2023.11.19「ペテロの救済論 Ⅰペテロ1:1-7」

先週は「ファミリー礼拝」でパワーポイントでメッセージしましたので、原稿のアップはありませんでした。ご了承下さい。

救済論というのは、「私たちがどのように救われるか」という神学です。私たちが救われるためにはいろんな順番があります。一般に、私たちが信じたとき、「救われた」と言います。確かに新しく生まれ、義とされましたが完全になっていません。罪は犯すし、体も病気になります。救いが完成するのは、世の終わりキリストが来られたときです。でも、神さまはこの地上においても、成長し、救いを全うするように願っておられます。そのため、神さまはあえて、苦しみや困難が来るのをお許しになります。ペテロの手紙のテーマは「苦しみや困難を通して、私たちがきよめられ、終わりのときに用意されている救いをいただくのですよ」ということです。

1.神の選び

人がキリストを信じて救われるのは、最初に神さまの予知、あるいは選びがあったからです。聖書には神の選びがあるとはっきり記されています。1章1節でも「選ばれた人たち」と書かれています。また、2節には「父なる神の予知のままに、御霊による聖別によって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人たちへ」とあります。ペテロは、神の予知と神の選びが、両方あるように述べています。ジョン・カルヴァンは「神の選びという予定説」を強調しました。しかし、強調しすぎて、「二重予定説」まで唱えました。つまり、はじめから選ばれていない人、つまり遺棄されている人もいるということです。ここいら辺は、私たちの小さい頭では分かりません。「選び」あれば、当然、「選ばない」という選択肢もありえるからです。まず、聖書がどのように述べているのか、中立な観点で調べてみたいと思います。

ローマ9:10-16「それだけではありません。一人の人、すなわち私たちの父イサクによって身ごもったリベカの場合もそうです。その子どもたちがまだ生まれもせず、善も悪も行わないうちに、選びによる神のご計画が、行いによるのではなく、召してくださる方によって進められるために、『兄が弟に仕える』と彼女に告げられました。『わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ』と書かれているとおりです。それでは、どのように言うべきでしょうか。神に不正があるのでしょうか。決してそんなことはありません。神はモーセに言われました。『わたしはあわれもうと思う者をあわれみ、いつくしもうと思う者をいつくしむ。』ですから、これは人の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。」このところに神の主権的な選びが記されています。双子が生まれる前から、「兄が弟に仕える」という預言がありました。では、なぜ「主はヤコブを愛し、エサウを憎んだ」のでしょうか?エサウは長男として生まれましたが、一杯の食物と引き替えに、自分の長子の権利を売ってしまいました。彼は長子の権利を軽んじたのです。神さまはそのことを予知していたのです。私たちの小さな頭では分かりませんが、神さまは永遠なるお方です。予知と選びが微妙に絡み合っているのかもしれません。

ヨハネ15章にも神の選びについて記されています。ヨハネ15:16「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。」これはイエス様が弟子たちに語られたことばです。これは私たちに対しても同じであり、私たちがイエス様を選んだのではなく、イエス様が私たちを選ばれたということです。この両者の違いとは何なのでしょうか?もし、私たちが数ある神さまの中から、イエス・キリストを選んで信じたという論理も成り立ちます。しかし、その信仰は私次第ということになります。それだったら、後になって、私が「あ、私の間違いだった」と信仰を棄てる可能性も出てきます。もちろん、決断した時はそのような考えもあったかもしれません。しかし、信仰生活を重ねるにつれて、「私ではない。イエス様が私を選んでくださったのだ」と分かるようになります。そのような信仰はとても安定しています。「たとえ私がイエス様を忘れても、イエス様は私を捨てない」という、イエス様の信仰に立脚しているからです。Ⅱテモテ2:13「私たちが真実でなくてもfaithless、キリストは常に真実faithfulである。ご自分を否むことができないからである。」イエス様の真実が私たちを捕えて離さないのです。真実は、faithful「信仰がいっぱい」です。イエス様の信仰だったら間違いありません。ですから、神の選びを信じている人は、自分の感情や、自分の信仰に頼っていないので、安定感があります。

 

2.新生

Ⅰペテロ1:3「私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。」このところに、「私たちを新しく生まれさせ」と書かれています。これは神学的に言うと、霊的に生まれ変わる、「新生」という意味です。このところには、私たちが「悔い改める」とか、「キリストを信じる」という文言は1つも記されていません。私たちが救われたのは、神ご自身の大きなあわれみであったということです。その神さまがイエス・キリストを死者の中からよみがえらせたことによって、私たちを新しく生まれさせたのです。第一のポイントの神の選びもそうですが、私たちのやる分というのはとても少ないようです。神の大きなあわれみが私たちを救ったのです。

Ⅰペテロ1章後半には、私たちが救われるための2つの神さまからのあわれみが記されています。第一はキリストの尊い血による贖いがあったからです。Ⅰペテロ1:18,19「ご存じのように、あなたがたが先祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」私は銀や金は簡単には朽ちない安定した金属だと思います。しかし、永遠なる神さまから見たなら、銀や金は朽ちる物のようです。このところのリビングバイブルはとても興味深い訳し方をしていますので、ご紹介いたします。「神さまは、あなたがたの先祖が、天国へ行こうとして迷い込み、むなしい努力を重ねた迷路から、あなたがたを救い出しために、身代金を支払ってくださいました。ありきたりの金や銀を積まれたのではありません。一点の罪も、しみもない神さまの小羊、キリスト様の尊い血が支払われたのです。」銀や金は金属では、空しい罪の生活から、私たちを買い戻すことはできません。傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血でなければなりません。そうです。私たちはキリストの血の代価によって、買い戻されたのです。

第二は朽ちない種である神のことばによって新しく生まれたのです。Ⅰペテロ1:23「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく朽ちない種からであり、生きた、いつまでも残る、神のことばによるのです。『人はみな草のよう。その栄えはみな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは永遠に立つ』とあるからです。これが、あなたがたに福音として宣べ伝えられたことばです。」このところには、神のことばは永遠であると書かれています。また、神のことばは種であり、その種が人の心の中に蒔かれたので、私たちは救われたのです。この箇所をリビングバイブルから引用したいと思います。「あなたがたには、新しいいのちがあります。そのいのちは、両親から受け継いだものではありません。両親がくれた肉体のいのちは、やがて朽ち果てますが、新しいいのちは永遠に続きます。このいのちは、今も生きて働く神さまのことばであるキリスト様から出ているのです。生まれながらの古いいのちは、枯れてしまう草のようです。どんな栄誉も、やがてはしぼみ、散っていく花と同じです。しかし、主のことばは、いつまでも変わりなく続きます。これこそ、あなたがたへの良い知らせです。」リビングバイブルは、「朽ちる種を、両親から与えられた肉体的ないのち」として解釈しています。そして、「朽ちない種とは、神のことばであるキリストであり、この方が新しいいのちを与える」ということです。そして、新しいいのちとは、神のいのちであり、永遠に続くものです。両者とも、私たちが新しいいのちをいただくために、キリストが関わっていたということです。聖書をいくら勉強しても、キリストと出会い、キリストを信じなければ全く無駄になります。イエス様がユダヤ人にこう話しておられます。ヨハネ5:39,40「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」言い方を変えると、永遠のいのちは聖書の中にあるのではなく、聖書が証しているキリストにあるということです。ハレルヤ!

しかし、混ぜ返すようで申し訳ありませんが、この世の人たちはこのようなことを言うのではないでしょうか?「あなたがたが新しく生まれたとか、永遠のいのちを持っているということがどうして分かるのでしょうか?この世には詐欺師がいっぱいますよ。あなたがたは、キリストの血で贖われたとか、神のことばで生まれたとか言っているけれど、確かな証拠があるのでしょうか?」この世の人たちが求める客観的な証拠というものはありません。それは世の終わり、キリストが来られたときにはっきりします。では、現在、私たち新しいいのちをいただいているという、証拠があるのでしょうか?あります。Ⅰペテロ1:8,9「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。」ペテロは私たちがたましいの救いを得ている証拠が2つあると述べています。第一は、「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛している」ということです。すごいことです。見たこともない方を愛しているなどとは、普通ありえません。第二は、「ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っている」からです。まとめていうと、愛と喜びがあるということです。愛と喜びは、とても主観的なものです。「科学的に証明しろ」と言われても無理です。自然科学は目に見えて、量れるものが研究の対象です。しかし、信仰の世界はそうではありません。イエス様がトマスに言ったことばを思い出します。ヨハネ20:29「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」「幸いです」は、ギリシャ語で「マカリオイ」であり、山上の説教でイエス様が「幸いです」とおっしゃったことばと同じです。「祝福を受ける」という意味です。とにかく、私たちがこのところに集まって、神さまを賛美し、礼拝をし、大切な時間とお金をささげていいます。やっぱり、信仰がなければ決してできないことではないでしょうか?皆さんは、主イエス・キリストに対する愛と救いを得ているという喜びがあるでしょうか?

 

3.聖化

救いのあとに来るのが聖化です。聖化とはキリストの御姿に変えられるということです。同時に、罪を犯さないようにきよめられるという意味もあります。それでは、ペテロの手紙には、聖化についてどのように記されているのでしょうか?Ⅰペテロ1:14-16「従順な子どもとなり、以前、無知であったときの欲望に従わず、むしろ、あなたがたを召された聖なる方に倣い、あなたがた自身、生活のすべてにおいて聖なる者となりなさい。『あなたがたは聖なる者でなければならない。わたしが聖だからである」と書いてあるからです。』」ペテロはレビ記19章を引用しています。レビ19:1-2「主はモーセにこう告げられた。『イスラエルの全会衆に告げよ。あなたがたは聖なる者でなければならない。あなたがたの神、主であるわたしが聖だからである。』」レビ記には宗教的なきよさと、律法を守るということのきよさが両方語られています。しかし、主が「聖」であるというのは、私たちが考えているきよさとは違います。ヘブル語で聖は「カドーシュ」と言って、もともとは分離を意味します。主が聖であるとは、「すべての地上的あるいは人間的な存在から離れたもの」という意味です。つまり、すべてのものを越えた、超越者であるという意味です。しかし、それがどうして道徳的なきよさという意味になるのでしょうか?レビ記には「聖別」ということばが度々記されています。神さまにささげる動物や祭壇、器具はすべて聖別されなければなりません。聖別は、その名のとおり、聖く別たれるという意味です。つまり、「神さまのものになる、神さまのためだけに用いられる」ということです。そういう意味で、クリスチャンはキリストの血によって買い取られたのですから、神さまのものであり、聖い存在です。道徳的なきよさというのは、その次の段階です。「私は神さまのものなので、それに相応しい生活をすべきである」ということになるのです。しかし、そのことも神の恵みであり、自分の意思で、きよくなろうと思っても無理です。

私は洗礼を受けて、次の年に聖書学院の基礎科に入学しました。そこは、きよめを強調する教団の付属の神学校です。私は救われたばかりなので、ぜんぜんきよめられていませんでした。一人だけ、浮いている存在でした。その夏に、夏季伝道というのがあり、母教会で1か月くらい伝道します。その後、学校で夏季伝道の報告会と聖会があります。「夏季伝道が成功した」みたいな証をすると、教授たちから喜ばれません。むしろ、「伝道は難しかった。自分の弱さをしみじみと知った」みたいな証が喜ばれます。その後、説教者が立ってメッセージをします。大体が、きよめのメッセージで、悔い改めをせまるものです。その教団は聖書のどこからでも「きよめ」を語ることができます。私は毎週、恵みのメッセージを聞いているので、そのような集会はとても嫌でした。その時、教頭先生がⅠペテロからお語りくださいました。Ⅰペテロ4:3口語訳「過ぎ去った時代には、あなたがたは、異邦人の好みにまかせて、好色、欲情、酔酒、宴楽、暴飲、気ままな偶像礼拝などにふけってきたが、もうそれで十分であろう。」私は昨年まで、好色、欲情、酔酒、宴楽、暴飲、気ままな偶像礼拝などにふけってきました。教頭先生が「もうそれで十分であろう」と言われた時、神さまから言われたような気がしました。説教後、私は恵みの座に進んで、「はい十分です」と答えて祈りました。つまり、そのとき過去の罪と縁が切られたような感じがしました。その教団を「きよめばかり話す」と馬鹿にしていましたが、神さまの取扱いを受けました。罪を悔い改めるというのが、やはり聖化、きよめには重要な要素であろうと思います。

しかし、ペテロの手紙は、「あなたがたをきよくするのは、試練や苦しみである」というのがテーマです。Ⅰペテロ1:6「今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならない」。Ⅰペテロ2:19「もしだれかが不当な苦しみを受けながら、神の御前における良心のゆえに悲しみに耐えるなら」。Ⅰペテロ3:14「たとえ義のために苦しむことがあっても、あなたがたは幸いです」。Ⅰペテロ3:17「悪を行って苦しみを受けるより、善を行って苦しみを受けるほうがよいのです」。Ⅰペテロ4:12-13「愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間で燃えさかる試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、不審に思ってはいけません。むしろ、キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びなさい。」Ⅰペテロ5:8「堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。ご存じのように、世界中で、あなたがたの兄弟たちが同じ苦難を通ってきているのです」。少なくとも、6か所に「試練、苦しみ、苦難」というものがありました。「苦難」こそが、この手紙の中心テーマであることは間違いありません。まだ、このときはローマのネロ皇帝の迫害は始まっていません。それよりも、方々に離散して寄留しているクリスチャンたちの信仰上の苦難であろうと思われます。

私たちもある意味では、この世に離散し寄留している者たちです。私たちは神さまを信じているのに、どうして試練、苦しみ、苦難、試みがあるのでしょう?ヨブ記に記されているように、必ずしも私たちの罪が原因しているということではありません。この世においては、「なぜ、私が苦しまなければならないのか?」という理由が分からないことがあります。試練や苦しみは、神さまへの疑いをもたらし、信仰を棄ててしまう誘惑にもなります。サタンがけしかけていることは間違いありません。でも、最も重要なのは、神の真実とご愛がその背後にあるという信仰です。試練や苦しみにあったとき、より神さまに近づき、神さまにより頼むということが重要です。では、試練や苦しみに何か目的でもあるのでしょうか?ペテロはこのような試練が私たちの信仰を純化する、溶鉱炉の火のようや役目をすると言っています。金を精錬するためにどうするでしょう?ドロドロに溶かすと、不純物が表面に浮いてきます。それを捨てなければなりません。溶かしては不純物を捨てるという行程を何度も繰り返します。最後に残る不純物とは何でしょうか?それは銀です。銀が純金になるための不純物なんて信じられるでしょうか?金がベストであれば、銀はセカンド・ベストです。私たちが持っているセカンド・ベストを捨て去るときに、純金が出来上がるのです。純金のようになるために、神さまはあえて試練や苦しみを通過させるのです。

ウィットネス・リーは『命の経験』という本で「聖霊の管理」ということを述べています。「ひとりのキリスト者が出会うことは何であれ、この世の人々が言う偶然とか運ではなく、聖霊の按排であり管理であるということを、私たちは信じなければなりません。➀あなたがそのような職業につく機会を持っている理由は聖霊の管理に基づきます。➁あなたは健康でありたいと願いますが、不幸にもあなたは弱いのです。これは聖霊の管理です。③あなたは、自分の仕事が発展したら主に良い奉仕をできるのだが、と期待していますが、不幸にもあなたは多くの問題にぶつかり、全く身動きができません。これもまた聖霊の管理です。④あなたが貞淑、賢明な妻を得るかどうか、あるいは理想の夫と結婚できるかどうかは聖霊の管理によってです。⑤あなたが完璧な家庭生活を持つかどうかも聖霊の管理にかかっています。⑥あなたはたくさんの子どもは欲しくないのに、不幸にも特に子だくさんです。これは聖霊の管理です。⑦あるいは、あなたは子どもが欲しいのに不幸なことにひとりもありません。これは聖霊の管理です。⑧財産の損失や、業務上の不始末や、霊的な事柄における失敗でさえ聖霊の管理です。私たちは自分の生活すべてに、環境のすべてに、聖霊の管理を適用しなければなりません。楽しくもなければ愉快でもない環境のすべても聖霊の管理の範囲内にあることを、私たちは特に認めなければなりません。このようにして、私たちはこの学課を徹底的に学ぶでしょう。」アーメン。結論として、聖霊は私たちの肉をきよめるためだけに、試練や苦しみを与えるのではありません。むしろ、私たちが持っている生まれつきの良いもの(賜物や美徳)を砕くために、試練や苦しみを与えるのです。聖霊は、その人が「私には誇るべきものは何もありません。すべてのことをあなたに拠り頼みます」という所まで管理されます。その後、聖霊はあなたに油を塗って、神の栄光を現す、尊い器にして下さるのです。