2024.1.14「メシアの務め イザヤ61:1」

イザヤ61章の1節は、イエス・キリストの預言です。主とは父なる神さまのことであり、そのお方がイエス様に「油を注ぐ」ということです。イエスは個人名であり、キリストは「油注がれた者」という職名です。キリストは旧約聖書のヘブル語では「マーシーアッフ」であり、ユダヤ人はメシアと呼びました。かつて、油注ぎは預言者、王、祭司になされました。イエス・キリストはこれら3つの職務をこの地上でなされましたが、復活昇天後もそれらの務めを継続しておられます。きょうは、聖書からイエス・キリストの3つ職務について学びたいと思います。

1.預言者

 預言者とは未来のことを言い当てる予言ではありません。日本語では神のことばを預かると書かれているように、神のことばを受けて、それを民たちに告げることです。たとえばモーセやイザヤ、エレミヤは「主がこう言われます」と民たちに告げました。新約時代は神の御霊がそれぞれの信仰者に直接、教えてくれるので、そのような預言者は不要になりました。預言という賜物はありますが、旧約聖書の預言者のように「主はこう言われます」と断言するのは聖書的でないということです。イエス・キリストはこの地上において、預言者の務めを果たされました。マタイ5章から7章までは「山の上の説教」として良く知られています。イエス様は旧約聖書の十戒を引用しながら、「しかし、私はあなたがたに言います」と、再解釈し、オリジナルな意味を教えました。なぜなら、これらの戒めはもともと、ことばであられる御子と御父が作成したものだからです。人々はイエス様の教えを聞いたあと、どのように思ったでしょうか?マタイ7:28-29「イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。イエスが、彼らの律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである。」どういうことかと言いますと、律法学者たちは「こう書かれている」とか「こう言われている」と、間接的に人々に教えました。ところが、イエス様は「私はこう言う」とダイレクトに語られたのです。普通だったら、「あんたは何様なんだ!」と文句が出るはずです。しかし、群衆はイエス様の権威ある教えに圧倒されてしまったのです。

 イエス様が預言者であることを証明するいくつかの聖書箇所を開きたいと思います。ヨハネ4章にはサマリアの女性が登場します。サマリアの女性は目の前の人が、だれか分かりませんでした。彼女は素性の良くない女性だったので、本当はもっと乱暴な口調でなかったかと思います。リビングバイブルはこのように訳しています。ヨハネ4:9「あれまあ、あんたユダヤ人じゃないのさ。あたしはサマリヤ人だよ。なのにどうして、水をくれなんて頼むのさ」ヨハネ4:15「先生。その水をあたしに下さいよ。そうすりゃ、のども渇かないし、毎日こんな遠くまで、てくてく歩いてさ、水汲みに来なくてすむもの」。イエス様は「あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのはあなたの夫ではないからです」と言われました。すると、彼女は「先生。あなた様は預言者でしょう」とぶしつけに告白しました。その後、イエス様が「わたしがそのメシアです」と答えました。すると、その女性は水がめを井戸のそばに置いたまま村に帰り、人々に「あの方こそ、キリストに違いないよ」とふれまわりました。素性の怪しい女性がイエス様を最初は「ラビ」と呼びました。その次に「預言者」と呼び、最後は「メシア、キリスト」と告白しました。つまり、イエス様は預言者を兼ね備えたメシアだということが分かります。イエス様の預言者としての賜物が、彼女の素性を完全に言い当てたということからもわかります。彼女が回心したのは、イエス様が自分の生活を全部、言い当てたからです。それは奇跡であり、預言者の油注ぎがなければできないことでした。

 もう一箇所、引用させていただきます。マタイ17章には、イエス様が3人の弟子たちを連れて高い山に登られた記事が記されています。なんと、弟子たちの前でイエス様の御顔も、衣までもまばゆいほど白く輝きました。そのとき、モーセとエリヤが現れ、イエス様と何かを話し合っていました。モーセは神様から律法を預かった預言者です。一方、エリヤは天から火を降して、400人のバアルの預言者を焼き殺した力ある預言者です。いわば、二人は旧約聖書の預言者の代表です。それを目撃していたペテロがイエス様に提案しました。「よろしければ、私がここに幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ」。すると、光り輝く雲が彼らを覆い、雲の中から「これは私の愛する子。私はこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け」という声がしました。弟子たちはこれを聞いて、ひれ伏し、非常に恐れました。彼らが目を上げて見ると、イエス様さまの他だれもいませんでした。この幻はどのような意味でしょう。ペテロは、イエス様がモーセやエリヤと同じレベルの預言者だと思っていました。ところが、父なる神さまが「これは私の愛する子。彼の言うことを聞け」と言われました。そして、二人はいなくなり、イエス様だけが残りました。このことの意味は、イエス様は彼らよりもすぐれた預言者であるということです。

 預言者とは神のことばを預かり、「主はこう言われます」と民たちに代弁しました。ところが、イエス・キリストは「私はこう言います」と直接語りました。こうなると、イエス様は預言者ではありますが、預言者以上のお方であることが分かります。預言の発信元、オリジナルなお方ということです。イエス様は人々に度々、教えておられました。その教えは深淵であり、真理そのものでした。そのことばによって、人々は目が開かれ、いのちを得ることができました。今日、イエス様は天上におられます。では、私たちはイエス様から教えていただくことができないのでしょうか?ヨハネ14:26「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」今日、私たちのところにイエス様と全く同じお方、助け主なる聖霊が真理の御霊としてお出で下さっています。私たちがイエス様に聞こうとするとき、聖霊様が代わりに私たちに答え、教えてくださるということです。説教者もこのように聖書から教えますが、説教のゴールは、「あなた自身が聖書を読み、聖霊様から聞きなさい」と勧めることです。

2.

 「主は王である」という言い方は、詩篇に度々出てきます。主なる神さまはイスラエルだけではなく、全世界の王であります。なぜなら、全世界を創造し、保持し、支配しておられるからです。しかし、詩篇第二篇には、主とならび、メシアも王であると記されています。詩篇2:2「なぜ地の王たちは立ち構え君主たちは相ともに集まるのか。主と主に油注がれた者に対して。」主というのは、ヤーウェなる神さまのことです。また、油注がれた者とは、メシアです。また、7節にはメシアなる王の就任のことばがあります。7-9節「私は主の定めについて語ろう。主は私に言われた。『あなたはわたしの子。わたしが今日あなたを生んだ。わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与える。地の果ての果てまであなたの所有として。あなたは鉄の杖で彼らを牧し陶器師が器を砕くように粉々にする。』」このことばは、やがて地上に現れるイエス・キリストによって成就されます。実際に、マタイ3章において、イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けた記事があります。その時、「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ」という、天からの声がありました。これは、メシアの就任式のことばですが、詩篇2篇7節からの引用なので、「王としてのメシア」であることがわかります。

 福音書を読むとわかりますが、イエスラエルの人たちは、ローマを倒して、神聖イスラエルを建ててくれる政治的なメシアを求めました。実際に、パンの奇跡を行なった後、人々がイエス様を王にしようと詰めかけてきたことがあります(ヨハネ6:15)。彼らは経済的な問題を解決してくれるこの世の王を求めたのです。イエス様は確かに王でありましたが、この世の王ではなく、やがて来る神の国の王です。ヨハネ18章にピラトとのこのような問答があります。ピラトが「あなたはユダヤ人の王なのか」と聞きました。イエス様は「私の国はこの世のものではありません」と答えました。ピラトは「それでは、あなたは王なのか」と再び質問しました。イエス様は「私が王であることは、あなたの言うとおりです。…真理に属する者はみな、私の声に聞き従います」と言われました。このことばに対して、ピラトは「真理とは何なのか?」とはぐらかしました。目の前にまことの王がいるのに、「従う」とも「従わない」とも言わず、質問を質問で返しました。私たちも王であるイエス様の前に立つとき、この方に従うか、従わないか、どちらかを選択しなければなりません。レビ(マタイ)が収税所に座って仕事をしているときです。イエス様は彼に「私に従ってきなさい」と言われました。すると、彼は立ち上がってイエス様に従いました。1つ手前のマタイ8章には、言い訳をしている人たちが何人か記されています。私たちはイエス様を救い主だけではなく、イエス様が王であることを同時に信じる必要があります。

 王とはどのようなことをするのでしょうか?王の職務は治めるということです。支配するというふうに言っても良いですが、governもしくはreignという「治める」がふさわしいと思います。イザヤ書9章は地上におけるイエス・キリストの誕生の預言として記されています。イザヤ9:6-7「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」このところに、イエス様が王なるメシアとしてどのように世界を治めるかその特徴が記されています。主権がその肩にあるのはもちろんですが、「平和の君」と呼ばれ、「その平和は限りなく」と言われています。平和という意味は、戦争や争いがないという意味ではありません。平和、シャロームは神こそが平和の根源であるという意味です。シャロームには、平安、繁栄、健康、和解、安寧などの意味があります。イエス様が王なるメシアとして治め、このお方に私たちが従うときに、私たちはシャロームの祝福に預かることができるのです。人々がサムエルに対して、私たちにも他の国々のように王を下さいと願いました。その時、サムエルは、「王はあなたがたの息子を取り兵士にし、畑のものを取って自分の家来たちに与える。あなたがた自身は王の奴隷となる」と告げました。しかし、民は拒んで「いや、どうしても、私たちには王が必要です」と言い、サムエルは仕方なく答えました。最初、選ばれた王は、背が高くて、美しい若者でした。ところが、どうでしょう?主に背いたばかりか、後継者となるダビデを10年以上も苦しめました。繰り返すようですが、ダビデやヒゼキヤは良い王様したが、ほとんどが主に背き、北イスラエルはアッシリアに、南ユダはバビロンに滅ぼされてしまいました。イエス様の頃はヘロデ王がいましたが、正しくは領主であり、カイザルが王でした。残念ながら、イスラエルの歴史を見ますと、サウロの代からはじまり、数人の王を除いて、ほとんどが神さまに背きました。神さまから与えられた権威、権力を乱用したため、民たちもまきぞいを食らい、国が亡びました。

 結論として、上に立つ者が正しく治めないと、国も会社も家庭も混乱し、貧しい生活を余儀なくされます。上に立つ者は権威や権力、さまざまな特権が与えられるので、横暴にふるまう独裁者になりがちです。しかし、その権利や権力は、民たちや社員、家族を正しく治め、彼らが平和で豊かに暮らせるように神が与えたものです。イエス・キリストはしもべの心を持った王でした。私の父は家庭を正しく治めていなかったので、貧しく、子どもたちは喧嘩ばかりしていました。私たち子どもの心には混乱と怒りと不安がありました。安定などというものがありませんでした。つくづく、上に立つ者の責任は大きいと思いました。ある人たちは、自分の名誉や出世欲のため権力を求めますが、相応しい責任も伴うことも確かです。イエス様は復活召天した後、神の右に着座され、王としての務めを今もなさっておられます。ペテロが詩篇110篇からこのように引用しています。「『主は、私の主に言われた。あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで。』主イエス・キリストは敵なるサタンを踏み砕き、私たちにその権威を与え、私たちが王様の子どもとして、勝利ある生き方をするように願っておられます。マタイ28:18「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。」私たちは主からいただいた権威を正しく用いて神さまと人々に仕えていきたいと思います。

3.祭司

 王と預言者は「上から」であります。一方、祭司は同じ立場からです。祭司は民を代表して、神さまにとりなす存在です。イエス・キリストは祭司であり、もっと言うと比類なき大祭司であります。福音書において、イエス様が大祭司としてとりなしている箇所がいくつかあります。ヨハネ17章全体に、大祭司としての祈りが記されています。ヨハネ17:1「これらのことを話してから、イエスは目を天に向けて言われた。『父よ、時が来ました。子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください。あなたは子に、すべての人を支配する権威を下さいました。それは、あなたが下さったすべての人に、子が永遠のいのちを与えるためです。永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。』」ヨハネ福音書を読んでいつも不思議に思うのですが、どこからがイエス様のことばで、どこからがヨハネのことばなのか分かりません。とにかく、これらの祈りは弟子たちのためのとりなしでありますが、同時に私たち対する祈りでもあります。ヨハネ17:20「わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにも、お願いします」と書いてあるからです。イエス様の私たちに対する祈りは、私たちが一つになることです。私たちが完全に一つになるなら、世の人たちが「彼らはキリストの弟子だな」と知ることができるというのです。これまでの教会の歴史を振り返りますと、争いや分裂が絶えませんでした。世界史を学んだ人たちは、みんな躓いてしまいます。イエス様のとりなしの祈りが弱かったのでしょうか?そうではありません。教会が利権や教理的なことを第一にして、イエス様のこのような祈りを踏みにじってきたからです。

 イエス様は十字架の上でこのように祈られました。ルカ23:34「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」聖書を読むと、「彼ら」とは、イエス様を十字架につけたローマ兵やユダヤ人たちだろうと思ってしまいます。直接的にはそうですが、本当は全世界の人たちのためのとりなしの祈りでありました。このイエス様の十字架の祈りで、数えきれない人たちが信仰を持ち、数えきれない人たちが憎しみから解放されたことでしょう。ギリシャ語の罪、ハマルティアは「的外れ」という意味です。イエス様は「自分が何をしているのかが分かっていないのです」と祈られました。もし、イエス様がこのところで預言者であるなら、まわりの人たちの罪を糾弾するでしょう。もし、イエス様がこのところで王であるなら、彼らの罪をことごとく裁くでしょう。しかし、大祭司として彼ら、そして私たちの代表者となって、父なる神さまにとりなしてくださったのです。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」なんと、あわれみに満ちた祈りでしょう。そして、イエス様のこの祈りが十字架の上でなされているということです。十字架は全人類の罪のための贖いです。イエス様ご自身がご自分のいのちを差し出す代わりに、「父よ、彼らをお赦しください」と祈っておられるのです。旧約聖書においては、祭司や大祭司は民たちが携えてきた動物をほふって、血を流し、罪の赦しを宣言し祈りました。ところが、イエス様はご自身がいけにえとなり、私たちのためにとりなして下さったのです。

 ヘブル人への手紙の内容のほとんどが、イエス様が大祭司であり、ご自身を尊い犠牲としてささげられたということが記されています。ヘブル5章には、イエス様は人間から選ばれたのではなく、メルキゼデクのような天から来られた祭司だと書かれています。また、ヘブル7章には「イエスは永遠に存在されるので、変わることがない祭司職を持っておられる。したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります」と書かれています。また、ヘブル9章には、「しかしキリストは、すでに実現したすばらしい事柄の大祭司として来られ、…雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました」と書かれています。私たちは大祭司イエス・キリストの贖いのゆえに、罪責感が取り除かれ、全き、信仰をもって父なる神さまに近づくことができるのです。私たちが祈るとき、「イエス様のお名前によって」と祈ります。つまり、そのことは、私たちと神さまとの間に、大祭司イエス・キリストがおられ、取り次いでくださるということです。私たちは祈りが間違っていたり、足りなかったりしますが、イエス様がそれを「本当はこうなのです」と修正して、御父に届けて下さるのです。また、私たちが罪を犯しているときも、イエス様が私たちのために、御父の前でとりなし、弁護しておられることを心から感謝したいと思います。

 イエス・キリストは預言者、王、祭司としての務めを持っておられ、今もその務めをし続けておられます。私たちクリスチャンは小さなキリストと呼ばれています。ということは、どこかキリスト様と似ているところがあるということです。また、キリスト様と同じような務めも賜っているということではないでしょうか?私たちはその広さ、領域は違いますが、それぞれの場に遣わされています。家庭、職場、地域、いろんなところで活動しています。もし、私たちが小さなキリストとして、それぞれの遣わされた場所で「私は預言者、王、祭司である」と考えたならどうでしょう?家庭において、職場において、地域社会において、3つの務めを果たすように召されているのではないでしょうか?あなたはそのところで、教え、治め、とりなすべきではないでしょうか?たとえ、教えたり、治めていたとしても、その人たちのためとりなしていないならば彼らは聞く耳を持たず、従うこともしないでしょう。私自身が最も耳が痛いです。イエス様がすべての権威を私たちに与えたとマタイ28章で約束されたのですから、私たちにもイエス様と同じ職務が、程度や範囲の差はあれ、与えられていると信じます。聖書の真理をもってさばくことは簡単です。人に責任を押し付けるのも簡単です。しかし、もし、あなたが正しく治めるならば、あなたの周りの人たちが平安で気持ち良く生活できるでしょう。もし、あなたが聖書の真理をもって教えるならば、まわりの人たちは目が開かれて豊かな生活ができるでしょう。もし、あなたが周りの人たちのためとりなすなら、争いがなくなり一致が与えられることでしょう。