2023.12.17「はじめにことばがあった ヨハネ1:1-8」

新約聖書はギリシャ語で書かれていますが、ギリシャの哲学を知っている人は、この福音書を見て、驚いたことでしょう。自分たちの先祖が、研究していたことの答えと思われることが書かれているからです。哲学とは物事の真理を自分たちの理性によって探究する学問です。残念ながら、私たちの理性で把握できないことがたくさんあります。その点、キリスト教は啓示の宗教であり、神さまの方から一方的に真理を告げてくださいます。探求するというよりも、「神さまが示してくれたことを、ああ、そうですか」と信仰によって受け止めるのです。

1.初めに何がアルケー

 ギリシャ語で「初め」はアルケーですが、哲人たちは、「初めに何がアルケー?」と探求しました。また、アルケーは、「原因、根源、原理」という意味でもあります。哲人たちは、「自然界は何でできているのか」考えました。彼らは「風、火、土、水の4つの元素から成り立っている」と結論付けたのであります。昔、Earth, Wind and Fire というグループがいましたが、おそらくそこからとられたのではないかと思います。ヨハネ福音書の書き出しは、「エン、アルケー」となっていますので、「はじめに何があったのか」、興味をそそられたのではないでしょうか?今日では、「すべてのものは元素でできている」と、中学生でも知っているでしょう。しかし、有名な原子記号はギリシャ語から来ていることをご存じでしょうか。水素のH、ヘリウムのHe、酸素のOがそうです。他にはラテン語からも多く来ています。何を言いたいかというと、西洋の科学の用語は聖書や哲学のことばから来ているということを申し上げたいのです。私は神学校に入って、ギリシャ語を勉強してみて、英語ととても似ていることに驚きました。なんと、聖書に出てくるギリシャ語が、結構、英語になっているのです。高校生に入って、数学と物理に躓いてしまいました。そういえば、法則などにギリシャ語がたくさん出ていたなーと懐かしく思います。

 しかし、ヨハネはギリシャの哲学を知っている人に福音を伝えたかったかどうか分かりません。でも、ヨハネがこのような文章で書き出したのは、創世記のことを考えたのかもしれません。創世記の書き出しは、「はじめに神が天と地を創造された」であります。欽定訳聖書はIn the beginning God created the heavens and the earth.であります。一方、ヨハネ福音書の書き出しは、In the beginning was the Word,でありますから、とても似ています。おそらく、ヨハネは創世記の書き出しを意識して、「はじめにことばがあった」と書いたのではないかと思います。これだったら、ユダヤ人も興味がわくはずです。当時は、ローマにもたくさんのユダヤ人がいたからです。しかし、ヨハネはギリシャやローマだけではなく、全世界の人に福音を届けるために書いたことは間違いありません。イエス様のことを著している4つの福音書があります。マタイはユダヤ人向けに書かれています。マルコはローマ人向け、ルカはギリシャ人向けに書かれています。そして、ヨハネはそれらの3つだけではなく、全世界の人々のために書かれたのです。ヨハネの福音書が書かれた目的が、ヨハネ20章に記されています。ヨハネ20: 31「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」アーメン。ヨハネは、「イエスは神の子キリストである」ことを強調している福音書です。多くの宣教師が、「聖書を読むとき、ヨハネ福音書から読みなさい」と薦めるのは、そのためです。

 しかし、私が一番、最初に出会った聖書のことばは、Ⅰコリント13章です。もちろん、それまで「求めなさい、与えられます」とかということばは、高校生のとき聞いたことがあります。ちなみに、高校1年生のときの英語の教科書は、エデンの園におけるアダムとエバの物語でした。そのときは、神話のように思っていたので、ぜんぜん、心の中に響いて来ませんでした。23歳のとき、貿易会社に転職しました。そのとき、職場の先輩のデスクに貼ってあったのが、Ⅰコリント13章です。張ってあったというよりは、透明なシートの下にタイプで打ったカードがあったということです。そこには、Love is patient and kind; it is not jealousとありました。先輩は「鈴木君、もし、ラブレターを書きたかったら、聖書のことばを使ったら良いよ」と教えてくれました。「聖書にLoveということばが書いてあるなんて」とっても驚きました。Love is patientが、聖書を読むきっかけ、「はじめのことば」になったのです。

 聖書は「初めに何があったのか」を啓示してくれる書物です。「初めに何があったか」は、人間にはわかりません。なぜなら、見たことがないからです。でも、永遠なる神さまが、「初めはこうだった」と啓示してくれたら、私たちも分かるでしょう。残念ですが、東洋の歴史観、宗教観は円です。円ですから、初めも終わりもありません。だから、人が死んでも、生まれ変わるという輪廻思想があるのです。しかし、西洋の思想は聖書に基づいていますので、初めがあり、終わりがあるという直線です。ですから、人生においても初めがあり、終わりがあります。この世に「おぎゃー」と生まれた初めの日があれば、「うっつ」と死ぬ終わりの日があります。聖書にはこの世の始まりもあれば、この世が終わることも書いてあります。円よりも直線の方が、私たちの人生観やものの見方に、マッチしているのではないでしょうか?

 私たちの人生においても初めの日がありました。この地上に「おぎゃー」と生まれ出た日です。今はこのように生きていますが、やがて「終わり」がやってきます。聖書にも「初め」のことが書かれていますし、「終わり」のことも書かれています。ヨハネ黙示録には、神さまは「アルファ―であり、オメガである」と書かれています。神さまは永遠であり、「歴史の初め」と「歴史の終わり」を支配し、見届けておられます。ということは、私たちの人生の「はじめ」も「終わり」も、支配し、見届けて下さるということではないでしょう?イエス様がルカ12章でこう述べておられます。「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。こんな小さなことさえできないのなら、なぜほかのことまで心配するのですか。」世界を支配しておられる神さまが、私たちの人生の初めと終わりを支配しておられるのです。だったら、明日のことを思い煩う必要はありません。死ぬまで生きれば良いのです。

2.ロゴスは神であった

 ヨハネ1:1-3「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。」日本語では「ことば」と訳されていますので、「口から発することばかな?」と思ってしまいますが、そうではありません。ロゴスというギリシャ語が用いられています。これもギリシャの哲学者たちにとっては興味深いことばでした。彼らは「ロゴスとは、宇宙を生み出した理性」と考えていたようです。また、ロゴスは真理とか法則、理性という人格のないものでした。ですから、前のポイントと合わせますと、「アルケーはロゴスであった」ということになります。ヨハネは、「はじめにロゴスがあり、ロゴスによって、すべてのものができた」と言っているのです。つまり、はじめに「風、火、土、水」があったのでもなく、物質を構成する「原子」があったのでもないということです。はじめに、物質と世界を生み出すロゴスがおられたということです。ヨハネは「ゴロスは神であって、この方によってすべてのものが造られた」とはっきり言っています。

 問題は、ロゴスとは一体だれのことかということです。ヨハネはロゴスが神とともにあった。ロゴスは神であったと言っています。ということは、ギリシャの哲人たちが言う「人格のない、宇宙的な理性」ではないということです。しかも、この方は初めに神とともにおられたというのですから、一体どういうことでしょう?1節から3節まで、三つのことがわかります。第一に神がおられます。第二に神とともにおられたロゴスなる神がおられました。第三は、ロゴスによって世界が創造されました。神さまが造ったというより、ロゴスが造ったとあるのは、ちょっと言い過ぎではないでしょうか?しかし、パウロが書いたコロサイ1章にも同じようなことが書かれています。コロサイ1:16、17「なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました。御子は万物に先立って存在し、万物は御子にあって成り立っています。」コロサイと一緒に考えますと、ロゴスとは御子イエスであり、御子イエスははじめからおられた方です。つまり、御子イエスは父なる神と共におられ、御子イエスによって世界が造られたということになります。

 私たちはクリスマスというと、2000年前、馬小屋で生まれた「赤ん坊」のことを思い浮かべます。その「赤ん坊」が神とともにおられ、世界を創られた神であると一体だれが想像できるでしょう?マタイとルカ福音書は、御子イエスをヨセフとマリヤの間に生まれた子どもとして紹介しています。ところが、ヨハネはこの地上に来る遥か前、永遠の昔のことを書いているのです。御子イエスではなく、ロゴスなるお方、はじめからおられ、全世界を造られた神であります。全世界を造られた神が、2000年前、小さな「赤ん坊」として生まれたのです。私たちの小さな頭では全く、想像できません。もし、地上に肉体をもって生まれた人間イエスしか知らなかったなら、私たちの信仰はどうなるでしょう?イエス様は私たちと同じ人間であり、それ以上のお方ではないということになります。もし、そうであったなら、私たちの信仰も人間的なサイズしかならないでしょう。そういうイエス様は、私たちのことを同情できるかもしれないけれど、嵐を静めたり、死人を生き返らせることはできないでしょう。でも、イエス様は永遠のはじめからおられた神であり、全世界を創造されたお方であると分かったならどうでしょう?「小さな赤ん坊は、私たちの罪を贖うため、あのように謙遜な姿になられたのだ。なんと有り難いことなんだろう」と感謝せずにはおれないでしょう。「しかし、復活後は、父なる神の右に座し、王として支配しておられる。だったら、何でもできる神さまに違いない。アーメン」と信仰が大きくなるでしょう。ですから、地上に「赤ん坊」で来られたお方が、以前はどのようなお方であったのか、もとの姿を知るということはとても重要です。だから、ヨハネは御子イエスが肉体をもって来られる前のことを書きたかったのではないかと思います。簡単に言うと、御子イエスは、もとはロゴスであり、神とともにおられ、世界を創造された方だということです。

 そうなると、マリヤに抱かれた赤ん坊のイエス様は一時的なお姿だったということです。ずっとずっと、マリヤに抱かれた赤ん坊ではありません。イエス様は神であられ、宇宙よりも大いなるお方です。しかし、クリスマスになるとどうしても、赤ん坊になられたイエス様を思い描いてしまうのです。しかし、肉体を持って、この世に誕生なされたのですから、誕生をお祝いすべきでありましょう。クリスマスを否定しているわけではありません。それよりも、「イエス様は地上に来る前は、こういうお方だったんですよ」と力説したいです。あまりにも、多くの人たちは、地上に来る前のイエス様のことを知らないからです。おそらく、2000年前、マリヤから生まれが赤ん坊だけだと思っているでしょう。キリスト教会では、「主は聖霊によって、乙女マリヤから生まれ、十字架につけられ、三日目に死人のうちよりよみがえり」と言います。そこには、この地上に生まれる前のことが書かれていません。本来は「永遠のはじめから神とともにおられ、世界を創造されたロゴスが、乙女マリヤから生まれたのです」と言う必要があります。スタートが、ユダヤのベツレヘムではなく、永遠のはじめ、アルケーでなければならないのです。肉体をもった御子イエスではなく、世界を創られたロゴスなるお方でなければならないのです。そうすれば、私たちの信仰は大きくなり、人間イエスから、神であるイエスになるのです。

現在、クリスマスは商業ベースで祝われ過ぎています。教会も伝道のチャンスだと言っています。何故、マリヤに抱かれた赤ん坊のイエスがクローズアップされているのでしょう?それは、ローマ教会がゲルマン民のために、神を生んだ母として伝道したからです。さらにはローマ・カトリックがマリヤを神格化したためです。クリスマスが祝われたのは西暦200年頃からです。でも、復活はイエス様が復活した日曜日の朝から祝われてきました。もちろん、クリスマスを祝っても良いですが、歴史を終わらせるために来られる再臨のイエス様も忘れてはいけません。しかし、永遠から神とともにおられた世界の創造者が、謙遜な姿で来られたことも感謝します。

3.ひかりでありいのちであった

 ヨハネはロゴスなる神がどのようなお方であったか、さらに記しています。ヨハネ1:4-5「この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」ヨハネはロゴスなる神には、いのちがあり、このいのちは人の光であったと言っています。「このいのちが人の光であった」という文章は詩的ですが、意味がよくわかりません。いろいろ調べてみても、分かりませんでした。ですから、「ロゴスなる方は、いのちであり、光である」と言ったほうが分かりやすいと思いました。ロゴスとは、イエス・キリストのことであります。この後、ヨハネ福音書をみますと、イエス様は「私はいのちです」とか「私は世の光です」とご自分のことをおっしゃっています。しかし、この世においても、いのちがあるし、光があります。でも、どこが違うのでしょうか?JCライルと言う人が、こう述べています。「主イエス・キリストがすべての霊的生命と光の源であることを知る。アダムとエバが堕落の前に持っていた霊的な命と光は、すべてキリストによるものだった。堕落以来、アダムの子たちが罪と霊的死から解放され、良心や理解の光を得たとしても、それはすべてキリストからもたらされたものである。いつの時代も、人類の大多数はキリストを知ろうとせず、堕落を忘れ、救い主の必要性を忘れていた。だが、光は常に『闇の中で』輝き続けてきた。大多数は『光を理解していない』。しかし、数え切れないほど多くの人類の中で、霊的な生命と光を得た男女がいるとすれば、それはすべてキリストのおかげである。」私は霊的な命とは、神のいのちであり、永遠のいのちであると思います。残念ながら世の人はそのいのちを持っていません。しかし、キリストを信じると神のいのちであり、永遠のいのちを持つことができるのです。また、アダム以来、暗闇を歩いて滅びに向かっていた人類に対して、イエス様はずっと光を与えていたということです。

 クリスマスでは、ろうそくとか、イルミネーションで光をともします。これは、イエス様が「闇を照らす光」であることを象徴していると思います。闇は罪と死を象徴しており、その中で人々は滅びに向ってあえいでいるということです。そして、ヨハネは「このいのちが人の光であった」と言っています。つまり、いのちと光が結びついています。私はイエス様が、いのちをもたらす光ではないかと考えます。光は多くの場合、真理とか神の導きを象徴しています。また、光は虚偽や不正をあばいたりすることもできます。ヨハネ3章には、光のもとに来る人と、光のもとに来ようとしない人がいると書かれています。ヨハネ3:19,20「そのさばきとは、光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。」一般的に罪を犯すのは昼間よりも、夜の方が、都合が良いでしょう。昼間だと人が見ているからです。神さまは光であり、善と悪をはっきりさせるお方であります。どうして悪を行う人が光を憎み、光のもとに来ようとしないのでしょうか?それは悪事があばかれ、さばかれてしまうからでしょう。人々は本能的に悪いことをすると隠れてしまいます。アダムとエバは食べてはならない木から食べた後、どうしたでしょう?創世記3:8「そよ風の吹くころ、彼らは、神である【主】が園を歩き回られる音を聞いた。それで人とその妻は、神である【主】の御顔を避けて、園の木の間に身を隠した。」それまでは、神さまと親しく交わっていたのに、罪を犯したために二人は身を隠しました。神さまは見えないとでも思ったのでしょうか?詩篇139:12「あなたにとっては闇も暗くなく夜は昼のように明るいのです。暗闇も光も同じことです」とあります。私たちは神さまの目から逃れることはできません。そういう意味で、光は良いものでありますが、同時に罪をあばく恐ろしいものでもあります。

 では、いのちを得るためにはどうしたら良いのでしょうか?たとえ、罪がさばかれても、光のもとに来るしかありません。実は御子イエスがこの地に来られたのは、ご自分が人類の罪を贖い、その罪を赦すためです。一つの条件はいのちの光であるイエス様のもとに来ることです。罪が明らかにされますが、同時に赦しが与えられます。ヨハネ3:17,21「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。・・・しかし、真理を行う者は、その行いが神にあってなされたことが明らかになるように、光の方に来る。」私たちクリスチャンは自分が罪を犯す罪人であることを知り、イエス様のところに来た人たちです。神さまは私たちに罪の赦しばかりか、永遠のいのちを与えてくださったのです。私たちはイエス様がいのちをもたらす光であることを知りました。イザヤ書にはロゴスなる方が、いのちの光をもたらすという預言がいくつもあります。イザヤ9:2「闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く。」

 小さい頃の私は、クリスマスとはケーキが食べられるおめでたい日だと思っていました。父は酒を飲んではあばれる人たったので、楽しくケーキをいただいた記憶はありません。二番目の兄は30センチのケーキをこれ見よがしに買ってきました。数年後、三番目の兄も30センチのケーキを買ってきました。その時も父が酒を飲んで、管を巻いていたので、ただケーキを食べて終わりました。自分もそうですが、兄たちはケーキがあれば、楽しいクリスマスを迎えられると思っていたのにそうでなかったのです。兄たちはとても悔しがっていました。母は「うちはクリスマスはないよ、苦しみますだよ」と皮肉を言っていました。クリスマスはサンタ・クロースがプレゼントを持ってくる日としか考えていなかったのです。しかし、そんな私がイエス・キリストを信じて、クリスマスがメルヘンチックなおとぎ話でないことが分かりました。洗礼を受けたその年の冬から40年以上もずっと飾りつけをしながらお祝いしています。クリスマスとは全く縁のない、闇の中を歩んでいた私の上に光が輝いたのです。こんなありがたいことはありません。クリスマスはただケーキを食べる日ではありません。プレゼント交換する日でもありません。永遠のロゴスなる神が、すべての人を照らすまことの光として地上にやって来られた日なのです。それ以来、ご自分のもとに来る人の罪を赦し、永遠のいのちを与えるために、輝き続けているのです。多くの人はいのちの光にそむいて生きていますが、ただ振り向くだけで良いのです。