2023.12.24「ヘブルのクリスマス(イブ礼拝) ヘブル2:14-18

クリスマスおめでとうございます。きょうの午前中にクリスマス礼拝を持ちました。その夜にイブ礼拝というのは逆のような感じもしますが、24日の夜はどうしてもイブ礼拝が定番でしょう。いつもは、マタイかルカ福音書からですが、今晩は、ヘブル人への手紙からメッセージさせていただきます。

1.死を滅ぼすため

 ヘブル2:14、15「そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。」私たちはみな血と肉を持っています。同じようにイエス様も血と肉を持たれた、つまり人間になられたということです。それは何のためだったでしょうか?「それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした」。言い換えると、イエス様ご自身が死ぬことにより、死の力を持つ悪魔を滅ぼしたということです。どうして、悪魔がそのような力を持っているのでしょうか?それは、神から離れた人間は、悪魔の持ち物だからです。救いとは、悪魔の支配から神のもとへと移し、命を与えるということです。不思議なことに、キリストを信じると死の恐れから解放されるのです。

 イエス・キリストは死と悪魔から解放するために、自ら死に、そして三日目によみがえられました。まさしく、死ぬことによって、死と悪魔を滅ぼされたのです。クリスマスの讃美歌112番の2節目は、そのことを歌っています。「悪魔のひとやを打ち砕きて、とりこを放つと、主はきませり、主はきませり…」と賛美します。神から離れた人間は、悪魔の牢獄に閉じ込められ、死を恐れて生活しています。ところが、イエス様が天から降りて、人となり死んで、三日目によみがえられました。そのことにより、死と悪魔が滅ぼされたのです。そして、キリストを信じた人々は牢獄から解放されることになったのです。キリストによって死のとげは抜き去られました。私たちが死ぬのは、天国に入るためであり、滅びではありません。死は呪いではなく、天国にはいる入口になったのです。

 

2.忠実な大祭司となるため

ヘブル2:17前半「したがって、神に関わる事柄について、あわれみ深い、忠実な大祭司となるために、イエスはすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。」イエス様は神と人々の間に立って、とりなしてくださる大祭司です。そして、あわれみ深い、忠実な大祭司となるために、イエス様はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。これはどういう意味でしょう?神が天におられるままでしたら、人間の本当の気持ちがわからず、とりなすことはできません。そのため、イエス様は成人ではなく、赤ん坊から始めなければなりませんでした。イエス様はマリヤのおなかにいたころもありました。ある人たちは胎児のとき、拒絶を経験したため、生きる力をなくています。ヨセフと身重のマリヤは人口調査のためナザレからベツレヘムに向かいました。ベツレヘムでマリヤは産気付きましたが、泊まる宿屋がありませんでした。当時は親戚の人と一緒に寝泊まりする習慣がありました。しかし、私生児を生もうとしているマリヤは拒絶された可能性があります。だから、仕方なく、寒い家畜小屋でイエス様を生むことになりました。その後、イエス様は人間と同じように成長しました。ルカ2:52「イエスは神と人とにいつくしまれ、知恵が増し加わり、背たけも伸びていった」と書かれています。イエス様の少年時代ことが少し記されていますが、30歳まではほとんど記録がありません。ヨセフは早くして亡くなり、長男のイエス様が大工をして家族を支えた可能性があります。

イエス様が嬰児から30歳まで人間として生活したということは何を意味するでしょう?イエス様は人間のすべての世代を経験し、すべての世代を贖ってくださったということです。また、イエス様は律法を学び、シナゴーグに通い、ラビたちから教えを受けました。そして、大工として働き、家族を支えたので、仕事と家庭をあがなってくださったのです。ですから、イエス様は赤ん坊の気持ちもわかるし、青少年、大人の気持ちもわかるのです。なぜなら、私たち人間と同じようになられたからです。福音書にたくさんのたとえ話がありますが、イエス様がご自分の生活で経験したことから来ているものです。「新しいぶどう酒は、新しい革袋に」「着物のつぎ当ての仕方」などがそうです。また、失くした銀貨を一生懸命探す婦人、家出をした放蕩息子などが近所にいたに違いありません。時々、エルサレム神殿にも出かけたので、宗教家の素顔も知っていました。イエス様は公生涯入る前、全く目立ちませんでしたが、人間として生活し、人間を観察されたのです。ヨハネがこのように証言しています。ヨハネ2:24,25「しかし、イエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。すべての人を知っていたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。イエスは、人のうちに何があるかを知っておられたのである。」イエス様は人のことがよくご存じです。イエス様はあわれみ深い大祭司となるために、私たちと同じにようになられました。ヘブルの記者はこのように進めています。ヘブル4章後半「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。…ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」

 

3.罪を贖うために

17節後半「イエスはすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それで民の罪の宥めがなされたのです」。罪の宥めというのは、神の怒りを受けて、人々の罪を贖うということです。ですから、口語訳聖書は「民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった」と訳しています。神さまは愛なるお方ですが、同時に義なるお方でもあります。「どんな罪でも赦すよ」と言ったなら、もう神でなくなります。神さまは必ず罪を罰しなければならないのです。では、どうしたら罪ある人間を愛し、救いを与えることができるのでしょう?それは、自分の御子をこの世に遣わし、代わりに罪を負わせ、罰するというということです。旧約聖書を見ると、人間の罪を赦すために、動物のいけにえがささげられました。簡単に言うと、ただでは罪は赦されないということです。レビ記17:11「実に、肉のいのちは血の中にある。…いのちとして宥めを行うのは血である。」と書かれています。イエス様は世の罪を取り除く、神の子羊として、十字架にかかり人類の罪をその身に負われたのです。ですからイエス様は死ぬために、天から降りて、人となられたのです。クリスマスカラーは赤と緑です。赤はキリストの血を現し、緑は常緑樹の色として、永遠の命を現しているのはそのためです。

御子イエスは父の命令どおり、自分が罪を負って死ぬべきことを知っていました。しかし、自分が全く悪くないのに、人の罪を被るというのは、だれもしたくないでしょう?肉体を持ったイエス様も同じでした。生まれながらの私たちは自己保全、自己義認、自己中心です。だから、人間イエスは、十字架にかかる前の夜、ゲツセマネで「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください」と苦しみもだえて祈りました。ルカは「汗が血のしずくのように血に落ちた」(ルカ22:44)と書いています。イエス様は、三度、同じことを祈った後、「わたしの願いではなく、みこころがなりますように」とすべてを父に委ねました。その後、イエス様は裁判にかけられ、鞭打たれ、ひどい辱めを受けても一言もいいませんでした。午前9時に十字架にかけられ午後3時になったとき、太陽は光を失いました。イエス様は真っ暗な中で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)と叫ばれました。これはイエス様が罪を負ったため、断罪され、神から捨てられたことの証拠です。パウロは「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです」(Ⅱコリント5:21)と言いました。つまり、イエス様が罪の刑罰を受けられたことにより、私たちの罪が取り除かれたということです。それ以来、イエス様を信じるだけで、罪赦され、義とみなされるようになりました。

この世の多くの人たちが、そんなことを知らないで、「クリスマスおめでとう」とか言って、プレゼント交換しています。クリスマスは恋人たちが愛を告白する、特別な日だと思っています。そうではありません。父なる神さまが私たちの救いのために、御子イエスを地上に与えられたのです。イエス・キリストは、人類至上、最もすばらしい神からのプレゼントなのです。だれでも、「キリストの贖いをありがとうございます」と告白して受けるなら、その時、救われるのです。聖書で最も有名な言葉を引用して終えたいと思います。ヨハネ3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」神からのプレゼントを受け取ってください。そうすれば、罪の赦しばかりか、永遠のいのちが与えられます。