2023.11.5「舌を制御する ヤコブ3:1-8」

ヤコブ3:1「私の兄弟たち、多くの人が教師になってはいけません。あなたがたが知っているように、私たち教師は、より厳しいさばきを受けます。」きょうは「舌を制御する」と言うテーマですが、一番の対象は教師たちです。彼らは職業柄、話すことが多いので、ことばの罪を犯すことがあります。聖書で教師というのは、教える人のことであり、伝道者や牧師も含まれます。でも、きょう来られた皆さんにもあてはまることですので、お気をつけ下さい。

1.力ある舌

 第一は、ことば、すなわち舌を制御できたなら、からだ全体を思いどおりに動かすことができるということです。ヤコブ3:2「私たちはみな、多くの点で過ちを犯すからです。もし、ことばで過ちを犯さない人がいたら、その人はからだ全体も制御できる完全な人です。」私たちの話すことばが、からだ全体に影響を与えるということを信じることができるでしょうか?チョーヨンギ牧師著の『第四次元』にこのようなことが書かれていました。ある脳神経外科医が「チョー博士、大脳皮質にある言語中枢が、身体の神経系をすべて統御しているということをご存じでしたか」と言いました。チョー先生は「そういうことでしたら、ずっと前から存じておりましたが…」と笑って答えました。「えっ、本当ですか?神経科の世界では、画期的発見なんですがねぇ…。」チョー先生は「その事実をヤコブ博士から学びました。聖書の時代、つまり1世紀に活躍された非常に有名な博士でしてね」と答えました。「へぇ!聖書は本当にそういう教えをしているのですか」と、脳神経外科医が驚いたそうです。彼の説明によると、言語中枢神経は、身体全体を統制する機能をもっていて、「物を言う」という一見何の変哲もない日常茶飯事の生活行為が、実は文字通り身体全体をコントロールし、望むがままに身体をあやるつことができる、とのことでした。「もし誰かが、『私のからだが弱ってしまってね。』と言い続けるなら、全神経系がこのメッセージをすぐにも受け取り、そして言います。『今我々は衰弱すべしとの指令を中央機関(言語中枢)から受けた。さあ、弱くなる準備にとりかかろう。』こうして彼らは、必然的に健康状態を衰弱するように調整するのです。あるいは、また『もう、年でしてねえ、人生に疲れました。まともなことは、何一つできません。』こう言い続けていると、その言葉が、言語中枢神経を通して、そのとおりの結果を生むように命令をくだします。神経系のすべてがすぐ応答します。『そうだ、我々は、年をとった。墓に入る準備はできている。さあ、からだの分解作業にとりかかろう。』『年を取った、老いぼれた。』という言葉をいつでも口にしている人は、自分のその言葉で死期を早めていますから、事実早死にします。」これは脳神経外科医が言ったことばです。まさしく、ヤコブが教えていることと同じです。

 第二は舌の持つ力が馬とくつわの関係から述べられています。ヤコブ3:3「馬を御するためには、その口にくつわをはめれば、馬のからだ全体を思いどおりに動かすことができます。」「くつわ」は「はみ」とも言うそうですが、手綱をつけるため、馬の口にかませる金具のことです。馬にとっては迷惑なものですが、乗っている人が右にひっぱると、首が右に向くので、馬は右に曲がります。逆に乗っている人が左にひっぱると、首が左に向くので、馬は左に曲がります。さらに乗っている人が、両腕で手綱を引っ張ると、馬の首が上に向き、馬は止まるようです。私は馬に乗ったことがありませんし、また、馬の気持ちも分かりません。しかし、くつわというのは、馬のからだ全体から比べたなら、本当に小さなものです。10数センチの小さな器具が3メートル近くもある巨体を動かすことができるのです。第三は小さな舵と大きな船の関係です。ヤコブ3:4「また船を見なさい。あのように大きくて、強風を受けていても、ごく小さい舵によって、舵を取る人の思いどおりのところへ導かれます。」おそらくこの船は帆船であろうと思われます。帆船は強風によって行く手が阻まれてしまうことがあります。でも、ごく小さい舵によって、風に阻まれることなく、行きたい方向に行けるということです。帆船の舵は後部の下についており、船の上から舵柄(かじづか)という棒で操作します。仮に船が10メートルあるとしたら、舵の大きさは1メートルも満たない小さなものです。

 ヤコブはこれらの例をあげながら何を言いたいのでしょうか?舌はからだの中で小さな器官ですが、馬のくつわ、船の舵のように行く方向を決める力があるということです。言い方を変えると、舌、つまり語ることばは、人生の行くべき方向を決めることができるということです。旧約聖書の詩篇と箴言には「舌」にまつわる教えがたくさん記されています。箴言18:21「死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。」欽定訳もご紹介します。Death and life are in the power of the tongue,And those who love it will eat its fruit.直訳すると、「死と命は舌の力の中にある。それを愛した者が、その実を食べるであろう」となります。普段、人が語ることばというものは、あまり重要視されないかもしれません。しかし、聖書はあなたの語ることばが、人生を良くもし、悪くもするということを教えています。神さまを信じていな人たちも、告白の力を知っています。アファメーションと言って「肯定的な自己暗示」をするものです。たとえば、なりたい自分にふさわしい文言を作って、口で宣言します。「私はできる」「私はもっと良くなる」とか自分自身に言って聞かせます。しかし、心で思っていないのに、口だけ語るというのは少しは効果があると思いますが、聖書が言うものとは違います。イエス様は「心に満ちていることを口が話すのです」(マタイ12:34)と言われました。つまり、心が納得していることを口に出して言うということが大事なのです。もう1つイエス様のことばを引用します。マルコ11:23「まことに、あなたがたに言います。この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』と言い、心の中で疑わずに、自分の言ったとおりになると信じる者には、そのとおりになります。」このみことばは、神からの信仰をいただき、心の中で疑わないことが先決です。その次に、信じていることを口に出すのです。そうすれば神のみわざが起るのです。ローマ10:10「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」とあります。私たちは口に出すことば、舌の力を軽んじてはいけません。この小さな舌が人生の行くべき方向を決めるからです。

2.破壊的な舌

ヤコブ3章5節のリビングバイブルは「同様に、舌もちっぽけなものですが、使い方を誤ると、途方もなく大きな害を生じます」と訳しています。第一は舌の活用の積極的な面でしたが、第二は舌の消極的な面、破壊的な面を学びたいと思います。ヤコブ3-8「同じように、舌も小さな器官ですが、大きなことを言って自慢します。見なさい。あのように小さな火が、あのように大きな森を燃やします。舌は火です。不義の世界です。舌は私たちの諸器官の中にあってからだ全体を汚し、人生の車輪を燃やして、ゲヘナの火によって焼かれます。どのような種類の獣も鳥も、這うものも海の生き物も、人類によって制することができ、すでに制せられています。しかし、舌を制することができる人は、だれもいません。舌は休むことのない悪であり、死の毒で満ちています。」私はこのところから3つのことを取り上げたいと思います。

第一は、「舌は火である」ということです。火というのはとても大事です。無人島に流されたなら、火がないと煮炊きできません。火は鉄とか金属を加工できます。また、火で人は温まることができます。でも、小さな火が、大きな森を燃やして大被害をもたらします。昔、「火の用心、マッチ一本、火事のもと」とよく言われました。火事の原因の半分以上は、放火だということをご存じでしょうか?火はとても便利ですが、使い方を誤ると大変なことになります。6節には「人生の車輪を燃やして、ゲヘナの火によって焼かれます」と書かれています。「人生の車輪」というのはとても詩的な表現ですが、人生の行く道を焼きつくすということです。最後は、ゲヘナ、地獄の火で体全体も焼かれてしまうということです。つまり、舌によってさばきが臨むということです。聖書で舌、ことばによって厳しいさばきを受けたという事例がいくつもあります。Ⅱ列王記2章に記されていますが、小さい子どもたちが預言者エリシャに向かって「上って来い、はげ頭、上って来い、はげ頭」とからかいました。すると、「森の中から2頭の雌熊が出て来て、子どもたちのうち42人をかき裂いた」と書かれています。Ⅰサムエル25章にありますが、ナバルという人が逃亡中のダビデに向かってのろいのことばをかけました。ダビデは彼の妻アビガイルの仲裁によって、彼を剣にかけませんでした。「10日後、主はナバルを打たれ、彼は死んだ」と書かれています。今の2つは舌が使いようによっては、恐ろしい破滅を招くという例でした。

第二は、「舌は小さい器官ですが、大きなことを言って自慢する」ということです。ヤコブ4章13節以降に大言壮語している人たちのことが記されています。「『今日か明日、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をしてもうけよう』と言っている者たち、よく聞きなさい。あなたがたには、明日のことは分かりません。あなたがたのいのちとは、どのようなものでしょうか。あなたがたは、しばらくの間現れて、それで消えてしまう霧です。あなたがたはむしろ、『主のみこころであれば、私たちは生きて、このこと、あるいは、あのことをしよう』と言うべきです。ところが実際には、あなたがたは大言壮語して誇っています。そのような誇りはすべて悪いことです。」私は土木の建設現場で5年程働いていました。そのとき、「吹く」ということばを度々聞いたことがあります。「吹く」というのは、「ほらを吹く」ということです。人が自慢話をするとき、何倍も大きく語るというのが良くあります。そのとき「米粒大のことをりんご大に話すんだから」と言っているのを聞いたことがあります。私も説教者として、受けを狙うために、大げさに話す誘惑にかられてしまいます。「あの人は話半分よ」と言われないように注意したいと思います。小さな舌なのに、大きなことを言って自慢するのです。

第三は舌は不義の世界であり、死の毒に満ちているということです。このことは、6節から8節に書かれています。しかも、「舌を制することのできる人は、だれもいない」と書かれています。聖書に「世界と書いてあるなんて、不思議だな」と思いました。世界はギリシャ語でコスモスと言いますが、一般には宇宙や世界のことを言います。しかし、「それ自身まとまっている全体、総体、小宇宙」とも訳せるようです。ヤコブは「人類はどんな動物をも制してきたが、舌を制する人は、だれもいない」と言っています。つまり、「舌はそれ自体が独立したもの、小宇宙なんだ」ということです。しかも、その舌は休むことのない悪であり、死の毒で満ちています。なんというものを私たちは口の中に持っているのでしょう?口の中に世界を、小宇宙を持っているのです。しかも、それは毒に満ちています。本人は、何ともすることが出来ません。よく人々は、「つい口がすべった」とか言いますが、あれは舌が原因です。失言した政治家がよくニュースでとりあげられます。歴代の総理大臣の中にそういう人たちがいました。私は講壇の上では、あまり口の罪を犯しません。できるだけ原稿に忠実にメッセージしているからです。しかし、一旦、講壇を降りて、昼食を共にしたときは危ないです。思ったことがペロッと出てきます。自分では気をつけているつもりですが、舌には別の意志があるようです。

詩篇や箴言には舌やことば、口ついてたくさん書かれています。詩篇141:3「主よ私の口に見張りを置き私の唇の戸を守ってください。」口語訳聖書は、「主よ、わが口に門守を置いて、わがくちびるの戸を守ってください」となっています。門守というのは、門番とか、見張りのことです。私の口の門番が怠けていて、とんでもない言葉が出ていっては悪さをし、不要な争いを引き起こすなんてことは、日常茶飯事です。箴言21:23「自分の口と舌を守る者は、自分自身を守って苦難にあわない。」でも、だれが自分の口と舌を守るのでしょうか?自分の意思でしょうか?そんなに強い意志を持っている人が世の中にいるのでしょうか?イザヤは「私は汚れたくちびるの者です」と告白しました。イザヤ6:7主がわたしの口に触れて言った、「見よ、これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの悪は除かれ、あなたの罪はゆるされた」。口は神さまによってきよめていただくしかありません。そして、聖霊によって制御していただくしかありません。使徒2:3-4「また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。」ここには、舌のような炎が聖霊によって与えられ、福音を語る者となると約束されています。希望は、舌も含めて、聖霊によって新しく造り変えられ、聖霊によって制御されることです。

3.一貫性のない舌

ヤコブ3:9-12「私たちは、舌で、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌で、神の似姿に造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。私の兄弟たち、そのようなことが、あってはなりません。泉が、甘い水と苦い水を同じ穴から湧き出させるでしょうか。私の兄弟たち。いちじくの木がオリーブの実をならせたり、ぶどうの木がいちじくの実をならせたりすることができるでしょうか。塩水も甘い水を出すことはできません。」このみことばを見ますと、ぐーの音も出ません。同じ舌で、主をほめたたえ、同じ舌で人間を呪います。このところには「神の似姿に造られた人間ではないか」と言われています。しかし、「馬鹿だなー」と呪うときは、そんなことなど考えていません。礼拝のときは礼拝、日常生活は日常生活と舌を使い分けているからです。ヤコブは、同じ口から賛美と呪いが出るなんてあってはならないことだと言っています。さらには、1つの泉から甘い水と苦い水を湧き出させるでしょうか?いちじくの木がオリーブの実をならせたり、ぶどうの木がいちじくの実をならせたりすることができるでしょうか。でも、なぜか、私たちは1つの舌で主をほめたたえ、同じ舌で神の似姿に造られた人間を呪ってしまいます。1つの口から賛美と呪いが出てきます。舌が悪いのでしょうか?口が故障しているのでしょうか?原因は2つあると思います。

第一はこのようにバラバラで一貫性がないのは、心が分かれているからです。イエス様が「心に満ちていることを口が話すのです。良い人は良い倉から良い物を取り出し、悪い者は悪い倉から悪い物を取り出します。」(マタイ12:34,5)とおっしゃいました。聖書では、心と言うとき、思いmindであったり、感情heartであったりします。私たちの心の中には傷があります。また、思いもゆがんでおり、人の言動をゆがめてとらえてしまいます。つまり、日常生活で悪く言われたり、不当な扱いを受けると心が刺激され、衝動的に悪いことばが出るということはないでしょうか?クリスチャンになると霊的に生まれ変わっているので、優しいことばや徳を高めることばを話そうとします。しかし、新生しても肉が残っているので、この肉が反応してしまうのです。肉から出ることばとは、エペソ4章と5章に書かれています。無慈悲、憤り、怒り、怒号、ののしりのことばがあります。汚れたことば、わいせつなことや、愚かなおしゃべり、下品な冗談もあります。悪いことばを発する肉はきよめられなければなりません。ということは、同時に口びるも、舌もきよめられなければならないということです。イザヤの唇はどのようにきよめられたのでしょうか?なんと、セラフィムのひとりが、祭壇の上から火ばさみで、燃えさかる炭をイザヤの唇にあてたのです。これは新約の十字架の死を意味します。悪い口と舌を十字架につけて死なせます。そして、キリストのいのちが私の口と舌になるように願うのです。私の肉が反応するのではなく、内におられるキリストに出てもらうのです。キリストのいのちには柔和、愛、親切があります。自分で悪いことばを止めて、良いことばを発しようとしても無駄です。そうではなく、私の内に生きておられるキリストによりたのむのです。私の内からキリストが現れてくだされば、自然と良いことばも出てくるでしょう。

第二は舌つまり口が罪に汚れているのです。私のように生まれや育ちが悪いと、考える間もなく、条件反射的に悪いことばが出てきます。クリスチャンになってかなりきよめられましたが、肉体の悪習慣の中に、口が含まれていると思います。私たちは、自分の中に染み込んでいる悪いことばをなんとかしなければなりません。以前、石原良人師の「解放のキャンプ」がありました。そこに、身体の罪のリストというのがあり、ことばの罪という欄がありました。そこには、悪口、陰口、うわさ話、不平、嘘、圧力、自慢というのがありました。これは体に染みついている罪と言えます。そして、そこに悪霊が働くと「世界」が作り出され、自分の思う通りにいかなくなります。身体の罪のリストの下の部分に「祈りの例」が記されていました。「私は言葉の罪を告白します。赦してください。そして、悪い言葉の背後に働いた悪しき霊との関係をイエスの御名と血潮によって断ち切ります」アーメン。そのことによって、悪いことばから解放されます。

まとめます。第一は、十字架の死の適用とキリストによって生きるということでした。第二は、言葉の罪を悔い改め、悪しき霊との断ち切りをする祈りをするということでした。この二つを実行するとどのようになるのでしょうか?私たちには舌は1つしかありません。以前は主であり父である方をほめたたえ、同じ舌で、神の似姿に造られた人間を呪っていました。しかし、きよめられ、解放されると、人を呪うことが自然でなくなります。全くしないということではありませんが、呪いのことばがどういう訳か出なくなります。また、1つの口から賛美と呪い、甘い水と苦い水が出てきました。しかし、賛美と甘い水は自由に出てきますが、呪いと苦い水はちょろちょろくらいです。なぜなら、心の源がきよめられてしまったからです。果実の木とその実も同じになりました。どういう意味でしょう?それは、心が統合され、一貫性ができたということです。ヤコブは1章で「そういう人は二心を抱く者で、歩む道すべてにおいて心が定まっていないからです」と言いました。二心というのは、心が2つあるという意味ではなく、心が2つに分かれているという意味です。1つの心の中に、信仰と不信仰、真実と不義、聖さと汚れ、善と悪が分かれて存在しているということです。しかし、そこに十字架を適用します。すると、片方の不信仰と不義と悪が取り除かれます。その後に、キリストのよみがえりを適用します。すると、聖霊が霊と魂と肉体をすっきり統合してくださいます。魂は霊の支配を受けます。そして、肉体は魂の支配を受けます。肉体の中に、舌と口が含まれています。舌と口は霊と魂の支配のもとにあるので、勝手気ままに動くことができなくなるのです。アーメン。これらの解決はヤコブが言っている「上からの知恵」と一致しています。ヤコブ3:17,18「しかし、上からの知恵は、まず第一に清いものです。それから、平和で、優しく、協調性があり、あわれみと良い実に満ち、偏見がなく、偽善もありません。義の実を結ばせる種は、平和をつくる人々によって平和のうちに蒔かれるのです。」これこそが、ヤコブが願っている生きた信仰生活です。私たちは上からの知恵をいただき、このようなものを作り出す、舌と口でありたいと思います。