2023.9.10「パウロからテモテへ Ⅱテモテ2:1-7」

この手紙はパウロが殉教する前の手紙、つまり最後の手紙です。最愛の霊的な息子である、テモテに重要なことを申し伝えています。対象はテモテですが、テモテのように神に全面的に仕える者たちへのメッセージでもあります。すべてのクリスチャンは神さまに献身すべきであり、それが標準な姿です。しかし、エペソ4章に記されているように、使徒、預言者、伝道者、牧師また教師という、キリストが立てた奉仕者もいます。これは神を第一にし、キリストに献身するすべての人たちに向けられたメッセージだと思います。

1.神の兵士として

パウロは神に献身したクリスチャンに3つのたとえをもって伝えています。兵士、競技者、農夫です。まず、兵士ですが、兵士の特徴とは何でしょうか?Ⅱテモテ2:4「兵役についている人はだれも、日常生活のことに煩わされることはありません。ただ、兵を募った人を喜ばせようとします。」兵役についている人、つまりキリストの兵士は、日常生活のことは後回しであるということです。戦地にいる人は、着る物、食べ物は二の次になります。なぜなら、敵との戦いが最優先事項になり、ぼやっとしていると命を落とすことになるからです。日本は大戦中は、一般の市民の生活もままなりませんでした。贅沢は敵であり、「欲しがりません、勝つまでは」という標語があったくらいです。戦局の激化と物資の不足を補うために、あらゆる金属を拠出しなければなりませんでした。やがて、敗戦が色濃くなると、戦地の兵士たちに物資が届かなくなりました。彼らは生き延びるために、盗賊まがいのことまでやったようです。ですから、すべてのことを兵役にたとえるというのは、日本においては語弊があるかもしれません。しかし、ある面では当たっています。なぜなら、エペソ6章には、「悪しき霊との戦いである」と言われており、神の武具も記されているからです。パウロは宣教のことを「サタンの支配から神に立ち返らせる」(使徒26:18)ことだと言っています。つまり、未信者はサタンの虜であり、宣教とは彼らをサタンもとから奪回することだと考えられます。そういう意味では、信仰生活は悪魔との戦いであり、私たちは人々を救い出す、神の兵士であると言うことができます。

神の兵士にとっての最優先事項とは何でしょう?「ただ、兵を募った人を喜ばせようとする」ことです。口語訳聖書には「司令官を喜ばせようと努める」と書かれています。J.Bフィリップスもcommanding officer「司令官」となっています。日本は、戦争に反対する平和主義に立っているので、人に命令したり、強制したりるすことが極端に嫌われています。自衛隊にでも入らなければ「絶対服従」とか「任務遂行」という用語は使わないでしょう。でも、韓国には今も徴兵制度があります。2年間そういうところに入ると、「上からの命令に従う」とか「日常生活は後回し」みたいなことを体験的に学ぶのではないでしょうか?そのことが、教会生活に影響していると聞きます。もちろん、弊害もありますので、全部が良いわけではありません。でも、一度決まったことに対して、ぐだぐだ言わずに従うという潔さは学ぶべきだと思います。また、与えられた奉仕は最後までやり遂げるというのも、神の兵士にとっては当たり前のことだと思います。では、なぜ、「神の兵士」というたとえが良いのでしょう?「神の命令であったら、従う」という従順さがあると、どうでも良いことにエネルギーを浪費されることはありません。私が洗礼受けて間もない頃、新宿の教会の青年大会に誘われました。姉妹方から「文化祭のようなものだから」と言われて、軽い気持ちで行ったのですが、そうではありませんでした。なんと、聖書学院で学ぶような献身者を募るための集会だったのです。今は召されましたが、亀有福音キリスト教会の高木牧師がメッセンジャーでした。テキストはイエス様がロバに乗って、エルサレム入城する箇所からでした。先生は最後に「主がご入り用なのです」と甲高い声で人々を招きまさした。「私はロバじゃないぞ」と反感を覚えました。でも、すくっと立って、講壇の前まで進み出てしまいました。「だまされた」と思いましたが、あのことも直接献身の布石になったと思います。半年後、「献身したいです」と大川牧師に伝えたら、この箇所を開いて「志願兵として受け入れる」と言って下さいました。それ以来、神さまの命令は第一で、日常生活は二の次であるという優先順位ができたように思えます。すべてのクリスチャンがフルタイムの献身者ではなく、一人ひとり献身の度合いが違うと思います。でも、自分が神の兵士であり、キリスト様が司令官であるという信仰は、「芯の通ったクリスチャンである」ことは間違いありません。

その次は、競技をする人と農夫とにたとえられています。Ⅱテモテ2:5,6「また、競技をする人も、規定にしたがって競技をしなければ栄冠を得ることはできません。労苦している農夫こそ、最初に収穫の分け前にあずかるべきです。」アスリートがいかに大変か、みなさんもよくご存じだと思います。いくら勝ちたくてもドーピングは良くありません。また、農夫ですが天候に左右されるので、本当に大変だと思います。脱サラして、山梨県でトウモロコシを栽培している人がテレビで放映されていました。何度も失敗して、品種改良を重ねて、やっとおいしいトウモロコシが生産できたそうです。それを芸能人が「うまーい!」とかいただきます。なんで、あんたが食べるんだと文句を言いたくなりますが、宣伝なのでしょう。パウロは「労苦している農夫こそ、最初に収穫の分け前にあずかるべきだ」と言っています。日本では売り物にならないものを自分の家で食べると言います。しかし、イギリスでは、もっとも良い紅茶は自分の家で飲むそうです。台湾の高山茶をいただいたことがありますが、同じような考えがあるようです。そうでないと、地味な農業を続けることができないでしょう。神さまに仕える人にも、規定があります。律法学者やパリサイ人のように、人に教えてはいても、自分がちっとも守っていないというのは問題です。イエス様が嫌われる偽善者には絶対なりたくありません。でも、神さまに直接仕える人たちの、特権というか、良いところもあります。イエス様の弟子たちは、間近で奇跡を見ることができました。また、たとえが分からないときは、イエス様が直接「こういう意味です」と教えてくださいました。そういう意味でも、イエス様に献身している人は、真っ先に分け前に預かることができます。人からの報いを期待してはいけませんが、神からの報いは幾倍もあると信じます。

2.聖なる者とされよ

 Ⅱテモテ2:19-21「しかし、神の堅固な土台は据えられていて、そこに次のような銘が刻まれています。『主はご自分に属する者を知っておられる。』また、『主の御名を呼ぶ者はみな、不義を離れよ。』大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。ある物は尊いことに、ある物は卑しいことに用いられます。ですから、だれでもこれらのことから離れて自分自身をきよめるなら、その人は尊いことに用いられる器となります。すなわち、聖なるものとされ、主人にとって役に立つもの、あらゆる良い働きに備えられたものとなるのです。」東京聖書学院に入ったときは、さかんに「きよめ」を強調されたので、少々傷がありました。「きよさだけじゃだめだ。賜物も必要だ」と反発したときもあります。たしかに、きよさと賜物は違います。また、きよさだけではなく、力も必要です。聖書には両方書かれているからです。賜物とか力はとても魅力的であり、だれしもが持ちたいと望みます。その点、「きよさ」は地味であり、弱々しいイメージがあります。30から40年位前に、アメリカで癒しのリバイバルが起きました。また、テレビ放送でも、伝道者が豊かに用いられた時があります。でも、多くの伝道者たちが、不品行や金銭の誘惑に負けて、キリストの御名を辱めました。そのとき、それだけ大きな賜物と力が与えられたら、品性が伴う必要があるということを痛いほど知らされました。最初はきよい心で仕えていると思いますが、周りの人たちがほめそやして、天狗になるのかもしれません。バビロンのネブカデネザルが「俺はたいしたものだ」と思ったとたん堕落してしまいました。つまり、神さまから預かっていたものを、自分が勝ち得たものだと勘違いしたのです。この世では、自分の才能や業績を誇ることは一般的でしょう。しかし、キリスト教会においては、それは最も大きな誘惑になるということです。なぜなら、「誇るなら主を誇れ」といたるところに書いてあるからです。神さまはすべてのものを私たちと分かち合いたいと願っておられますが、栄光だけは別です。栄光だけは主のものです。神の奉仕者が、このことを忘れなければ、末永く用いられるでしょう。

 パウロは聖なる者となるべきことを、器にたとえています。もちろん、金や銀の器が良いにきまっています。それはたとえて言うと、生まれや育ちも良くて、賜物や力がある人でしょう。東大卒の人が牧師になっても何の問題もありません。神さまが一般恩寵として、知性を与えているからです。確かに世の中をみたら不公平に見えます。生まれながらにして、貧しくて学校も入れない人たちもいます。でも、神さまの前では、劣等感をバネにして生きなくても良いのです。なぜなら、神さまは金や銀の器でもなくても、木や土の器も用いてくださいます。でも、1つだけ条件があります。それは、罪から離れ、きよい生活をしているということです。確かに器としては、粗末かもしれません。でも、汚れた金や銀の器よりはましなのです。昔、『最後の聖戦』という映画がありました。あるところにいくと、たくさん器が並べられていました。最初に到達した人が、宝石がちりばめてある金の杯を選びました。それに聖水を入れたら、毒になり死にました。主人公は、地味な陶器の器を選びました。それが正解だったのです。私たちは神さまの器です。器の場合は容器よりも、中味が重要です。いくら器が金や銀でできていたとしても、汚れていたのでは誰も使いません。ですから、たとえ粗末なものであっても、きよい器を神さまは用いようとされるのではないでしょうか?キリスト教会の中でも、「器が違う」とか「器が大きい」とか使ったりします。それは、この世の価値基準であって、神さまの見方とは違います。サムエルが次の王様を見つけるために、エッサイのところを訪れました。ナタンは長男のエリアブをみて、「この者が、主に油を注がれる者だ」思いました。主はサムエルに「彼の容貌や背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」と言われた(Ⅰサムエル16:7)。エッサイは結局、七人の息子たちをサムエルの前に進ませました。でも、サムエルは「主はこの者たちを選んでおられない」と言いました。サムエルが「他にはいないのか?」と言ったら、エッサイは「末の息子が、羊の番をしています」と言いました。その人がダビデでしたが、呼ばれていなかったのです。主は「さあ、彼に油を注げ、この者がその人だ」と言われました。

 テモテはどのような人物だったのでしょうか?Ⅱテモテ1:5「私はあなたのうちにある、偽りのない信仰を思い起こしています。その信仰は、最初あなたの祖母ロイスと母ユニケのうちに宿ったもので、それがあなたのうちにも宿っていると私は確信しています。」パウロはテモテに対して「偽りのない信仰を思い起こしている」と言いました。それは、祖母ロイスと母ユニケから受け継がれたものでした。私たちは先祖たちの咎が三代、四代続くことを知っています。しかし、祝福も伝わるということを忘れてはいけません。いろんな遺産がありますが、信仰の遺産ほど、神の御前で価値のあるものはありません。また、テモテはパウロから最も信頼されている人物です。そのことが、ここに記されています。Ⅱテモテ4:9-13「あなたは、何とかして早く私のところに来てください。デマスは今の世を愛し、私を見捨ててテサロニケに行ってしまいました。また、クレスケンスはガラテヤに、テトスはダルマティアに行きました。ルカだけが私とともにいます。マルコを伴って、一緒に来てください。彼は私の務めのために役に立つからです。私はティキコをエペソに遣わしました。あなたが来るとき、トロアスでカルポのところに置いてきた外套を持って来てください。また書物、特に羊皮紙の物を持って来てください。」多くの人たちが、いろんな理由でパウロのもとを離れました。パウロはとても孤独なようです。そして、「早く私のところに来てください」と願っています。しかも、「外套と、羊皮紙の書物を持って来てください」とてもプライベートなお願いをしています。テモテにとってパウロは霊的な父であります。その父が、わが子であるテモテに「早く来てください」とお願いしているのです。もちろん、パウロはイエス様のところに行くことを楽しみにしてます。でも、獄中で寂しく暮らしているのは事実です。それに、いつ殉教するか分かりません。その時、ルカやテモテが一緒にいてくれるのが慰めであり、支えになったのではないでしょうか。このようにテモテは霊的な父であるパウロに従っていた忠実な主の器であったことが分かります。

3.みことばを宣べ伝えよ

最後の最後にテモテに与えた命令を調べ上げたいと思います。この命令は、すべてのクリスチャンに有効ですが、教役者と呼ばれる人たちには特に必要であろうと思います。

第一は霊の賜物を燃やし続けているということです。Ⅱテモテ1:6「そういうわけで、私はあなたに思い起こしてほしいのです。私の按手によってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えてくださいました。」おなじようなことばが、Ⅰテモテにもありました。Ⅰテモテ4:14「長老たちによる按手を受けたとき、預言によって与えられた、あなたのうちにある賜物を軽んじてはいけません。」つまり、これは聖霊の賜物なのか、それとも聖霊の油注ぎなのか、それとも両方なのか分かりません。とにかく、一度受けても、弱くなるので、再び燃え立たせる必要があるということでしょう。英語でimpartationという言葉があります。これは「分与」という意味です。これまで、世界的な伝道者が来日して、按手をして下さったことがたくさんあります。その時に、上から聖霊の満たし、聖霊のバプテスマをいただくということです。ある人たちは「気持ち悪い」とかいって、敬遠します。でも、聖書ではパウロがエペソの人たちに手を置いたら、聖霊に満たされたと書かれています。おそらく、テモテもパウロや長老たちから按手され、そのとき聖霊に満たされたのだと思います。でも、奉仕をしているうちに油注ぎが減って行くということです。だから、車のガソリンを補充するように、さらなる満たし、impartationが必要だということです。

第二は後継者を育てるということです。Ⅱテモテ2:2「多くの証人たちの前で私から聞いたことを、ほかの人にも教える力のある信頼できる人たちに委ねなさい。」このことは、セルチャーチで、empoweringと言われました。Empowerとは「権能を付与する、権力を委ねる、…に能力を与える」という意味です。簡単に言うと後継者を育てて、自分がやっていることをその人に委譲していくということです。だれでも良いと言う訳ではなく「教える力のある信頼できる人たち」にです。イエス様が12弟子を選ばれたように、次のリーダーを発掘して、育てるということが必要です。パウロは「私から聞いたことを、その人たちに委ねなさい」と言っています。つまり、パウロ、テモテ、そして次の人です。パウロが霊的な父なら、テモテは子ども、次の人はパウロの孫にあたります。そのように、後継者を育てて行くなら、それが後代までも続いて行くということです。これがなかなか難しい。私も人を育てるのが不得意だなと思います。かなりの人たちを躓かせてきたことを悔い改めます。私のことだけではなく、みなさんがなさっていることを、次野人にバトンタッチしていくということを考えて下さい。「後継者を育てる」とても重要なことです。

第三は真理のみことばに仕えるということです。Ⅱテモテ2:15「あなたは務めにふさわしいと認められる人として、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神に献げるように最善を尽くしなさい。」この後に、「聖書はすべて神の霊感によるもので」(Ⅱテモテ3:16)と書かれています。クリスチャンでもそうですが、特に教役者たちにとっては、聖書のみことばが何よりも権威の拠り所です。真理のみことばをまっすぐに解き明かすということが生命線です。だれかの神学者の説を借りるよりも、聖霊によって聖書自体から解き明かすのです。学問を積むことはとても良いことです。しかし、聖書の霊感から離れてしまうなら、その学問はかえって災いとなります。不思議なことによく学んだ人こそ、単純に聖書の真理を語ることができます。中途半端に学んだ人は、神学的な用語をちらつかせて、その結果、聞く人を煙にまいてしまいます。「真理のみことばをまっすぐ解き明かすこと」これに勝るものはありません。そうすれば、聖霊が一人一人を照らして、その意味を理解させてくださいます。

第四はみことばを宣べ伝えることです。Ⅱテモテ4:2「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」「みことばを宣べ伝える」とはどんなことでしょう?ギリシャ語は「ケーリュソー」であり、「布告する、告げ知らせる、宣教する」です。英語の聖書には、preach「説教する」となっています。つまり、みことばを告げ知らせる、あるいは宣教するということです。テモテのたまものは教師でした。他に奉仕や補助もあったかもしれません。伝道者でなくても、みことばを宣べ伝える必要があるということです。聖書のことばを告げ知らせるというのは、いわば宣言であります。ですから、聖書のことばを語るとき「〇〇だと思います」とか「〇〇かもしれません」と言ってはいけないということです。たとえば、ヨハネ3章16節から語るとき「御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つのです」と言うべきなのです。ローマ3章から語るときも「イエス・キリストを信じる者は義と認められるのです」と言うべきなのです。「かもしれない」とか「そう思います」では、ダメです。説教者が断言できるのは、聖書にそう書いてあるからです。つまり、説教者の権威は聖書自体にかかっているのです。ですから、伝道においても、人々を教えるにしても、聖書から語るなら神の権威がそこに現れるのです。

みなさんは自分が天に召されるとき、どのような遺言を残すでしょうか?パン屋さんのお父さんは息子にこう言い残して亡くなったそうです。「サンドイッチのパンは薄く切ろよ!」え?ちょっと悲しい感じがしますが、お父さんにとっては大事なことだったのでしょう?もし、最愛の人がイエス様を信じていない場合は「イエス様を信じてね。天国でまた会いましょう!」でしょうか?信仰のある息子や娘にはどうでしょう?「神の国と神の義を第一に求めるんだよ。そうすれば、すべてのものが与えられるから」でしょうか。また、自分の後継者や弟子に対してはどうでしょう?私だったら「油注ぎだよ!油注ぎ!」と言い残して召されると思います。とにかく、自分が一番大事なことだと信じていることを、最後に言い残すのではないでしょうか?これは、普段自分がどのように生きているか、日々の生活ととても深い関係があります。普段、思っていることが死ぬときにも、出てくるのだと思います。私がイエス様を信じていなかったら、「ちくしょう!ちくしょう!なんでだよ」と死んだでしょう。しかし、イエス様を信じたので、召されるときは「いや!本当に感謝だったな。ありがとう、ありがとう。イエス様感謝します!」でしょう。