2023.11.26「ペテロの終末論 Ⅱペテロ3:3-9」

きょうはあまりにも難解なので、礼拝ではパワーポイントでメッセージしました。

ペテロ第二の手紙の筆者は、イエス様の弟子であるペテロではないという説もあります。なぜなら、第一手紙と比べて、ギリシャ語がぎこちないからだそうです。第一の手紙はおそらく、シルワノが代筆したのではないかと思います。しかし、第二の手紙はペテロ自身が書いたからかもしれません。ペテロは「私はキリストの威光の目撃者であり、聖なる山で御声を聞いた」(Ⅱペテロ1:16-17)と証言しています。きょうは、世の終わり、主の来臨について語りたいと思います。

1.来臨の遅い理由

Ⅰペテロ3:3-4「まず第一に、心得ておきなさい。終わりの時に、嘲る者たちが現れて嘲り、自分たちの欲望に従いながら、こう言います。『彼の来臨の約束はどこにあるのか。父たちが眠りについた後も、すべてが創造のはじめからのままではないか。』」「彼の来臨」というのは、イエス・キリストが再び来られるということです。2000年前のクリスマスを「初臨」と呼んでいます。そして、世の終わりにキリストが再び来られることを「来臨」、もしくは「再臨」と呼んでいます。Ⅱペテロ3:12「そのようにして、神の日が来るのを待ち望み、到来を早めなければなりません。その日の到来によって、天は燃え崩れ、天の万象は焼け溶けてしまいます。」このところに、「到来」ということばがありますが、ギリシャ語では「パルーシア」です。パルーシアには、「来臨」もしくは「再臨」という意味があります。聖書では「世の終わり、イエス・キリストが再び来られ、この世をさばいた後、新たに御国を建てる」と預言しています。このことは旧約聖書では「主の日」とも呼ばれ、「恐ろしい日」であると預言されています。昔、『ノストラダムスの大預言』というのがありました。彼は「1999年7の月に恐怖の大王が来るだろう」と予言しました。日本でもものすごい「終末ブーム」が巻き起りました。この影響で、オウム真理教が生まれたとも言われています。しかし、ノストラダムスの大預言は「破局」もしくは「人類滅亡」を強調するものであり、「キリストの来臨による救い」を予言していません。むしろ、彼は「恐怖の大王」と言っているのですから、偽預言者であることは間違いありません。

ペテロの時代は逆に、「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父たちが眠りについた後も、すべてが創造のはじめからのままではないか」というあざけりの声がありました。何故かというと、12弟子をはじめ、パウロも「キリストはまもなく来られ、そのとき御国が建てられる」と信じていたからです。ちなみに、十字架の片方の犯罪人はこう言いました。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」それに対して、イエス様は「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」(ルカ23:42,43)と答えられました。使徒1章でよみがえられたイエス様に、使徒たちはこのように尋ねています。「主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。」(使徒1:6)。テサロニケの教会の人たちはパウロに「先に眠った人たちはどうなるのですか?」と聞いています。明らかに、初代教会の人たちは、「主の来臨が遅いんではないか?」と思っていたのです。そのことを揶揄するかのように、「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父たちが眠りについた後も、すべてが創造のはじめからのままではないか」というあざけりの声がありました。それに対して、ペテロはノアの洪水の時のことをあげています。主はノアの洪水の後、すべての被造物に対して「大洪水が再び起こって地を滅ぼすようなことはない」と契約を交わしました。そのしるしとして、虹が雲の中に現れました(創世記9:11-14)。神さまはこの地が洪水で滅びないように、保っておられます。ペテロは「洪水ではなく、火で焼かれるために取っておられるのだ」と言っています。Ⅰペテロ3:7「しかし、今ある天と地は、同じみことばによって、火で焼かれるために取っておかれ、不敬虔な者たちのさばきと滅びの日まで保たれているのです。」旧約聖書の預言書には、いたるところに、火によるさばきが預言されています。ヨエル2:30,31「わたしは天と地に、しるしを現れさせる。それは血と火と煙の柱。主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる。」マラキ4:1「見よ、その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行う者は藁となる。迫り来るその日は彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。──万軍の主は言われる──」旧約聖書のマラキ書は紀元前440年頃書かれた、最後の預言書です。それから預言が440年間も途絶え、イエス様がこの地に来られました。イエス様は十字架の贖いを成し遂げられた後、よみがえり、天に昇られました。そのとき、白い衣を着た二人の御使いが弟子たちにこう告げました。「ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。」(使徒1:11)

しかし、イエス様が天にお帰りになられてから、もうすぐ2000年になります。「来る、来るとおっしゃったのに、ちっとも来ないですか?」と信仰のある者もつぶやいてしまいます。それに対してペテロはこう述べています。Ⅱペテロ3:8,9「しかし、愛する人たち、あなたがたはこの一つのことを見落としてはいけません。主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようですから、2000年は、たったの2日ということになります。では、なぜ来られるのが遅いのでしょうか?主は「約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」アーメン。すぐ、来てしまったなら、多くの人がただちに滅ぼされてしまいます。天の御国にはまだ空席があるので、その数が満ちるまで、来臨を遅らせているのです。神さまのみこころは、「だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」こんなに神さまの御心が示されている箇所も少ないです。神さまは私たちを滅ぼしたくないのです。一人でも多くの人が主イエス・キリストを信じて、御国に入っていただきたいのです。

2.来臨の備え

 Ⅰペテロ3:10 前半「しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。」このみことばは、ペテロがイエス様から直接、聞いていたことです。マタイ24:42-44「ですから、目を覚ましていなさい。あなたがたの主が来られるのがいつの日なのか、あなたがたは知らないのですから。次のことは知っておきなさい。泥棒が夜の何時に来るかを知っていたら、家の主人は目を覚ましているでしょうし、自分の家に穴を開けられることはないでしょう。ですから、あなたがたも用心していなさい。人の子は思いがけない時に来るのです。」盗人、つまり泥棒というのは、人が油断している時や、夜寝静まっているときにやって来ます。1993年5月に、この教会堂を献堂しました。旧会堂を壊して、建て直すまで、8か月間ありました。それで、1992年9月頃から、工事を請け負って下さった工務店の4階ホールを礼拝のためお借りしました。私が鍵を預かっており、毎日曜日の朝、工務店のビルに行ってドアを開けます。ある朝、4階に上がると、私たちが使うホールに大きな金庫がお腹を広げてころがっていました。びっくりして、少し離れた社長さん宅に知らせに行きました。私が第一発見者であり、駆けつけた警察官に説明しました。後から、賊は1階の階段の裏の小さな窓を破って侵入したことがわかりました。しかも、前の晩は大雨が降っていました。彼らは外国のプロ集団らしく、4階の社長屋にあった金庫を広いホールに持って来て、みんなでバールでこじ開けたようです。その週、社員に渡すための給与1500万円くらい入っていたそうです。私たちの新会堂を建てる儲けがふっとんでしまったかもしれません。教会で借りていたので、悪い気がしました。「神さまからの預言があれば、防げたのになー」と思いました。盗難にあった時は、後から「ああすれば良かったのに」と後悔するのではないでしょうか。

 イエス様は「泥棒がいつ来ても大丈夫なように、目を覚ましていなさい」と言われました。でも、夜は寝るので、どうしても不用心になります。主が再び来られるときが、いつなのか分からないので、いつ来ても良いように用心していなさいということです。イエス様はマタイ25章において、花婿を迎え出る、10人の娘のたとえ話をされました。彼女らはそれぞれともしびを持って花婿を待っています。しかし、花婿が来るのが遅くなったので、娘たちはみな眠くなり寝入ってしまいました。「娘」というのは、教会を暗示しており、花婿とはイエス・キリストのことです。つまり、再臨は思っていた頃よりも遅くなり、教会は霊的に眠ってしまうということでしょう。かしこい5人の娘は予備の油を持っていましたが、他の5人はそうではありませんでした。いざ、花婿が来られたとき油が絶えて、5人は花婿を迎えることができませんでした。そのため、婚礼の祝宴に入れてもらえませんでした。油とは聖霊なのか、信仰なのか分かりません。イエス様はたとえの結論として、「ですから、目を覚ましていなさい。その日、その時をあなたがたは知らないからですから」(マタイ25:13)と言われました。

 では、ペテロは目を覚ましているために、どのようなことを勧めているのでしょうか?Ⅱペテロ1:19-21「また私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜が明けて、明けの明星があなたがたの心に昇るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。ただし、聖書のどんな預言も勝手に解釈するものではないことを、まず心得ておきなさい。預言は、決して人間の意志によってもたらされたものではなく、聖霊に動かされた人たちが神から受けて語ったものです。」ペテロは「預言のみことばをまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよい」と言っています。つまり、「夜が明けるまで、キリストが来られるまで、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよい」と言っているのです。では「暗い所を照らすともしび」とは何でしょう?ペテロは「私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています」と言っていますが、それは聖書のみことばです。もっというと、聖書の中の預言です。聖書には教えや教訓もありますが、預言も記されています。ペテロは「預言は、決して人間の意志によってもたらされたものではなく、聖霊に動かされた人たちが神から受けて語ったものです」と述べています。「動かされる」とは、「帆船が風に吹かれて移動する」という航海用語です。聖書の記者たちは、聖霊の促しを受けて、神さまのことや、世の終わりに関することを書いたのです。ですから、私たちは聖書全体もそうですが、「世の終わりにキリストが来られる」という預言のことばも読むべきだということです。

しかし、現代の教会は、再臨のことは説教でほとんど取り上げません。なぜなら、かつての教会のように熱狂的過ぎで断線しないように、気を付けているからです。私の母教会である座間キリスト教会は、ホーリネス教団に属していました。昭和2年ごろ、ホーリネス系の教会にリバイバルが起り、再臨運動が高まりました。しかし、その行き過ぎから、分裂しました。でも、ホールネス教会は「新生、聖化、神癒、再臨」というスローガンを掲げていました。でも、近年は、「新生、聖化」しか言わなくなりました。「羹に懲りてなますを吹く」という諺のとおりです。

 ヨハネの黙示録は新約聖書の預言書です。残念ながら、日本では日曜日、ヨハネの黙示録から説教されることは滅多にありません。ヨハネの黙示録の冒頭に何と書いてあるでしょうか?ヨハネ黙示録1:3「この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを守る者たちは、幸いである。時が近づいているからである。」ガーン。ヨハネ黙示録は紀元後100年頃書かれたと言われています。その時点において「時が近づいているからである」と言われています。あれから、1920年たちましたので、一層、近づいていることは間違いありません。ペテロが言うように「主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです」。もう、まもなく主が来られると言っても間違いありません。最後にパウロのことばを引用したいと思います。Ⅰテサロニケ5:2-5「主の日は、盗人が夜やって来るように来ることを、あなたがた自身よく知っているからです。人々が『平和だ、安全だ』と言っているとき、妊婦に産みの苦しみが臨むように、突然の破滅が彼らを襲います。それを逃れることは決してできません。しかし、兄弟たち。あなたがたは暗闇の中にいないので、その日が盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもなのです。私たちは夜の者、闇の者ではありません。」

3.天変地異(さばき)

Ⅱペテロ3:10-13「しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地にある働きはなくなってしまいます。このように、これらすべてのものが崩れ去るのだとすれば、あなたがたは、どれほど聖なる敬虔な生き方をしなければならないことでしょう。そのようにして、神の日が来るのを待ち望み、到来を早めなければなりません。その日の到来によって、天は燃え崩れ、天の万象は焼け溶けてしまいます。しかし私たちは、神の約束にしたがって、義の宿る新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」このところには、いくつかのことが書かれています。まず、第一は天についてです。「その日、天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象は焼けて崩れ去る」あるいは「その日の到来によって、天は燃え崩れ、天の万象は焼け溶けてしまいます。」天というのは、天体であり、太陽や月、そして星々です。つまり、世の終わりは地球だけではなく、天体おも巻き込む、一大センセーショナルだということです。マタイ24章には、世の終わりの預言が記されていますので、引用したいと思います。マタイ24:29「そうした苦難の日々の後、ただちに太陽は暗くなり、月は光を放たなくなり、星は天から落ち、天のもろもろの力は揺り動かされます。」地球がひどくなって、月や太陽が地上から見えなくなるというものではありません。ヨハネ黙示録を見ると分かりますが、このような出来事は、患難期の前半に起ることが分かります。黙示録6:12-14「また私は見た。子羊が第六の封印を解いたとき、大きな地震が起こった。太陽は毛織りの粗布のように黒くなり、月の全面が血のようになった。そして天の星が地上に落ちた。それは、いちじくが大風に揺さぶられて、青い実を落とすようであった。天は、巻物が巻かれるように消えてなくなり、すべての山と島は、かつてあった場所から移された。」ヨハネ黙示録8章には、「第四の御使いがラッパを吹いた。すると太陽の三分の一と、月の三分の一、また星の三分の一が打たれたので、それらの三分の一は暗くなり、昼の三分の一は光を失い、夜も同じようになった」と書かれています。

では、地上はどうなのでしょうか?人々が恐れていますが、それでもなんとか生きています。生きているどころか、罪を悔い改めようとしていません。黙示録6:15-17「地の王たち、高官たち、千人隊長たち、金持ちたち、力ある者たち、すべての奴隷と自由人が、洞穴と山の岩間に身を隠した。そして、山々や岩に向かって言った。『私たちの上に崩れ落ちて、御座に着いておられる方の御顔と、子羊の御怒りから私たちを隠してくれ。神と子羊の御怒りの、大いなる日が来たからだ。だれがそれに耐えられよう。』」ヨハネ黙示録8章には「第一の御使いがラッパを吹いた。すると、血の混じった雹と火が現れて、地に投げ込まれた。そして地の三分の一が焼かれ、木々の三分の一も焼かれ、すべての青草も焼かれてしまった。第二の御使いがラッパを吹いた。すると、火の燃えている大きな山のようなものが、海に投げ込まれた。そして海の三分の一が血になった。また、海の中にいる被造物で、いのちのあるものの三分の一が死に、船の三分の一が壊された。」と書いてあります。次第に地球がボロボロになっていきます。アバドン(アポリュオン)という、いなごが地上の人たちを襲います。多くの災害で人間の三分の一が殺されてしまいます。彼らはどうしたでしょう?黙示録9:20,21「これらの災害によって殺されなかった、人間の残りの者たちは、悔い改めて自分たちの手で造った物から離れるということをせず、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木で造られた偶像、すなわち見ることも聞くことも歩くこともできないものを、拝み続けた。また彼らは、自分たちが行っている殺人、魔術、淫らな行いや盗みを悔い改めなかった。」

もう引用はやめますが、これらすべては患難期の前半、つまり3年半です。しかし、後半の3年半は反キリストが猛威を振るい、獣を礼拝させます。ある者たちは獣に平伏し、それを拒んだ人たちは殉教することになります。天変地異と地上の大迫害の最中、イエス様がこの地にやって来られます。黙示録16:15「──見よ、わたしは盗人のように来る。裸で歩き回って、恥ずかしい姿を人々に見られることのないように、目を覚まして衣を着ている者は幸いである──」このところに、イエス様やペテロやパウロが言ったことばが出てきます。「わたしは盗人のように来る」です。その後、黙示録19章において、イエス様が御使いたちを使えて、この地をさばきに下ってこられます。アメリカのリバイバルで起きた「福音派」は患難前携挙説を唱えました。つまり、患難が地上を襲う直前、教会(クリスチャン)は天に引き上げられるという説です。そうすると、黙示録4章以降は、教会は関係ないということになります。しかし、それは勝手で都合の良い教えかもしれません。むしろ、私は「世の終わり、キリストが来られるとき、患難も起る」と考えた方が、良い備えになると信じます。患難期はたった7年間です。前半の3年半は比較的おだやかですが、天変地異も起ります。しかし、後半の3年半は反キリストによって大迫害が起ります。これらの期間はたったの7年間です。その時、生きている人が、7年間、耐え忍ぶことができるかどうかです。もちろん、私は携挙(クリスチャンが天に引き上げられること)を信じていますが、もしかしたら、患難も通らされるかもしれないと信じています。その方が、「こんなはずじゃなかった?」と不信仰に陥ってしまうこともないでしょう。ペテロは千年王国(御国)のことを述べていません。なぜかというと、1000年はたったの1日だからです。それよりも、最終ゴールを述べています。Ⅱペテロ3:13「しかし私たちは、神の約束にしたがって、義の宿る新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」詳しいことは、ヨハネ黙示録21章と22章に書かれています。ヨハネ黙示録21:1,23「また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。…都は、これを照らす太陽も月も必要としない。神の栄光が都を照らし、子羊が都の明かりだからである。」新しい天と新しい地では、現在ある太陽や月は存在しません。なぜなら、神である主が彼らを照らされるので、ともしびの光りも太陽の光もいらないのです。黙示録22:7,17「見よ、わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを守る者は幸いである。…御霊と花嫁が言う。「来てください。」これを聞く者も「来てください」と言いなさい。アーメン。