2023.12.10「神は愛なり Ⅰヨハネ4:7-12」

ヨハネ第一の手紙ほど「愛」ということばが出ている書物もないでしょう。聖書学者はヨハネの福音書とヨハネ第一の手紙、第二の手紙、第三の手紙の著者は同じであろうと言います。でも、イエス様の弟子のヨハネではなく、別の「長老ヨハネ」であろうと言います。私はそのようなことには興味がありません。私が言いたいのは、ヨハネはパウロと違って、「どうしてねちっこい書き方をするのか?」ということです。パウロは胆汁質ですが、ヨハネはあきらかに粘着質です。ちなみにペテロは多血質、トマスは憂鬱質だと言われています。

1.神は愛なり

聖書が言う愛は、他の宗教にはありません。ギリシャ神話・ローマ神話の神々の愛は、口に出すのもおぞましい愛です。ローマ帝国は力と権力こそがすべてであり、愛と言うものには全く興味がありませんでした。そのような時代に、崇高で聖い、犠牲的な愛があったのです。ヨハネはその愛をこの手紙で示しています。まず、ヨハネは「この愛は私たちが作り出したり、私たちが始めたものではない、神が最初である」と言っています。Ⅰヨハネ4:9,10「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」旧約聖書においても神は愛でありました。でも、どちらかと言うと契約に基づいた愛でありました。主なる神はご自分が選んだイスラエルをどこまでも愛しました。ところが、イスラエルは何度も裏切り、他の神々に向かいました。いよいよ、罪を贖うメシヤの出現が期待されました。新約聖書ではどうでしょう?神さまは、独り子をこの地上に送って、ご自分の民を救おうとされました。しかし、イスラエルはメシヤを拒み十字架につけてしまいました。不思議なことに、三日目にそのメシヤが死からよみがえられました。ヨハネは「それによって神の愛が私たちに示されたのです」と言っています。つまり、十字架でメシヤが死なれたのは、神の愛の現れだったというのです。

では、もう少し、そのことを詳しく学びたいと思います。重要なのは、神さまはなぜ、何のために独り子を送る必要があったのかということです。また、そのことによって、私たちはいのちを得ることができるのですが、どうしてそれが愛なのかということです。10節「神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」と書いてあります。重要なことばが2つあります。それは罪と宥めのささげものです。神さまは愛なるお方ですが、同時に義なるお方です。罪に対しては必ず罰しなければなりません。義なる神さまは、罪ある人間をそのまま愛することはできないのです。人間はだれでも3つの罪を持って生きています。第一はアダムから受け継いだ罪、原罪です。たとえ自分が罪を犯していなくても、罪の中に生まれ育ってきました。体に罪が染み込んでいる状態です。第二は自分が具体的に犯した罪です。嘘は罪ですが、何べん嘘をついたら嘘つきになるのでしょうか?1回です。この地上に、産まれれてきてこの方、嘘をついたことのない人は一人もいないでしょう。「義人はいない」とパウロが言いました。第三は親や先祖から受け継いできた罪、(咎)です。私たちは何らかの咎を背負って生きているのです。イスラエルは律法を与えられていましたが、これら3つの罪の解決にはなりませんでした。律法によってかえって罪が浮彫りされてしまったのです。しかし、年に一度のイスラエルのための贖罪の日に、生贄がささげられることに救済のヒントがありました。大祭司がきよい動物の血を携え、至聖所まで進み行き、契約の蓋の上にその血を注ぎかけるのです。契約の蓋を「贖罪所」とも言い、ヘブル語で「カッポーレ」と言いました。それが、ギリシャ語の「宥めのささげ物」(ヒラスティリオス)」のことばと全く同じものです。これと同じことばが、ローマ3:25「血による宥めのささげ物」として出てきます。イスラエルの神が贖罪所に注がれた血を見て、イスラエルの罪を赦しました。新約では、父なる神は御子イエスが流された血を見て、人類の罪を赦すことを決めたのです。言い方を変えると、神の義が満たされ、人類の罪に対する怒りがなだめられたのです。この贖いのわざは、父なる神と御子なる神が一方的になさったことであり、私たち人類は1つも贖いには参与していません。私たちがキリストを十字架につけたのではなく、父なる神が私たちの罪のためにキリストを十字架につけたのです。だから、「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」という真理がなりたつのです。

榎本保郎牧師にある人がこう言ったそうです。「私たちが頼んでもいないのに、キリストが十字架にかかって死んで、それを信じたら救われると言うのですか?」榎本先生は「だから有り難いんだよ。神さまが全部用意して下さったんだから」と答えたそうです。パウロはローマ5章でこのように述べています。ローマ5:7,8「正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」そうです。私たちは生まれつき神に対する反抗心があり、キリストの贖いを受け入れようとしません。もし、だれも受け入れないなら、キリストの死が無駄になるでしょう。それでも、父なる神さまは宥めのささげ物として御子を遣わし、キリストは私たちのために死なれたのです。あくまでも言えることは、罪の贖いは神さまがご計画し、神さまが完成したものです。だから、ヨハネが言うように「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」神さまがキリストによって与えたいと願っているのは、いのちです。これは、神のいのちであり、永遠のいのちです。パウロは救いを「義と認められることだ」と定義しました。ヨハネは「滅びないで永遠のいのちを得ることだ」と定義しました。前者は法的な意味の救い、後者は生命的な意味の救いです。ヨハネもヨハネ第一の手紙も、「キリストを信じて、いのちを得るように。神の愛を無駄にしないように」と、私たちを招いているのです。

2.互いに愛し合え

 Ⅰヨハネ4:11,12「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。」ヨハネは神の愛を受けた人にチャレンジしています。「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。」「これほどまでに」というのは、前の部分が前提であり、根拠であるということです。前に何と書いてあったでしょうか?Ⅰヨハネ4:9,10「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」このところに、互いに愛し合うための愛というものがどのようなものか示されています。CSルイスという人が、「愛はギリシャ語で4つある」と言いました。第一はエロースです。このことばは聖書にはありません。エロースというと男女の愛を想像するかもしれません。しかし、元来は美しいものを愛するという、芸術的な愛のことを指しました。第二はフィリアです。動詞はフィレオゥであり、「愛する、好きである」という意味です。親しい関係にある者への愛です。よく「友愛」と訳されたりします。第三はストルゲーです。この愛は、親が子どもを愛する愛であり、人間では最高の愛です。第四はアガペーです。動詞はアガパオゥです。フィレオゥと同じように「愛する」という意味もあります。しかし、低い人間の愛と区別して用いるため、一層高い愛と言われています。キリスト教会では「神の愛」を表わすとき、アガペーを用いています。ヨハネ第一の手紙に出てくる愛は、すべてアガペーもしくは、動詞のアガパオゥです。

 では、ヨハネが勧めている「互いに愛し合うべきです」の愛はどのような愛なのでしょうか?アガパオゥ、神の愛で愛するということです。残念ながら、私たちにはそのような愛は持っていません。なぜなら、神の愛は、美しくなくても価値がなくても愛するのでエロースとは違います。また、神の愛は、あなたが愛さなくても愛する愛ですから、フィリアとは違います。また、親の愛は人間の愛の中で最も崇高ですが、よその子どもをそのように愛することはできません。血のつながりに基づいたストルゲーとは違います。神の愛は、罪のためにひとり子を十字架に渡す、犠牲的な愛です。たとえ人が信じなくても救いを与える一方的な無条件の愛です。このような愛は生まれつきの私たちにはありません。イエス様はかつて弟子たちにこう言われました。ヨハネ15:12-14「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です。」イエス様は、「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません」と言いながら、「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と命じられました。これって、矛盾してはいないでしょうか?人間の愛には、自分の友のために命を捨てる、そのような大きな愛はないのです。それなのに、「互いに愛し合え」とはどういう意味でしょうか?太宰治という人が「走れメロス」を書きました。メロスは時間にぎりぎり間に合ったのですが、お互いに疑っていたことを打ち明けました。友人は「メロスは来ないのではないか」と疑い、メロスは「走っても間に合わないから、やめようか」という疑いでした。「本当に、正直だなー」と思います。榎本保郎牧師が『旧約聖書一日一章』だったと思いますが、「自分には本当の愛がないということを知るのは悲しい発見であるが、それは本当の愛を得るための出発である」と書いていました。私は20年位前に、セルチャーチ・カンファレンスの司会をしていました。だれかのメッセージンの後に「私にはそのような愛はありません。どうか愛することができるように助けてください」と祈りました。すると、講師のベン・ウォン師が「自分が愛せないと言う人を、神は愛することができるようにしてくださるだろうか?」と異議を挟みました。そして、「午後のセッションはそのことのテーマでお話ししたい」と大変なことになりました。ベン・ウォン師は「愛せない」と決意している人の決心を変えて、神さまは愛させることはできない。「愛します」と言えば、神さまが愛する力を与えてくださるのだと教えて下さいました。私が言いたいことと、ベン・ウォン師の言いたいこととが微妙にずれていると思いましたが、それでも良しとしました。

 つまり、自分を捨ててまで相手を愛するということは、生身の人間にはできないことです。しかし、そのように互いに愛し合いなさいとイエス様は命じるのです。また、ヨハネも「神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです」と勧めるのです。結論として、これは元来、人間が持っている愛ではない、神からの奇跡的な愛と言えるのではないでしょうか?たとえ、愛する価値がなくても、たとえ私を愛してくれていなくても愛するというのですから、並大抵の愛ではありません。でも、ヨハネは「神がこあれほどまでに、私たちを愛してくださったのなら」と言っています。つまり、この愛を受け取った人の応答であり、恩返しとしての愛であります。神さまから無限に愛されているのだから、兄弟姉妹を愛するのは当然のことだろうということです。Ⅰヨハネ4:20,21「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は兄弟も愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けています。」共同訳は「兄弟」を「きょうだい」とひらかなで書いています。これは、兄弟姉妹という意味でしょう。とにかく、ヨハネは目に見える兄弟を愛していることが、目に見えない神さまを愛していることの証拠だと言うのです。ここには自分の「愛するとか、愛したくない」の選択の余地がありません。自分の感情や意志が入り込む余地もありません。「神さまのご命令だから」「神さまを愛していることの証明なのだから」と言われているのです。でも、不思議なことに、神さまが命令を下すときには、それを実行できる力も与えて下さいます。ローマ5:5「なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」アーメン。

3.ことばだけではなく

 Ⅰヨハネ3:17,18「この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか。子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。」私は教会内でお金の貸し借りをするのは良くないと思います。私は貸すのではなく、むしろあげるのが良いと思います。貸すと、借りている方はどうしても卑屈になります。お金を貸したり、借金の保証人になるのは聖書的ではありません。箴言11:15「他人の保証人になると苦しみにあう。保証を嫌う者は安全だ。」箴言22:26「あなたは人と誓約をしてはならない。負債の保証人となってはならない。」とあります。これはいくら親しい友であってもです。この世には、友人の保証人になって、破産に追い込まれたというニュースを山ほどあります。テレビで『何でも鑑定団』を見ますが、借金のかたに骨董品を預けた場合、取り戻しに来ないのがほとんどです。私も講壇から立派なことを言っていますが、人生においては経済的に困窮する時というのがどうしてもあります。自分のお店や子ども、あるいは病気の治療のために必要なときがあります。例外というのがあるかもしれませんが、たとえこの人が返してくれなくても、こちらの生活が倒れない額が良いでしょう。また、この人が返してくれないなら、あげるつもりで貸すのなら良いでしょう。聖書には、1万タラントの負債のある者が、主君から赦されたという物語があります。しかし、彼は100デナリ返せない仲間の首を絞めて「借金を返せ」と言いました。「もう少し待ってくれ」と言ったら、彼を牢にほうりこんだという話があります。1万タラントは今で言うと約6,000億円で、100デナリは100万円です。この話を聞いた主君は彼を呼びつけて、怒って、負債をすべて返すまで彼を獄吏に引き渡しました。普通、6,000億円を返すには、10万年かかります。このように聖書には「お金」のことが良く書かれています。ヨハネも「この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか。」と言っているのです。

 愛はことばだけで終わってしまいます。愛について哲学的にそれはどういう意味か教えることもできるでしょう。愛について詩や歌で表現することもできるでしょう。しかし、愛するというのは、とても具体的であり、手を汚さなけばならない時もあります。たとえば、赤ちゃんを愛するとは、おしっこやウンチの世話もすることです。可愛くても、叱らなければならない時があります。友に対して、嫌われても言わなければならない時もあります。私たちは愛することに対してとても臆病です。愛すると傷つく、愛すると裏切られるということをたくさん経験してきたからです。ひょっとしたら、こっちが相手を傷つけ、こっちが相手を裏切ったかもしれません。そうなると、あまり近づかないでお互い距離を置いていた方が良いということになります。田舎ではべったり、共依存的な愛が溢れています。しかし、都会ではしらんぷりして、できるだけ関わりを持たないで生きています。日本人は本音と建て前で生きているので、欧米の人たちと比べ、親の友達を作るのが難しいと言われています。ショーペン・ハウエルという哲学者が「山嵐の論理」ということを言いました。寒い冬の夜、山嵐の若いカップルが近くに寄って温め合おうとしました。しかし、お互いに刺を持っているので、近づくとお互いの刺がささって傷を受けてしまいます。かといって離れると寒くなります。刺というのは、人間が持っている罪です。私たちは罪を持っているので、近くに交わって愛することができず、どうしても傷つけあってしまうのです。これは親しい人でも距離を保つというバウンダリーの教えにもなります。でも、本当はそうではなく、贖い主であるキリストを互いの間にお迎えするということです。私たちは無媒介的に互いに愛し合うことはできません。お互いの間に、贖い主であるキリストをお迎えすると、二人の罪をキリストが受け止めてくださり、互いに愛し合うことが可能になるのです。ヨハネが言っている「互いに愛し合いましょう」という勧めは、キリストを介しての愛し合い方に間違いありません。

 教会は愛を学ぶところであるということは間違いありません。多くの人たちは、クリスチャンというのはみな人格的に完成した人たちだと思っています。しかし、それは美しい誤解です。期待して近づいてみたら、目の前の穴ぼこにはまって出られないということがあります。もう、一遍で、「嫌な思いをしたから教会に行くのをやめよう」という人がいます。でも、それはお互い様です。あなたもこれまで多くの人を傷つけて来たからです。では、教会とこの世の交わりは一体どこが違うのでしょうか?お互い、キリストの贖いによって罪が赦されている者たちです。お互い、不完全な者たちが完全な愛を受けている者たちです。でも、それで甘えてはいけません。「互いに愛し合いなさい」という命令を受けている者たちでもあります。大川牧師は「愛に卒業はありません。私たちは、一生、愛の課題に立ち続けるしかないのです」とメッセージをしておられました。神さまは不思議なことに、気の合わない人を目の前に置いて、愛することを学ばせてくれます。神さまは不思議なことに、あなたの父もしくは母と似た人を目の前において、愛することを学ばせてくれます。神さまは不思議なことに、過去においていやな思いをしたことのある似たような名前の人や、似たような人物を目の前に置いて、愛することを学ばせてくれます。箴言27:17「鉄は鉄によって研がれ、人はその友によって研がれる」と書いてあります。となりの席の人に「私を研いでくれてありがとう」と言いましょう。家に帰ったら、妻や夫や子どもに「私を研いでくれてありがとう」と言いましょう。会社に行ったら、上司や同僚に「私を研いでくれてありがとう」と言いましょう。「でも、こんなことをずっと天国までやっているのでしょうか?何かゴールはないのでしょうか?」あります。Ⅰヨハネ4:12「私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。」JBフィリップスは、His love grows in us perfection.「神の愛が私たちの中で完全に成長します」と訳しています。イエス様もマタイ5章で「ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい」と言われました。愛においてゴールはありません、ただ愛を追い求めていきたいと思います。