2024.1.21「偽りの教え Ⅱヨハネ6-11」

ヨハネ第二の手紙は、第一の手紙を簡略化したものです。そこで今回は、この二つの手紙に共通して出てくる1つの主題を取り上げたいと思います。それは紀元後100年位にキリスト教の異端が出始めていました。ヨハネは彼らの「偽りの教え」に注意するように警告を発しています。彼らは反キリストとも呼ばれていますが、彼らの特徴を3つあげながら、正しい信仰とは何かということを学びたいと思います。

1.偽りの教え

1:7「こう命じるのは、人を惑わす者たち、イエス・キリストが人となって来られたことを告白しない者たちが、大勢世に出て来たからです。こういう者は惑わす者であり、反キリストです。」まず、偽り教えの1つは「イエス・キリストが人となって来られたことを告白しない」ということです。「どういうことかな?」と思うかもしれません。当時はギリシャ哲学の影響を受けて、霊は善であるが、物質は悪であると考えられていました。そのため、キリストが肉体をもってこの地上に来られたことを信じることができませんでした。こういう人たちは神秘的な知識(グノーシス)によって霊的な解放を求めました。また、ある人たちは、キリストは霊的存在で、肉体を持っているように見えたんだと言いました。これを「仮現説」と呼んでいます。確かに、旧約聖書を見ると、御使いと一緒に受肉前のキリストがいらっしゃるのではないだろうかという記事が何か所かあります。The engel と呼ばれ、明らかに他の御使いとは別格のようです。つまり、福音書に記されているキリストも肉体をもっているように見えたんだというのです。また、ケリントスという人はこう説を唱えました。「キリストの霊はバプテスマの時はじめて人間に宿り、十字架の上で死ぬ前に彼から離れたのだ」(メリル・テニィ『新約概論』)。神であるキリストが死ぬということはありえないだろうという考えたわけです。もう少し、時代が進むと「キリストが神であり同時に人であるということがありえるだろうか?」という神学論争まで発展していきます。

 正統的な考えはこうです。イエス・キリストは神の子であり、肉体を持っていたということです。このお方が十字架にかかり血を流して、罪を贖われたのです。十字架で死ぬ前に天に帰られたのでは、人類の身代わりということにはなりません。第一ヨハネの書き出しを読むと、キリストが肉体をもっておられたことを強調しているのが分かります。Ⅰヨハネ1:1-2「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。」「初めからあったもの」というのは、ヨハネによる福音書の書き出しと似ており、永遠から父のみもとにおられたことを表現しています。その後、「私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて」と書いてあります。まさしく、ヨハネたちが、肉体を持ったイエス様を見て、触って、お声を聞いたということです。私たちは「それは当たり前だろう」と思うかもしれません。しかし、肉体を悪と考える人たちから見ると、「それはありえないだろう」と言うでのす。ギリシャ哲学がどうして肉体が悪と考えるのかわかりません。でも、聖書はそのようには教えていません。神さまが6日目にご自身のかたにに似せて人を造りました。創世記1:31「神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。」堕落する前の人間は、非常に良かったのです。では、アダムが神に逆らって堕落したために、全部ダメになったのでしょうか?宗教改革者たちは、「完全に堕落してしまった」と言います。でも、その意味は、「自分の理性では神を発見できない。」あるいは「自分の良い行いで救いを得られない」という意味で、そういったのです。イザヤ書43:4新改訳3「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」これは、神さまが私たちをこのように評価しているということです。もし、私たちが罪に汚れた存在で、何も価値がないと考えるならどうでしょう?イエス・キリストがそんな者のために、ご自分の命を投げ出して買い戻そうとするでしょうか?人間は神の子どもとして潜在的な価値があり、ただ失われているのが問題だということです。

 私たちの罪の贖いを成し遂げるため、イエス・キリストは肉体をもってこの地上に来られ、ご自分の肉体を宥めの供え物にささげる必要があったのです。ヘブルの記者はこのように述べています。ヘブル10:4,5「雄牛と雄やぎの血は罪を除くことができないからです。ですからキリストは、この世界に来てこう言われました。『あなたは、いけにえやささげ物をお求めにならないで、わたしに、からだを備えてくださいました』」。アーメン。イエス・キリストはまことの神であられ、同時にまことの人であったのです。キリストは私たちの魂だけではなく、肉体ごと贖うために十字架で死なれ、三日目によみがえられたのです。私たちはイエス様を信じると霊的に生まれ変わります。罪の贖いを受けてはいますが、魂と肉体は罪の影響を受けています。罪を犯す可能性もあるし、またこの肉体は老化して死にます。しかし、キリストが初穂としてよみがえられたように、私たちも終わりの日に、栄光のからだによみがえります。つまり、キリスト教の救いは肉体の贖いも含まれるということです。今日、ストイックという言葉が良く聞かれます。これは、ギリシャのストア派から生まれた禁欲主義のなごりです。私たちは肉体をいじめてはいけません。という私もこれまで随分と肉体を酷使してきました。人々が「お体をご自愛下さい」と言っているのを聞いたとき、「ずいぶんと甘ったれている」と思っていました。ところが、2019年春、二回も入院手術してから、「ご自愛しなければならないなー」とつくづく思いました。肉体は魂の器です。いくら魂が恵まれていても、肉体がぼろぼろなのでは、行きたいところへも行けず、やりたいこともできなくなるからです。中味も大切ですが、入れ物も大切です。みなさんも神さまから与えられた、この肉体を主が召して下さる日まで、大切に用いましょう。私たちはモーセを見倣いたいと思います。申命記34:7「モーセが死んだときは百二十歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった。」アーメン。

2.反キリストの霊

 Ⅱヨハネ7節に「反キリスト」ということばが出てきます。実はⅠヨハネにも何度か出てきます。Ⅰヨハネ2:18「幼子たち、今は終わりの時です。反キリストが来るとあなたがたが聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。それによって、今が終わりの時であると分かります。」さらに、Ⅰヨハネ2:22「偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者でなくてだれでしょう。御父と御子を否定する者、それが反キリストです。」さらに、Ⅰヨハネ4:3「イエスを告白しない霊はみな、神からのものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていましたが、今すでに世に来ているのです。」では、反キリストの特徴とはどのようなものなのでしょうか?まず、終わりの時代に多くの反キリストが現れるということです。聖書で「終わりの時代」というのは、聖霊降臨の日、ペンテコステの日から始まりました。使徒2:17「終わりの日に、私はすべての人に私の霊を注ぐ」とあるからです。聖霊の働きが増すと同時に、反キリストの霊もそれと比例して働くということでしょう。現代はヨハネ黙示録の患難期に入ろうとしてますので、反キリストが目の前に現れることでしょう。また、反キリストの特徴は「イエスがキリストであることを否定する者」あるいは「御父と御子を否定する者」です。イエスがキリストとは、「イエス様がメシヤであり、唯一の仲介者」という意味です。神さまへの道は、イエス様が唯一です。また、父なる神と、子なる神とを認めるかどうかです。神が唯一であることは認めるけれど、イエスは神ではないと言うのは明らかに異端であり、反キリストです。そして最後は「イエスを告白しない霊は、神からのものではない」ということです。それは反キリストの霊です。サタンや悪霊は絶対、イエスを主と告白しません。私たちは霊だからと言って、何でも信じてはいけません。イエス・キリストが救い主であり、神であるかを告白するかどうかで分かります。

 現代はスピリチュアル・ブームが巻き起こっています。インターネッには、「中高年が占いなどのスピリチュアルにはまり、財産や大金をまきあげられるということが多発している」と書かれていました。そういうスピリチュアルを警告しているものもありますが、逆に勧誘しているセミナーやカウンセリングもたくさんあります。日本人は霊だったら何でも信じるというところがあります。なぜなら、日本はもともと精霊崇拝の国であり、木や石、動物にも霊があると信じるからです。あるとき、「ペットを連れて礼拝に行って良いですか?」という電話がありました。私は「小型犬ですか?礼拝中、膝の上でさわがなければ良いですよ」と答えました。さらに、「行った時に聞いてもらいたいことがあるのです」というので、「礼拝の空き時間だったら良いですよ。でも、どのようなことですか?」とお聞きました。そうしたら、「スピリチュアルなことです」と答えたので、びくっときました。「前、飼っていた愛犬が死んでから、愛犬の霊が私と一緒にいます。今ではペットと話すことができます。まばゆい光と天使も見ました。あるところへ行って相談したら、それは輪廻転生とのことです」と言うのです。私は「動物に霊はありません。それは悪霊です。輪廻はありません。人生は一回限りです」と答えたら、カンカンに怒って、電話を切られてしまいました。「そういう人の相談には乗りたくないなー」と心の中で思いました。やはり、日本人は聖書が土台にないので、不思議な体験をするとどんなものでも信じてしまうところがあります。思えば、私も「天に引き上げられたことがある」と言ったことがあります。当教会の兄姉は信じて下さるでしょうが、霊的な体験を強調すると「うさんくさい」と思われるかもしれません。やはり、それが聖書的であるかどうか吟味する必要があります。やたら預言を強調する教会や団体があります。かなり前から「預言喫茶」というのもあり、クリスチャンたちが大勢出かけているようです。私は預言の賜物は信じています。しかし、多くの場合それは、自分が祈っていることの確認となるものです。基本的には聖書を読んで、自分で神さまに祈って導きを得ることです。自分で神さまから聞こうとしないで、人から預言をいただくというのは邪道であり、占いであり、サタンの罠にはまってしまいます。

 ところで「反キリスト」ということばは、第一ヨハネと第二ヨハネにしか出てこないことばです。ギリシャ語では「アンテ・クリストス」と言います。アンテは、「向かって」「反対」という接頭語です。アンテ・クリストスとなると、「キリストに反対する」という意味になります。聖書的には反キリストは「世の終末に現れるキリストの敵」あるいは「反キリストに仕える異端教師」という意味です。Ⅱテモテ2章には「不法の者」と呼ばれ、「自分こそ神であると宣言して、神の宮に座る」と書かれています。「不法の者」とは「反キリスト」であり、それに偽預言者たちが加担します。人々を惑わすだけではなく、獣を拝むように強制し、拝まない者を殺します。人々は生き延びるために獣の刻印を手に受けるか、あるいは殉教するかどちらかです。車に666というナンバーを付けている人がいますが、反キリストの恐ろしさを知らない人です。ヨハネの時代にそのような兆しがあったのですから、2000年後の私たちはどうなのでしょうか?ヨハネ黙示録の時代に片足を突っ込んでいることは間違いありません。一度、反キリストの霊の影響下に置かれると、警戒心など全くなくなり、霊的に麻痺した状態になります。夢遊病者のように、反キリストの言いなりになってしまうでしょう。ですから、一時も早くキリストを信じて、霊的に覚醒した状態になっておく必要があります。この世ではインフルエンザにかからないように前もってワクチンを接種します。同じように、前もってキリストの御霊を受けているなら、いつどんなことがあっても大丈夫です。私たちの気づかないところで、反キリストは着々と世界征服を準備していることは間違いありません。反キリストがエルサレム神殿に立ったなら、気づいた時は、もう遅いかもしれません。何故なら、政府もそれに加担し、すべての国民を管理し、統制するようになるからです。IT化、マイナンバー制度、キャッスレス決済、クラウド、様々な認証システム…とても便利になりました。でも、個人個人をとても管理しやすくなっています。黙示録13:17「また、その刻印を持っている者以外は、だれも物を売り買いできないようにした。刻印とは、あの獣の名、またはその名が表す数字である。」私はその方向に向かっていると信じます。

3.使徒の教えに従わない

 Ⅱヨハネ9-11「だれでも、『先を行って』キリストの教えにとどまらない者は、神を持っていません。その教えにとどまる者こそ、御父も御子も持っています。あなたがたのところに来る人で、この教えを携えていない者は、家に受け入れてはいけません。あいさつのことばをかけてもいけません。そういう人にあいさつすれば、その悪い行いをともにすることになります。」「先を行って」は、前の訳では「行き過ぎをして」と訳されていました。新聖書注解にはこのように書かれていました。「これは、異端の用語を逆用した言い方と思われる。彼らは自分たちは進歩的思想家であると自負し、結局キリストの教えからはみ出て、進み過ぎてしまったのである。この点、真実のキリスト者は保守的で、キリストの教え、すなわちキリストが与えられた真理の中にとどまるのである。彼の教えから進み過ぎることは進歩ではなく背教であり、光を得ることではなく、やみに落ち込むことである」と書かれていました、私は「キリストの教え」とは、使徒たちがキリストから受けて書いた聖書自体がそうであると思います。イエス・キリストは一言も書物を残していません。弟子たちがイエス様が言われたことばを書き残しました。また、パウロは第三の天にのぼり、直接、啓示をいただきました。ひとことで言って、彼らの教えが「使徒的であるか」ということがチェックポイントです。使徒パウロはこう述べています。ガラテヤ1:8,9「しかし、私たちであれ天の御使いであれ、もし私たちがあなたがたに宣べ伝えた福音に反することを、福音として宣べ伝えるなら、そのような者はのろわれるべきです。私たちが以前にも言ったように、今もう一度、私は言います。もしだれかが、あなたがたが受けた福音に反する福音をあなたがたに宣べ伝えているなら、そのような者はのろわれるべきです。…私はそれを人間から受けたのではなく、また教えられたのでもありません。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。」

この聖書はヨハネ黙示録で完結しています。これ以上の霊感はありません。聖書に書かれていない新しいことを言うなら、それは要注意です。「キリストの教えに留まる」ということは、使徒たちが書いた聖書にとどまるということでもあるのです。新約聖書がすべてキリストの12使徒が書いたものではありません。しかし、彼らの背後には使徒がおり、使徒的権威があります。ルカは使徒ではありませんが、背後にパウロがいます。マルコは使徒ではありせんが、背後にペテロがいます。ヘブル書はだれが書いたか分かりませんが、パウロと行動をともにした人であろうと思います。エペソ2:20「使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられていて、キリスト・イエスご自身がその要の石です。」とあるように、教会の土台は使徒や預言者なのです。私たちは彼らの教えより先に行ったり、行き過ぎをしてはいけません。彼らが言うキリストの教えにとどまっていなければならないのです。この世では新しいものが良いと言われています。何でも進歩しなければならないと言います。しかし、信仰は保守的で良いのです。もし、それが真理であるならば、永遠であり、変化する必要はありません。マルチン・ルターは「聖書は古いものでもなければ新しいものでもない。聖書は永遠のものである」と言いました。ナポレオンは「聖書は単なる書物ではない。それに反するすべてのものを征服する力を持つ生き物である」と言いました。ですから、聖書に立脚する信仰は堅く立ち、聖書を二次的なものにする異端は消えてなくなるのです。

最後に、愛の使徒であるヨハネが「耳(目)を疑うようなことを」述べています。Ⅱヨハネ10,11「あなたがたのところに来る人で、この教えを携えていない者は、家に受け入れてはいけません。あいさつのことばをかけてもいけません。そういう人にあいさつすれば、その悪い行いをともにすることになります。」「あいさつもするな、家にも入れるな」とは、きびしいような感じがします。もし、この手紙がヨハネが書いたものなら、ある出来事を思い出します。イエス様がエルサレムに向けて進んでおられたとき、サマリヤ人がイエス様を受け入れませんでした。すると弟子のヤコブとヨハネが「主よ。私たちが天から火を下して、彼らを焼き滅ぼしてしまいましょうか」と言いました。篤い忠誠心から出たことばです。そのヨハネが「この教えを携えていない者は、家に受け入れてはいけません」と言うのです。エホバの証人という熱心な人たちが家々を訪問しています。聖書を用いますが、彼らはアメリカで生まれの新興宗教で、キリスト教の異端です。私が座間キリスト教会で奉仕していた頃は、聖書から互いに議論したことがありました。でも、平行線で終わりました。片方の女性が「私は20年以上もやってきたので、今更変えられない」と本音を漏らしていました。つまり、あのような異端の人たちを家に入れたり、挨拶してはいけないということです。彼らは洗脳されていますので、定まった答え方しか答えられません。熱心だからと言って、感心してはいけません。彼らは恐れに駆り立てられて布教しているからです。韓国生まれのキリスト教の異端が日本にも入り込んでおり、クリスチャンたちを誘い込み、教会ごと乗っ取ろうとしているものもあると聞いています。

終りの時代は偽預言者と反キリストの力が増すので、生半可な信仰ではやられてしまいます。ちゃんとした教会につながることと、聖書を自分で良く学ぶことです。信仰書も自分のお金で買って、月1冊以上は読むべきです。この世には偽札がたくさんありますが、一番高価な1万円札のものがほとんどです。偽千円では赤字になるからです。だからキリスト教の異端が多いのです。銀行員は偽札がどれかということを勉強しません。いつも本物を触っていると、偽札がどれかわかるそうです。私たちも本物のキリスト教にどっぷり浸かっていると、偽の教えが分かります。時々、新しいことを好んで右か左に偏ることがあるかもしれません。時代のニーズによって、強調するテーマが違ってくるからです。「行き過ぎてるなー」と聖霊に促されたら、反対側に軌道修正すべきです。真理は両極端にあるのではなく、真ん中にあるからです。Ⅰヨハネ4:6「私たちは神から出た者です。神を知っている者は私たちの言うことを聞き、神から出ていない者は私たちの言うことを聞きません。それによって私たちは、真理の霊と偽りの霊を見分けます。」世の人たちがどうであろうと、私たちは御霊に満たされ、キリストの教えにとどまり続けましょう。