2024.1.1元旦礼拝「新しい信念 Ⅱコリント1:8-10」

新しい信念、ちょっとダジャレが入っていますが、お許しください。信念と信仰は違います。信念とは「それが正しいと堅く信じ込んでいる心」であります。もしかしたら、それは間違っているかもしれませんが、本人が固く信じている考えです。私たちクリスチャンは信仰をもって生きていますが、信仰生活を続けていると「これは本当である」という信念が心の中に生まれます。信仰ではないかもしれませんが、ある事に対して「きっとそうだ」という確信を持つことができます。きょうは、クリスチャンが持つべき「新しい信念」について学びたいと思います。

1.パウロの信念

 パウロは自分のこれまでのことを述べています。使徒の働きを見ても分かりますが、多くの迫害を受けて、死に瀕したこともありました。福音を宣べ伝えているのに、石で打たれ、投獄され、むちで打たれたことがたくさんありました。特にユダヤ人からは目の敵にされました。どこへ行っても彼らは追いかけてきたのです。せっかく、伝道の実が現れたのに、群衆を扇動して、妨害を与えました。パウロは何と言っているでしょう?8,9節「私たちは非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受けて、生きる望みを失うほどでした。実際、私たちは死刑の宣告を受けた思いでした」。これほどの圧迫を受けたなら、諦めて逃げ去るのが妥当かもしれません。でも、パウロは、死を覚悟するようなどん底に落とされて、不思議な経験をしました。9節後半「それは、私たちが自分自身に頼らず、死者をよみがえらせてくださる神に頼る者となるためだったのです。」パウロはローマ8章で「すべてのことがともに働いて益となることを、知っている」と言いました。困難や試練を通して、自分にではなく、神に頼るという信仰が生まれたということです。ローマ5章でパウロは「苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すことを私たちは知っています」と言いました。「知っている」「知っている」と二度ほど言いましたが、これは自分が体験した知識であり、これからもそうであろうということです。つまり、頭で理解する知識と経験を通してわかる知識があるのです。

 では、パウロがそのような苦しみを通して得た知識とはどのようなものなのでしょうか?パウロはどのような信念を持つことができたのでしょうか?Ⅱコリント1:10「神は、それほど大きな死の危険から私たちを救い出してくださいました。これからも救い出してくださいます。私たちはこの神に希望を置いています。」パウロはこれまで何度も経験したことがあります。それは神さまが大きな死の危険から何度も救い出してくださったことです。そうしているうちに、心の奥底に確信が生まれました。「神はこれからも救い出してくださいます。私たちはこの神に希望を置いています。」これは、パウロの信念というものではないでしょうか?なぜなら、パウロは、望みを神さまに堅く置いているからです。信仰と信念は正確には同じではありません。信仰は神のことばや神の促しに応えることです。この先、果たしてどうなるか分かりませんが、神さまを信じていくということです。一方、信念は自分の心の中にある確信です。いろんなことを経験して、生まれた考えかもしれません。しかし、パウロは「これまで何度も神さまが、危険から救い出してくださったので、これからも救い出してくださるに違いない」という確かな考えを持つことができました。これは、信仰的な経験を通して与えられた確信ということができるのではないでしょうか?つまり、パウロは「神さまはこれからも必ず救い出してくださる」という信念を持ったということです。私たちも同じことを何度も経験していくと、「きっとこうなんだ」という固い考え、信念が作られているというは真実でしょう。一度、そのような信念が作られると、次からは悩んだり疑ったりせず、「神さまは救ってくださる」という信仰を持ちやすくなります。もちろん、これから先のことは以前のものとは違うかもしれません。あるいは、さらに大きな危険かもしれません。でも、これまでも乗り越えられたんだから、これからも乗り越えられるに違いないという信仰がうまれます。信仰は未来にことに関することですが、それを信念が支えてくれるということです。

 信仰生活を2,3年送って来た人と、信仰生活30年送って来た人は違います。信じたての頃は、信仰がぐらつき、疑ったり悩んだりしたものです。しかし、信仰生活を長く送っていると、「大丈夫、神さまは助けてくださる」という揺るがない信仰を持てるようになります。なぜなら、これまで救っていただいた経験があるからです。その経験から生まれた考えこそが、信念ではないかと思います。信念は考え方そのもののことであり、信仰とは違います。信仰は未来のことなので、100%大丈夫という保証はありません。もしかしたら、倒れて滅びるかもしれません。そのとき、長年、信仰をもって神さまと共に歩んで培った考え方、つまり信念があります。その信念が未来のことに対して、信仰を持って対処するように励ましてくれるのです。「これまでも大丈夫だったので、これからも大丈夫。神さまの約束を信じて行きなさい」と励ましてくれるのです。

ところで、私は自分と戦っていません。スポーツ選手は「自分との戦いにまず勝たなければならない」とよく言います。言いたいことはある程度わかります。かつて、私の中には私を叱咤激励する自我ありました。私を戒め、私を叱り飛ばす自我であります。これをフロイトは超自我、スーパーエゴというようです。成育史の中で形作られたれた親や先生のことばから来たものです。しかし、私はキリストを信じて癒されてから、自我と超自我が融合し、一体化し、もう自分をせめる心はありません。自分の中に争いや分離は存在せず、私が私を応援しています。そういう訳で、私の信念は平安そのものであり、常に自分を応援しています。イエス様が「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」と言われました。言い換えると、自分を愛せない人は、隣人を愛することはできないのです。私たちは正しい信仰生活を送っていくと、正しい信念が生まれます。神さまはこれまでも私を救ってくれたのだから、これからも救ってくださるに違いないという信念です。パウロがローマ5章で「忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。この希望は失望に終わることがありません」と言った通りです。

2.新しい信念

『認知行動療法の父』として知られているアーロン・ベック博士は「人々が一般的に考える否定的で誤った3つの信念から有毒な感情が生じる」と言いました。ここで言う「信念」というのは、ゆがんが考えを生み出すものであり、信念の塊であり「核信念」とも呼んでいます。3つあります。第一は「私は上手にやらなければならない」です。第二は「あなたが私をちゃんと扱わなければならない」です。 第三は「この世界が楽でなければならない」です。これらすべては非現実的なゆがんだ信念ですが、これから1つ1つ説明しながら、それらを新しい信念に取り換えて行きたいと思います。

➀「私はうまくやらなければならない」I must do well.です。これを「脅迫的な信念」と言います。「私はいつも完璧であるべきだ」「私は何かを達成しなければ愛は得られない」「私は常に生産的でなければならない」と考えます。責任感が非常に強くて、一生懸命働いて、達成するような人は、まさに脅迫的な信念があります。こういう人は、わりと不安で、心配性です。脅迫的な人というのは、何か達成することに、中毒になっていきます。そして、この人は、将来に対して悲観的です。信仰的な面からすると、神の愛、つまり無条件の愛を受け入れることが難しいのです。

 さて、この人の聖書的な「新しい信念」とはどういうものでしょう?「私はうまくできなくても大丈夫、神さまにはできるから」です。ルカ18:27イエスは言われた。「人にはできないことが、神にはできるのです。」神さまは私たち人間を完璧には作られませんでした。どんな人間にも、うまくできることと、うまくできないことがあります。たとえ、うまくできることがあったとしても、時には失敗することもあります。13もの聖書を書いたパウロのことばです。Ⅱコリント12:9「しかし主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである』と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」一生懸命やったのに、うまくいかないことがあります。徒労で終わったときは、とても残念であり、自信と希望を失ってしまいます。でも、そういうときこそ、共に働いておられる神さまを思い出すべきです。自分の目では全くダメだった、失敗だったと思っても、結構、良い線いっていたのです。うまくいかなかったことは、次にうまくいくための勉強だったのです。エジソンは白熱灯を発明したときに「これまで、1万回失敗したのでは?」と新聞記者に言われました。そのとき、エジソンは「私は失敗したことは一度もない。1万とおりのうまくいかない方法がわかっただけだ」と答えました。

20年間やったセルチャーチを2017年7月にやめました。その冬、クリスマスの歌がありました。「クリスマス、クリスマス…うまくいかなくっても」と歌って、涙が止まりませんでした。他の人は「そんなことはないよ」と言ってくれましたが、私は失望落胆の沼にはまっていました。それから数年後、新型コロナが流行り出しました。その時、ちょうどビルジョンソンなど英語の本を訳していた時でした。アメリカのベテル教会には行けないけど、彼らが書いた本を読めば、リバイバルを体験できるのではないかと思ったのです。新型コロナで外出できず、2023年春頃には40冊訳していました。どうなっていたでしょう?失望落胆がすっかり癒されていました。

 主にあって、「新しい信念」とは何でしょう?「うまくいかないときがあっても、大丈夫。人にはできないが神にはできるのです。失敗は次に成功するための足掛かりなのです。」アーメン。できないこと、不可能なことを喜びましょう。なぜなら、そこに神さまがみわざを現して下さる方です。ひょっとしたら、神さまはあなたに協力者や専門家を遣わしてくれるかもしれません。「餅屋は餅屋」ということわざがあります。自分にできないことができる、そういう専門家を何人か持っているのは良いことです。人にはできないが神にはできるのです。うまくいかないときもあります。だからと言って自分が壊れる訳ではありません。神さまは私が何ができるかではなく、私の存在そのものを愛しておられるからです。もし、私が何ができたとしたら、それは神さまの恵みであって、栄光は神さまにあるのです。できる、できないで自分や他の人を評価するのは、やめましょう。それよりも、神さまが私たちの背後で働いておられることを信じましょう。

「あなたが私をちゃんと扱わなければならない」You must treat me well.「適合的な信念」と言います。この人は「愛されるために人々の承認を求めるような信念です」。「もし人々が自分のことを真に知れば、彼らは自分がダメな人間だと考えるだろう」「私は他人の感情に全責任がある」「私が利己的でなれば、他人はもっと私を愛するだろう」。適合的な人は、人から認められないと「私はダメなもの」みたいに落ち込む傾向があります。この土台は何かというと、依存的であり、共依存的でもあります。つまり、他人のことを必要以上に気にしてしまうのです。

 さて、この人の聖書的な「新しい信念」とはどういうものでしょう?「あなたが私をちゃんと扱わなくても大丈夫、神さまが私を愛しておられるから」です。イザヤ43:4「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」私たちはすべての人間から認められるのは不可能です。その代わり、神さまが私を認めて、報いてくださることを知れば良いのです。また、神さまは運命的にあなたを愛し、あなたを受け入れてくれる数人の人を用意しておられます。ジョエル・オースチンが「あなたの周りには4種類の人いる」と言いました。第一はあなたのことが好きあり、あなたのありのままを愛してくれる人です。第二はあなたを好いて、支持してくれますが、少し気を使う人です。そうでないとあなたから離れていきます。第三はあなたをあまり好きでありません。そのため、こっちは会うたびに気を使います。いわゆる気を遣うべき人です。第四は、あなたに敵対心を持っている人です。いくらこっちが気を使っても、親切にしても、離れて行く人です。ジョエル・オースチンが、あるご夫妻から気に入ってもらうために、何でもしましたがダメでした。やがてそのご夫妻は隣町に引っ越しましたが、そこで、ジョエルの悪口を言いふらしていたそうです。そのとき、ジョエルは「ああ、どうしても私を嫌い、離れて行く人はいるんだ」と分かり、人から気に入られるように努力することをやめたそうです。

私たちはすべての人から愛され、受け入れてもらうのは不可能なのです。でも、コアの部分に何をやっても愛してくれる人が数人いれば良いのです。イエス様には12人の弟子がいましたが、3人ととても親しく時間を過ごしていました。その中で、ヨハネは自分のことを「主に愛されている者」と紹介しました。今はSMSの時代であり、1000人位、友達をもっている人がいます。でも、その中に本当に信頼できる友達は何人いるのでしょうか?ビルジョンソンは『シンプルを祝う』と題して、このようなことを述べています。「望んだことをすべて達成しても、一人でいるのが嫌なら、あなたは何かを見逃しています。自分と一緒にいることに満足できないなら、それは良くありません。一人でいるときに、自分の皮膚の中で快適に過ごせるようにならなければなりません。しかし、私はシンプルさを求めて戦っています。なぜなら、シンプルさこそが人生そのものだからです。人生の終わりに、本当に、本当に良い友人が数人いれば、それは良い終わり方です。」イエス様は最高の友人ですが、その他、自分を愛してくれる伴侶か、数名の親しい友人がいれば良いのではないでしょうか?

 ダビデはサウル王から命を狙われ10年以上、逃亡生活を余技なくされました。ダビデほど不当な扱いを受けた人もいないでしょう。彼が自分の心の叫びを詩篇にしたためています。詩篇35:1-2節(第三版)「主よ。私と争う者と争い、私と戦う者と戦ってください。盾と大盾とを手に取って、私を助けに、立ち上がってください。…24節、あなたの義にしたがって、私を弁護してください。わが神、主よ。彼らを私のことで喜ばせないでください。」日本語には「弁護」と訳されています。しかし、英語の祥訳聖書ではJuge and vindicate meとなっています。vindicate「擁護する、正しいことを立証する」であります。神さまが私のことを擁護してくださるとは何と幸いでしょう。私たちはすべての人から理解してもらうのは不可能なのです。箴言29:25「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる」とあります。そうです。神さまがあなたのことをご存じなのです。たとえ、人から報いられなくても、神さまがあなたのことを報いてくださるのです。だから、あなたは神さまの御目のもとで、真実に生きれば良いのです。人はとやかく言うものです、それにふりまわされる必要がありません。聖書的な「新しい信念」とはどういうものでしょう?「あなたが私をちゃんと扱わなくても大丈夫、神さまが私を愛しておられるから」です。

「この世界が楽でなければならない」The world must be easy.「支配的な信念」と言います。支配は英語でコントロールと言います。「物事が自分の思うように進まなければ、自分はもうだめだ」は自分のコントロールです。この人が何かをしているときに、思うように進まないと、そこから乗り越えることが非常に難しいのです。「人が自分の望むようにしなければ、自分のことを大事にしていない」は、他人のコントロールです。人が自分の望むようにしてもらえるように、必死でいろんなことをします。「自分は強くなければならない。なぜなら強いものだけが好かれるから」というのは、自分と他人のコントロールです。

 丸屋真也先生から『認知行動療法』について学んだことがあります。先生が「支配的な信念」のことをこのように語っておられました。「私たちはある程度、コントロールできているうちは良いが、必ず、私たちは自分のコントロールが利かなくなることがあるのではないだろうか。自分のいる世界にいる場合は良い。たとえば子供が小さいときは、親のコントロールの下にある。だが、一定の段階になるとコントロールが利かなくなってしまう。そうすると大変である。あるいは、自分では『将来こうするんだ』と一生懸命準備をする。だが、現実に、試練とかがあり、それがうまくいかないとなると、もう大変になる。こういう人の問題は、どんな問題に直面するかと言うと、怒りである。表面的には怒らないが、蓄積している。自分をコントロールできなくなり、非常に衝動的なことをしてしまう。予測できない行動をしてしまうことがある。」

 自分や他人を支配することをやめれば良いのですが、それは子供のときに作られたゆがんだ信念からきています。よっぽど、自分が思うようにいかないことがあったのでしょう。自分の世界を壊す人がいたのでしょう?大変な不条理に振り回されて、大人になったら自分がコントロールして、安心した生活を得ようとします。そのために、いろんな情報を得て、いろんな防備をほどこして、思いがけないことが起こらないようにするでしょう。でも、現実社会には思いがけないことが起こったり、自分の世界を壊すような人も現れるのです。何もかも自分の思う通りにしようとしても無理です。それは、神さまがなさることであり、あなたができるのはほんの小さな世界だけです。あなたは、いろんなことが起こるたびに、神さまにゆだねることを学ばされることでしょう。

さて、この人の聖書的な「新しい信念」とはどういうものでしょう?「この世界が困難であっても大丈夫、神さまが支配しておられるから」です。マタイ10:29 「二羽の雀は一アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません。」「一羽のすずめ」という賛美があります。「心くじけて、思い悩み、などて寂しく、空を仰ぐ、主イエスこそ、わがまことの友。(2節)心静めて、御声聞けば、恐れは去りて、委ねぬるを得ん。ただ知らまほし、行く手の道、一羽のすずめさえ、目を注ぎたもう、主はわれさえも、支えたもうなり。声高らかに、われは歌わん。一羽のすずめさえ、主は守りたもう。」取るに足りないような、一羽のすずめを主が支配し、ささえておられるということです。イエス様は続けてこういわれます。「あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。ですから恐れてはいけません。あなたがたは多くの雀よりも価値があるのです。」主は全知全能のお方であると同時に善なるお方です。あなたのコントロールを主にゆだねるなら、主は一番良い方にあなたを導いてくださいます。この人の聖書的な新しい信念は「この世界が困難であっても大丈夫、神さまが支配しておられるから」です。きょうは、新しい信念について学びました。これまでも主は私たちを守ってくださいました。この年も主は私たちに力を与え、必要を与え、守って下さるに違いありません。