エレミヤ書は、年代順ではなく、主題によって並べられています。
前回は33章についてお話ししましたが、30章~33章は、『イスラエルの回復』 とか、『新しい契約』 が主題となって記されていました。
時代はユダ王国最後の王ゼデキヤの治世でした。
続く、34章~45章の主題は、『滅亡へと向かうエルサレム』 ですが、35章~36章は遡ってヨシヤ王の息子、エホヤキム王時代の出来事が挟まれています。
ですから少し飛ばして、33章と同じくゼデキヤ王について書かれている37章に入ります。
◆ゼデキヤと民の翻意
①変化する人の心
ゼデキヤ王は、バビロン王ネブカドネツァルに命じられて王となった傀儡王(かいらいおう)でした。
<エレミヤ37:1>
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ヨシヤの子ゼデキヤは、エホヤキムの子エコンヤに代わって王となった。
バビロンの王ネブカドネツァルが彼をユダの地の王にしたのである。
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ところがゼデキヤは、王になって9年目にバビロンに反逆しました。
なぜそんな気を起こしたのかはわかりません。
強国バビロンに敵うわけもなく、ユダはたちまち不利な状況に陥りました。
エルサレムはネブカドネツァルの軍勢(カルデア人)に包囲されてしまい、陥落寸前でした。
ちょうどその時、エジプトからファラオの軍勢が加勢に来たという知らせがありました。
その知らせを聞いたカルデア人の軍勢は、エルサレムから引き揚げはじめました。
ゼデキヤは、エジプトの軍勢が加勢に来てくれたので、強気になっていました。
「やはり、我々は神から守られている特別な民に違いない!」と思ったことでしょう。
そしてゼデキヤは、祭司ゼパニヤを預言者エレミヤのもとに遣わし、「どうか私たちのために、私たちの神、主に祈ってください。」と懇願しました。
ところが、主がエレミヤを通して語られた言葉は予想もしない厳しいものでした。
<エレミヤ37:6-10>
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37:6
そのとき、預言者エレミヤに次のような主のことばがあった。
37:7
「イスラエルの神、主はこう言われる。わたしに尋ねるために、あなたがたをわたしのもとに遣わしたユダの王にこう言え。『見よ。あなたがたを助けに出て来たファラオの軍勢は、彼らの地エジプトへ帰り、
37:8
カルデア人が引き返して来て、この都を攻め取り、これを火で焼く。
37:9
主はこう言われる。あなたがたは、カルデア人は必ず私たちのところから去る、と言って、自らを欺くな。
彼らが去ることはないからだ。
37:10
たとえ、あなたがたが、あなたがたを攻めるカルデアの全軍勢を討ち、そのうちに重傷を負った兵士たちだけが残ったとしても、彼らはそれぞれ、その天幕で立ち上がり、この都を火で焼くようになる。』」
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「エジプト軍は撤退する。」
「ネブカドネツァルの軍勢、カルデア人たちは戻ってきて、エルサレムを火で焼く。」
「たとえ、カルデアの全軍勢を打ったとしても、都は火で焼かれる」
もうこれは、どうにも抗うことのできない主のご計画だということです。
そしてそのご計画の先には、30章~33章で語られた、『イスラエルの回復』、『新しい契約』 が与えられると
エレミヤは繰り返し預言して来ました。
しかし結論としては・・・<エレミヤ37:2>
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彼も、その家来たちも、民衆も、預言者エレミヤによって語られた主のことばに聞き従わなかった。
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とても残念なことです。
ゼデキヤは最初は主から、「あなたは剣では死なない。バビロン王を目で見て、口で語る。安らかに死んで先祖とともに葬られ、民はあなたのために香を焚き、ああ主君よ、と言ってあなたを悼む。」(34:4-5)
と言われていました。
しかし、ゼデキヤは主に聞き従わなかったので、悲惨な最期を遂げました。
<エレミヤ52:10-11>
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52:10
バビロンの王は、ゼデキヤの息子たちを彼の目の前で虐殺し、ユダの首長たちもみなリブラで虐殺した。
52:11
さらに、ゼデキヤの目をつぶし、彼を青銅の足かせにつないだ。バビロンの王は、彼をバビロンへ連れて行き、彼を死ぬ日まで獄屋に入れておいた。
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なんとも・・・恐ろしい結末となりました。
さて、本日の説教題は、「ゼデキヤと民の翻意(ほんい)」です。
『翻意(ほんい)』 と言う言葉の意味は、「一旦決意したことを変えること、決意を翻すこと」です。
人間は、常に心が定まらず、コロコロと気が変わるという性(さが)をもった生き物です。
ゼデキヤも、初めはバビロンの傀儡王として従っていましたし、エレミヤの預言にも一目置いていました。
しかし反逆し、エジプト軍が来るとさらに、主のことばを信じませんでした。
ゼデキヤも、ユダの民たちも、「自分たちは神に特別に愛されて選ばれている」と奢り高ぶっていました。
「いつでも神はイスラエル民族を守ってくださる。」「エルサレムが陥落するはずがない。」と思い込み、神のことばに聞き従うことができませんでした。
しかし、少し彼らには同情します。
彼らを取り巻く状況は、目まぐるしく変化し、強い敵国に囲まれ、命の危険にさらされていたからです。
エルサレムを死守するためには、自分たちが生き残るためには、いったいどうすれば良いのか・・・
人生の危機に、主に祈り、信頼して、委ねきることが、どれだけ難しい事かということが良く解ります。
◆ゼデキヤと民の翻意
②変化をどう捉えるか
私たちが住むこの世の中も、目まぐるしく変化していきます。
私たちは、人生のあらゆるタイミングで、選択を迫られてきました。
そして今も、これからも、私たちは選択を迫られ、決断をしていかなければなりません。
過去を振り返ってみると、あのとき、あの決断をしたのは「正解だった」 とか、「失敗だった」 とか思いますが、時代に翻弄されたと思うことは多々あります。
今はどんな時代なのでしょうか。
昭和、平成、令和の社会の変化を見て、これからについて考えてみましょう。
これはあくまで私の主観ではありますが、昭和、平成、令和の社会の変化を見ていきたいと思います。
- 昭和(戦後の高度経済成長期1955年~1989年の34年間)
- 平成(1989年~2019年の30年間)
- 令和(2019~2023年の4年間)
合わせて68年間、約70年の変化を見てみましょう。
【昭和】 | 【平成】 | 【令和】 |
終身雇用、女性は寿退社 | 派遣、男女雇用機会均等法 | 多種多様な働き方 |
大家族(サザエさん的な) | 核家族(夢のマイホーム) | 多種多様な家族の在り方 |
テレビ、電話、手紙、雑誌 | パソコン、携帯電話(スマホ) | ネット社会(情報社会) |
権力はヒエラルキー | 格差社会、権力の細分化 | 上下簡単にひっくり返る怖さ |
男らしく、女らしくが美徳 | 男っぽい女性、女っぽい男性 | 性別は問わずLGBTQ多様性 |
ド根性、我慢が美徳 | ファジー、ほどほどに頑張る | 多様性(陽キャも陰キャもOK) |
開発、無駄なエネルギー消費 | 地球環境に目を向け始める | SDGs(持続可能な開発目標) |
まだまだ上げればきりがありませんが、昭和生まれの方、特に高度経済成長期を知っておられる方は、ものすごい変化を体験しています。
子どもの頃からの価値観を、どんどん変えていかなければなりません。
みなさんついて来れてますでしょうか?
とにかく今の時代は、情報社会です。『情報弱者(情弱)』 という言葉があります。
『情報弱者』とは、「情報を得る通信機器を使いこなせず必要な情報を得られない人」のことです。
「スマホ苦手、パソコン苦手、情報のスピードについていけない!」 という方もおられるとは思いますが・・・
ネットの情報には、ゴシップや、偽の情報など、混乱を招くものも多いですが、事故や災害が起こった時などは、いち早く情報が得られ、すばやく安全な対処ができます。
今、大学などでは講義のノートはとらず、携帯で写真を撮るようになってきましたし、SDGs(持続可能な開発目標)の影響もあって、大学や企業などではペーパーレスが進められています。
ですから、通信機器を上手に利用して、自分の益となる情報を素早く得ることが必要になってきました。
そして、令和の特徴は、何と言っても、『多様性』 ですね。
今は多様性の時代。英語で言うと、「ダイバーシティ(Diversity)」です。
『多様性』 にはいろんな定義や種類があります。
国籍や文化の違い、性別の認識の問題、企業では、また違った多様性の定義や種類があるでしょう。
今回私は、より身近な生活の中での、人と人とのぶつかりあいからの多様性を考えてみたいと思います。
生きるのが下手な人たちが、多様性を認め合うことによって、生きやすい世の中になってくるという話です。
ここで言う、「生きるのが下手な人」というのは、世渡り下手とか、要領が悪いとかではなく、対人関係がうまく出来ないとか、大抵の人が普通に出来てしまうことが、なぜか出来ない人たちのことです。
例えば、対人関係では、「人の気持ちに共感することが苦手で、空気を読めない人だと思われてしまう」とか、「こだわりが強すぎて妥協できない」、「今やらなくてもいいことが気になって、いつも遅刻してしまう」など。
また、普通の事が出来ない人は、例えば、「計画が立てられない」、「部屋の片付けができない」、「衣類をたためない」、「折り紙が折れない」、など、いろいろ生き辛さを抱えている人たちの事です。
昭和の時代なら、『ダメな奴』 と決めつけられたような人も、多様性を認める社会において、出来ない一面だけを見るのではなく、その人の素晴らしい部分も見ることができるようになってきました。
最近人気のアーティストに、『あのちゃん』 という人がいます。
20代後半の女性で、一人称は「ボク」です。
元アイドルで、今はAno名義でソロやバンドで歌を歌っていて、バラエティーなどでもひっぱりだこです。
その、あのちゃんは、ものすごーく生きるのが下手な人です。
特徴的な声としゃべり方で、恐ろしいほど正直な気持ちを表に出します。
周りに媚びることができず、芸能界をいつ干されても仕方がないと本人は思っています。
そのスタンスが逆に受けて、本人の意志に反して、ものすごく人気があります。
私も、あのちゃん大好きです。偏食でお菓子ばっかり食べているのは心配ですが・・・。
彼女は人とうまくコミュニケーションできず、中高と引きこもりだったそうです。
バンドをやりたくて一念発起してオーディションに応募したら、アイドルグループに入れられてしまい、辞めるに辞められず10年も続けてしまったという経歴の持ち主です。
彼女がパーソナリティーを担当しているラジオ番組、「オールナイトニッポンゼロ」のコーナーに、「生きるのクソヘタ」というコーナーがあります。
「あのは、生きるのクソヘタ。財布はなくすし~服もしわしわ・・・」で始まるコーナーですが、そのコーナーに寄せられるリスナーからのエピソードは、本当に「生きるのクソヘタ」で、思わず笑ってしまうものばかりです。
それをあのちゃんは笑いながら、「ボクもそうだよ。これ、めっちゃわかるー。」と答えるのです。
こんな風に、「生きるのクソヘタ」な人たちが、自分の生き辛さを明るく打ち明けて、笑いに変えられるという世界は、とてもいいなと思います。共感し、多様性を認め合い、前に進んでいます。
最近のあのちゃん自身のクソヘタエピソードは、「ボクの部屋は服がどんどん増えて、ドアが開かなくなった。部屋に入れない。だれか助けてーー(泣)」だそうです。
また、コロナパンデミック中に、私が随分励まされた、二人組のHipHopユニット、Creepy Nuts もそうです。
ラッパーのR-指定さんは、日本一を決めるラップバトルで3連覇という快挙を達成し、DJ松永さんは、DJの世界大会で優勝して世界一になったという、二人とも飛びぬけた実力の持ち主です。
それなのに、二人はびっくりするくらい普通のことができないポンコツで、自分たちでも、「俺らは社会不適合者だ」と言っているくらいです。
周りから、「なんでこんなこともできないんだ」と言われ続け、認められず、随分苦労してきたみたいです。
しかし彼らには音楽があり、生き辛さを超絶スキルのラップに乗せて、自虐的に笑い飛ばしました。
それに共感した、たくさんのファンたちが現れました。
「実は、自分も生き辛さを覚えていました。いろんな奴がいていいじゃないかと、伝えてもらえて嬉しい。」
ファンたちは、彼らの天才的な部分に憧れながら、びっくりするくらいポンコツな部分も理解して受け入れ、多様性を認め合い、前に進む勇気をもらっています。
聖書にも、「生きるのクソヘタ」な人は、たくさん出てきます。
ペテロは行き当たりばったりだし、ヤコブとヨハネは喧嘩っ早いし、12使徒は変わった人たちばかりでした。
イエス様はそんなちょっと変わった人の事も優しく受け入れ、敢えて選んでくださいました。
そんな彼らには、神への揺るぎない信仰と、イエス様への愛という、しっかりとした土台がありました。
ペテロは、聖霊降臨後、目覚ましい働きをしたし、ヤコブは12使徒で最初の殉教者となりました。
ヨハネはイエス様が十字架に架かる時に、母マリアを託され、後に福音書や黙示録を書きました。
多様性を認めるというのは、それぞれの状況、立場、考えの違いを理解し、受け入れ、認め合うことですが、相手に理解してもらうには、自分自身の状況、立場、考えの違いをしっかりと伝える必要があります。
「②変化をどう捉えるか」 ということについて、時代の変化を見て来ましたが、自分の土台となるものがなければ、相手に理解してもらえないし、相手の事も理解できません。クリスチャンには、イエス様という土台があります。その土台があってこそ、今の時代の変化を捉え、ぶれることなく、逆に、変化を楽しむこともできるのです。
◆ゼデキヤと民の翻意
③変化することのない礎石
しっかりした土台、変化しない礎石、礎こそ、私たちが変化する社会で生きていく上で最も必要なものです。
ブレーズ・パスカル(Blaise Pascal)1623年6月19日-1662年8月19日をみなさんご存知でしょうか。
「人間は考える葦である」とか、「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら世界の歴史は変わっていただろう」とかの名言を残している人です。
パスカルは、フランスの哲学者ですが、「ヘクトパスカル」という、気象の単位にもなっていることでもわかるように、物理学者でもあり、数学者、発明家、思想家、実業家という様々な顔を持っている優秀な人でした。
彼は、神学者、キリスト教弁証家としても、熱心に活動しました。
パスカルは、神や宗教を前提としない、「人間学」の立場から人間の「悲惨」と「偉大さ」を語り、人間の不可解さを認識させ、神への信仰の必要性を説いていくという論法をとろうとしました。
彼はそのために、たくさんのメモ書きを残していたのですが、編集が完成しないまま病に倒れ、1662年39歳の若さでこの世を去ってしまいました。
1670年、友人たちが、そのメモ書きをまとめて出版したものが、
『死後、書類の中から見出された、宗教及び他の若干の主題に関するパスカル氏の思想』 という本です。
これは、『パンセ(思想)』 と呼ばれる書物の初版、「ポール・ロワイヤル版」です。
『パンセ』 は、パスカル本人の編集ではないので、メモ書きの組み合わせの正解が解らず、その後いくつかの違った版が出版されました。
そのせいで、『パンセ』 は、パスカルが望んでいた、キリスト教の教護本という宗教本ではなく、科学者の目から見た人間論の本という印象が強くなってしまいました。
クリスチャンとしては残念ですが、逆に、そのせいで幅広い層に読まれることになりました。
『パンセ』 はこのような内容です。
「人間は考える葦である」・・・葦は、川や沼などの水際に群生する植物です。
パスカルはここで人間を「葦」というありきたりの植物になぞらえています。
「人間は小さく弱いが、考えることが出来る。しかし人間は、真理と正義を渇望しつつもそれを実現できないのに耐えられず、賭博や戦争という「気晴らし」に身をやつしている。不幸の意識の根源にある「怠け心」を直視しようとしない人間は惨めである。こうした人間につきまとう不幸の意識は、樹木や動物にはないので、逆に人間の偉大さの証ともなる。人間のエゴ、それに伴う不正と不幸が、キリスト教の提示する原罪から来ていると仮説するならば、旧・新約聖書の信憑性を検証することは、この仮説の正しさを証明することになる」
『パンセ』 の前半では、神を信じようとしない人間の愚かさを指摘し、後半では、キリスト教を信じる意義について書かれています。
「人間は神に似せて作られたという意味では、他の被造物より偉大ではあるが、神から離れることにより、惨めさから抜け出せなくなる。」ということです。
つまり、私たちは、けっして変化することのない、確かな礎石であるイエス様から離れてしまっては、生きていても真理と正義を知ることがないということです。
人の心や、世の中がどのように変化したとしても、神との交わりを変わらず持ち続け、多様性を受け入れながらも、真理と正義を見誤ることなく、イエス様を礎石として、力強く歩んで行きましょう。