2023.8.20「携挙 Ⅰテサロニケ4:13-18」

聖書には世の終わりに関する預言が記されています。世の終わり、キリストが再び来られますが、そのときに復活が起ります。初代教会の人たちは、自分が生きている間に、そのようなことが起ると信じていました。ところが、なかなかお出でにならず、待ちきれずに死んだ人たちが出てきました。テサロニケの人たちは、「先に死んでしまった人はどうなっているのですか?」と、疑問に思っていました。そのことに答えるためにも、テサロニケの手紙が書かれました。

1.携挙

携挙とは、キリストが再び来られたとき、復活が起り、その人たちが天に引き上げられるという意味です。それにしても、パウロは1か月足らずしか伝道していないのに、「世の終わりのことまで教えたのか?」と驚いてしまいます。パウロだけではなく、初代教会の人たちは「キリストがまもなくやってくる」という信仰の中で生きていたようです。しかし、私たちの時代になると、霊的に眠り、世の終わりのことやキリストの再臨をさっぱり話さなくなります。紀元後4世紀、罪の中にいたアウグスチヌスは、ローマ13章を読んで、回心したそうです。そこには「あなたがたが眠りからさめるべき時刻が、もう来ているのです。私たちが信じたときよりも、今は救いがもっと私たちに近づいているのですから。夜は深まり、昼は近づいて来ました。ですから私たちは、闇のわざを脱ぎ捨て、光の武具を身に着けようではありませんか。」(ローマ13:11,12)と書いてありました。アウグスチヌスの時が4世紀であり、今は21世紀です。ですから、もっともっと、キリストの再臨が近づいていると考えるべきではないでしょうか?

それでは、Ⅰテサロニケ4章から、お読みいたします。Ⅰテサロニケ4:13-15「眠っている人たちについては、兄弟たち、あなたがたに知らずにいてほしくありません。あなたがたが、望みのない他の人々のように悲しまないためです。イエスが死んで復活された、と私たちが信じているなら、神はまた同じように、イエスにあって眠った人たちを、イエスとともに連れて来られるはずです。私たちは主のことばによって、あなたがたに伝えます。生きている私たちは、主の来臨まで残っているなら、眠った人たちより先になることは決してありません。」まず、このところに「眠っている人たち」と書いてありますが、これはどういう意味でしょう?聖書では肉体が死ぬことを「眠る」「眠りについた」と言います。使徒7章に記されていますが、ステパノが石で打たれて殉教したとき「彼は眠りについた」(使徒7:60)と書かれています。眠るということは、いつか目覚めるということが前提になっています。人間は肉体的に死んでも、魂は一瞬たりとも眠ることはありません。ルカ16章に金持ちとラザロの物語がありますが、ちゃんと意識があります。唯物論者たちが言うように、人間は死んだら無になるのではありません。肉体は眠りますが、魂は陰府かパラダイスでちゃんと生きています。問題はその後であります。ヨハネ5章でイエス様はこのようにおっしゃっています。ヨハネ5:28,29「このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。」福音書にも、死んだ人たちが、世の終わりによみがえることが言われています。問題は、その時、いのちを受けるのか、さばきをうけるのか2つに分かれるということです。

それでは携挙とはどういうものなのでしょうか?『終末に関する聖書の預言』という本にこのように書かれていました。「携挙」ということば自体は聖書の中に出て来ない。このことばは、主の再臨の時、信仰者が主によって地上から天に「連れ去られる」、つまり移されることの教理に使われてきた。このことばはラテン語動詞rapere「つかむ」から出ていて、これから、「移す」という意味となった。しかし、この出来事が起る時については様々な見解がある。これらの見解を3つのグループに分けることができる。第一は携挙は地の大患難時代の前に行われると信じる。第二は携挙は患難時代のある時に行われると信じる。第三は携挙は患難時代の終わりに行われると信じる。引用は以上ですが、患難時代というのは、黙示録にあるような困難な時代がやってくるという預言です。前半の3年半は比較的穏やかですが、後半の3年半は反キリストによる大迫害と天変地異が起るという大スペクタクルになっています。昔、アルマゲドンという映画を見ましたが、大きな隕石が地球に落ちてくるというものでした。確かに、黙示録8章10節に「燃えている大きな星」のことが書かれており、「苦よもぎ」と呼ばれています。しかし、テサロニケの手紙には、携挙の時がいつなのか、周りの状況が全く記されていません。福音派の人たちは、第一の大患難の来る直前にクリスチャンは天に引き上げられると信じています。昔、『レフトビハインド』という本が出ましたが、その立場の人が書いた本です。しかし、「苦しみを受けないで、クリスチャンが天に引き上げられるなんて虫が良すぎる」と第二や第三の説を唱える人たちが大勢います。

Ⅰテサロニケを見ますと携挙には順番があると言うことが分かります。Ⅰテサロニケ4:16,17「すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」最初は「キリストにある死者がよみがえる」ということです。イエス様を信じて死んだ人たちです。その次に、「生き残っている私たちが」と書かれています。これだけだと良く分かりません。Ⅰコリント15章にはもっと詳しく書かれています。Ⅰコリント15:51,52「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」パウロはそれは奥義であると言っていますが、生きている人が、たちまち一瞬のうち変えられるということです。つまり、死を経験しないで、栄光のからだに変えられて、天に引き上げられるということです。旧約聖書では、エノクがそうでした。あるいは、預言者エリヤもそうであったかもしれません。パウロや初代教会の人たちは、自分たちが生きている時にそのようなことが起るだろうと、強くあこがれていました。

聖歌634『世の終わりのラッパ』という曲があります。「1.世の終わりのラッパ鳴り渡る時、世は常世の朝となり、救われし者は四方の隅より、すべて主のもとによばれん。その時、我が名も、その時、我が名も、その時、我が名も、呼ばれなば必ずあらん。2.その時、眠れる聖徒よみがえり、栄えのからだに変わり、我らも共に携え上げられ、空にて主に会いまつらん。3.世のわざを終えて、あまつ憩に、招かるる日、近ければ、なおも主の愛を世人に語り、み栄えのために、尽さん。その時、我が名も、その時、我が名も、その時、我が名も、呼ばれなば必ずあらん。」聖歌には世の終わり、キリストの再臨の歌がたくさんあります。これは昭和2年頃、ホーリネスにリバイバルが起ったなごりかもしれません。マタイによる福音書24章には、世の終わりの前兆について記されています。偽キリストの出現、戦争や戦争のうわさ、民族同士の争い、飢饉と地震などです。しかし、それは前兆であり、これまでなかったような大きな苦難がやってきます。偽キリストや偽預言者たちが、人々を惑わすでしょう。そうした苦難の日々の後、太陽は暗くなり、月は光を放たなくなり、星は天から落ち、天のもろもろの力は揺り動かされます。その時、キリストが栄光を帯びて天からやってきます。マタイ24:31「人の子は大きなラッパの響きとともに御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで四方から、人の子が選んだ者たちを集めます。」アーメン。

でも、その後、不思議なことが書かれています。マタイ24:40-42「そのとき、男が二人畑にいると一人は取られ、一人は残されます。女が二人臼をひいていると一人は取られ、一人は残されます。ですから、目を覚ましていなさい。あなたがたの主が来られるのがいつの日なのか、あなたがたは知らないのですから。」このことが、テサロニケの手紙に書かれている「携挙」であろうと思います。私は奥山実師が唱える説を信じています。二人ともクリスチャンで救われています。でも、一人は取られ、一人は残されるとは一体どういうことでしょう?奥山実師は、再臨信仰がある人、つまり世の終わりキリストが来られても大丈夫と霊的に目覚めている人だということです。その人が天に引き上げられるというのです。残された人というのは、信仰がないわけではありません。でも、その後、やってくる大患難時代を通り抜けなければなりません。黙示録8章から激しい患難が地上を襲います。それだけではなく、反キリストが猛威を振るい、獣を拝まないものは殺されます。つまり、自分の命と引き換えに信仰を守るしかない厳しい時代です。患難時代は、殉教を覚悟しなければなりません。イエス様の招きのことばです。「闇があなたがたを襲うことがないように、あなたがたは光があるうちに歩きなさい。闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのか分かりません。自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい。」(ヨハネ12:35,36)。今はまだ、福音に対する聖霊の光があります。私たちは自分の知性では福音を信じることはできません。聖霊が私たちを照らして、その意味を悟らせてくれるから信じられるのです。光のある間に、キリストを信じるべきです。今は恵みの時、今は救いの日です。

2.目を覚まして

 Ⅰテサロニケ5章には、主の来臨に備えるための勧めが記されています。Ⅰテサロニケ5:1-8「兄弟たち。その時と時期については、あなたがたに書き送る必要はありません。主の日は、盗人が夜やって来るように来ることを、あなたがた自身よく知っているからです。人々が『平和だ、安全だ』と言っているとき、妊婦に産みの苦しみが臨むように、突然の破滅が彼らを襲います。それを逃れることは決してできません。しかし、兄弟たち。あなたがたは暗闇の中にいないので、その日が盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもなのです。私たちは夜の者、闇の者ではありません。ですから、ほかの者たちのように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うのです。しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛の胸当てを着け、救いの望みというかぶとをかぶり、身を慎んでいましょう。」このところには、大きく分けて2つのことが記されています。第一は、主の日が盗人のように突然やってくるということです。第二は、暗やみの中にいない人は、その日が盗人のようにあなたがたを襲うことはないということです。キリストが再びやってくることは信仰者にとっては最高の喜びでありましょう。ヨハネ黙示録の最後に「主イエスよ、来てください」と書かれています。我孫子にラザロ霊園というクリスチャンの墓地があります。当教会の墓石には、「主よ、来たりませ」と彫られています。黙示録の賛美歌ヴァージョンです。「主が来られたなら、私たちは復活する」という希望と確信が含まれてます。でも、この箇所には「人々が『平和だ、安全だ』と言っているとき、妊婦に産みの苦しみが臨むように、突然の破滅が彼らを襲います。」と書かれています。つまり、みんながみんな待ち望んでいるということではありません。むしろ、「そんなことは起るはずがないだろう」と高をくくっています。でも、そういう人たちにとって、キリストが再び来ることは大いなる災いとなるのです。

 マタイ24:30「そのとき、人の子のしるしが天に現れます。そのとき、地のすべての部族は胸をたたいて悲しみ、人の子が天の雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見るのです」と書いてあります。このみことばからも分かるように、キリストが来たら困る人、激しく悲しむ人たちがいるのです。なぜでしょう?マタイ13章には「毒麦のたとえ」が記されています。イエス様は収獲の時まで待ちなさいと言われました。さらに、毒麦は火で焼いて、麦は私の倉に納めるだろうと言われました。マタイ13:41,42「人の子は御使いたちを遣わします。彼らは、すべてのつまずきと、不法を行う者たちを御国から取り集めて、火の燃える炉の中に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。」と書かれています。つまり、キリストの来臨の時は、さばきが起り、捨てられるということです。黙示録に書いてありますが、さばきは二度に渡って行われることがわかります。第一は、にせ預言者や反キリストのさばきが、黙示録19章に記されています。彼らは燃える火の池に、生きたまま投げ込まれると書かれています。第二は、死んだすべての人がよみがえり、神さまの前に立つという「白い御座のさばき」が、黙示録20に記されています。つまり、キリストにあって死んだ人はキリストが来られたときによみがえり、千年王国で暮らします。ところが、そうでない人は、千年王国が終わった後によみがえります。これを第二の復活と言います。で、どうなるのでしょうか?黙示録20:12「また私は、死んだ人々が大きい者も小さい者も御座の前に立っているのを見た。数々の書物が開かれた。書物がもう一つ開かれたが、それはいのちの書であった。死んだ者たちは、これらの書物に書かれていることにしたがい、自分の行いに応じてさばかれた。」と書いてあります。「いのちの書」に名前が記されている人は、さばきを免れます。パスです。でも、「いのちの書」に名前が記るされていない人は、その人の行ないが記されている書物によってさばかれるのです。その人たちは、キリストによる神の義ではなく、自分の行いによる義によって神の前にたたなけばなりません。生前、キリストを信じていた人は、もちろん「いのちの書」に名前が記されており、「新しい天と新しい地」に住むことができます。しかし、生前、キリストを拒んだ人たち、キリストを知るチャンスのなかった人たちすべてが、行ないの書物によってさばかれるのです。その人たち全員がさばかれて滅びるとは明言されていませんが、確率的にはとても低いのではないかと思います。だから、キリストの再臨は、ある人たちにとっては、恐ろしい出来事ということになります。

 もう一度、Ⅰテサロニケ5章に戻りたいと思います。主の日が盗人のように突然やってくるということです。しかし、暗やみの中にいない人は、その日が盗人のようにあなたがたを襲うことはないと書いてありました。なぜでしょう?どうしたら、イエス・キリストが突然やって来ても大丈夫なのでしょうか?第一の理由は、彼らは光の子どもであり、昼の子どもだからです。つまり、テサロニケの人たちは「光の子どもであり暗闇の中にいない」ということです。彼らは暗闇から救い出されただけではなく、質的にも光の子どもになったということです。神さまは光ですから、光の子ども、神の子どもであるということです。他の人たちは、夜の者、闇の者と言われています。第二の理由は、彼らは暗闇の中で生活していないということです。それは、目を覚まし、身を慎んでいるということです。パウロは「私たちは昼の者なので、信仰と愛の胸当てを着け、救いの望みというかぶとをかぶり、身を慎んでいましょう」と勧めています。他の人たちは、夜眠り、酔う者は夜酔うと書かれています。しかし、よく考えるとクリスチャンであっても夜眠ります。しかし、目を覚ますというのは、霊的な問題であります。神さまとの霊的な関係が常にあるということです。第三は、神さまが寝ていても起きていても、守ってくださるということです。Ⅰテサロニケ5:10,11「神は、私たちが御怒りを受けるようにではなく、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださったからです。主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目を覚ましていても眠っていても、主とともに生きるようになるためです。」ですから、夜眠るときは、主のふところで安心してお休みください。

 たしかに、主の日は、盗人が夜やってくるようにやってくるでしょう。4節「しかし、兄弟たち。あなたがたは暗闇の中にいないので、その日が盗人のようにあなたがたを襲うことはありません」とありますが、そのことをもう一度考えてみたいと思います。これは確かに私たちが霊的に目を覚まして、備えているということでしょう。私たちは神さまとの交わりがあるので、おそらく、神さまが教えてくださるのではないかと思います。その理由がヨハネ16章に記されています。ヨハネ16:13「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。御霊は自分から語るのではなく、聞いたことをすべて語り、これから起こることをあなたがたに伝えてくださいます。」そのところには、「御霊がこれから起こることをあなたがたに伝えてくださいます」と書かれています。つまり、私たちの中におられる聖霊が、私たちに「主の日は近いですよ。備えていなさい」と予め、教えてくださるのではないかと思います。もちろん、「何年、何月、何日」という意味ではありません。こういうことを言う人がたまにいますが、あとで恥をかきます。でも、「なんとなく」といいましょうか?聖霊が教えてくださると信じます。また、聖書には世の終わりの前兆とともに、ヒントがいくつか書かれています。そのことは次週学びますが、決定的な時というのがあるようです。この世の人たちは、新聞の記事やテレビの報道番組から情報を得ます。もちろん、私たちもそれらの情報を利用します。しかし、聖書には世の終わりに関する預言が記されているので、「今はこの時なのかな?」とある程度分かります。そういう意味でも、目を覚まして、世界の情勢と聖書の預言を照らし合わせるということが懸命であろうと思います。

 きょうのようなテーマは滅多に話さないので、驚かれている方もおられるかもしれません。「クリスチャンて、危ないんじゃないの?世の終わりが来るなんで、おかしいんじゃないの?」と思われるかもしれません。世の終わりは、世の人々にとっては、破滅であり、終焉でしょう。しかし、キリストを信じる人たちにとっては、究極的な希望です。なぜなら、世の終わりに、キリストが再臨され、悪を完全に滅ぼし、御国を建ててくださるからです。私たちは毎週、「御国を来たらせたまえ」と賛美します。これは、「この地上に神のご支配が来ますように」というのが第一の意味です。第二の意味は「御国という、千年王国が来ますように」という願いでもあるのです。千年王国は旧約聖書と黙示録に書かれているので、中には象徴的なものであると信じない人もいます。しかし、聖書を字義通り解釈する人は、「この地が回復し、報われる時代がやってくる」と信じています。パウロがローマ8章でこのように述べています。ローマ8:19-22「被造物は切実な思いで、神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいます。被造物が虚無に服したのは、自分の意志からではなく、服従させた方によるものなので、彼らには望みがあるのです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。」つまり、キリストが来られるのを待っているのは私たち人間だけではないということです。アダムとエバが堕落したために、全被造物がとばっちりを受けたからです。御国はこの地上で理不尽な生き方をした人たちが報われる時です。御国はこの地上で忠実に生きた人たちが報われる時です。