2023.9.24「クレタの教会 テトス1:5-9」

少し前の聖書は「クレテ」と言いました。地中海にクレタ島というのがあります。使徒の働きを見ると、バルナバの故郷であり、パウロが最初に宣教に行った島です。この手紙を見ると、島の人たちは行いも性格も悪かったようです。そういうところに遣わされたテトスは大変であったと思います。テサロニケとかピリピ教会と違って、この手紙には戒めのことばや、組織的なことが多く書かれています。きょうはテトスの手紙から、クレタのような問題の多い教会をどのように牧会したら良いのか、パウロから知恵をいただきたいと思います。もちろん、この手紙もクレタの教会だけではなく、普遍的なものであり、現在の教会にも適用可能であると思います。

1.リーダーの選任

 テトス1章には、教会のリーダーの選任とそのような人たちの条件(適正)みたいなものが記されています。まず、リーダーとは何かということを申し上げたいと思います。ハワイのラルフ・モア師は何百個もスモール・チャーチを作って牧会しておられます。会員1万人のメガチャーチではなく、30名から50名の小さな教会です。100名近くになると、株分けして広げていく教会です。ですから、日本の教会がとても学ぶべきところが多いと思います。『指輪を捨てろ』という彼の本がありますが、映画『ロード・オブ・ザ・リング』の原書からもじったものです。つまり、自分が王様になるのではなく、権威を下の者に委ねて行くという方式です。先生はこのように言われました。「リーダーというのは作れるものではなく、神からの賜物である。リーダーたる証拠は、その人に人々が着いて行っているかどうかである。私がリーダーだと言っても、だれも着いて来ないならリーダーではない。極端に言うと、ギャングのリーダーもリーダーなのである。世の中には良いリーダーもいれば、悪いリーダーもいる。私たちができるのは、悪いリーダーを良いリーダに変えることである。」明言だと思います。パウロはテトスに「教会を正しく治めるために長老や監督を任命せよ」と言いました。テモテの手紙には他に執事も記されていました。牧師も教会のリーダーですが、長老、監督、執事もリーダーであります。テモテの手紙のときも言いましたが、当時は牧師という役職はほとんどなくて、監督や長老が説教したり、教えたり、指導していたようです。教会の中で一教会の指導者が「牧師」となるのは、おそらく宗教改革以降であろうと思います。カトリックや聖公会でいう「司祭」が「牧師」に言い換えられただけです。しかし、「牧師」だと、牧師が羊飼いで、教会員が羊になってしまいます。真の羊飼いはイエス・キリストです。教会を牧場にたとえるのは旧約聖書的で、弊害が起るでしょう。パウロは教会を神の家族、キリストのからだ、神の神殿にたとえています。

 それはともかく、牧師、監督、長老、執事…教会によっては、呼び方も違いますし、そのような名称もないところがあります。聖公会やメソジスト系の教会は監督制です。きよめ派の教会やペンテコステ教会がトップダウン的なのはそのためです。改革派や長老派は代議員制です。カルバンがジュネーブにおいて組織的な教会を作り、それが模範になっています。バプテスト教会は会衆制です。民主的であり、牧師も信徒もほとんど同じ立場です。ブラザレンは新約聖書の初代教会のとおりにしています。牧師を先生と呼ばず「兄弟」と呼んでいます。とれも一長一短があり、一度、伝統が作られると「これが正統である」と思われてしまいます。しかし、宗教法人法ができてからは、牧師は代表役員、長老や執事は責任役員と呼ばれるようになり、混乱を招いています。責任役員は牧師が任命するところもあれば、教会員全員で投票するところもあります。選挙となると、信仰よりも社会的な地位で選ぶ可能性があります。コリントやエペソ教会は、キリストのからだなる教会を説いています。そのため霊的な賜物によって奉仕を分けています。使徒、預言者、伝道者、牧師、教師という教職の賜物があります。付随して、奇跡を行なう者、癒しの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者がいたようです(Ⅰコリント12:28)。レイ・ステッドマンやロバート・シュラーはからだの器官(賜物)によって、教会を組織していたようです。私は指導者は、リーダーたちの賜物や性格に合わせるのが最も良いと思います。監督のように、みんなをひっぱる強力なリーダーなら、トップダウン式が良いと思います。聖書の人物はほとんどそういうカリスマ的な人たちでした。それができない人は、サーバント・リーダー・シップというのがあります。下からみんなを支える人になれば良いのです。しかし、リーダーが持つべき最低条件は、最後に決断をするということです。行くべき方向性を示したり、人を組織できれば良いことにこしたことはありません。でも、最終的な決断はリーダーが取らなければなりません。牧師でもいろんなタイプがいます。強いリーダーシップを持っている人、聖書をもくもくと教える人、信徒の世話を良くする奉仕型の人、気配り上手でコミュニケーションが長けた人…いろいろいて良いのです。でも、信徒のリーダーたちが、牧師の不得意な分野を補えるように、かしらなるキリストが配置しておられるようです。

 テトス1章には、リーダーたちの資質、あるいは生活ぶりがどうなのかという条件が記されています。乱行のもとなので、大酒は飲まない方が良いでしょう。たとえ酒を飲まなくても、人をさばく律法的な人は飲む人よりも悪いと思います。監督も長老も家庭を正しく治めるということがあげられています。教会と家庭と裏表がなければ、子どもはちゃんと育つと思います。偽善的な人よりも、弱さも暴露するような誠実な人が良いと思います。知的で頭の良い人は人を非難する傾向があります。パウロが「知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます」(Ⅰコリント8:1)と言いました。人為的なものではなく、御霊の実から生じる謙遜さが最も重要だと思います。最後にこのみことばがリーダーたちに重要だと思います。テトス1:9「教えにかなった信頼すべきみことばを、しっかりと守っていなければなりません。健全な教えをもって励ましたり、反対する人たちを戒めたりすることができるようになるためです。」賜物や人格的なことも重要ですが、自らが聖書のみことばをしっかりと守っているということです。自らが信頼するべきみことばに立ち、健全な教えをもって人々を励ましたり、反対する人たちを戒めるためです。

 

2.牧会の仕方

テトスは牧師か教師なのかわかりません。町々に長老たちが立てられていたのですから、使徒かもしれません。しかし、テトス2章にはいわゆる「牧会の仕方」について書かれています。クレタは道徳的にとてもすたれた島であり、牧会が大変であったと思います。ですから、最も重要なことが2章1節に書かれています。テトス2:1「しかし、あなたは健全な教えにふさわしいことを語りなさい。」健全ということばが、テトス1章に2回記されています。テトス2章には3回しるされています。健全は英語ではsoundであり、「論理的に正しい、正統な」という意味もあります。あらゆるものに先立つのは、聖書のみことばに正しく立っているということです。私たちはどうしてもこの世の常識や価値判断、あるいは風習に流されてしまう傾向があります。倫理道徳は時代や住む地域によって変わります。長さや重さの原器があるように、私たちは変わらない聖書のみことばに立つ必要があります。もちろん聖書は解釈とか適用が必要ですが、「それが健全であるかどうか」が問われます。

テトス2章には年配者の男性と女性、若い人、奴隷、すべての人と対象別に勧めが分かれています。第一は年配の男性に対してです。テトス2:2「年配の男の人には、自分を制し、品位を保ち、慎み深く、信仰と愛と忍耐において健全であるように。」年を取れば男性は頑固になり、これまで生きてきた経験や考えを変えようとしません。こちらが変えようとすればするほど、頑なになって抵抗するでしょう。「自分を制する」とは、自分自身がそうするという意味であり、外側からそうさせられるということではありません。『選択理論』という本がありますが、幸せな人間関係を築くための鍵とは、外的コントロールを避けるということです。ガミガミ言わないということです。年配者はプライドがあるので、敬意を表しながら、ありのままを受け入れる必要があります。そうすると聖霊が働いて、自分で「こうしようかな?」と変わっていくのです。

第二は年配の女性に対してです。テトス2:3-5「同じように、年配の女の人には、神に仕えている者にふさわしくふるまい、人を中傷せず、大酒のとりこにならず、良いことを教える者であるように。そうすれば、彼女たちは若い女の人に、夫を愛し、子どもを愛し、慎み深く、貞潔で、家事に励み、善良で、自分の夫に従順であるように諭すことができます。神のことばが悪く言われることのないようにするためです。」大変申し訳ありませんが、どの手紙にも言えるのですが、女性への勧めが男性の何倍もあるということです。「パウロは女性に何か恨みでもあるのか」と思いたくなります。当亀有教会にはこのような注意を受ける姉妹は一人もいないと信じます。みんな天使みたいな人たちだからです。これはクレタ島に住む女性たちへの勧めであり、日本島ではありません。ですから、寛容な心で聞いてください。これらのことがらの中で、年配の女性が最も注意すべきことは「人を中傷すること」です。マタイ18章には、「まず当人同士で話す」という順番があります。いきなり第三者に持って行ってはいけません。また、Gossip(うわさ話)はとても小さな罪ですが、鳥の羽のように一度飛んでしまったなら回収できません。後から「あれは誤解でした、嘘でした」と言っても手遅れだということです。最近はSNSとかで中傷して、自殺者まで出ています。又聞きとか、情報源のしっかりしないものは話さない方が良いです。しかし、人間は人の不幸とかスキャンダルが好きだという罪性があります。箴言16:28「陰口をたたく者は親しい友を離れさせる。」と書いてあります。このところでは、年配の女性が、「若い女性を諭すことができるように」と勧めています。男性が若い女性を指導すると問題が起ります。そうではなく、年配の女性が若い女性を指導するというのが聖書的であり、罪も起りません。

第三は若い人に対してです。テモテ2:6「同じように、若い人には、あらゆる点で思慮深くあるように勧めなさい。また、あなた自身、良いわざの模範となりなさい。人を教えることにおいて偽りがなく、品位を保ち、非難する余地がない健全なことばを用いなさい。そうすれば、敵対する者も、私たちについて何も悪いことが言えずに、恥じ入ることになるでしょう。」6節は若い人に対してですが、7,8節はテモテに対しても言っているのかもしれません。若い人というのは、人の言うことをあまりききません。だから「あなた自身、良いわざの模範となりなさい」と言われています。また、若者はとても純粋であり、すぐ偽善を見破ります。だから「人を教えることにおいて偽りがなく、品位を保ち、非難する余地がない健全なことばを用いなさい」と言われています。若者に指導する前に、テトス自身がどうなのかが重要であるということです。

第四は奴隷たちに対してです。テトス2:9-10「奴隷には、あらゆる点で自分の主人に従って、喜ばれる者となるようにし、口答えせず、盗んだりせず、いつも善良で信頼できることを示すように勧めなさい。それは、彼らがあらゆる点で、私たちの救い主である神の教えを飾るようになるためです。」パウロは社会改革をしようとしません。まず、キリストを信じて価値観が変わるように願っています。奴隷は報われないことが多いので、口答えしたり、盗んだりする誘惑にかられるでしょう。でも、主人に忠実に従い、善良であるなら神さまが報いてくださいます。なぜなら、主人の上には神さまがおられるからです。この真理は、現代の労働者にも同じです。

最後はすべての人に対する勧めです。テトス2:11-14「実に、すべての人に救いをもたらす神の恵みが現れたのです。その恵みは、私たちが不敬虔とこの世の欲を捨て、今の世にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるイエス・キリストの、栄光ある現れを待ち望むように教えています。キリストは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心な選びの民をご自分のものとしてきよめるため、私たちのためにご自分を献げられたのです。」これらの勧めの最後は、キリスト論で終わっています。テトス書の画期的な価値は、キリストを神であるとはっきり述べていることです。13節に「大いなる神であり私たちの救い主であるイエス・キリスト」と書かれています。どの聖書翻訳をみても、「大いなる神」が「救い主イエス・キリスト」にかかっています。聖書にイエス・キリストが神であると直接書かれているのは、1箇所か2箇所くらいでしょう。重要なことはキリストによって「すべての人に救いをもたらす神の恵みが現れた」ということです。

3.テトスの救済論

 テトスの手紙3章にはすばらしい救済論が記されています。救済論とは、どのようにして人が救いを得るのかという神学的な見解です。3章3節から7節にわたってそのことが記されています。ローマやエペソ人への手紙よりも、すっきりまとまっています。

第一は救われる前の人間の状態です。テトス3:3「私たちも以前は、愚かで、不従順で、迷っていた者であり、いろいろな欲望と快楽の奴隷になり、悪意とねたみのうちに生活し、人から憎まれ、互いに憎み合う者でした。」罪ということばがない代わりに、罪の中に生きている具体的な生活ぶりが描写されています。ここに「迷っていた」とありますが、本人は迷っているという自覚はありません。磁石や羅針盤のようなものがない人生は、自分が迷っていること自体、分からないのです。そのため、「いろいろな欲望と快楽の奴隷になり、悪意とねたみのうちに生活し、人から憎まれ、互いに憎み合う者でした。」自分は自由だと思っているのですが、実は欲望と快楽の奴隷であったということです。人間関係もむちゃくちゃで、悪意とねたみの生活、憎まれ憎み合ういという関係でした。神さまのとの関係がないと、感情のおもむくまま生活してしまいます。怒りや悲しみを押さえることができません。そのため酒を飲んだり、快楽に走ってうさを晴らします。でも、そのような日が毎日続きます。霊的に麻痺しているので、自分の正しい状態を把握的ないというのが救われる前の状態です。

第二は福音の現れです。テトス3:4「しかし、私たちの救い主である神のいつくしみと人に対する愛が現れたとき」。このことは、私たちが願ったのではなく、神さまから一方的にキリストが遣わされ、罪の贖いが全うされたという事実です。私たちはそのような良い知らせがあるとは知らないで生きています。でも、この歴史の中に神の御子イエスが私たちを救うために入ってこられたのです。御使いは「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです」(ルカ2:10,11)とキリストの誕生を告知しました。でも、それは毎年、祝われるどこかの国のクリスマスでははありません。私を、私たちを救われるために、救い主がこの地上に来られたのです。向こうから、救いの福音がやってきたのです。

第三は恵みによる救いです。テトス3:5「神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみによって、聖霊による再生と刷新の洗いをもって、私たちを救ってくださいました。」この5節が私たちが救われるための中心ポイントです。しかし、ここには私たちがキリストを信じるとか、罪を悔い改めるということばは1つもありません。ここには「私たちが行った義のわざではなく、ご自身のあわれみによって」と書かれています。つまり、罪を悔い改めることを含めて、全部神さまのあわれみによってなされることだからです。神のあわれみはキリストの十字架において成就しており、私たちが「ごめんなさい。私の罪を赦してください」とか「これからは正しい生活をしますから」とあわれみを求めるものは必要ありません。なぜなら、罪の自覚や新しい生活は、私たちの力ではできないからです。そのため、聖霊による再生と刷新の洗いをもって、私たちを救う必要があったのです。「聖霊による再生」とは、聖霊による新生であり、霊的な生まれ変わりです。また「刷新の洗い」とは犯した罪を洗い流すというよりは、罪の性質や咎を洗い流すという、もっと根幹に関わることです。もちろん、救われてから私たちはきよめられる必要があります。でも、最初の救いの時点で、罪のゆるしと罪の結果からきた汚れた性質をきよめてくださると信じます。洗濯にはいろんな方法がありますが、伝統的には丸洗いをします。その後、汚れて落ちないところやシミを取るのではないでしょうか?逆もあるかもしれませんが、私たちの場合は罪の丸洗いが最初で、後から罪の性質がきよめられていくというのが経験的に正しいと思います。

第四は救いの保証と特典です。テトス3:6,7「神はこの聖霊を、私たちの救い主イエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みを抱く相続人となるためでした。」昔のリバイバルの教会は、回心しかすすめませんでした。だから、ドロップアウトする人が続出しました。神さまは信仰生活に必要ないくつかの保証と特典も与えておられるのです。それは聖霊の注ぎです。聖霊はみことばを悟らせ、キリストの品性を与えてくれます。また、聖霊は奉仕の賜物を与え神と人々に仕える力となってくださいます。そして、自分がだれかという身分が必要です。「私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みを抱く相続人となる」ことです。私たちは救われた罪人ではありません。それだったら、また罪を犯しても当たり前でしょう。そうではなく、義と認められているなら、罪を犯すのが普通でなくなります。むしろ、神の前に正しいことをして栄光を現したくなるでしょう。また相続人とは、永遠の御国の相続人です。神さまが私たちに用意しておられるすべてのものを相続できるということです。そのような希望を持っている人は、この地上の生活を無駄に過ごしません。なぜなら、今の地上の生活と向こうでの生活がつながっているからです。地上の生活は準備であり、むしろ向こうでの生活が本物だからです。そうすると、地上の生活がたとえ短くても問題ありません。

クレタの人たちはとてもひどい人たちだったようです。「クレタ人はいつも噓つき、悪い獣、怠け者の大食漢。」(テモテ1:12)なんてひどい人たちだと思ってしまいます。でも、キリストを信じていなかった時の私たちと比べて50歩100歩ではないでしょうか?彼らに正しい生活をしてから、クリスチャンになりなさいと言っても永遠に無理でしょう。でも、神さまの一方的なあわれみが与えられ、聖霊による再生と刷新の洗いによって、どんながんこな汚れも洗い流され、しかも再生してくださるならどうでしょう?神さまにとって救えない罪人は一人もいません。神さまができないこととは何でしょう?こちらが招きに応じて、願い出ることです。「私をお救いください。キリストにあって完成している贖いをいただきます」と言えば良いのです。そうすれば、神さまから聖霊が送られ、聖霊が再生と刷新の洗いをもって、救ってくださいます。