということです。ヨハネは「自分の子どもたちが真理のうちに歩んでいることを聞くこと以上の大きな喜びはありません」(4節)と言っているからです。第二は愛をもって仕えるということです。ここでは巡回している教師や伝道者をもてなすという具体例が記されていました。現      代的に適用するなら、直接伝道している人たちをサポートすることによって、同労者の報いに預かることができるということです。この2つを実行している人が、私たちの見習うべき人たちだということです。私たちはこれまでの信仰生活において、「ああ、あの人には大変お世話になったなー」という人たちが何人もいると思います。ヨハネ13:14,15「主であり、師であるこの私が、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。私があなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです。」