2023.12.24「ことばは人となって ヨハネ1:9-17」

きょうはクリスマス礼拝です。第二礼拝後には昼食愛餐会、そしてビンゴゲームがあります。新型コロナウイルスのため3年ぶりではないかと思います。そして、きょうの夜はイヴ礼拝がありますので、結構忙しいです。公現日が来年の1月6日ですから、クリスマスの飾りはもう少し残しても良いと思います。日本ではすぐ、しめ飾りにしますので、寂しい感じがします。今日も、聖書からクリスマスの本当の意味を知りたいと思います。

1.神の子の特権

 14節「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」「ことば」というのは、ロゴスであり、この世界を創られたキリストであります。キリストが赤ん坊として生まれるずっと先から、ロゴスなる方としておられたということです。でも、人々はそのことを知りませんでした。10節「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。」とあります。知らないというのは、消極的でありますが、罪です。日本人の多くは、本当のクリスマスを知りません。私も子供のころは、サンタクロースがプレゼント持ってくる日だと思っていました。先日、孫を寝かせるためにYouTubeからクリスマス・ソングを選んで聞かせました。「あわてんぼうのサンタクロース」とか、「赤鼻のトナカイ」など、イエス様抜きのクリスマスでした。やがて神さまの前に立ったとき、「知りませんでした」では、天国に入れてもらえません。しかし、知っていて信じない人たちもいます。11節「この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。」このグループは、イスラエル、特にユダヤ人のことです。福音書を見ると分かりますが、彼らはイエス・キリストを受け入れないばかりか、十字架に渡しました。知っていても、受け入れないというのは何故でしょう?何か失うものがあるからでしょう。おそらく、プライドがそうさせたのでしょう。

 でも、この方を受け入れた人はどうなるのでしょう?12節「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」受け入れるというのは、信じることと同じです。一般にキリスト教会では、自分の罪を悔い改めてから「信じます」と告白するように指導しますが、ヨハネはそうは言っていません。受け入れる、あるいは信じるということに集約しています。なぜなら、「信じる」ということの中に、心の変化、悔い改めが含まれているからです。罪が分かるのは、キリストを信じて霊的に生まれ変わってからのことです。信じたらどうなるのでしょうか?ヨハネは「神の子となる特権をお与えになった」と言っています。「特権」は、ギリシャ語でエクスーシア、権威とか力という意味です。でも、英語のある聖書はprivilege特権と訳していますので、これも良いです。私は「特権」とか「特別扱い」が大好きです。なぜなら、8人兄弟の7番目だったので、「おまけ」のような存在だったからです。正月やお盆は私の席がなくて、とても寂しい思いをしました。結婚式の披露宴に招かれたときは名札がちゃんとあるので、うれしい気持ちになります。聖歌717に「主はふるまいを」という賛美があります。これは、天国の宴会への招待に神さまが招いているというものです。あるとき、長いテーブルの上に食器がならべてあるポスターを見たことがあります。そこには、“Come, for all things are now ready”「さあ、おいでください。もう用意ができましたから」(ルカ14:17)と書いてありました。The Invitation「ご招待」とも書いてありました。良いですね、天国の宴会に招待されているのです。これは、すばらしい「特権」ではないでしょうか?神の子は御子イエス様です。しかし、その方を信じるとadoption「神の養子」になるということです。パウロは「子どもであるなら、相続人でもあります」(ローマ8:17)と言っています。胸を張って、父なる神のもとに来ることができるのです。

 では、どのようにしてそのことが可能になるのでしょうか?ヨハネ1:13「この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」ヨハネはただ、法的な養子縁組ではないと主張しています。「神によって生まれた」と言っているのです。法的な養子だと、血のつながりは全くありません。でも、「神によって生まれた」とは一体どういう意味なのでしょう?「生まれる」はギリシャ語でゲナオウであり、「子を設ける」という父方の意味です。マタイ1章のはじめには「アブラハムがイサクを生み、イサクがヤコブを生み、ヤコブがユダとその兄弟たちを生み」と書かれています。これは母が子どもを生むのはなく、父が子を設けるという意味になります。「神によって生まれた」というのは父なる神から生まれたという意味になります。一方、「血によって生まれた」、あるいは「肉の望むことで」生まれたというのは、自然分娩こととであり、この世の肉体的な誕生のことを指します。ヨハネ3章では、「肉から生まれた者は肉です」とあります。パウロは「肉のからだは神の国を相続できません」(Ⅰコリント15:50)と言いました。ヨハネは「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません」(ヨハネ3:5)と言いました。水とは、羊水のことであり、肉体的にこの世に生まれるということです。しかし、もう一度新しく、聖霊によって生まれなければ、神の国に入れないのです。ヨハネは第一の手紙で「神から生まれた者は…神の種がその人のうちにとどまっているのです」(Ⅰヨハネ3:9)と言いました。私たちクリスチャンは、法的に神の子というだけではなく、聖霊によって生まれ変わった神の子でもあるのです。なぜなら、キリストを信じたとき、霊的に新しく生まれ変わったからです。私たちの内には神の種、神のDNAが宿っています。だから、父なる神さまと似ているところがあるのです。ベン・フーバーという少年がいましたが、私生児として生まれました。町の人々は「その子の父親はだれだろう」と噂しました。彼はお昼は教室の外に出て一人で弁当を食べました。ある時、牧師が「あなたの父親を知っている」と言いました。少年は「牧師も私のことを馬鹿にするのか」と頭を下げました。牧師は「あなたは神の子だ。だから、『これは私のものだ』と神さまに要求しなさい」と言ったそうです。彼は後のテネシー州の知事になりました。あなたも神の子どもであり、御国の相続者なのです。

2.ことばは人となって

 もう一度、14節をお読みいたします。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」「ことば」というのは、ロゴスであるということを申し上げました。そのロゴスなるお方が、人となって、私たちの間に住まわれたということです。「人となって」とは、正しくは「肉を取った」という意味です。祥訳聖書にはincarnate「受肉した」と書かれています。受肉は神学用語であり、「神の御子であるキリストが、人間を救うために、自ら人間イエスとなられたこと」です。イエスはその当時の一般的な名前で、旧約聖書の「ヨシュア」にあたります。一方、「キリスト」は固有名詞ではなく、称号であり、「メシア」という意味です。私たちが「イエス・キリスト」と言うとき、「イエスはキリスト、メシアである」という告白になります。だけど、ロゴスなる神がどうして、人間になる必要があったのでしょうか?「処女降誕が可能なのとか」、いろんな疑問がありますが、それよりも大事なことがあります。それは、私たち人間と同じようにならなければ、罪を贖うことができないからです。同じようになるとは、「同化する」identifyということです。御子イエスは罪のないお方として生まれました。父なる神は愛なる神であり、同時に義なる神です。罪があるままでは、愛することができません。そこで、ご自身の御子を地上に人間として誕生させました。御子イエスは罪のないお方として生まれ、生涯、罪を犯しませんでした。罪があるなら身代わりになれないからです。父なる神は御子に全人類の罪をかぶせ、御子イエスを代わりに罰したのです。そのことによって、ご自分の義が満たされ、人類を愛することができるようになったのです。言い換えると、キリストの十字架によって、私たちのすべての罪が支払われているのです。だから、キリストを信じるだけで私たちは罪赦され、永遠のいのちを持つことができるのです。

 クリスマスは、ロゴスなる神が、肉体をもってこの地上に生まれた日なのです。その後、ローマ帝国がキリスト教を国教にしました。そして、キリスト以前とキリスト以後に別けたのです。キリスト以後はA.D「主の恵みの年」という意味です。キリストの誕生によって歴史が二つに分けられたということです。これってすばらしいではないでしょうか?日本では西暦よりも、平成とか令和かもしれません。しかし、新聞の一番上を見るとき、必ずそこにはグッドニュースがあります。「主の恵みの年2023年目」と分かるからです。1969年、アポロ11号が月面着陸を果たしたとき、船長は「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」と言いました。残念ですが、その後、歴史は変わっていません。やはり、ロゴスなる神が、肉体をもってこの地上に生まれた日から歴史が変わったと言えるでしょう。私たちは月や火星に簡単にはいけません。ところが、神の子イエスが、天から地上に下って来られたのです。救いはどこか遠くにあるのではありません。イエス様によって、私たちの手の届くところにもたらされました。イエス様は公生涯を始めるとき、「時が満ち、神の国が近づいた」(マルコ1:15)と言われたとおりです。私たちの人生も、キリスト以前とキリスト以後に変わるのです。キリストを信じて洗礼を受けた日が、その分岐点であります。私は25歳で洗礼を受けましたが、それ以前とは全く変わりました。キリスト以前は罪の中にどっぷりつかっていました。しかし、キリスト以後は光の中に移され、神が共におられる人生を送るようになりました。「あれから40年」、どっかで聞いたようなセリフですが…。神さまは見えません。しかし、神さまの指は見ることができます。今、振り返りますと、神さまでしか成しえなかった幸いがたくさんあるからです。

 世の中には無神論と有神論があります。無神論はその名前のごとく、「神はいない」と信じている人たちです。有神論とは、神がいると信じている人たちです。でも、「どの神様でも良い」というニュアンスがあります。しかし、本当の有神論は唯一まことの神、Godのことを指しています。西欧では、神と言ったら、「宇宙万物を造られた方だろう」と子供でも分かります。でも、神さまがいるだけでは寂しいです。私たちクリスチャンはキリストにあって、「神が共にいる」というもっと深い関係です。マタイ1章には「その名はインマヌエルと呼ばれる。それは、訳すと、『神がともにおられる』という意味である」と書かれています。つまり、御子イエスが来られたことによって、神が共におられるということが実現したのです。本来、神が共におられる方は、御子イエスだけでした。しかし、キリストを信じると、その人の中に聖霊が宿り、神が共におられるということが実現するということです。つまり、キリスト以前には得られなかった恵み、神が共におら得るという「主の恵みの年」がはじまるということです。つまり、あなた自身の歴史も変わるということです。Ⅱコリント5:17「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」とあります。私たちは新年を迎えると、「新しくなったな」と感じるかもしれません。この世の人は、それだけです。しかし、私たちはキリストを信じた日から、新しい年がはじまっているのです。だから、改まって初詣に行ったり、締め飾りを飾る必要もないのです。おせち料理も、なければなくても良いのです。ヨーカドーは元旦一日しか休みません。世の人たちは、なんとか新しい気持ちになろうと、頑張っていますが、3日も経てば、そういう気持ちはなくなります。よく言われるように「一月は行く、二月は逃げる、三月は去る」のです。そして、いつもの年と同じようになります。

 私たちは別の年を持っています。主の恵みの時2024年、1月だけではありません。私たちはこの世でありながら、永遠の御国に片足を突っ込みながら生きているのです。もっともすばらしいのは、神が共におられるということです。遠くから見守っているというレベルではありません。どんなときにも、共にいて下さるのです。マタイ28章最後にもインマヌエルがあります。マタイ28:20「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいます。」新しい年を迎えるということは、世の終わり、主が再び来られる日も近づいているということです。確かに世の終わりは来るでしょう。でも、主は世の終わりまでも、私たちと共におられるのですから、何があっても安心です。あなたは主の恵みの年を生き続けているからです。

3.恵みとまこと

もう一度、14節をお読みいたします。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」第三のポイントは、御子イエスは「恵みとまことに満ちておられた」ということです。このすぐ後に、「恵みとまこと」と対立するものが書かれています。ヨハネ1:17 「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」この聖句もから分かるように、「恵みとまこと」に対立するものが、「律法」でないかと思います。第二のポイントで歴史がキリスト以前とキリスト以後に分かれると申し上げました。キリスト以前は、Before Christ と言います。でも、キリスト以前とキリスト以後は何が変わったのでしょう?端的に言いますと、キリスト以前は律法が支配し、キリスト以降は主の恵みが支配するということです。でも、福音書を読むと、「天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません」と書かれています。律法は重力のように依然と存在しているのですが、主の恵みによって、あまり気にしなくても生きられるということです。パウロはローマ7章で律法のことでとても悩んでいます。ローマ7:5「私たちが肉にあったときは、律法によって目覚めた罪の欲情が私たちのからだの中に働いて、死のために実を結びました。」とあります。「戒めが来たとき、罪は生き、私は死にました」(ローマ7:9-10)とも言っています。パウロは西暦40年から65年くらい活躍した使徒です。端的に言いますと、イエス様が復活したあとの人ですから、主の恵みがあったはずです。しかし、律法が彼を苦しめていたということはどういうことでしょう?その理由は、自動的には恵みは支配しないということです。

もう少し、ヨハネ福音書の方を学びたいと思います。14節の「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」と証言した人はだれでしょう?おそらく、ヨハネ福音書を書いた、弟子のヨハネに間違いありません。しかし、このところにはもう一人、別のヨハネも何か証言しています。彼はバプテスマのヨハネであり、イエス様を光について証しした預言者です。彼は旧約聖書の預言者です。彼は「私の後に来られる方は、私にまさる方です」とも言っています。その後、17節「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである」と書かれています。一連のことをまとめますと、モーセをはじめ、預言者たちが「主がこう言われます」と預言である主のことばを語ってきました。バプテスマのヨハネはその旧約、最後の預言者です。ヘブル9章には「キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反から贖い出すための死が実現して、召された者たちが、約束された永遠の資産を受け継ぐためです」と書かれています。言い換えると、イエス・キリストはモーセの律法を全うし、律法の違反から人々を贖い出すために死なれたということです。そのことによって、恵みをまことは実現しました。恵みというのは、律法の行いによってではなく、信仰によって救われるということです。また、イエス様は、「私は御父に達するための道、真理、いのちである」と言われました。

恵みとまことはイエス・キリストによって実現しました。もし、私たちがキリストを信じるなら、律法の呪いから贖われるということです。パウロはガラテヤ3章で「ですから、信仰によって生きる人々が、信仰の人アブラハムとともに祝福を受けるのです。律法の行いによる人々はみな、のろいのもとにあります。『律法の書に書いてあるすべてのことを守り行わない者は、みな呪われる』と書いてあるからです」(ガラテヤ3:9-10)と言いました。使徒パウロはイエス・キリストを信じて救われました。彼が言うように義と認められたのです。でも、パウロは律法の行いも必要であると思って、自分を律して、神に従わせようと努力しました。そうすると、彼の肉が反応して、罪を行い、律法の呪いにはまってしまったということです。これは、今日のクリスチャンにも当てはまることです。ガラテヤの教会の人たちは、恵みによって救われました。しかし、律法も必要と思って、キリストから目を離して行いによって救いを完成しようとしました。パウロは何と言ったでしょう?「私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。…あなたがたはそんなにも愚かなのですか?御霊によって始まったあなた方が、今、肉によって完成されるというのですか?」(ガラテヤ2:21,3:3)これは、救われた後は恵みに生きるべきなのに、律法によって生きようとするクリスチャンに当てはまります。これを私たちは「律法主義」と言います。まことに残念ですが、日本の教会、日本の神学校、日本のクリスチャンはこの「律法主義」に犯された人たちがたくさんいるということです。キリストの十字架と復活によって、恵みの支配が完全に訪れているのに、恵みから律法に逆戻りしているのです。

ヨハネは「この方は恵みとまことに満ちておられた」「恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである」と言っています。モーセの律法、聖書の律法も大事です。それらを否定しません。しかし、私たちを救い、私たちの救いを完成させるのは律法ではなく、恵みとまことに満ちておられるイエス・キリストなのです。私たちは救いを得てからも、恵みとまことであるイエス・キリストにお頼りするべきだということです。私たちの真面目さや努力では、律法を守り通すことはできません。パウロは「私たちは真実でなくても、キリストは常に真実である」(Ⅱテモテ2:13)と言いました。パウロのような真面目な人でも、律法を守り通せなかったのです。私たちはキリストと共に律法に死んだのです。そして、今度は私たちの内に生きておられるキリストに頼り、キリストと共に生きるのです。そうすると、聖霊が自動的に働いて、律法を守らせてくださるのです。御霊によって歩むなら、肉の欲望を満たすことは決してありません。このクリスマス、ことばが肉体とって来られたことを感謝しましょう。キリストによって神の子どもとされ、神が共におられることを感謝しましょう。キリストによって恵みとまことが訪れたことを感謝しましょう。そして、これからも恵みとまことの内を歩んでいきましょう。