2023.10.22「信仰と行い ヤコブ2:20-26」

宗教改革者ルターは「ローマ人への手紙」と「ガラテヤ人への手紙」をとても愛していました。ヤコブの手紙に対してはどうでしょう?「それは藁の書簡であって、それには何の福音の響きもない」と述べました。彼の「信仰のみ」のスローガンと矛盾するように思われたからでしょう。A.Mハンターは「ヤコブの手紙は確かに神学的にはルターが求める基準に達していないかもしれないが、クリスチャンの実践性に関してこれほど熱心な手紙はない」と言いました。

1.ヤコブの手紙の背景

ヤコブの手紙はあまりにも個性的で、あまりにも辛口過ぎます。それで、ヤコブという人物がどういう人で、だれに、どのような状況で書いたのかということを調べてみました。冒頭の挨拶で「神と主イエス・キリストのしもべヤコブが、離散している十二部族にあいさつを送ります」とあります。伝統的には、このヤコブはイエス様の兄弟であろうと思われています(マルコ6:3)。イエス様が説教中、母と兄弟たちが「何をしているのか」と言わんばかり、迎えに来たこともあります(マタイ12:46-50)。イエス様が母マリヤを兄弟たちではなく、ヨハネに委ねられたのは何故でしょうか?しかし、イエス様の復活後、兄弟たちは信仰を持ったようです。ヤコブは聖霊を待ち望むために二階座敷で120人の人たちと一緒に祈っています。やがて、エルサレム教会が誕生し、使徒15章にはエルサレム会議のことが記されています。その会議の議長はヤコブでした。論争の後、ヤコブが立ち上がり、異邦人も信仰によって救われることを議決しました。パウロがヤコブについてこう語っています。ガラテヤ2:9「そして、私に与えられたこの恵みを認め、柱として重んじられているヤコブとケファとヨハネが、私とバルナバに、交わりのしるしとして右手を差し出しました。」ヤコブはパウロに交わりの手を伸べ、パウロの伝道を支持しています。聖書を見る限り、信仰義認を説くパウロと意見が対立していたというようなことはありません。

それでは、ヤコブの手紙の内容を見ていきたいと思います。ヤコブ1:22「みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません。」このみことばは、ヤコブの手紙の中心テーマです。これは、「行いのない信仰は死んだものと同じです」という考えと一致します。ヤコブはその当時の教会内でどのようなことが起っていたのか書いています。ヤコブ2章を見ると分かりますが、教会にえこひいきの問題があったようです。ヤコブ2:2「あなたがたの集会に、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来て、また、みすぼらしい身なりの貧しい人も入って来たとします。あなたがたは、立派な身なりをした人に目を留めて、『あなたはこちらの良い席にお座りください』と言い、貧しい人には、『あなたは立っていなさい。でなければ、そこに、私の足もとに座りなさい』と言うなら自分たちの間で差別をし、悪い考えでさばく者となったのではありませんか。」「そんなことが本当にあるのだろうか」と思ってしまいますが、教会の歴史の中でも同じようなことがありました。メソジスト教会から、フリーメソジスト教会が生まれました。メソジスト教会はジョン・ウェスレーのリバイバルから生まれた教会です。ところが、100年後、アメリカにおいて教会の座席が売られたり買われたりしていました。買うというのは、「その席は私専用です」とお金を払って席を借りることです。金持ちたちは良い席を買うのですが、彼らが礼拝をよく休むのでそこが空席のままでした。新しく組織された教会は、奴隷制に反対していたので、「フリー」という名前を採用しました。次に、貧しい人々が自由に利用できるように会衆席を無料で提供しました。1868年、ニューヨークにフリーメソジスト教会が誕生しました。信じられないような話です。表だって貧しい人を阻害し、金持ちを優遇する教会はないでしょう。でも、多額の献金をしてくれる町のお医者さんが優遇されていたという話は聞いたことがあります。ヤコブは「しかし、もし人をえこひいきするなら、あなたがたは罪を犯しており、律法によって違反者として責められます。」(ヤコブ2:9)と厳しく警告しています。

ヤコブ2:14-17「私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立つでしょうか。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。兄弟か姉妹に着る物がなく、毎日の食べ物にも事欠いているようなときに、あなたがたのうちのだれかが、その人たちに、『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹になるまで食べなさい』と言っても、からだに必要な物を与えなければ、何の役に立つでしょう。同じように、信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです。」このところに、ヤコブが主張するテーマが出てきました。「信仰があると言いながら、行ないがないなら、それだけでは死んだものです」という、きびしいお言葉が出てきます。その後は、「アブラハムは信仰だけではなく、行いによって義と認められたのだ(ヤコブ21-24」と主張しています。こうなると、パウロが言う信仰義認とは真っ向から反対しているように思えます。ヤコブが取り上げている教会の中で金持ちを優遇し、貧しい人を阻害するえこひいきがありました。また、貧しい人に食べ物や着物をあげないで、口先だけで「安心して行きなさい」と言っていたということです。ヨハネも「私たちは、ことばや口先だけではなく、行ないと真実をもって愛し合いましょう」(Ⅰヨハネ3:18)と勧めています。つまり、彼らはキリストを信じる信仰はありましたが、信仰の実である行いがなかったということです。ヤコブは厳しい人に思えてしまいますが、イエス様の山上の説教の語り口と良く似ています。教会にはこのような辛口で、罪を責める人も必要です。教会に「礼拝に遅刻するな」とか「献金しなさい」という憎まれ役を買って出るヤコブ長老がいれば幸いです。

 

2.信仰と行い

次は、信仰義認を唱えたパウロと、ヤコブの主張は矛盾するのかどうか学びたいと思います。パウロと最も異なるところはこのところです。ヤコブ2:21-24「私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇に献げたとき、行いによって義と認められたではありませんか。あなたが見ているとおり、信仰がその行いとともに働き、信仰は行いによって完成されました。『アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた』という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことが分かるでしょう。」ヤコブはパウロと同じように「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」という創世記15章のことばを引用しています。パウロはローマ4章で信仰義認の立場からこの聖句を引用しています。ローマ4:2-3「もしアブラハムが行いによって義と認められたのであれば、彼は誇ることができます。しかし、神の御前ではそうではありません。聖書は何と言っていますか。『アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた』とあります。」両者の違いはどこにあるのでしょうか?ヤコブは「信仰がその行いとともに働き、信仰は行いによって完成されました」と言っています。「信仰だけではだめで、行ないが必要だ」と言っているのです。パウロはどうでしょう?「行いではなく、信仰によって義と認められた」と言っています。さらに、ダビデの例をあげ、「行いと関わりなく、神が義とお認めになる」と言っています。パウロは行いに対してはかなり否定的なようです。

ルターはなぜ、「ヤコブ書を藁の書簡である」と言ったのでしょう?ルターはローマ・カトリックの修道士でした。カトリック教会ははっきり「信仰だけでは人は救われない。善い行いも必要である」と説いていました。ルターは難行苦行を積んでも、救いの確信には至りませんでした。ある時、ルターは突如として光が与えられ、「人は善行ではなく、信仰によってのみ義とされる」と悟りました。パウロはどうでしょう?パウロは律法を真面目に守るパリサイ人でした。でも、ローマ人への手紙に自分は律法を守り行うことができないと告白しています。やがて、「人はだれも、律法を行なうことによっては神の前に義と認められない。キリストを信じる人に神の義が与えられるのだ」(ローマ3:20-22)と悟りました。ルターとパウロの共通点は、人が義と認められる、つまり救いのための信仰です。恵みにより、信仰によって救われるのであり、行ないではありません。言い換えると、人が義と認められるというのは、信仰の出発点であるということです。でも、ヤコブが言っている信仰は、救われた後のことを強調しているようです。つまり、「本当にその人が救われたという信仰があるなら、その結果である実を見せてみろ。本当に信仰があるなら行いが必ず伴うはずだ」と言っているのです。では、パウロが行いについて全く言っていないかというとそうではありません。パウロの書簡の後半は、倫理的なことを述べ、「良い行いをしなさい」と勧めています。たとえば、ガラテヤ書で「大事なのは、愛によって働く信仰なのです」(ガラテヤ4:6)とはっきり述べています。

繰り返しになりますが、ヤコブはアブラハムがイサクをささげたことを取り上げ、「人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことが分かるでしょう」と述べています。主はなぜ、「ひとり子イサクを全焼のいけにえとしてささげよ」と言われたのでしょうか?アブラハムはすでに神さまから義と認められていました。信仰があったのです。でも、主はアブラハムを試そうとモリヤの山に導きましました。アブラハムが今、イサクの上に刃物を振り下ろそうとしたとき、主は「今わたしは、あなたが神を恐れていることがよく分かった」と言われました。つまり、そのときアブラハムに完全な信仰があることが証明されたのです。ヤコブはパウロの信仰義認に逆らっているのではありません。信仰義認にあぐらをかいて、行ないの伴っていないクリスチャンに物申しているのです。つまり、ヤコブは「信仰が真実のものであるためには行いを通して実証されなければならない」と言っているのです。信仰義認は信仰生活のいわばスタートです。人は行いがなくても、信仰のみで救われます。でも、その信仰が本物なら、行ないが生まれて来るのが自然です。なぜなら、キリストのいのちが内側にあるからです。律法によって「良い行いをしなさい」と強制しているのではありません。エペソ2:10「実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました」とあります。キリスト・イエスにあって造られたというのは、再創造されたという意味です。これまでは、良い行いよりも、悪い行いが自然に出てきました。しかし、信仰によって救われ、霊的に生まれ変わると良い行いが生まれる神の作品になるのです。さらに、神さまは、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくだるのです。

A.Mハンターは『現代新約聖書入門』で、こう述べています。「ヤコブがきびしく攻撃している信仰は、実を結ばない正統的な信仰、ただ単なる口先だけの信条に対する礼拝である。」これは、キリスト教会の歴史から述べていることです。教会は霊的に燃え上がりリバイバルを経験します。その後、熱がさめると教理を整理し、信条として唱えるようにします。しかし、それは口先だけの信条に対する礼拝になってしまいます。告白していることは正しいかもしれませんが、信仰が形式的でいのちがありません。イエス様が律法学者やパリサイ人たちに「彼らは言うだけで実行しないからです」(マタイ23:3)と言われました。人間には、信仰的に正しいことを言っていれば、それで実行した気になってしまう弱点があります。牧師が一番の例でしょう。もし、私が説教していることを実行していれば、イエス様のように輝くでしょう。ヤコブは「行いのない信仰は死んだものである。本当に信仰があるなら、その行いを見せて欲しい」と私たちにチャレンジしています。私たちはこれを律法的に捉えてはいけません。私たちは聖霊によって生まれ変わり、神の作品として再創造された存在です。私たちは良い行いをするために、キリスト・イエスにあって造られたのです。信仰があれば、行ないは自然と出てくるものなのです。

 

3.みことばを行う人になれ

ヤコブ1:22-25「みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません。みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で眺める人のようです。眺めても、そこを離れると、自分がどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめて、それから離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならず、実際に行う人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。」ヤコブは行い伴わない信仰は死んだものであると言いました。逆にいうと、本当の信仰は行いが伴うということです。私たちは良い行いをするように神の作品として造られました。では、どうしたら継続的に良い行いをすることができるようになるのでしょか?それは、みことばを行うことによって、信仰が成長し、ぶれることなく、一貫した行いができるようになるのです。子どもが歩き始めたときは、よく躓いて転びます。成長し、体力がついてくると、ちゃんと歩けるようになります。信仰によって義と認められたというのがスタートだったら、成長して、信仰によって歩むことができる霊的な大人になるべきです。そのためには、みことばを行う人になることです。ヤコブは「みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で眺める人のようです」と言いました。この意味は、霊的に全く成長していない姿を表現しています。みことばを行うと霊的な筋肉と体力ができて、安定した行いがだんだんできてくるということです。お医者さんも医大で6年位学ぶかもしれません。その後は、インターンになって実際に学びます。ただ学問だけではダメで、臨床の経験がなくてはなりません。私たちもみことばを実際に行うときに、困難さを覚え、悩んで立ち止まる時もあるでしょう。でも、忍耐をもってみことばにとどまり、実行すると、だんだん力がついてきます。

ヤコブは「みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません」と言いましたが、それはみことばを生活に適用するということです。また、ヤコブが言っている「自由をもたらす完全な律法」というのは、命令や教えを与えているみことばです。ぼんやり聖書を読んでいると、ほとんど頭にも心にも残りません。「自由をもたらす完全な律法を一心に見つめて、それから離れない人」というのは、「これはどういう意味なのか?私はこの教えをどのように適用すべきなのか?」とみことばを噛み砕きながら読むということです。たとえば、みことばに「あなたの隣人を愛しなさい」という命令があったとします。すると、私の隣人とはだれだろうと考えます。その時、家族であったり、職場の同僚であったり、あるいは友人だったりします。次に、愛するとは何なのか具体的に考えます。励ましのことばをかけることでしょうか?家事を手伝うことでしょうか?何かサポートすることでしょうか?1つの命令でも、自分の生活に適用すると、いろいろ行うことが出てきます。でも、それを律法的な義務として行うのではなく、私の内におられるキリストに導かれて行うと、負担になりません。自分の肉でやろうとすると、一日ももたないでしょう。神さまがみことばによって命令するということは、神さまが必要な力と資源をくださると期待すべきです。以前、私は「自分で復讐せず、主にゆだねます」と祈っていました。でもどこかに、その人に悪いことが起るようにと期待していました。さらに聖書を読むと、「赦してあげなさい」と書いてありました。「ああ、わかりました。赦します」と言いました。またさらに聖書を読むと、「迫害する者のために祈りなさい」と書いてありました。「ああ、そうですか、赦すだけではなく、祈るのですね」と祈りました。さらに聖書を読むと「祝福しなさい」と書いてありました。「え?祝福するのですか?わかりました。祝福します」と宣言しました。するとどうなったでしょう?今までは私に悪いことをした人を思い出す度に嫌になっていました。しかし、赦して、祈って、祝福したらどうなったでしょう?以前は、その人の顔が浮かぶと嫌な気持ちになりました。しかし、今は「ああ、あのようなことがあったから、今があるんだなー」と感謝できるようになりました。これがヤコブが言う、その行いによって祝福されるということではないかと思います。

ヤコブはイエス様の説教を良く聞いていたと思われます。最初は信仰がありませんでしたが、イエス様の復活後、信仰を持ちました。ヤコブはイエス様を良く知っていたので、イエス様の語調と良く似た所があります。イエス様が聞くだけではなく、行なうことが重要であると山上の説教の結論部分で述べています。マタイ7:24-27「ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。また、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人にたとえることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもその倒れ方はひどいものでした。」教会の伝道説教では、信仰を持っている人と、信仰をもっていない人のたとえとして良く引用される箇所です。しかし、このたとえ話は両者とも信仰のある人たちなのです。その違いは何でしょうか?イエス様は、みことばを聞いて行う人と、みことばを聞いても行わない人との違いを述べているのです。つまり、みことばを聞いて行う人は、岩の上に自分の家を建てた賢い人です。一方、みことばを聞いて、それを行なわない人は、砂の上に家を建てた愚かな人です。平穏なときは、分かりません。なぜなら、両者とも救いの信仰があるので、外面からは分かりません。しかし、その人に本当の信仰があるかどうか試される時がきます。それは、雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ち付けるときです。人生に試練がやってきたときです。本当に信仰のある人、みことばを行なう人の人生は、倒れることがありません。しかし、みことばを行ってこない人は、たとえ救いの信仰があったとしても、倒れてしまうことがあるのです。ヤコブはこう述べています。「みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません。…しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめて、それから離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならず、実際に行う人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。」

クリスチャンで「どうか、私を祝福してください」と叫び求める人がいます。それは良いことです。しかし、ヤコブは「それは簡単です。みことばを行うなら、あなたは祝福されますよ」と言うでしょう。アーメン。