2023.10.8「すべてに勝るキリスト ヘブル1:1-3」

ヘブル人への手紙は、ユダヤ教徒からクリスチャンになった人のために書かれたものです。紀元後60年位から、クリスチャン対するローマ帝国の迫害が強くなり、「ユダヤ教に戻ろうか?」という誘惑がありました。筆者は旧約聖書の知識に長けた人であって、「キリストがすべてに勝るお方である。だから、一度持った信仰を棄ててはいけない」と勧めている書物です。欽定訳の頃は使徒パウロが書いたと言っているようですが、現在はアポロが書いたという説が有力です。

1.預言者に勝る

 ヘブル1:1「神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが・・・」。旧約聖書を読むと、「主はこう言われる」という預言者の表現があります。昔、主は預言者たちを通して人々に語られました。預言者といえば、モーセですが、他にサムエル、イザヤ、エレミヤという名前が浮かぶでしょうか?では「父祖たち」とはだれでしょうか?アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、ヨブなどです。イスラエルの王である、ダビデやソロモンも聖書を書いています。律法学者エズラも書きました。旧約聖書には39巻の書物がありますが、正直、だれが書いたのか分からないものもあります。「多くの部分に分け、また、いろんな方法で語られた」とありますので、物語風のもあれば、詩歌や散文もあるということです。ひたすら歴史を記している書物もあります。神さまはいろんな時代、いろんな人を用いて、神のことばを書かせました。神さまは超自然的に、それらを集めさせ、時代を超えて、現在、聖書として私たちの手許にあります。

 ヘブル1:2「この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。」「終わりの時代」はいつから始まるのか、いろんな説がありますが、ヘブルの記者は新約の時代を「終わりの時代」と言っています。ローマ教会はAD6世紀頃、イエス・キリストの誕生を境に、紀元前と紀元後に分けました。しかし、後から、「イエス様の誕生は紀元前4年位である」と分かり、ちょっと誤差が出てしまいました。それはともかく、新約時代は「御子イエス」が神のことばを直接語りました。しかし、イエス様が書いたわけではなく、弟子たちがイエス様の語られたことばや教えを書きました。「語る」というのは神学的に言って「啓示」と言います。旧約時代は神さまは預言者を通して語られました。しかし、終わりの時代は御子イエスが直接、神のことばを語りました。つまり、イエス様ご自身が神の啓示そのものだということです。ヨハネ1:1「初めに、ことばがあった。ことばは神であった。」と書かれています。この意味は、イエス様はこの地上に来られる前は、ことば(ロゴス)であったということです。マタイ5章から7章まで、山上の説教が書かれています。イエス様は十戒を引用しながら「…と言われているのを聞いています。しかし、私はあなたがたに言います」と再解釈しています。この教えを聞いた人々は「権威ある者として教えられた」と驚きました。まさしく、イエス様がイスラエルに律法を与えたということです。また、イエス様は弟子たちに「私を見た人は、父を見たのです」(ヨハネ14:9)と言われました。つまり、「イエス様ご自身が行いとご人格において、父なる神さまを啓示しておられた」ということです。

 ヘブル11:3「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。」さらに、このみことばでは、創造者なる神さまと同等のお方であることが強調されています。コロサイ1章にも「御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。」と書かれています。正しくは父なる神さまとイエス様、そして聖霊が万物を創造されました。しかし、御子イエスだけがクローズアップされています。それは、御子イエス様が神として低いお方ではなく、同等であるということです。何故かと言うと、ユダヤ教徒たちは、創造主なる神とイスラエルを導かれた「主」のことは知っていました。しかし、「マリヤから生まれたイエスが何故、神なんだ」ということが分かりませんでした。イエス様は彼らに「私はアブラハムやモーセの前にいた」と言ったとき、彼らは憤慨しました。ユダヤ人は聖書を知っていたので、イエスがなぜ「主」なのかということが理解できません。私たち異邦人は、新約聖書から「ああ、そうですか」とストレートに信じることができます。パウロは復活の主と出会って、はじめて、旧約聖書の「主」がイエス・キリストなんだと分かったのです。でも、なぜ、イエス様が「主」となったのかという理由がここに示されています。3節に「また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました」と書かれています。ピリピ2章にはこの続きあがり「すべての口が、『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです」と書かれています。つまり、イエス様が贖いのわざを成し遂げ、昇天して父なる神の右の座に着かれた時に、「主」という称号が与えられたのです。主というのは、神さまのことなのですが、その背後に「契約」という概念があります。旧い契約の主は、父なる神さまであり、新しい契約の主は、イエス・キリストということになります。

 パウロはそのことを理解したので、ユダヤ教徒たちと対等に議論することができました。私たちは、そのことをさほど重要なこととは思わないかもしれません。多くの場合、クリスチャンになってから旧約聖書を読むのではないでしょうか?はじめは、「古い契約が、今の何の役に立つのか?イスラエルのために書かれた書物だろう?」ぐらいにしか思わないでしょう。でも、「旧約聖書の預言者たちが預言していたお方が、イエス・キリストである」と分かると、信仰がぐらつきません。確かにイエス様はマリヤから生まれましたが、それは罪の贖いを成し遂げるために、人間になられたのです。でも、イエス様は天地を造られたお方であり、現在は「主」として、父なる神さまと支配しておられる王であると知るとどうでしょうか?私たちの信仰が大きくなるのではないでしょうか?イエス様は、ローマ・カトリックの母マリヤに抱かれた赤ちゃんではありません。「神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。」

2.御使いに勝る 

 ヘブル1:4「御子は、御使いたちよりもさらにすぐれた御名を相続されたように、それだけ御使いよりもまさるものとなられました。」旧約聖書には御使いが度々、出現して、神の民を助けています。御使いは、アブラハムやロトを助けました。きわめつけは、出エジプト記3章でしょう。主の使いが燃える柴の中で、モーセに現れました。しかし、その後、主がモーセに語っています。主ご自身が直接語られたのか、あるいは御使いを通して主が語られたのかはっきり分かりません。使徒7章で、ステパノも同じ内容を説教しています。重要なのは、御使いが主のことばを伝えたということです。ユダヤ人たちは、伝統的に御使いによって律法が与えられたと考えていたようです。なぜ、そんなに御使いを高めるのでしょうか?旧約聖書には御子イエスが出てきません。その代わり、主の使いが活躍しているからです。ヒゼキヤが王であったとき、アッシリアが責めて来ました。しかし、主の使いが出てきて、アッシリアの陣営で18万5000人を打ち殺しました(Ⅱ列王記19:35、イザヤ37:36)。こういう物語を見ると、「主の使いはすごい!」と礼拝したくなるのではないでしょうか?実際、パウロはコロサイ教会に「御使い礼拝を喜んでいる者がいる」(コロサイ2:18)と言っています。今でもローマ・カトリックの人たちは御使いを礼拝したり、お願いをする祈りをします。カルヴァンは『キリスト教綱要』で、ローマ・カトリックの天使に関する教えについて批判しています。

 ヘブルの記者は、詩篇を引用しながら御子が御使いよりも勝る理由を多数あげています。まず第一は、5節にあなたは「私の子、わたしがあなたを生んだ」と書かれています。「生んだ」とは第一の者という意味であり、メシアの就任式で語られ、パウロも説教でそのことを引用しています(使徒13:33)。第二は、6節以降ですが、「神のすべての御使いよ、彼にひれ伏せ」と書かれていますが、まさしく「御子を礼拝せよ」ということです。13節「あなたは、私の右に座についていなさい」とは、御使いではなく、御子に言われたことばです。第三は、ヘブル2章前半にありますが、「御子は一時的に御使いよりも低くされたが、それは人類を贖うためだった」と書いてあります。神学的には、あと3点くらいあるようです。でも、大真面目にヘブルの記者が御子は御使いに勝ると書いています。それは、新約時代のユダヤ人たちが、「ナザレのイエスが本当に神の子なのか?」と疑っていたからです。「どこから来たのかその所在も分からない者を、なぜ、主として礼拝しなければならないのか?」と反発していました。でも、旧約聖書の詩篇のあちこちに「神の子であり、あがむべきお方だ」と預言されています。ということは、突然、マリヤから生まれ、ナザレに現れたのではなく、500年以上も前から預言されていたことが分かると納得がいきます。私たちはそのような経緯がなくても、「御使いは被造物であり、イエス・キリストは神である。だから、当然、御使いはキリストを礼拝すべきである」と言うことができます。

 では、御使い、天使の役目というのはどのようなものなのでしょうか?ヘブル1:14「御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。」とあります。御使いはどのように私たちに仕えているのでしょうか?旧約聖書には数えきれないほど、御使いの出現が記されていますが、新約聖書ではどうなのでしょうか?まず、イエス様の降誕の時には、マリヤやヨセフに度々現れています。イエス様がゲツセマネで祈っているとき、御使いが天から現れてイエス様を力づけました(ルカ22:43)。ペテロが牢に捕えられ、処刑される前の夜です。主の使いがペテロの脇腹を突いてを起こしました。御使いはペテロを連れて、第一、第二の衛所を通り、鉄の門を通過させました。ペテロは最初、幻を見ているのだと思いましたが、町に出てから「主が御使いを遣わして、救い出して下さったのだ」と分かりました。ヨハネの母マリアの家に行くと、ロデという召使が、ペテロの声だと分かったのに、門を開けずに家の奥に飛び込みました。人々はその知らせを聞いて「あなたは気が変になっている。それはペテロの御使いだ」と言いました。このところから、ユダヤ人は一人一人に、守護のために御使いがついているということを信じていたことが分かります。ペテロだけではなく、ピリポやパウロの伝道のときも御使いがお手伝いしています。御使いは罪を贖われた経験がないので、直接福音を伝えることができません。福音を伝える人をバックアップしているというのが本当です。ヨハネ黙示録には悪魔とその手下を滅ぼすために、天の軍勢がイエス様に従っていることが記されています。それなのに、現代の教会はどうして御使いの働きを認めないのでしょうか?

 ビリー・グラハム著『天使』に、このようなことが書かれていました。ニュー・ヘブリディス諸島でジョン・ベートン夫妻が宣教をしていた。ある夜、敵意を持った現地人たちが、彼の宣教基地を取り囲んだ。彼らは火を放って、ベートンや家族が出て来たところを殺してしまおうとしていたのであった。ベートンと彼の妻は、その恐ろしい夜、神が救い出してくださるようにと、一睡もせずに祈り明かした。夜が明けてみると、驚いたことにどうしたのか現地人たちはひとりもいなかった。彼らは神に救い出していただいたことを感謝したのであった。それから一年後に、その部族の酋長がイエス・キリストを信じて受け入れた。ベートンは過ぎし日のことを思い出し、酋長に「なぜ私の家を焼いて私たちを殺さなかったのですか」と尋ねた。酋長は驚いて、「あのとき、あなたと一緒にいた人々は一体だれなのですか?」と言った。ベートンは「だれもいませんでしたよ。私と妻だけです」と答えた。酋長の語るところによると、たくさんの人が、それも輝く衣をまとった幾百という巨人たちが宣教基地を取り囲んでいるように見えた。それで、原住民らは恐れて攻撃しなかったのであった。そのとき初めて、ベートンは神がご自身の天使を送って自分たちを守って下さったこといを悟ったのである。酋長もそれ以外に説明のしようがないとうなずいた。神は生命の危険に直面したご自分のしもべたちを守るために、多くの天使を送って下さったのではないだろうか。ジョン・カルヴァンは、その著『キリスト教綱要』の第一巻において、「天使は私たちにとって神の恩恵の配分者であり管理者である。天使は私たちの安全を気遣い、私たちの守護を任務とし、私たちに道を教え、私たちの身に何のわざわいもふりかからないように、絶えず配慮している」と述べています。

3.モーセにまさる

ヘブル3:2-6「モーセが神の家全体の中で忠実であったのと同様に、イエスはご自分を立てた方に対して忠実でした。家よりも、家を建てる人が大いなる栄誉を持つのと同じように、イエスはモーセよりも大いなる栄光を受けるにふさわしいとされました。家はそれぞれだれかが建てるのですが、すべてのものを造られたのは神です。モーセは、後に語られることを証しするために、神の家全体の中でしもべとして忠実でした。しかしキリストは、御子として神の家を治めることに忠実でした。そして、私たちが神の家です。もし確信と、希望による誇りを持ち続けさえすれば、そうなのです。」なぜ、モーセはユダヤ人にそれほど尊敬されていたのでしょうか?モーセは主なる神から十戒および律法を授かりました。モーセは忠実な神のしもべであり、主と口と口で語り、主の姿を仰ぎ見ることができました。イスラエルの民をエジプトから脱出させた後、40年間、荒野を導きました。不信仰で、わがままな人たちを導くのはとても困難だったと思います。「モーセは、地上のだれよりもまさって柔和であった」(民数12:3)と言われました。ユダヤ人はモーセが書き残した律法をこよなく愛していました。ことあるごとに「モーセの書にはこう書いてある」と引用したのです。でも、彼らにとって大事件が発生しました。イエス様が「もしも、あなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことなのですから。」(ヨハネ5:46)と彼らに告げたからです。しかも、イエス様はモーセが定めた律法をことごとく破りました。そのため、ユダヤ人は憎しみに燃え、イエス様を殺そうとしました。初代教会の頃、ユダヤ教からクリスチャンになった人たちの中には、「割礼を受け、モーセの律法を守るべきだ」(使徒15:5)と主張する人たちもいました。

それほどユダヤ人に尊敬されているモーセに対して、ヘブルの記者は「イエスはモーセにまさる」と言っています。そして、モーセとイエス様を対比しています。まず、「モーセは神の家全体の中で忠実であった」と言われています。神の家というのはどういう意味でしょう?神の幕屋の務めに対して忠実であったということです。モーセは預言者でありましたが、イスラエルの民が主にそむいたときは、神の御前でとりなす祭司でもありました。しかし、モーセは神のしもべであり、管理者でした。一方、キリストはどうでしょう?キリストは家を建てた方です。言い換えると、この世界の創造者、相続者であり、神の家を治めるお方です。モーセはこのように言っています。申命記18:15「あなたの神、【主】はあなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたのために起こされる。あなたがたはその人に聞き従わなければならない。」ペテロはこのみことばを引用して「モーセと同じような預言者とはイエスである。主が遣わしたイエスに聞き従わなければならない」(使徒3:22)とユダヤ人に説教しています。このように考えると、モーセはイエス・キリストの型であると言うことが分かります。ペテロは「ですから、悔い改めて神に立ち返りなさい。そうすれば、あなたがたの罪はぬぐい去られます」と人々を招きました。ペテロの話を聞いた人々のうち大勢が信じ、男の数が5000人ほどになりました。ところが、民の指導者たち、長老たち、律法学者たちは信じようとしませんでした。ペテロとヨハネに「イエスの名によってかたることも教えることも一切してはならない」と命じました。

 ヘブルの記者はモーセのことを話した後、脱線してしまいました。これはキリスト者からユダヤ教徒に戻る人たちへの警告であり、同じようなことが4回記されています。第一はヘブル2:1-4「すばらしい救いをないがしろにするな」、第二はヘブル3:7-9「不信仰になって生ける神から離れるな」、第三はヘブル5:11-14「初歩の教えにとどまるな」、第四はヘブル10:26-31「故意の背教は恐ろしい結果を招く」です。カルヴァンは「一度、信じた者は滅びない」という神の選びを強調しました。しかし、ヘブル人への手紙を読むと、「滅びる可能性があるのではないだろうか?」と、疑いざるを得ません。最後に「モーセにまさる」ということを語りながら、脱線しているヘブル3:7-19をお話しして終えたいと思います。この内容は、不信仰によって40年間、荒野をさまよって死んだイスラエルの人たちのことです。さきほど、モーセがイエス・キリストの型であるとお話ししました。同時にそれは、イスラエルの荒野における不信仰と、新しい神の民の不信仰の型ということになります。つまりそれは、「荒野の事件をキリスト者に対する警告として理解するように」ということです。イスラエルは御声に従わなかったので安息に入ることができませんでした。同じように、キリスト者であったとしても、不信仰のゆえに御国に入れない人も出てくるという警告であります。

警告の中心ポイントは、「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない」ということです。イスラエルは目の前がカナンなのに、カデシュという所で断念してしまいました。主の御声に逆らって、「エジプトに帰ろう」と言ったので、荒野で屍をさらしてしまうのです。私たちの人生において、神さまが語りかける時というのは、意外に少ないのではないかと思います。クリスチャンの場合は聖霊が内側におられます。また、まだ信じていない人は、だれかがとりなしている場合はすぐ隣にいらっしゃいます。「今日」というのは、危機的な時であり、いつもの時ではないということです。私もイエス様を信じた、イースターの日は特別でした。9時間も伝道されて「じゃあ、信じるよ」と言って、本当に救われました。それから何度か躓きかけたときがありました。洗礼を受けたその日の午後。大川師から「第二礼拝の証はしなくて良い」と言われたとき。武道館の講義に招かれていたのに突然断られたとき。それらのとき、聖霊がはっきりと、聞こえるような声で語ってくださいました。その声はとても威厳がありました。私たちは、誘惑にあって信仰を棄ててしまうような時があるかもしれません。何かに躓いてバックスライド(後戻り)するような時があるかもしれません。「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない」ということです。「明日」ではなく、「いつか」でもありません。決断するのは、聖霊が語りかけた「今日」です。「あなたに従います」と信仰に立つならば、主は道を開いてくださいます。どうぞ、心を頑なにしないで、主の御声に従いましょう。そうすれば、安息である御国に入ることができます。クリスチャンとは地上にいながらも、御国に住む人たちです。