2024.1.7「日本人の世界観 ローマ13:7-9」

 世界観というのは、「ものの捉え方」という意味です。たとえて言うと、私たちは固有な眼鏡をかけて、その世界を見ているということです。そのため、あるものは見えても、あるものは見えません。ある物は色づけされており、またある物はゆがめられています。世界にはいろんな文化があり、人種があります。そのため、世界観は多種多様です。でも、聖書の世界観はゆがみがなくて、真理です。なぜなら、神が知恵を用いて世界を創造したからです。ここには他の国の人もいらっしゃいますが、きょうは日本人が持つ世界観について学びたいと思います。

1.宗教

 第一は日本人が持っている宗教観について学びたいと思います。多くの人たちは、「日本には日本の神さまがいる。日本古来の宗教がある」と主張します。多くの場合、それは古事記や日本書紀に記されている「天照大神」のことでしょう。天皇をはじめ、日本の多くの神社はその影響を受けています。一般の日本の家には仏壇の上に神棚があります。そして、村や町の神社の氏子になっています。こちらから願った訳ではなくて、そこに住んでいるなら自動的にどこかの神社の氏子になっています。亀有では『香取神社』かもしれません。毎年、寄進を求められていましたが、ある時からお断りしています。でも、町内会費は納めていますが、ほとんどは、神社の祭りの費用に充てられていると思います。町内会の人たちは、祭りの日には一緒に神輿をかついて町を練り歩きます。その時、「私たちは1つだ」という一体感を覚えるのではないでしょうか?しかし、神道の宗教観は精霊崇拝、アニミズムです。テレビ番組で世界遺産になっている「熊野古道」を観たことがありますが、まさしくアニミズムの世界だと思いました。川や石、木々、動物に神が宿っているという宗教観です。よく、「パワースポット」ということばを聞きますが、人々は、そういうところに行くと、ご利益があると信じています。アニミズムは世界中にあり、特に、南の島であるポリネシア、ジャワ島、ハワイなどにあります。日本人の先祖の一部は、南の島から渡って来たのではないかと言われています。アニミズムは様々な霊を信じているので、それらの霊を操作するシャーマンの存在が欠かせません。神主、陰陽師(おんみょうじ)、シャーマンです。彼らは霊的な問題のアドバイザーです。

 もう1つは、仏教です。仏教はインドに生まれ、中国、朝鮮半島を渡って日本にやってきました。聖徳太子はこの仏教を土台にして日本を治めようとしました。徳川家康はキリシタンを撲滅するため、寺受け制度を設け、全ての人がどこかお寺の檀家になければならないとしました。これまでは身分の高い人しか持っていなかった位牌を仏壇の中に収めさせました。私は京都の十三間堂に入ったことがあります。たくさんの千手観音の前に毘沙門天、弁財天などの像があり、その前にお酒が置かれておりました。七福神はインドの神であり、釈迦とは関係がありません。なのに、釈迦と一緒に日本に持ち込まれました。仏教にも釈迦如来、阿弥陀初来、薬師如来とか、たくさんあります。空海が曼荼羅を作りましたが、大日如来を中央に配して数々の「仏」を配置しており、まさしく多神教の世界だと思いました。空海は804年最澄と共に唐に渡り、サンスクリット語を学びました。そして、中国の景教(キリスト教のネストリウス派)の洗礼を受けているとも言われており、天国や地獄の思想も彼の中にあると思われます。一口に言って、仏教の世界観は「円」です。円には始めも終わりもありません。死んでは生まれ変わるという輪廻思想です。「六道輪廻」というのがあり、この世に生きるすべてのものは、六道の世界に生と死を何度も繰り返して、さまよい続けるということです。日本人はこの輪廻を信じており、「もしも、生まれ変わったら何になりたいですか?」という質問がなされます。

 しかし、聖書の世界観は天地万物を創造された唯一の神がおられるという考えです。木や物には霊が宿っているとは考えません。なぜなら、木々や動物、月、星、太陽さえも神の被造物だからです。人間は死んだら神にはなりません。物や人間を拝むのを偶像崇拝と言われ、十戒で禁じられています。西洋や中国では、神は唯一であるという考えがあります。彼らは「神」と聞くと、「ああ、絶対者なる唯一の神ですね」という暗黙の理解があります。ところが、日本では「神」と聞いても、「どの神さまですか?」と質問されます。日本では、「学問の神さま」「野球の神さま」「ラーメンの神さま」など、すぐ神さまにしてしまいます。つまり、絶対者という神観がありません。イザヤ書には偶像の神とまことの神の対比が記されています。イザヤ44章には「木で細工する者は測り縄で測り、朱で輪郭をとり、かんなで削り、コンパスで線を引き、人の形に造り、人間の立派な姿に仕上げて、神殿に安置する。…木の半分を火に燃やし、その半分の上で肉を食べ、肉をあぶって満腹する。その残りで神を造って偶像とし、ひれ伏してそれを拝む」と書かれています。イザヤ書45章には「天を創造した方、すなわち神、地を形造り、これを仕上げた方…『私の他に神はいない。正しい神、救い主、私をおいて、他にいない』」と書かれています。聖書の神は、「アルファーであり、オメガである。初めであり、終わりである」というお方です。つまり、世界の歴史と時間を造られた方であり、初めがあれば、終わりもあるということです。つまり、私たちは円ではなく、直線的な歴史観を持っています。私たちの人生も誕生があり、死があります。人生は一回限りです。仏教やアニミズムの世界観には、最終目的がありません。しかし、世界を創造されたお方には、永遠の計画があり、最終的なゴールもあります。私たちの人生においても、神が造られたのですから生きる目的も存在します。短い人生において、どのように神と出会い、神のいのちをいただくことができるのでしょう?ヨハネ17:3「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」私たちは自分の知性で、唯一のまことの神とキリストを知ることはできません。その知識は、神からの啓示である聖書を読むとき、聖霊によって与えられます。

 

2.文化

 第二のポイントでは、日本人が持っている文化です。文化の定義とは何でしょう?「人類の理想を実現して行く、精神の活動。技術を通して自然を人間の生活目的に役立てて行く過程で形作られた、生活様式およびそれに関する表現」とありました。日本人の文化が変わったのは、明治の開国からではないでしょうか?「文明開化」と言われ、政治経済、産業、芸術、あらゆるものが西洋から導入されました。それまでは、士農工商に身分が分かれ、ちょんまげ、はおりはかま、下駄を履いていました。イギリスからは度量衡、ドイツからは政治、フランスやアメリカから経済を学んだようです。その頃、ヨーロッパでは産業革命直後であり、蒸気機関、自動織機など目を見張るようなものがありました。明治の文豪たちも、こぞって西洋のものを学びました。残念ながら、日本が取り入れたのは、西洋文明の上澄みだけでした。彼らが根底に抱いている聖書的な価値観を全部スルーしました。男女同権、自由平等も神の創造のもとでのものであり、単なるヒューマニズムではありませんでした。科学や教育さえも、神が創造したものを学ぶと言う謙虚さがありました。資本主義や民主主義は聖書の考えが土台であると言っても過言ではありません。でも、日本は「良いとこ取り」であり、彼らを支えている精神を学ぼうとはしませんでした。学校では進化論を教えるので、適者生存、弱肉強食という価値観になりました。つまり、生産する能力がある者が尊ばれ、子どもや年寄り、障害者は生きる価値がないということになります。後から福祉の必要性が叫ばれましたが、根底に進化論の考えがあるなら、矛盾していることになります。

 大正から昭和にかけて、「人は何のため生きるのか?」という哲学的な命題を解くことが重要なテーマではなかったかと思います。ところが、敗戦後はどうでしょう?とにかく経済復興を第一としてきたので、精神は置き去りにされました。西洋文明の法律や様々な制度、科学技術は良かったと思いますが、人間の価値というのはそんなに変わっていないと思います。人間の価値を決めるのは、学歴のあるなし、資格のあるなし、お金のあるなしで決められるところがあるのではないでしょうか?キリスト教会はどうでしょう?明治開国後、欧米からプロテスタントの宣教師がやってきましたが、札幌、横浜、熊本の都市に拠点を置きました。しかし、戦前戦後入って来た宣教師は松江、美濃、広島、東北と教会のないところにあえて宣教を開始しました。私は1979年昭和54年に洗礼を受けましたが、「教会成長」ということが言われ始めました。アメリカの大教会から、彼らの方式を学ぶというものでした。マーケティング、ビジョンの設定、賜物の管理とか、まるで会社経営のようでした。そのため、「大きい教会が良い教会、小さい教会は悪い教会」みたいな価値観がありました。アメリカは功利主義が経済界だけではなく、キリスト教界にもあったのではないかと思います。私も大分、翻弄され、礼拝が100名になっていないので、成功した牧師ではないと思っていました。頭では、進化論を否定していますが、成長や拡大を目的にしてきたのは否めないです。

 文化というと、カルチャーセンターをイメージしてしまいますが、人間の根底に流れている精神、価値観のことでしょう。最近の日本のテレビ番組の多くは、お笑い、クイズ、サスペンスがほとんどです。若者たちはゲームとか歌、ダンスに興じています。それらが悪いとは言いません。「人間は何のために生きるのか」みたいな、哲学的なものは時代遅れなのでしょうか?その点、教会では聖書を土台として、人間の価値観や生きる目的を教えているので、すばらしいところではないかと思います。ニコデモは「真理とは何か?」とイエス様のところにやってきました。彼は宗教家でサンヒドリン議員であり、お金も身分もありました。ユダヤ人は天国に行ける人はニコデモのような人だろうとだれしもが思ったことでしょう。ニコデモのように真理を求めて神さまのところに来る人は滅多にいません。多くの人は、病気を治してくれ、不平等を解決してくれとイエス様のところに来ました。現在の教会は、精神的なニーズを満たすために、教会は存在しているのでしょうか?西洋では宗教を精神的なものとし、科学や経済など現実の生活と分離してしまいました。ずっと高いところに神さまがおられることを信じていますが、地上の問題には関知していない神観です。人々も「地上のことは私たちがやりますので、死後の問題だけお願いします」と、神さまを頼ろうとしないのです。天国は信じていますが、生ける神さまを信じていないのです。聖書の神さまはあらゆる世界にご自身の栄光を現したいと願っておられます。ビル・ジョンソンが「7つの山」ということを言いました。「7つの山」とは、ビジネス、教育、宗教、家族、芸術、科学、政治の7つです。イザヤ2:2-3「終わりの日に、主の家の山は山々の頂に堅く立ち、もろもろの丘より高くそびえ立つ。そこにすべての国々が流れて来る。多くの民族が来て言う。『さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を私たちに教えてくださる。私たちはその道筋を進もう。』それは、シオンからみおしえが、エルサレムから主のことばが出るからだ。」これは千年王国、御国の完成時の預言です。主の家の山が高くそびえたつとは、キリストを信じる神の民のことです。どこまでそれが叶うが分かりませんが、聖書の価値観が7つの文化的な世界を導くことが理想であります。なぜなら、創造主なる神さまがそれらを人間にお与えになられたからです。私たちはそれらをもって神をあがめること、それが神の栄光を現すということです。

 

3.人間社会(世間)

 第二のポイントと重複するかもしれませんが、人間社会にポイントを当ててみました。簡単に言うと、日本人は上におられる神さまを見上げないで、横にいる人間を見て生きているということです。なぜなら、「人がどう見ているか?」「世間様は何と言うだろうか?」「人から笑われないように」「人に迷惑を掛けないように」ということを子どものときから言われてきたからです。ゴミ捨て場にも「だれかが見ている」という看板を見かけます。車のステッカーにも、歌舞伎俳優のような目があります。「犯罪を見逃さない!」と書かれています。抑止効果を狙ってのことでしょうが、あまり良い気持ちはしません。結論を言えば、「神を恐れて生きるなら、人がどう見ようと関係ないのです。どうせ、人の目は節穴だからです。」こんなことを牧師が言うなら、反発を食らうでしょうか?私は人の目を恐れて生きてきました。人と比較し、優れているとか、劣っているとか生きてきました。生き延びることが第一目的の人は「人並みかどうか」心配して生きていることでしょう。ちょっと良いものを持つと高慢になり、標準以下だと卑屈になります。しかし、全能者なる神さま、絶対者なる神さまのもとで生きることが、こんなに自由なのかということをクリスチャンになって初めて知りました。日本では、「世間様」とか「社会では」、と良く聞かれますが、「それがどうした」と言いたくなります。日本は「本音と建前」「内と外」を使い分けて生きています。かなり前、土居建郎(たけお)という人が『甘えの構造』という本を書きました。内容は忘れましたが、「甘え」は日本人の心理と日本社会の構造をわかるための重要なキーワードだということです。外においては建前で生きています。内においては本音で生きているのですが、そこには甘えがあるということでしょう。外というのは閉鎖的な言い方です。そして、内というのは甘えが横行しても大丈夫な世界であり、共依存の世界だということです。かつて、『渡る世間に鬼ばかり』というテレビ番組がありましたが、日本人の生活を映し出しているようで、腹が立ちました。

 欧米は個人主義が発達しており、個人の権利がものすごく尊ばれています。ところが、日本の場合は長い封建制度の理由もあって、お上の言うことに盲目的に従います。五人組制度の影響もあり、何よりも和が尊ばれます。家制度も影響もあり、個人よりも集団というところがあります。地方の田舎に行けば、人間関係がものすごく大事になります。悪いうわさは、村全体に広がってしまい、最悪の場合はそこに住めなくなります。都市に引っ越すと、隣に誰が住んでいるか全く分かりません。ほどよい距離の人間関係が求められます。そこで、趣味やサークル、ボランティア活動に参加するようになります。でも、気の合わない人というのはどこにもおり、仲間外れにされることもあるでしょう。そこへ行くと、キリスト教会はどうでしょう?身分も、生まれも、学歴も関係ありません。主にあって兄弟姉妹ですから、利害関係も恋愛関係もなく、互いに交わることができます。もちろん、新生しても、生身の人間ですから、トラブルがないわけではありません。でも、教会は正しい人間関係を学ぶ場であり、また人間関係の傷を癒す場でもあります。今思うと、私は機能不全の家庭で育ち、学校でもはみ出し者でした。目立ちたがり屋だった理由は、家庭で認められていなかったからです。工業高校の土木科だったので、男性ばかりでした。勤め先も現場だったので、かたぎの女性はほとんどいません。ところが、25歳で洗礼を受けて、教会にやってきました。こんなにたくさんの女性を見たことがありません。口も態度も粗野だったので、周りの人たちは目を細めていたと思います。でも、「さばかれていない、受け入れられている」という安心感がありました。自分で言うのもなんですが、だんだんと癒されて、きよめられて行ったのではないかと思います。それまで、30年はかかったと思います。

 聖書が言う人間関係はどのようなものでしょうか?エペソ2:14「実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し…」とあります。私たちは互いに罪を持ち、また傷をもっています。これまで受けた傷があるので、似たような人、似たようなことをされると過剰に反応してしまうところあがります。でも、私たちはキリストの十字架によって罪が赦された者同士です。言葉は悪いですが、「すねに傷のある者同士」です。身分的には聖徒であり、神の子です。でも、天国に行くまでは工事中です。よく、工事中の現場に頭を下げた人が「ぺこり」と謝っています。「この人はすばらしいクリスチャンに違いない!」と思って近づくと、目の前の穴に落ちて、大けがをする場合もあります。ですから、お互い「工事中」のワッペンを着けていると想像すべきです。私たちはどのような眼鏡をかけて、人々を見るべきなのでしょうか?Ⅱコリント5章にすばらしいみことばがあります。Ⅱコリント5:16,17「ですから、私たちは今後、肉にしたがって人を知ろうとはしません。かつては肉にしたがってキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」多くの人たちは、5章17節のみことばばかり読んで感動します。でも、16節もすばらしいみことばです。肉にしたがって人を知るとは、その人の外見やこの世の価値観で見るということです。そうではなく、「この人のためにもキリストによって贖われた存在なんだ。だから、新しく創られた者なのだ」と見るということです。つまり、キリストの眼鏡をかけて見るということです。そうすれば自分もそうであるように、隣人も価値ある存在として見ることが出来るのです。神さまは私たちをきよくさせるために、あえて気の合わない兄弟姉妹も置いているということも確かです。教会の大憲章は「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」(ローマ13:9)です。