2023.8.27「キリストの再臨 Ⅱテサロニケ1:7-10」

聖書には「世の終わり、キリストが再び来られる」と預言されています。特に、旧約聖書では「主の日」と呼ばれ、恐ろしいさばきとして語られています。マタイによる福音書24章にはかなり細かく記されています。最も詳しく書かれているのはヨハネ黙示録ですが、象徴的に書かれているので、難解です。きょうは、キリストの再臨に関して、Ⅱテサロニケ全体から、3つのポイントでメッセージさせていただきます。

1.キリストの再臨

Ⅱテサロニケ1章7節に、キリストの再臨について記されています。これは、悪が滅ぼされ、キリストが来られて勝利するという結末の部分です。7節の「報いとしての安息」というのは、キリストが勝利したのちに来る、御国と考えることができます。ある時、ペテロが「私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。それで、私たちは何をいただけるでしょうか」とイエス様に問いました。するとイエス様は「まことに、あなたがたに言います。人の子がその栄光の座に着くとき、その新しい世界で、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族を治めます」(マタイ19:28)と言われました。イエス様の弟子たちは、イエスさまが王座につくこと、そして自分たちが一緒にさばきの座につくことを願っていました。使徒たちは、よみがえられたイエス様にこう尋ねています。「主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか」(使徒1:6)。これは、御国の到来のことであり、千年王国のことです。弟子たちはそれが直ちにやってくると信じていましたが、2000年以上先になるなんてだれも想像していませんでした。なぜ、そんなに長引いたのでしょう?それは異邦人が救われるためです。教会の時代というのは、言い換えると異邦人の時です。パウロは「イスラエル人の一部が頑なになったのは異邦人の満ちる時が来るまでです」(ローマ11:25)と言っています。教会の時代はペンテコステからはじまり、1990年間も続いています。やがて、異邦人の時が満ちると、世の終わりである7年間の患難時代がやってきます。その時はスラエルが救われる時でもあるのです。そして、患難時代の終わりにキリストが再臨されます。

Ⅰテサロニケ1:7-10に、キリストの再臨の伴ういくつかの出来事が記されています。7節「主イエスが、燃える炎の中に、力ある御使いたちとともに天から現れるときに起こります」とあります。キリストの再臨は、ある人たちにとってはさばきであり、ある人たちにとっては報われる時です。8節、9節「主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に罰を与えられます。そのような者たちは、永遠の滅びという刑罰を受け、主の御前から、そして、その御力の栄光から退けられることになります。」どのような人がさばかれるのでしょう?第一は神を知らない人々です。「え?」知らない人がさばかれるのでしょうか?世の中には、キリストの福音に関して無知な人がたくさんいます。日本では、聖書も読んだことがない、教会も行ったことのない人がほとんどでしょう。「そういう人たちがさばかれるのですか?」と驚かれるかもしれません、しかし、法的にはそうなのです。法律が制定され、発布されると、たとえその法律を知らなくても、法を犯した人はさばかれます。私が近道のつもりで水元公園の細い道を車で通ったことがあります。向こう側にお巡りさんがいて、「この時間は進入禁止ですよ」と止められました。「え?知らなかったですよ」と言いました。確かに朝8時以降は、侵入禁止になっていました。これは道路交通法ですが、商法や刑法にも同じことが言えると思います。つまり、2000年前、キリストの福音が宣教されてから、恵みの時代がやってきました。その福音を聞いて、主イエス・キリストを信じるなら、罪赦され、救われ、さばきにあうことがありません。でも、それを知らない人たちがたくさんいます。だから、宣教師だけではなく、私たちも福音を知らせなければならないのです。

第二のグループは、主イエスの福音に従わない人たちです。これは、知っているのに信じなかった人たちです。その中には反キリストや偽預言者たちも含まれています。「そのような者たちは、永遠の滅びという刑罰を受け、主の御前から、そして、その御力の栄光から退けられることになる」と書かれています。黙示録19章にもそのことが記されています。これは、再臨のキリストが勝利した直後のことです。黙示録19:20-21「しかし、獣は捕らえられた。また、獣の前でしるしを行い、それによって獣の刻印を受けた者たちと、獣の像を拝む者たちを惑わした偽預言者も、獣とともに捕らえられた。この両者は生きたまま、硫黄の燃える火の池に投げ込まれた。残りの者たちは、馬に乗っている方の口から出る剣によって殺され、すべての鳥が彼らの肉を飽きるほど食べた。」獣というのは、「不法の者」です。獣の刻印を受けた者たちと、その像を拝んだ人たちも、人々を惑わした偽預言者たちも、燃える火の池に投げ込まれました。現在70億人の人たちが地上にいますが、果たしてどうなるのでしょうか?この世にはたくさんの宗教があります。「神なんかいない」と言う学者もたくさんいるでしょう。でも、終わりの日に、白黒がつけられるのです。キリスト教会では、日曜日にこんな話を滅多にしません。福音の良いとこ取りです。「キリストを信じるものは救われます」と言い、信じない人たちのことを滅多に話しません。しかし、聖書には「主イエスの福音に従わない人々に罰を与えられ、永遠の滅びという刑罰を受ける」と書いてあります。

それでは、キリストを信じた人々はどうなるのでしょうか?Ⅰテサロニケ1:10「その日に主イエスは来て、ご自分の聖徒たちの間であがめられ、信じたすべての者たちの間で感嘆の的となられます。そうです、あなたがたに対する私たちの証しを、あなたがたは信じたのです。」2:1「私たちの主イエス・キリストの来臨と、私たちが主のみもとに集められること」と書かれています。つまり、キリストにあって死んだ人の復活と生きている人たちが栄光に変えられて、天に引き上げられるということです。マルコ13:24-27「しかしその日、これらの苦難に続いて、太陽は暗くなり、月は光を放たなくなり、星は天から落ち、天にあるもろもろの力は揺り動かされます。そのとき人々は、人の子が雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見ます。そのとき、人の子は御使いたちを遣わし、地の果てから天の果てまで、選ばれた者たちを四方から集めます。」福音派の教会は、「患難が起る直前にクリスチャンは天に引き上げられる」と主張します。第二のポイントでもお話ししますが、反キリストによる苦難と天変地異の後、キリストが現れた後、選ばれば者たちを四方から集めると書かれています。「選ばれた者」というのはイスラエルでしょうか、あるいはその時、生きているクリスチャンでしょうか?ちなみに、テサロニケの手紙もマルコ福音書も、異邦人向けに書かれたものです。でも、はっきりと言えることは、キリストが再び来られるとき、私たちがみもとに集められるということです。そして、キリスト様をあがめ、感謝をささげるということです。キリストの来臨は、信じない者にとっては最悪の日であり、信じる者にとっては最良の日になることでしょう。

パウロはテサロニケの教会の人たちのために、このように祈っています。Ⅱテサロニケ1:11「こうしたことのため、私たちはいつも、あなたがたのために祈っています。どうか私たちの神が、あなたがたを召しにふさわしい者にし、また御力によって、善を求めるあらゆる願いと、信仰から出た働きを実現してくださいますように。」第一は「召しにふさわしい者になる」ということです。エペソ5章にはキリストの花嫁として、「しみや、しわや、そのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです」と書かれています。第二は「御力によって、信仰から出た働きが実現するように」ということです。それは自分が召された働きに忠実であるということです。「御力によって」とありますので、聖霊がそのことが全うできるように助けて下さるということです。主の来臨を待ち望むということは、主に会う備えをするということです。恵みによって、いつ主が来られても良いように、召しにふさわしい者になりましょう。聖霊の力によって、信仰から出た働きを全うしていきましょう。

 

2.不法の人の出現

 さらに、パウロはイエス・キリストが再び来られるとき、どういうことが起るか教えています。Ⅱテサロニケ2:3,4「どんな手段によっても、だれにもだまされてはいけません。まず背教が起こり、不法の者、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないのです。不法の者は、すべて神と呼ばれるもの、礼拝されるものに対抗して自分を高く上げ、ついには自分こそ神であると宣言して、神の宮に座ることになります。」キリストが再臨する前に、「不法の者、すなわち滅びの子が現れる」と言っています。旧約聖書のダニエル書9章はメシアの死から、キリストの再臨のことまでが預言されています。ダニエル書9章には、「あなたの民とあなたの聖なる都について、七十週が定められている」と書かれています。それがスタートするのが、バビロンから帰って来た人たちが神殿を再建する年です。69週目に油注がれた者は断たれます。つまり、キリストが十字架で死なれます。あと1週つまり、7年残されていますが、歴史が中断させられます。なぜなら、その間に異邦人の時、つまり教会の時代が割り込んでしまったからです。では、いつ最後の1週であり、7年が開始されるのでしょうか?ダニエル9:27「彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物をやめさせる。忌まわしいものの翼の上に、荒らす者が現れる。そしてついには、定められた破滅が、荒らす者の上に降りかかる。」ダニエル書では「荒らす者」と言う名で、出てきますが、彼が現れた時から、69週目が再スタートいます。1週というのは、7年間のことであり、患難時代と同じ長さです。でも、最初の3年半は比較的穏やかなので、だれが「不法の者」なのか分かりません。彼は最初は、世界を治める総督のように見えますが、途中から本性を現わします。ヨハネ黙示録13章には、「獣」という名で出ています。竜であるサタンは獣に42か月間活動する権威を与えます。42か月間というのは、3年半です。この獣は獣の像を作り、人々にこれを拝ませ、獣の像を拝まない者をみな殺させます。さらに、右手か額に刻印を受けさせ、刻印のない者以外は売り買いできないようにします。人々は、このとき「ああ、大変なことになった」とはじめて分かります。それは、7年間ある患難時代の半ばです。あと3年半は反キリストによる大迫害が人々を襲います。また、災害も最高潮に達し、生きるのがやっとになります。それでも人々は信じません。黙示録16:10,11「第五の御使いが鉢の中身を獣の座に注いだ。すると、獣の王国は闇におおわれ、人々は苦しみのあまり舌をかんだ。そして、その苦しみと腫れもののゆえに天の神を冒瀆し、自分の行いを悔い改めようとしなかった。」

 さきほどのⅡテサロニケ2章に「どんな手段によっても、だれにもだまされてはいけません。まず背教が起こり、不法の者、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないのです」と書かれていました。つまり、だれが「不法の者」か、はっきりと分かるのは、患難時代の半ば頃です。最初の3年半は比較的平和なので、だれか分からないということです。ですから、患難時代が来る直前、教会が引き上げられるという説には全面的に賛成できません。多くの人が気づくのは、「私が神である」と不法の者が神殿に立ったときです。マタイ24章にはこのような警告が記されています。マタイ24:16-24「それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす忌まわしいもの』が聖なる所に立っているのを見たら──読者はよく理解せよ──ユダヤにいる人たちは山へ逃げなさい。屋上にいる人は、家にある物を取り出そうとして下に降りてはいけません。畑にいる人は上着を取りに戻ってはいけません。それらの日、身重の女たちと乳飲み子を持つ女たちは哀れです。あなたがたの逃げるのが冬や安息日にならないように祈りなさい。そのときには、世の始まりから今に至るまでなかったような、また今後も決してないような、大きな苦難があるからです。もしその日数が少なくされないなら、一人も救われないでしょう。しかし、選ばれた者たちのために、その日数は少なくされます。そのとき、だれかが『見よ、ここにキリストがいる』とか『そこにいる』とか言っても、信じてはいけません。偽キリストたち、偽預言者たちが現れて、できれば選ばれた者たちをさえ惑わそうと、大きなしるしや不思議を行います。」このみことばと同じ内容が黙示録13章から18章まで記されています。偽キリストや偽預言者たちが現れて、信仰を持つのが大変だということです。まさしく、殉教覚悟でなければなりません。

 私はマタイ24章を見て、2011年の東日本大震災のことを思い出しました。亡くなった人の90%が津波による溺死でした。つまり、地震のあと津波が来るのを知って、高台に避難したら助かったかもしれないということです。でも、それは結果論であり、そんなことを言ったら被災者に鞭を打つことになるでしょう。三陸地方に「津波てんでんこ」ということばがあるそうです。その意味は、「津波が来たら、取る物も取り敢えず、肉親にも構わずに、各自てんでんばらばらに一人で高台へと逃げろ。自分の命は自分で守れ」のようです。マタイ24章を見ると、ユダヤにいる人たちは山へ逃げなさい。屋上にいる人は、家にある物を取り出そうとして下に降りてはいけません。畑にいる人は上着を取りに戻ってはいけません」と書かれています。津波が来ているのに、家にお金を取りに戻った人が亡くなったという人もいたそうです。同じように、「周りの人たちはともかく、自分がキリストを信じて、いのちを得よ」ということです。日本人は、「周りの人が信じたら、自分も信じる」「まず、家族がどういうだろうか?家族の承諾を得てから洗礼を受ける」という人がたくさんいます。でも、気が付く頃はもう手遅れだということです。ヨーロッパが合衆国のようになったのは、黙示録12章の成就です。「不法の者」あるいは「滅びの子」は、ヨーロッパのどこかで、既に生まれているかもしれません。今は世界が1つになるという運動があらゆるところで起きています。ほとんどの航空会社は、ワンワールドに加盟しています。宗教も1つになるべきだと言われています。しかし、それは「背教の教会」であり、骨抜きの信仰です。ヨーロッパの国々では、マイナンバー制度が義務付けられています。日本もアメリカにならい、マイナンバーが進められています。でも、それは、黙示録13章の獣の数字666の準備ではないかとも言われています。むやみに、恐れをあおるようなことを言ってはいけません。しかし、マタイは「読者はよく理解せよ」と警告しています。それはエルサレム神殿が再建され、「自分こそ神であると」宣言して神殿に座る時です。

 

3.パウロの勧め

パウロはキリストの再臨を待っているすべての時代の人たちにこのように勧めています。Ⅱテサロニケ2:13「しかし、主に愛されている兄弟たち。私たちはあなたがたのことについて、いつも神に感謝しなければなりません。神が、御霊による聖別と、真理に対する信仰によって、あなたがたを初穂として救いに選ばれたからです。そのために神は、私たちの福音によってあなたがたを召し、私たちの主イエス・キリストの栄光にあずからせてくださいました。ですから兄弟たち。堅く立って、語ったことばであれ手紙であれ、私たちから学んだ教えをしっかりと守りなさい。」第一にパウロは「あなたがたは神に選ばれたのだから、信仰に堅く立つように」と勧めています。私たちは「自分がたくさんいる神の中からキリストの神を選んで、信じたんだ」と考えてはいけません。最初は、そのように思ったかもしれません。でも、私たちが信じたことは自分の理性や経験ではとても信じがたいことでした。そして、一旦、信じたら、どえらいことを信じていたということに驚くのではないでしょうか?イエス様は「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました」(ヨハネ15:16)と弟子たちに言われました。それは、私たちにも言えることであり、私たちは一方的に神さまから選ばれていたのです。それは自分が何か価値があるからとか、知的にすぐれているからという訳ではありません。パウロは「有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです」(Ⅰコリント1:28)と言いました。では、なぜ神の選びを認めることがそんなに大事なのでしょうか?もし、救いが自分の信仰にかかっているのだと考えているなら、これほど不安で信頼のおけることはありません。私たちの知性や信念は、私たちの脳から来ているものなのでいつぼけてしまうか分かりません。信仰は神さまが私たちに与えたものであり、そのとき私たちの霊を再生させ、そこに聖霊を住まわせてくださいました。エペソ1章にあるように、「救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押された」のです。証印というのは、封印と同じ意味であり、神さまのところへ行くまでだれも妨げることができないという意味です。証印の背後には、絶対者なる神の権威と力があります。だから、ローマ8章にあるように「どんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできない」のです。

第二は、聖書の約束にしっかりと立つということです。パウロは「自分たちが語ったことばであれ、手紙であれ、学んだ教えをしっかりと守りなさい」と勧めています。言い換えると、それは聖書のみことばをしっかりと守るということです。世の終わりには、偽キリストや偽預言者があらわれ、選民たちをも惑わそうとするでしょう。その時に、「そのことは本当に聖書に書いてあることなのだろうか?」と吟味することが大事です。悪魔は真実に少しだけ嘘を混ぜます。完全に黒だったら、だれもが排除するでしょう。しかし、ちょっとだけグレーなんです。現在においても、グレーの学説が山ほどあります。グレー、灰色というのは、真実から離れている極端な教えという意味です。真実は常に真中にあり、右と左の極端の溝にはまってはならないということです。たまには、流行の先端を行くつもりで、右か左に寄ってしまうかもしれません。でも、「聖書は何と言っているだろうか?」と問いつつ、真理の御霊を仰ぎます。どうぞ、新しい学説とか、最先端の教えには惑わされないでください。これからは、キリストの再臨に関する終末論が注目されるでしょう。だれかが『見よ、ここにキリストがいる』とか『そこにいる』とか言っても、信じてはいけません。偽キリストたち、偽預言者たちが現れて、できれば選ばれた者たちをさえ惑わそうと、大きなしるしや不思議を行うからです(マタイ24:23,4)。地味でもかまいません、これまで教えられてきた保守的な聖書の教えがむしろ良いのです。Ⅰテサロニケ5:23のみことばを引用して終えたいと思います。「平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。」アーメン。