2023.9.3「テモテへの勧告 Ⅰテモテ

 パウロがテモテに出した手紙が、どうして聖書の一部になるのだろうと思うのではないでしょうか?確かにそうですが、この中には個人的なものだけではなく、「教会を牧会するためにこうすべきである」という普遍的な教えが含まれています。また、パウロ自身の証や希望も含まれているので、歴史的にも価値があります。また、この手紙は第二テモテと共に、神さまに直接、仕えたいという牧師や伝道者の指南書と言えるでしょう。

1.テモテの賜物と召命

パウロは霊の子どもであるテモテ自身が、神からの使命を全うすることを願っています。最初に気になるのが、「テモテがどのような預言を受けて、神さまの働き人になったか?」ということです。そのことを考える材料がこの手紙に少なくとも3度記されています。Ⅰテモテ1:18「私の子テモテよ。以前あなたについてなされた預言にしたがって、私はあなたにこの命令を委ねます。それは、あなたがあの預言によって、信仰と健全な良心を保ち、立派に戦い抜くためです。」2つ目は、Ⅰテモテ4:13,14「私が行くまで、聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい。長老たちによる按手を受けたとき、預言によって与えられた、あなたのうちにある賜物を軽んじてはいけません。」3つ目は、Ⅰテモテ6:20「テモテよ、委ねられたものを守りなさい。そして、俗悪な無駄話や、間違って「知識」と呼ばれている反対論を避けなさい。」これは補足です。Ⅱテモテ1:6「そういうわけで、私はあなたに思い起こしてほしいのです。私の按手によってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。」さらに、Ⅱテモテ1:14「自分に委ねられた良いものを、私たちのうちに宿る聖霊によって守りなさい。」これらすべてが、同じことを語っているのか分かりません。また、パウロだけではなく、長老たちも按手をしているようです。テモテを任命したときに、按手をしたのか、あるいは聖霊のバプテスマのためなのか分かりません。いきなり、分かりませんで、はじまってメッセージになるのでしょうか?一番、正確なのは、テモテに聞けば良いのですが、そういう訳にもいきません。以上の箇所から、テモテが持っていた聖霊の賜物と使命というものを考えたいと思います。

テモテはパウロの代わりにエペソ教会を牧会するように依頼されています。この手紙は、牧会する上での注意事項や果たすべき使命が記されています。ということは、テモテは牧師の賜物と召命があります。その次は、「聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい」と命じられていますので、教え、教師の賜物があったと考えられます。テモテは間違った教えや異端的な教えと戦う必要がありました。この手紙からだけでは分かりませんが、補助や奉仕の賜物があったと思われます。なぜなら、テモテは第二次伝道旅行からローマの獄中までずっとパウロに仕えていたからです。ルカを除き、最後までパウロを離れなかったのはテモテです。パウロは獄中から「あなたが来るとき、トロアスでカルポのところに置いてきた外套を持って来てください。また書物、特に羊皮紙の物を持って来てください」(Ⅱテモテ4:13)と、個人的なお願いをしています。また、テモテは旧約聖書のヨシュアを連想させます。ヨシュアは若い頃からモーセに仕え、荒野の40年を通過した後、モーセの後継者として活躍しました。パウロとテモテの関係は子弟関係であり、霊的な親子関係であり、最も信頼のおける同労者でありました。

私は、テモテが与えられたものは聖霊が与える役職や能力の賜物だけではないと思います。聖霊の油注ぎとこれからの奉仕に関する預言も含まれていたのではないかと思います。旧約聖書をみますと、祝福するための按手の際、預言をも一緒にしたのが一般的だったようです。イサクはヤコブに「諸国の民がおまえに仕え、もろもろの国民がおまえを伏し拝むように」と預言しています。ヤコブは12人の子どもとヨセフの息子のために、預言のともなった祝福の祈りをしています。たとえば、ユダに対しては「王権はユダを離れず、王笏はその足の間を離れない。ついには彼がシロに来て、諸国の民は彼に従う」(創世記49:10)と預言しています。預言はそのとおりになり、やがてユダの子孫からダビデが生まれ、そしてメシヤが誕生しました。日本の教会では、聖書から「神の計画」とか「神の摂理」ということばで説明されますが、英語圏ではdivine destinyという用語があります。直訳すると「神の運命」ですが、こちらの方が「神の計画」よりもダイナミックな響きがあります。テモテにはテモテの「神の運命」がありました。もちろん、パウロにもありました。パウロは宣教者、使徒、また教師として神さまから任命されました(Ⅱテモテ1:11)。そしてパウロはⅡテモテ4章でこう述べています。「私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。」(Ⅱテモテ4:7,8)。ピリピ3章では、「目標を目指して走っている」と言っていますが、Ⅱテモテ4章では、ゴール地点を述べています。

 これらのことから考えますと、パウロやテモテのような使徒や牧師や教師でなくても、神から召された人たちには、走るべき行程があり、ゴールがあると思います。言い換えると、果たすべき召命があり、神の運命があるということです。この世では「人生は偶然の連続だ。運命は自分の力で切り開くものだ」と言う人がいますが、それは間違っています。詩篇139篇をみますと、神さまが母の胎で私たちと組み立てられたと書かれています。そこには成長過程を記す「母子手帳」のような書物があります。しかし、私はその子がどのような性格と能力を持っているか、また将来どのような人になり、どのようなことを成し遂げるのか計画書もあると思います。車でたとえると、この人は乗用車か、ミニバンか、トラックか、軽か、スポーツタイプか、四輪駆動か決まっているということです。車のパンフレットには形状、性能、燃費、付属品・・・すべて克明にしるされています。驚くべきことは、カスタマイズされており、どれ1つ同じものがないということです。あなたもテモテのように、生まれつきの才能、聖霊の賜物、性格、そして、神からの使命とビジョンがあるということです。どうぞ、この世の鋳型にはめられないで、自分を固有の価値を見いだしてください。あなたにはあたなのなすべき生き方があるのです。そして、神さまはそのために、必要なものを備えておられます。divine destiny「神の運命」を信じてください。

2.テモテへの勧告

 パウロはエペソで牧会しているテモテに正しいことを教えるように勧めています。教会を惑わしているのは、ユダヤ教から救われた人たちかもしれませんし、あるいは反キリスト的な異端的な教えかもしれません。1章の3節~10節をみますと様々なことが記されています。教会内に、間違った教え、果てしない作り話と系図、律法主義的な教えを持ち込む人がいました。パウロはさらにこう述べています。Ⅰテモテ4:1-2「しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。それは、良心が麻痺した、偽りを語る者たちの偽善によるものです。」カルヴァンは「聖徒の永遠堅持」を唱え、神に選ばれ救われた者は滅びないと主張しました。しかし、この聖句を見ると、「信仰から離れる人がいる」と言うことが分かります。クリスチャンが信仰から離れると、塩気のなくした塩のようになり、道端に捨てられ、人々が彼らを踏みつけるでしょう。サタンは人々の目に覆いをかけて福音を信じられないように邪魔をします。一旦その人が救われると、様々な誘惑を与え、力のない信仰者にしようとします。ところで、マインドは神さまが下さった最高の賜物であり、御霊に従えば最強です。でも、サタンは私たちのマインドを攻撃して、間違った教えを吹き込み、信仰から離そうとします。そういう人が、異端的な教会にいくと、ものすごく力を発揮して、そのところで用いられます。聖書の伝道師ではなく、カルト的な教えの伝道師になります。私たちはその人が熱心だからと思っても、同調してはいけません。何故なら、異端ほど熱心だからです。彼らは教会に入り込み、なんとかして、自分たちのところに引っ張り込もうとしています。昔は「統一教会」でしたが、現代は「新天地イエス教会」という異端が、キリスト教会を荒らしまくっているそうです。あるブログにこのように書かれていました。「こうした団体がまずターゲットにするのは、未信者よりもクリスチャンです。無作為に既成のキリスト教会に連絡を取り、牧師や信徒をセミナーなどに誘うという手法。彼らの最大の特徴は、クリスチャンは救われていない、普通の教会では救いを悟れない、救いを悟るためにはこの団体の教えを聞かなくてはならないというものです。新しい気づきを与えるような感覚を与えますが、異端にありがちの勧誘法です。日頃、自分の通う教会や牧師に何らかの不満や不信感を覚える信徒の方は、この手の誘いに便乗し易く、興味半分に近づいた結果、入信してしまったというケースもよく耳にします。総人口の30%をキリスト教徒が占める韓国には『再臨主』を名乗る人が少なくとも40数名いるとのことです。」パウロは「これらのことを兄弟たちに教えるなら、あなたは、信仰のことばと、自分が従ってきた良い教えのことばで養われて、キリスト・イエスの立派な奉仕者になります。」(Ⅰテモテ46と言っています。

 また、パウロがテモテに勧めているのは祈ることです。Ⅱテモテ2:1-2「そこで、私は何よりもまず勧めます。すべての人のために、王たちと高い地位にあるすべての人のために願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい。それは、私たちがいつも敬虔で品位を保ち、平安で落ち着いた生活を送るためです。そのような祈りは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることです。」この祈りは、どちらかというととりなしの祈りです。ある教団では政治運動をして、「〇〇反対」と署名活動やデモをしている教会もあります。教会は政治結社ではありません。パウロは「王たちと高い地位にあるすべての人のために願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい」と言っています。現代で言うなら、大統領や首相など為政者のためにとりなすとうことです。彼らが神を恐れ、正しい政治を行うようにと祈るのです。もちろん、罪を犯さない、完璧な人はいません。特に政治の世界は誘惑が多く、最初は純粋であってもだんだん、悪に染まって行く可能性があります。批判することは簡単ですが、もっと大切なのは彼らのためにとりなすことです。「すべての人のために」とありますが、大和カルバリーの大川牧師は、教会員だけではなく、政治家やすべての教団のために祈っています。礼拝のCDを聴くときがありますが、本当に敬服したします。パウロはそういう人たちのために、感謝をもって祈ると、「敬虔で品位を保ち、平安で落ち着いた生活を送ることができ、神さまからも喜ばれる」と言っています。

 また、パウロはさらに勧めています。Ⅰテモテ2:8「そういうわけで、私はこう願っています。男たちは怒ったり言い争ったりせずに、どこででも、きよい手を上げて祈りなさい。」これはテモテをはじめ男性たちに対する勧めです。ひところ、男たちは怒ったり言い争ったりせずに、どこででもきよい手を上げて祈れ」ということです。男性の性分は怒ったり、言い争ったりしてしまいやすいということでしょう。何はともあれ、祈れということです。実はこのあと9節から14節までは、女性たちに対する勧めがしるされています。男性たちに対する勧めは、たった1節しか費やされていません。しかし、女性たちに対する勧めは6節も長々と費やされています。なぜでしょう?それは女性は男性よりも複雑に造られているからです。男性はとても単純ですから、「祈れ」と1つの命令で充分です。しかし、女性は複雑なので、6つの命令が必要なのです。となりの姉妹に「あなたは複雑ですよ」と言ってください。度々物議をかもすのは次の聖句でしょう。Ⅰテモテ2:12「私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。むしろ、静かにしていなさい。」これが普遍的な真理でないことをクリス・ヴァロトン師がご自身の本で擁護しています。テモテはエペソに遣わされていました。エペソは女神アルテミスを信奉するカルト的な宗教がありました。その影響でエペソのあるところでは、男性よりも女性が高められていました。そのため、女性が男性を支配しているケースも見られました。パウロはその神話を正すために、単純にアダムとエバの真理を引き合いに出したのです。ヴァロトン師は「エペソ人への手紙は特殊な文化と環境に対して、書かれたものである。私たちは関連する他の聖書箇所も見ながら、神の知恵をいだだき、筆者の意図と文化的な文脈から解釈して、適用していくことが大事である」と述べています。コリント教会の女性のかぶりものもそうですが、コリントという町の特殊性からでした。みことばを適用するときは、当時の文化的な背景を知ることが重要だということです。ですから、男性と女性は機能的には異なりますが、神さまの前では平等なのです。アーメン。

3.テモテへの指示

 パウロはテモテにエペソ教会の信徒リーダーにどのような人を選ぶべきかを指示しています。聖書に書かれているのが、Ⅰテモテとテトスなので、どのくらい普遍性があるかは分かりません。「使徒の働き」を見ますと、執事は使徒6章に、長老は使徒20章に出てきます。おそらく、教会の歴史が進むにつれて、このような組織が出来て行ったのだと思います。テモテ3章には、監督、執事、婦人執事と出てきます。

最初に「長老」とはどのような存在なのでしょうか?旧約聖書にも長老が出てきますが、年長者で権力のあった人です。新約聖書で長老は、群れを指導するために、使徒によって按手を受けて立てられた人です。「監督」は、長老とあまり区別がつけられません。監督は英語でbishopであり、ローマ・カトリックでは司教であり、司祭の上に立つ人です。執事はギリシャ語でディアコノス、「仕える」から来ています。使徒の働き6章から、実務的な管理、福祉、慈善の役割を持ったと思われます。でも、ステパノやピリポは、説教したり、伝道や癒しもしています。婦人執事はローマ人への手紙16章の筆頭に「フィベ」という名が出てきます。初代教会においては、牧師の存在は薄く、長老や監督が教会を治めていたようです。ペテロは自分を「長老のひとり」(Ⅰペテロ5:1)と言っています。使徒の働き20章にローマに向かうパウロのことが書かれています。使徒20:17「パウロはミレトスからエペソに使いを送って、教会の長老たちを呼び寄せた。」と書かれています。おそらく、牧師の役職が定着したのは、宗教改革以降と思われます。長い間、教会はローマ・カトリックにおいては、教皇を頂点とするピラミッド型の階級制度(ヒエラルキー)でした。マルチン・ルターの宗教改革によって「万人祭司制」が主張されました。ジョン・カルバンがジュネーブにおいて長老制を採用しました。カルヴァンは聖書の権威にしたがって、教会を治める「監督、長老、牧師」を区別しなかったようです。プロテスタントの歴史では、伝道者が最も一般的で、その後、牧師が教会に立てられたのではないかと思います。でも、すべての教会が長老制を取っているわけではありません。バプテスト教会は会衆制で最も民主的です。でも、聖書は民主制ではなく、神のご支配ですから、本来は選挙ではなく、神からの召命によるものです。といいながらも、法律のもとにある教会は、宗教法人法によって「責任役員を立てる」ことが命じられています。長老とか執事とは呼ばないで「役員」と呼ぶので、偉い人のように聞こえます。でも、本来はキリストの教会に仕える人たちであることを忘れてはいけません。

Ⅰテモテ3章には、監督、長老、執事、婦人執事は、「こういう人でなければならない」と書かれています。人格面が強調されており、能力や賜物のことは言われていません。共通していえることは、家庭をよく治めている人、大酒飲みでないこと、自制心があり、謹厳な人です。でも、これだけたくさんの条件を突き付けられたらどうでしょう?現代の教会の「責任役員」はボランティアなので「そんなんじゃやらないよ」と言いたくなるでしょう。韓国の教会では「長老」は名誉職であり、教会内外からも尊敬されます。しかし、日本ではクリスチャン人口が少ないので、そうでもありません。しかし、このところにすばらしい約束が記されています。Ⅰテモテ3:13「執事として立派に仕えた人は、良い地歩を占め、また、キリスト・イエスを信じる信仰について、強い確信を持つことができるのです。」「地歩」というのは、ギリシャ語で「獲得、所有物、得られる物」という意味です。さらに、信仰においても強い確信を持つことができます。つまり、物質的にも霊的にも恵まれるということです。Ⅰテモテ5:17「よく指導している長老は、二倍の尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのために労苦している長老は特にそうです。」とあります。これを見返りと言ってはいけませんが、人からの報いではなく、神からの報いはとても聖書的です。学校などでは、PTA役員に選ばれると大変だということで、敬遠されがちです。そのため、持ち回り制のようにやっているようです。もし、教会の役員をそのように考えるなら、それは大きな間違いです。教会はクラブ活動でも、同好会でもありません。御国の大使館であり、福音を伝えて、御国に入る人を一人でも多く勝ち取る必要があります。ある教会では「役員は、信徒たちの意見をくみ上げて、牧師と戦わせる」みたいに考えられています。それですと、労使の組合運動と変わりありません。パウロの手紙には「同労者」という人たちがよく出てきます。牧師とともに働く、神の同労者と言えます。私は教会のかしらはイエス・キリストであり、このお方が、からだを構成している一人一人に、賜物と召命を与えておられると信じます。会社のように組織化するなら、有機体であるからだはいのちをなくしていまうでしょう。そうではなく、かしらであるキリストに聞いて、それぞれが動くのです。そのとき、チームを組んで連携して行うということが重要です。なぜなら、私たち一人一人は、キリストのかなだなる教会の大事な器官だからです。

 パウロは長老や執事にいろんな条件をあげています。でも、重要なのは忠実さと誠実であることだと思います。もちろん、賜物や能力もあった方が良いかもしれません。でも、より勝るのは、忠実さと誠実ではないかと思います。この世の会社は生産し利潤をあげることは第一の目的です。人格よりも、能力やリーダーシップが問われるでしょう。しかし、教会は企業ではありません。もちろん、教会は宣教活をして人々を救いに導くという使命もあります。でも、「たくさん伝道して人数を増やして、大きな教会を作る」ということを目的にすると、野心的になり、賜物や能力がある人が尊ばれてしまいます。お金があって、地位があって、有名な人が役員になれば良いのでしょうか?そんなことはありません。信仰がなければ、神さまに喜ばれることはないからです。肉ではなく、御霊です。私たちはこの世の価値観や方式を教会にも取り入れるという誘惑に、どうしてもかられてしまいます。教会は神の家族ですから、身分や性別関係なく、互いに愛し合うところです。教会は神の神殿ですから、一人一人が生ける石として組み合わされ、神さまを礼拝するのです。また、教会はキリストのからだですから、互いに仕えるために存在しています。教会イコール神さまではありません。しかし、キリストはご自身の血をもって買い取られたのですから、教会は神さまのものです。その神さまがあなたを用いたいと願っておられるのです。