2023.12.3「永遠のいのち Ⅰヨハネ1:1-2」

ヨハネによる福音書とヨハネ第一の手紙の主要なテーマは「永遠のいのち」です。ヨハネにとって「いのち」と「永遠のいのち」は同じことを意味します。ヨハネにとって「救い」とは「永遠のいのちを持つ」ということです。しかも、永遠のいのちは、御子のうちにあるということです。そして、御子を持っている者は、永遠のいのちを持っているということです。これで、ほとんど語ってしまいましたが、3つに分けて、これらのことを共に学びたいと思います。

1.永遠のいのちとは   

 永遠のいのちとは何でしょう?多くの人たちは、永遠のいのちとは、死なないでずっと生き続けることだと考えています。つまり、今の状態で生き続けるという不老不死です。昔から、どうしたら不老不死のいのちを得られるか?数多くの物語や伝説があると思います。また、ギリシャ哲学や世界のほとんどの宗教は、霊魂の不滅を信じています。この肉体が死んでも、魂はどこかで生き続けていると考えています。エジプト、アンデス、チベット、東南アジアなどでは死体をミイラにします。魂が帰って来た時、肉体がないと困ると信じているからでしょう。よっぽどの唯物論者でないかぎり「人間は死んだら何もなくなる」とは考えていないでしょう。日本はだれかが死んだ場合、「他界した」とか「あの世に旅だった」と言います。ということは、死後、魂はどこかで生きていると信じているからです。私たちは本能的に、「死後の世界があるのでは」「永遠の世界があるのでは」と思っています。伝道者の書3:11「神はまた、人の心に永遠を与えられた」と書かれています。しかし、聖書には「永遠のいのちは何なのか」、はっきりと啓示されています。私たちの考えでは及ばないことを、神さまが聖書を通して、開示してくださっています。

 まず、永遠のいのちとは何かを、聖書から知る必要があります。永遠のいのちとは、神が持っているものであり、神のいのちという意味です。Ⅰヨハネ1:1「初めからあったもの」、1:2「このいのちが現れました。御父とともにあり」と書いてあります。ウィットネス・リーは『聖書の重要な真理』という本でこう述べています。「この永遠のいのちは初めから存在したものです。神のいのちだけが初めから存在しました。ですから、永遠のいのちとはまさに神のいのちであり、宇宙と時間が始まる前から存在していました。神は永遠であって、初めがなく終わりがないので、神のいのちも永遠であって、初めがなく終わりがありません。そして、永遠のいのちである神のいのちが、イエス・キリストに現されたということです。」Ⅰヨハネ1:2「このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。」ヨハネが言っているいのちとは、肉体をもって現れてくださったイエス・キリストご自身のことです。本来、いのちは見ることも、さわることもできません。しかし、弟子たちはキリスによって、神のいのちが何なのか見ることができました。ヨハネは「私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます」言っています。ヨハネによる福音書において、イエス様はたびたび、ご自分にあるいのちについて証言しておられます。イエス様はいのちを水にたとえておられます。ヨハネ4:14「わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」また、イエス様はいのちをパンもしくは肉にたとえておられます。ヨハネ6:35「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」また、イエス様のいのちは死に打ち勝つ復活のいのちであるとも言われました。ヨハネ11:25,26「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。」また、イエス様ご自身がいのちであるとも言われています。ヨハネ14:6「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」今のはヨハネによる福音書からの引用でしたが、弟子たちがイエス様のことばを聞き、イエス様と共に過ごしたので、「この永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます」と言えたのです。

 この世の人たちは、キリストなしで「永遠のいのちとは何か」議論しています。しかし、それでは哲学やこの世の宗教と同じで、雲をつかむような話になるのです。聖書に永遠のいのちが啓示されていますが、最も具体的に現したのがイエス・キリストです。イエス・キリストは「わたしがいのちなのです」と言われました。さらに、「わたしはよみがえりです。いのちです」とも言われました。どうしてそのことを証明することができたのでしょうか?それは、イエス・キリストが十字架で死なれた後、三日目によみがえられたからです。「わたしを信じる者は死んでも生きるのです」ということを証明するかのように、ご自身が死んでよみがえられました。イエス様は蘇生したのではありません。死なない栄光のからだでよみがえられたのです。魂だけではなく、肉体も永遠に生きることができるという保証となられました。ギリシャ哲学は霊魂の不滅は信じましたが、肉体の復活を否定しました。何故なら、彼らは肉体は悪であると考えていたからです。聖書は肉体が復活してこそ、救いがあり、永遠のいのちがあるのだと言っているのです。どこか知らない陰府の世界で永遠に生きることを、永遠のいのちとは呼ばないのです。肉体の死を乗り越える神のいのちが必要なのです。ちなみに、ギリシャ語はいのちを3つに分けています。肉体のいのちはバイオスであり、生命的ないのちです。植物、動物、人間の肉体がそれです。二番目はプシュケーです。魂とも訳されることばですが、魂のいのちです。動物と人間の魂がそれです。最後はゾーエーです。これは「いのち」と訳されますが、多くの場合は、「永遠のいのち、神のいのち、復活のいのち」を指しています。イエス様が福音書で語っておられる「いのち」はすべて、この「ゾーエー」です。イエス様は魂のいのちである「プシュケー」を失ってでも、永遠のいのち「ゾーエー」を得よと福音書で教えておられます。永遠のいのちとは、神話的で架空のものではありません。永遠のいのちは永遠であられる神のいのちです。また、永遠のいのちは、イエス・キリストによって現わされたいのちなのであり、求めるならば私たちに与えられるいのちです。すべてを失っても、かけがえのない永遠のいのちを得られたなら何と幸いでしょう。

2.永遠のいのちは御子の中にある

 Ⅰヨハネ5:11-12「その証しとは、神が私たちに永遠のいのちを与えてくださったということ、そして、そのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。」神の御子は肉体となられた神、御子の中に具体化された神ご自身です。ですから、神のいのちは、神の御子の中にもあります。神の御子の中にあるいのちは、永遠のいのちです。福音書にも同じことが書かれています。ヨハネ1:4「この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった」「いのち」とありますが、ヨハネ福音書においては、「永遠のいのち」のことです。肉体となられた主イエスは神の御子であるので、神のいのち、永遠のいのちが御子の中にあります。私たちは御子を受け入れ、御子を得るとき、御子の中にある永遠のいのちをも得ます。Ⅰヨハネ5章に「御子を持つ者はいのちを持っており」と書かれています。「持つ」とは、「信じる」ということです。「信じる」とは、私たちの心の内側に御子をお迎えするということです。そうすると、御子が持っておられる永遠のいのちも得ることができるのです。ここで言われている永遠のいのちは、褒賞ではなく、神の恵み、神の賜物です。私たちが何か働いて得るものではなく、無代価で与えられるものです。金持ちの青年がイエス様のところにやってきたことが福音書に記されています。彼は「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか」と聞きました。イエス様は彼に「戒め(律法)を守っているか」と聞きました。彼はそれらを小さい時から守っていると答えました。イエス様は「完全になりたいのなら、帰って、あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい」(マタイ19:21)と言われました。青年はこのことばを聞くと、悲しみながら立ち去りました。多くの財産を持っていたからです。彼は戒め(律法)を完全に守ることができませんでした。つまり、行ないによって永遠のいのちを勝ち取ることは不可能だということです。なぜなら、永遠のいのちは、神の恵みであり、神の賜物だからです。

 ある人たちは、永遠のいのちは死んで、天国に行ってから受けるものだと思っていますが、そうではありません。永遠のいのちを得るのは信じた時です。Ⅰヨハネ5章に「御子を持つ者はいのちを持っており」と書かれています。言い換えると、御子を信じている者は、永遠のいのちを同時に持っているということです。福音書にも同じことが書かれています。ヨハネ5:24「わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。」英語の聖書で読むと、時制がはっきりしています。he who hears My word and believes in Him who sent Me has everlasting life, and shall not come into judgment, but has passed from death into life.このところに、has everlasting life「永遠のいのちを持っている」と現在形になっています。私たちは主のことば、福音を聞いて、イエス様を信じるとき、直ちに永遠のいのちを持ちます。多くの人たちは、自分たちは今、主を信じているけど、将来のある時まで永遠のいのちを得ることはないと思っています。彼らは「信じる」と「持つ」との間に時間がないことを認識していません。私たちはキリストを信じた瞬間に、直ちに永遠のいのちを持つのです。第一ヨハネが書かれた目的が記されています。Ⅰヨハネ5:13「神の御子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書いたのは、永遠のいのちを持っていることを、あなたがたに分からせるためです。」キリスト教において、多くの人は主を信じる者たちが永遠のいのちを持っているかどうか、今の時代に知ることはできないと考えています。しかし、Ⅰヨハネ5章13節は、はっきり言っています。神のことばである聖書から、私たちが永遠のいのちを持っていることを知ることができます。たとえ、感覚がなくても、理性が否定しても、神のことばにそう書かれているのでそのまま受け止めると良いのです。

 私はこのようなメッセージをしていますが、私自身はどうなのだろうと吟味してみました。聖書はそう言っているけれど、私自身は心から信じているかどうかということです。私はイエス様を信じた時に、永遠のいのちが与えられたという確信が与えられました。救いのことをいくつか神学的な用語で表現することができます。パウロは義とされること、義認が救いであると言っています。これは法的な表現です。他に、罪の赦し、新しく造られること、神と和解すること、贖われること、神の子とされるという表現があります。私にとって救いとは、永遠のいのちが与えられたことであり、それが最も大きな喜びでした。しかし、他の人に聞くと「意外にもそうでない」という人がたくさんおられます。私は「そうかなー?永遠のいのちに勝るものはないだろう?」と思います。二番目の息子が中学生のとき、ジュニア礼拝に参加していました。そのとき、息子の友人が二人来ていました。その日は「永遠のいのち」がテーマでした。その時は下でメッセージをしていたので、「永遠のいのちを欲しくないか」一人一人聞いてみました。すると、一人の友達は「いらない」と首を横に振りました。「え、欲しくないの?」と驚いてことばを返しました。次週から二人の友人は礼拝に来なくなりました。「ああ、気まずい思いをさせたのかな?」と反省しました。「しかし、永遠のいのちが欲しくないとはどういうことだろう?」と憤りを覚えました。でも、あとから「ああ、永遠のいのちという意味が分からないんだな」と悟りました。

 ヨハネ3:15,16「それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」福音書にも御子を信じる者が、永遠のいのちを持つと書かれています。しかし、同時に「信じない者は滅びる」とも書かれています。滅びるとは、ヨハネ黙示録20章にある「火の池」のことです。神さまが人間を創造されたとき、その魂が永遠に生きるように造られました。死んだ魂はどこかで、永遠を過ごすしかありません。永遠の御国かそれとも永遠の火の地獄かどちらかです。本来「火の池地獄」は悪魔とその手下どもに造られたものです。父なる神さまのみこころは、私たちがキリストを信じて、ご自分のいのちである、永遠のいのちを持つことです。

3.永遠のいのちを持つ者

この世において、2種類の人しかいません。それは、永遠のいのちを持っている人と、持っていない人です。しかし、永遠のいのちを持っている人は、持ってない人とどのようにして見分けることができるのでしょうか?永遠のいのちを持っていても、今の生活に何の効果もなければ、あまり魅力的ではありません。永遠のいのちを持っている人は、持ってない人と何か生き方が違うのでしょうか?Ⅰヨハネ全体を読みますと、永遠のいのち、つまり神のいのちをいただいている人は、こういう生き方をするのではないだろうかと分かってきます。Ⅰヨハネ全体から、「永遠のいのち」が出てくる箇所がどのくらいあるでしょうか?永遠のいのちと書かれている前後に、そのヒントが隠されていると思います。

第一は永遠のいのちは実を結びます。Ⅰヨハネ2:24,25「あなたがたは、初めから聞いていることを自分のうちにとどまらせなさい。もし初めから聞いていることがとどまっているなら、あなたがたも御子と御父のうちにとどまります。これこそ、御子が私たちに約束してくださったもの、永遠のいのちです。」ここに「とどまる」ということばが何度も出てきます。初めから聞いていることというのは、使徒たちが語った福音のことばです。その福音のことばにとどまるということです。同時にそれは、御子と御父にとどまっているということです。その2つのことが、永遠のいのちを持っている人の特徴だということです。イエス様はヨハネ5章で「私にとどまりなさい。私にどどまっているなら、その人は多くの実を結びます」と言われました。これは、イエス様のいのちが私たちに流れることによって実を結ぶということです。ガラテヤ書に「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」という御霊の実が記されています。つまり、永遠のいのちは人格的な良い実を結ばせてくれるということです。

第二は、永遠のいのちは人を愛する愛を与えてくれます。Ⅰヨハネ3:14,15「私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛さない者は死のうちにとどまっています。兄弟を憎む者はみな、人殺しです。あなたがたが知っているように、だれでも人を殺す者に、永遠のいのちがとどまることはありません。」私たちクリスチャンは死からいのちに移った存在であり、永遠のいのちを持っています。共同訳は「きょうだい」とひらかなになっていますので、その特徴は、主にある兄弟姉妹を愛するということです。イエス様は「互いに愛し合いなさい」と度々言われました。これは律法でできることではなく、神のいのちが与えられているので可能なのです。私たちが互いに愛し合うのは、永遠のいのちがとどまっている証拠です。この世ではそれはなかなかできません。人を愛すると自分が持っているものが減って損をすると考えるからです。しかし、私たちは神さまから豊かないのち、たくさんの愛を既にいただいている存在です。人に与えるとそのときは減ったように思っても、ただちに神さまが補充してくださいます。イエス様はヨハネ4章で「わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます」(ヨハネ4:14)と言われました。つまり、人に与えても、泉のように神の愛と神のいのちが再び湧き上がってくるということです。

第三は神のいのちは、世と罪と悪魔に勝利することができます。Ⅰヨハネ5:4「神から生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。」Ⅰヨハネ5:18「神から生まれた者はみな罪を犯さないこと、神から生まれた方がその人を守っておられ、悪い者はその人に触れることができないことを、私たちは知っています。」この2つの聖句には、「神から生まれた者」と書かれています。私たちは神から生まれたので、神のいのち、神のDNAを持っています。これはキリストを信じている人だけの特権です。外側から見ただけでは全く分かりません。もちろん、血液検査をしても分からないでしょう?しかし、私たちは霊的に新しく生まれた存在であり、神のいのちが流れています。その特徴と3つあります。「世の誘惑に勝つことができる」、「罪を犯し続けない」、「悪い者は私に触れることができない」ということです。私たちの体には、免疫細胞とか抗体物質があります。血中やリンパ線や細胞に、細菌や癌、ウィルスをやっつけるものがあります。私たちは神のいのちを持っているので、世と罪と悪魔に勝利することができるのです。

第四は永遠のいのちはキリストの証を持っています。Ⅰヨハネ5:10-12「神の御子を信じる者は、その証しを自分のうちに持っています。…その証しとは、神が私たちに永遠のいのちを与えてくださったということ、そして、そのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。」証はギリシャ語で「マルチュリア」で、証言、証拠という意味です。永遠のいのちを持っている人は、どのような証を内に持っているのでしょうか?それは十字架によるキリストの贖いの確信です。神がキリストによって罪を贖ったという証を、確かに信じているということです。永遠のいのちを持っている人は、それが確信として分かるのです。しかし、永遠の命を持たない人は、「そのようなことは嘘だろう」と聖書の証言を信じません。その人は、神を偽り者としているのです。私たちは聖書の証言をある時から、信じることができました。それは、聖霊によって与えられた奇跡としか言えません。「なぜ、2000年前の十字架の出来事が、私と関係があるの?」と頭では全く理解できません。「十字架の贖いは私のためであった」と信じられるのが不思議でたまりません。でも、永遠のいのちが与えられているので、「アーメン、その通りです」と感謝して証しできるのです。

永遠のいのちを持っている人は、この世の人生の短さを良く知っています。永遠と比べたなら、80年の人生もまばたきの一瞬と等しいでしょう。永遠のいのちを持っているクリスチャンは、地上での短い生涯をかけがえのないものと思い、一日、一日を大事に使います。「永遠のいのちが与えられているのだから、地上の短い日々なんでどうでもいいだろう?」とは思いません。なぜなら、この地上のいのちと、永遠のいのちはつながっているからです。私たちは永遠のいのちを持っていながら、この地上で生きているのです。やがて、この地上のいのちは、永遠のいのちにのまれてしまうのです。だからこそ、地上のいのちを大事にしながら永遠に向かって生きるのです。