2023.10.15「すぐれた契約と犠牲 ヘブル8:6-10」

 ヘブル4章から7章までは、キリストが偉大な大祭司であることが記されています。キリストは私たちと同じような試みに会われたので、私たちの弱さに同情できない方ではありません。また、メルキゼデクに等しい天からの祭司です。理想の大祭司であるキリストが新しい契約を立ててくださいました。そのために、ご自分を完全な犠牲としてささげてくださったのです。きょうは「すぐれた契約と犠牲」と題して2つのポイントで学びたいと思います。

1.すぐれた契約  

 ヘブル8:6-7「しかし今、この大祭司は、よりすぐれた契約の仲介者であるだけに、その分、はるかにすぐれた奉仕を得ておられます。その契約は、よりすぐれた約束に基づいて制定されたものです。もしあの初めの契約が欠けのないものであったなら、第二の契約が必要になる余地はなかったはずです。」このみことばを読むと、「よりすぐれた」ということばが三回も出てきます。大祭司キリストはどのようなお方でしょう?「よりすぐれた契約の仲介者」、「よりすぐれた奉仕」、「よりすぐれた約束」と形容されています。これはだれかとあるいは、何かを比べている表現です。劣っている契約の仲介者とはモーセです。劣っている奉仕とは大祭司アロンの奉仕です。劣っている約束に基づいた契約とは旧い契約、シナイ契約と言えるでしょう。もし、当時のユダヤ教徒たちがこのことを聞いたら、怒り狂うでしょう。この手紙は、ユダヤ教から改宗したクリスチャンに宛てられたものです。筆者は「よりすぐれた」ものを並べることによって、目を覚ますように促しているのではないかと思います。一度、よりすぐれたものを体験したなら、もう劣っているものに逆戻りすることはないでしょう。たとえば車ですが、私は五速のマニュアルが好きでした。時々、ダブルアクセルを駆使して急加速をしました。しかし、今の車はオートマチックです。最初は「左足が暇じゃないか」と嘆きました。でも、一度オートマに慣れると、道路の渋滞も楽です。スポーツ・カーに乗れるんだったらマニュアルでも良いです。でも、年齢的に自動ブレーキが必要かもしれません。

本題に戻ります。ヘブル人への手紙8章と9章に「契約」ということばが、17回記されています。これらの契約は2つに分けることができます。1つは「初めの契約」に関することです。もう1つは「新しい契約」に関することです。最初に「初めの契約」とはどんなものであり、だれがどのように交わしたものなのか考えてみたいと思います。「初めの契約」の仲介者はモーセです。モーセはシナイ山で十戒と律法をいただきました。モーセはシナイ山のふもとに祭壇を築き、全焼のいけにえをささげました。その続きをお読みいたします。出エジプト24:6-8「モーセはその血の半分を取って鉢に入れ、残りの半分を祭壇に振りかけた。そして契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らは言った。『【主】の言われたことはすべて行います。聞き従います。』モーセはその血を取って、 民に振りかけ、 そして言った。 『見よ。これは、これらすべてのことばに基づいて、【主】があなたがたと結ばれる契約の血である。』」モーセは雄牛の血を取って、民に血を振りかけ、「主があなたがたと結ばれる契約の血である」と言いました。契約を交わすときに重要なのは仲介者と契約の血です。でも、その契約は何度も破られ、最後にイスラエルは神の前から捨てられました。ヘブル8:9「その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握ってエジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。彼らはわたしの契約にとどまらなかったので、 わたしも彼らを顧みなかった。」とあります。ヘブルの記者は「初めの契約には欠けがあった」と言っています。初めの契約というのは、私たちが良く耳にする、旧約です。旧い契約に欠けがあったということです。

 では、「新しい契約」とはどのようなものなのでしょうか?ヘブル9:11-12「しかしキリストは、すでに実現したすばらしい事柄の大祭司として来られ、人の手で造った物でない、すなわち、この被造世界の物でない、もっと偉大な、もっと完全な幕屋を通り、また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。」このところに「もっと偉大な、もっと完全な幕屋」とありますが、それは地上ではなく、天にあるものです。キリストは人の手で造られた聖所に入られたのではなく、天にある聖所に入られたのです(ヘブル9:24)。また、新しい契約は、人間ではなくキリストが仲介者です。人間は不完全であり、何度も契約を破ります。しかし、仲介者としてのキリストは真実なお方です。そして、いけにえはどうでしょう。「雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。」アーメン。動物の血ではなく、大祭司キリストご自身の血によって永遠の贖いを成し遂げられました。では、大祭司キリストによって、新しい契約を結んだ人たちはどうなるのでしょうか?ヘブル8:10「これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである。──主のことば──わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」これこそが、主が望んでおられた契約です。新しい契約の背後には、聖霊による新生があります。聖霊ご自身が、契約の条件である律法を守らせてくださるのです。

 このように、旧い契約が廃棄され、新しい契約が立てられるために、大祭司キリストが多くのことをしてくださいました。私たち日本人は契約という概念があまりありません。同じ民族が毎日、同じ顔を合わせるので、特別な契約を交わすことが少ないでしょう。しかし、明治以降、西洋の文化が入って来て、法律が整備され、やたら契約を交わす機会が多くなりました。でも、日本人の心の奥底には、契約よりも、人間関係を重んじるところがあります。「契約を交わすなんて水臭いぞ」と言ったりします。たとえ、契約を結んでも、平気で破ってしまいます。私たちは聖書を学ぶとき、「契約」という概念を疎んじてはいけません。創世記15章に書いてありますが、アブラハムが主と契約を結んだ直後、真っ二つに分けた犠牲の間を通りました。その意味は、契約を破った場合には、裂かれたものと同じ状態になると承認したということです。それだけ、一度結んだ契約は命をかけてでも守らなければならないということです。しかし、初めの契約には欠けがありました。旧い契約は主なる神とイスラエルとの間に交わされた契約です。そして、守るべき条項は十戒をはじめとする律法です。保険でも何でもそうですが、小さな文字で契約条項が記されています。それを満たしていなら保険が降りません。イスラエルの民は「主の言われたことはすべて行います。聞き従います」と誓ったのに、それができませんでした。新しい契約は主なる神と新しいイスラエルとの間に交わされた契約です。そのとき、大祭司キリストが、仲介者として神さまと私たちの間に立ってくださいました。そして、ご自身の血をもって契約を交わしてくださいました。では、守るべき条項はあるのでしょうか?ありません。律法による行いではなく、信仰による恵みだからです。でも、聖霊がキリストを信じる者を新生させ、心と思いの中に、神の律法を与えてくださいました。救われた者が聖霊によって歩むとき、神の律法を守れるようにしてくださったのです。私たちは「新しい契約」と結んだ者たちです。

契約は遺言とも言われています。なぜなら、イエス様が契約のためにご自身の血を流し、命を捨てられたからです。ヘブル9:16-18「遺言には、遺言者の死亡証明が必要です。遺言は人が死んだとき初めて有効になるのであって、遺言者が生きている間には、決して効力を持ちません。ですから、初めの契約も、血を抜きに成立したのではありません。」キリストは、初めの契約のときの違反から贖い出すために死なれました。初めの契約にはモーセの十戒と律法が添付されていました。イエスラエルの民はそれらを守ることができませんでした。では、新しいイスラエルである私たちが守ることができるでしょうか?できません。そのために、キリストが律法の呪を受けて死なれ、律法に終止符を打ったのです。そして今度は、新しい契約を結ぶために血を流し、死んで下さいました。ヘブルの記者は「遺言は人が死んだとき初めて有効になるのであって、遺言者が生きている間には、決して効力を持ちません」と言いました。新しい契約は、キリストが死んだ後にはじめて効力を持つということです。聖書を英語でいうとき、Holy Bileと言います。しかし、正式には、もっと別な呼び名があります。それは、The Old TestamentとThe New Testamentです。Testamentは元来「遺言」「遺言書」という意味です。もちろん、「契約」という意味もありますが、遺言と契約が合わさっているということは意義深いと思います。つまり、契約の背後には、キリストの血、キリストの命がかかっているということです。

 

2.すぐれたいけにえ

ヘブル10章には神にささげるいけにえの事が記されています。主なる神がイエスラエルと契約を結んだとき、条項のような十戒をはじめとする律法を与えました。さらに、民が契約の内を歩むために、祭儀律法を与えました。これは、神さまに近づく(礼拝)ための律法に基づいてささげるべき犠牲のことであります。神の前に犠牲をささげるためには、用具や天幕、奉仕する祭司、ささげる動物やパンや香が必要です。これらのことは、出エジプト24章から31章まで記されています。また、レビ記1章から9章には動物の犠牲のささげ方が記されています。ささげる目的がいくつもあり、犯した罪の赦しため、献身のため、何かの代償のため、交わりのために動物や穀物をささげます。さらには、奉仕をする人、つまり祭司や大祭司をきよめるために動物を殺し、人と祭壇に血を振りかけます。また、レビ記16章には、大祭司が年に一度、至聖所に入って、民全体のために罪を贖う日がありました。その時、大祭司は至聖所に入り、契約の蓋(なだめの蓋)の上に血を振りまきました。これを「贖罪の日」と言って、イスラエルでは最も重んぜられました。他には、安息日ごとに、過ぎ越しの日にも、動物の犠牲がささげられました。これらのことから分かることは、罪ある人間が犠牲なしに、神の前に出ることができないということです。人は自分が犯した罪の赦しを受けるために、牛や羊、あるいはやぎを連れてきます。そして動物に手を置いて、自らほふります。手を置くとは、私の身代わりですという意味です。祭司は動物の血を祭壇に振りかけました。それを見た人は、「気の毒なことをしたな」と思うでしょう。そして、罪はただでは赦されないのだということを知るでしょう。レビ記17章には「血の中にいのちがあり、いのちとしての贖いをするのは血である」と書かれています。つまり、「血を流すことがなければ、罪の赦しはありえない」(ヘブル9:22)ということです。

しかし、ヘブル10章には、2つの限界があるということが記されています。第一はいけにえ自体の限界です。ヘブル10:4雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません」と書かれています。キリストが肉体をもってこの地上に来られたのは、ご自身をささげるためです。なぜなら、いけにえや捧げもの、全焼のささげ物や罪のきよめのささげ物という、律法にしたがってささげられる物は、主がよろこばれないからです。ヘブル10:10,11,14「このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。また、すべて祭司は毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえをくり返しささげますが、それらは決して罪を除き去ることができません。…キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。」キリストこそは究極的なささげものであり、1つのささげものによって、永遠に完成されたのです。「ただ一度」は、英語の聖書ではone for allであり、「一度で全部」という意味です。つまり、キリスト以降、動物のいけにえは永遠に不要であるということです。そして、神さまご自身も「私は、もはや彼らの罪と不法を思い起こさない」と言われました(ヘブル10:17)。ローマ・カトリックのミサはキリストの犠牲が今もなされているという理解です。そのため、神の前に出る人たちも、罪の赦しを受けるために何等かの償いが必要とされます。しかし、それは全く聖書的ではありません。ヘブル11:18「これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用です」とあるとおりです。

もう1つは、私たち自身の問題です。ヘブル10:2,3「もしそれができたのであったら、礼拝する人々は、一度きよめられた者として、もはや罪を意識しなかったはずであり、したがって、ささげ物をすることは、やんだはずです。ところがかえって、これらのささげ物によって、罪が年ごとに思い出されるのです。」イスラエルの人たちは、年に一度おこなわれる「贖罪の日」に忘れていたはずの罪を思い出すようです。毎年行うということは、罪を思い起こしては、悔い改めなければならないということです。このことから1つ確認したいことを思い出しました。当教会では月のはじめの日曜日、聖餐式を行ないます(新型コロナウィルスでできないこともありました)。多くの場合、教会では聖餐式のときに式文を用います。その時「『主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招く』と勧められています。かえりみて、おのおの罪を深く悔い改めなければなりません。」と言います。つまり、聖餐を受ける前に、もし、罪があったなら悔い改めなければならないということです。このことは多くの教会がそのようにしています。かなり前に、東神大の近藤勝彦教授が「これはコリント教会に対して言われたことであり、私たちのことではない」と言いました。なぜなら、コリントの教会は食事の後に聖餐式を行ったので、既に酔っている人もいたからです。私たちの場合は、礼拝の中で行っているのでそういう人はいません。近藤勝彦教授は、「キリストの贖いを感謝するとともに、やがて主と再会することを希望するときである」と言っておられました。イスラエルの「贖罪の日」のように、毎月行われる聖餐式が罪を思い出すのではなく、「キリストによる罪の完全なる贖いを感謝し、契約の内を歩むことができるように」という目的を持って行っています。

話題が少しそれましたが、罪の赦しを完全に受けられないのは私たちの問題だということです。ヘブル10:19-22「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」イエス・キリストが十字架で「完了した」(ヨハネ19:30)と叫ばれました。その後、神殿の幕が下から上まで真っ二つに裂けました(マタイ27:51)。この神殿の幕というのは、聖所と至聖所を仕切る、厚くて大きな幕です。かつては、年に一度、大祭司がいけにの血をたずさえて入ることができました。しかし、幕が裂けたということは、私たちがキリストの血によって至聖所におられる神さまのところに行けるということです。このところで、「私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか」と書かれています。同じようなみことばがヘブル9章にも記されていました。ヘブル9:14「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」私たちの良心は不完全です。キリストを信じて罪赦された後も「あなたには罪があるので、聖い神さまの前には近づくことができない」と訴えます。もちろん、私たちはイエス様を信じると霊が復活し、良心も新しくなります。でも、その良心がキリストの血の注ぎを受けてきよめられる必要があるということです。私たちは神さまの前に近づくとき何が必要でしょうか?動物のいけにえは必要ありません。賛美と感謝は携えて行くものです。唯一必要なのは、信仰によってキリストの血を携えて行くことです。そうすれば、日ごろどんな罪や問題があっても、礼拝に来る前に夫婦喧嘩をしても、良心がきよめられ、大胆に主の前に近づくことができます。これは私たちの行いによるのではなく、一度ですべての罪を贖ってくださったキリストの血のゆえです。自分の良心に、神さまがキリストにあって赦したのだから、自分自身をも赦すように教えることです。何よりも重要なのは信仰です。キリストの血によって、全き信仰をもって、真心から神に近づくということです。

「ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」ヘブル4:16