2023.8.13「信者の模範 Ⅰテサロニケ1:3-7」

パウロは普通、手紙の書き出しで「神から召された使徒」と紹介していますが、この手紙には、肩書きがなく、ただの「パウロ」となっています。また、他の手紙と比べて、テサロニケの手紙には、ひとことも戒めるようなことばがありません。パウロは「あなたがたは、マケドニアとアカイアにいるすべての信者の模範になったのです」と言っていますが、どのような意味で、すべての信者の模範になったのでしょうか?きょうはそのことを一緒に学びたいと思います。

1.信仰、愛、望み

 Ⅰコリント13:13「いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです」と書かれていますが、当教会の週報はそこからとられたものです。テサロニケの教会はそれらの三つがあふれていました。Ⅰテサロニケ1:3-5「私たちの父である神の御前に、あなたがたの信仰から出た働きと、愛から生まれた労苦、私たちの主イエス・キリストに対する望みに支えられた忍耐を、絶えず思い起こしているからです。神に愛されている兄弟たち。私たちは、あなたがたが神に選ばれていることを知っています。私たちの福音は、ことばだけでなく、力と聖霊と強い確信を伴って、あなたがたの間に届いたからです。あなたがたのところで、私たちがあなたがたのためにどのように行動していたかは、あなたがたが知っているとおりです。」3節に、信仰、愛、望みと3つの徳目が記されています。でも、それぞれが、何かと関連しているということをまず、知るべきです。信仰はどうでしょう?「私たちの父である神の御前に、あなたがたの信仰から出た働き」と書かれていますが、信仰が働きと組み合わされており、しかも父なる神の御前にあるということです。ヤコブ書には「行いがない信仰は死んだものである」(ヤコブ2:17)と書かれています。私たちは一般に、信仰とは「キリストを信じて、救われること」と思いがちです。それも間違いではありませんが、信仰の実としての行いがあるかどうか問われることはあまりありません。信仰は私たちの人生の価値観と親密な関係がありますので、どうしても生き方が変わってきます。1章9節「人々自身が私たちのことを知らせています。私たちがどのようにあなたがたに受け入れてもらったか、また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり」と書いてあります。どの国の人たちも同じですが、以前は偶像を拝んいたわけです。でも、信じて神に立ち返った後は、生けるまことの神に仕えるようになったのです。「仕える」ということばは、serveであり、仕える、奉仕するという意味です。まさしく、信じた後の実が働きとして現れているということです。

 その次の「愛」はどうでしょう?パウロは「愛から生まれた労苦」と言っています。愛と労苦が関係しています。パウロはⅠコリント13章で愛とはどういうものか定義しています。「愛は寛容であり」と日本語にはなっていますが、英語の聖書はsuffers longになっています。Sufferという意味は「苦痛・危害・損害など不快なことを」経験する、こうむるという意味です。この世の愛は感情的で自然に湧き上がるイメージがありますが、聖書の愛は嫌なことを辛抱するみたいなところがあります。しかし、そういう愛が生身の私たちは持ち合わせていません。1章4節に「神に愛されている兄弟たち。私たちは、あなたがたが神に選ばれていることを知っています」と書かれています。つまり、神さまからの愛をいただいた結果、どんな労苦をもいとわなくなるということです。これも、信仰の結果と言うことが出来ます。その次の「望み」はどうでしょう?「私たちの主イエス・キリストに対する望みに支えられた忍耐」となっています。望みというのは、希望のことですが、誰に対して望んでいるのでしょうか?主イエス・キリストに対する望みの忍耐となっています。なぜ、主イエス・キリストが望みなのでしょう?1章10節に「御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを、知らせているのです。この御子こそ、神が死者の中からよみがえらせた方、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスです」と書かれています。望み、希望とは、イエス・キリストの再臨のことです。やがて、天からキリストがやって来たなら、死んだ者がよみがえり、さばきからも救い出されるということです。私たちは聖霊による新生と、罪の赦しという救いをいただいています。しかし、この肉体は贖われていません。やがて、キリストが来られるとき、肉体が栄光のからだに変えられ、神のみ前に立ちます。テサロニケの教会は「まもなくキリストが天から来られる」という望みにあふれていました。このような意味で、テサロニケの教会は、信仰、愛、望みにおいて諸教会の模範でありました。

 でも、そのような「信仰、愛、望み」はいつ、どこで、だれから与えられたのでしょうか?テサロニケの教会のなりたちのことは、使徒17章に記されています。パウロたちは第二次伝道旅行のとき、幻を見て、マケドニアに渡って来ました。最初、ピリピを伝道してルデヤや看守の家族が救われました。その後、テサロニケに来て、ユダヤ人の会堂で3つの安息日にわたり、聖書にもとづいて彼らと論じました。3つの安息日とは、わずか3週間です。もう1週間くらいはいたかもしれませんが、1か月位しかテサロニケで伝道できなかったのです。彼らの幾人かは救われました。ところがユダヤ人によって暴動が起こり、町を去らざるをえませんでした。その後、ベレヤに行きました。そこでも、ユダヤ人が暴動騒ぎを起こして、パウロたちの宣教を妨害しました。パウロは一人だけアテネに行き、さらにコリントに行きました。パウロはコリントで1年半も伝道たので、とても成果があがりました。でも、「テサロニケの教会はどうなったのだろう?」とテモテを遣わしました。テサロニケの手紙はテモテの報告を受けてパウロが書いたものです。パウロが2章1節の2節でこう述べています。「兄弟たち。あなたがた自身が知っているとおり、私たちがあなたがたのところに行ったことは、無駄になりませんでした。それどころか、ご存じのように、私たちは先にピリピで苦しみにあい、辱めを受けていたのですが、私たちの神によって勇気づけられて、激しい苦闘のうちにも神の福音をあなたがたに語りました。」パウロは「無駄でななかった」と福音を語ることができたことを誇っています。その後、パウロは「母親のように、あなたがたを養い育てた」(2:7)と述べています。さらには、「父親のように、勧め、励まし、厳かに命じた」(2:11)と述べています。つまり、パウロがテサロニケの生みの母であり、父であったのです。日本では教会を開拓しても、5年くらいかかってやっと30名くらいになります。10年で独立したなら成功した方です。しかし、パウロたちはたった1か月でテサロニケ教会を開拓して、他のところに移ったのですから、「産みっぱなし」みたいなところがあります。「本当に、信仰が残っているのだろうか?」とパウロが心配したのも無理がありません。でも、信仰から出た働きと、愛から生まれた労苦、私たちの主イエス・キリストに対する望みに支えられた忍耐があったのです。

 もう1つは、神のことばです。神のことばが彼らに信仰を与え、彼らを育てたのです。でも、その当時は聖書が完成していませんでした。聖書のガイドブックとか、信仰の手引きもありませんでした。今日の私たちは聖書を何種類も持ち、参考書や信仰書が簡単に手に入ります。しかし、その当時は、ユダヤ教の会堂が所持していた預言書やモーセの律法でした。そこに、キリストの福音が入ってきて、信じた人たちは、罪の赦しと霊的な新生をいただいたことでしょう。普通だったら、教理的なこととか、信仰生活のいろはについて、教えていただく必要があります。でも、そういう時間はほとんどありませんでした。では、何があったのでしょう?1章5節「私たちの福音は、ことばだけでなく、力と聖霊と強い確信を伴って、あなたがたの間に届いたからです。あなたがたのところで、私たちがあなたがたのためにどのように行動していたかは、あなたがたが知っているとおりです。」今日では、「聖書研究会」みたいになっていますが、当時はそうではありません。福音がことばだけではなく、力と聖霊と強い確信を伴って、彼らの間に届けられたのです。「ことばだけではなく、力と聖霊と強い確信」これが現代の教会にないものかもしれません。Ⅰコリン2:4「そして、私のことばと私の宣教は、説得力のある知恵のことばによるものではなく、御霊と御力の現れによるものでした。」とあります。パウロたちが語る福音に力と聖霊と強い確信が伴っていたのです。だから、テサロニケの人たちは胸が打たれ、「私たちは救われるためには何をしたら良いでしょう?」という渇きが起ったのではないでしょうか?空虚な心に、キリストの十字架と復活による罪の赦しと新生が入ったのではないかと思います。福音派の教会は、そのことを回心、convictionと言います。彼らはそのとき、明確な救いの体験が与えられたと思います。さらに、彼らのすばらしさが記されています。2章13節「こういうわけで、私たちもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたが、私たちから聞いた神のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実そのとおり神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いています。」アーメン。彼らはパウロが語ったことばを、神のことばとして受け入れました。そして、その神のことばが、信じている彼らのうちに働いているのです。神のことばには、人を救い、育てる力があります。重要なことは、それを神のことばとして、敬い、自分の内に取り入れ、従うということです。そのことによって、短期間の宣教であったにも関わらす、信仰のうちに、愛のうちに、望みのうちにとどまり、成長し続けることができたのです。私たちもテサロニケ教会の模範に倣いたいと思います。

2.聖い生活

 Ⅰテサロニケ4章には神のみこころであり、パウロのテサロニケに対する願いが記されています。Ⅰテサロニケ4:3,4「神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです。一人ひとりがわきまえて、自分のからだを聖なる尊いものとして保ち、」3節の「聖なる者」は、前の訳は「聖くなること」です。でも、原文のギリシャ語に忠実に訳すと「神のみこころは、あなたがたの聖さです」となります。「聖くなれ」とは書かれていません。4節では「自分のからだを聖なる尊いものとして保ち」と書かれています。原文のギリシャ語は「聖くて、尊い器を所有して」と訳すことができます。つまり、「あなたがたは聖くなれ」とは書かれていないということです。聖い者と訳しているギリシャ語の「ハギアモス」のもともとは「きよめられること、聖いものとして別たれること」という意味です。旧約聖書では幕屋や神殿の用具を聖別しました。神さまのためだけに聖別した用具は他ためには用いません。つまり、私たちはイエス様を信じたとき、キリストの血によって買い取られ、神さまのものとなったのです。言い換えると聖別され、聖いものとなったのです。重要なのは、神さまから与えられた聖さを保ち続けるということです。コリント人への手紙の挨拶で、パウロが何と言っているでしょう?「キリスト・イエスにあって聖なる者とされ、聖徒として召された方々へ」(Ⅰコリント1:2)と挨拶しています。原文は「キリスト・イエスにあって聖くされた、聖別された」となっています。つまり、キリストを信じて救われたときに、神さまによって聖別されたということです。コリントの教会は不品行の罪で満ちていましたが、神さまとの関係は「聖い」存在だったのです。もちろん、実質は聖くありません。神さまのものとなったということによって、聖い存在になったということが出発点なのです。

 もし、私たちがキリストを信じて、神さまのもとになり、聖い存在として見られたならどうするでしょう?「ああ、そうですか。それだったら、聖い者となりたいです」と願うでしょう。つまり、スタート地点が、汚れて、どうしようもない存在ではありません。いきなり、身分的に聖いところに置かれ、「それだったら、そのような生活をさせていただきます」となるのです。私は小学校、中学校、高校と悪いことをたくさんして先生からたくさん叱られました。ほとんどの先生は私を犯罪者のように憎々しい顔で睨みつけました。もし、一人でも「鈴木君の本当の姿はそうしゃないよ。お前は良い子なんだ。私は分かっているよ」と言われたら、全く、変わっていたでしょう。「悪い、ひどい人間だ」と見るので、「ああ、そうですか!」とひねくれてしまうのです。私は聖書学院に入ったとき、さんざん「聖められなさい」「聖められなさい」と言われました。ですから、「聖い生活」とか「聖くなりなさい」などというメッセージをしたことがありません。なぜなら、自分が聖くないのに、「人に聖くなりなさい」と言えるでしょうか?でも、本当の意味は「あなたは汚れているから、聖くなりなさい」という意味ではないのです。これは、律法的なアプローチであり、パウロがローマ7章で言っているように、死を招きます。そうではなく、「あなたはキリストにあって聖いので、聖い生活をしなさい」という、恵みで生きるべきなのです。

 では、具体的に聖さを保つ生活とはどのようなものなのでしょうか?Ⅰテサロニケ4:5-7「神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、また、そのようなことで、兄弟を踏みつけたり欺いたりしないことです。私たちが前もってあなたがたに話し、厳しく警告しておいたように、主はこれらすべてのことについて罰を与える方だからです。神が私たちを召されたのは、汚れたことを行わせるためではなく、聖さにあずからせるためです。」異邦人が犯している罪の代表的なものは、不品行でした。リビングバイブルでは、「あらゆる不品行の罪を避けて、きよらかな品位ある結婚生活を送ってほしいのです。…また、他人の妻を横取りして、その人をあざむくようなことをしてはいけません」と訳しています。つまり、不品行を避けるとは、結婚生活を聖いものとせよと言うことです。何故なら、異邦人は結婚に対する節操がなかったからです。日本人も異邦人ですから、まさしく、このような罪がたくさんあるのではないでしょうか?もし、そのようなことを教会内でするなら、兄弟を踏みつけたり欺むくことになります。この世の中では、不倫として扱われ、あまり大きな罪ではありません。しかし、神さまはそうではありません。パウロは「私たちが前もってあなたがたに話し、厳しく警告しておいたように、主はこれらすべてのことについて罰を与える方だからです」と警告しています。神さまが私たちを聖なるものとして、見てくださったのに、それを裏切ることになるからです。もう一度、このみことばを引用致します。Ⅰテサロニケ4:7「神が私たちを召されたのは、汚れたことを行わせるためではなく、聖さにあずからせるためです。」

 

3.喜び、祈り、感謝

 不品行を避け、聖い生活をするためにはどのような過程を経るべきなのでしょうか?テサロニケの人たちは、エペソやコロサイの人たちと違うので、「古い人を行ないとともに脱ぎ捨て、新しい人を着なさい」と命じられていません。また、コリントの人たちのように、パウロの使徒性を認めない高慢な人たちでもありません。もちろん、同じ人間ですから、罪を犯すこともあるでしょうし、きよめられていない肉があるでしょう。でも、「〇〇してはいけない」という否定的な命令ではなく、「〇〇しなさい」という肯定的な命令があります。この肯定的な命令を守って行くなら、罪を犯すこともなく、肉からも解放され、実質的にも聖められていくのです。その究極的な命令というか、方法とは何なのでしょうか?

Ⅰテサロニケ5:16-18「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」アーメン。これは、神さまが望んでおられること、聖くなることと同じ、神のみこころであるということです。この3つの戒めを守り行うことが、究極的な意味で、聖い生活をしている人なのです。本当にその人が、聖い生活をしているのか、見極める方法は、この3つの戒め通り生きているかどうかです。いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことを感謝する人こそ、聖められている人だと認めても間違いありません。イエス様の時代、聖い人というのは、パリサイ人や律法学者たちでした。彼らは戒めを守り、人前で祈り、施しもしていました。でも、内側には汚れたもの、貪欲、罪がいっぱい隠されていました。彼らはそういうものに蓋をして、表面上は聖いようなふりをしていたのです。だから、イエス様は彼らを「偽善者たち」と呼んで、非常に嫌いました。同じように、私たちが表面上、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことを感謝していたなら、彼らと同じ偽善者になります。私は、教会にはじめてきたとき、「なぜ、この人たちはこんなにニコニコしているんだろう。気持ち悪い。人間離れしている」と思いました。洗礼を受ける前後ですが、ある大学生の姉妹がみんなの前で、証をしました。ある晩、高校生の弟が父親を包丁で刺して、あたりが血だらけになったというのです。姉妹はクリスチャンだったのですが、「これでは家族が崩壊してしまう」と思って、無理やり彼らを、次の日曜日の礼拝に連れてきたと言うことです。なんと、その父親は学校の教師でした。最初に彼女のお母さん、次にお父さんと弟さんがイエス様を信じて洗礼を受けました。彼女はとても元気で朗らかですが、弟さんもニコっと笑うようになりました。さらに、他の兄弟姉妹方の救いの証を聞くことができました。「ああ、この人たちは表面的にニコニコしているかもしれないけど、本当はものすごいところを通って来たんだな、作り笑いじゃない」ということが分かりました。

私たちは毎日生活していると、感謝できないことがたくさん起こります。「なぜなんだ!」と怒ってしまうでしょう。不平を言ったり、つぶやきたくなるでしょう。でも、そのとき、「いつも喜び、絶えず祈り、すべて事について感謝しなさい」というみことばを思い出して、それを実行するのです。しかし、「現実は喜べる状況じゃないのに、どうして喜ぶのですか?」と言いたくなります。マーリン・キャロザーズという人が『讃美の力』という本を書いています。この本にはアルコール中毒、治療ができない病気、精神的な疾患、悪魔に捕えられた人、刑務所を出たり入ったりしている人たちが、癒され、解放された証が載っています。その秘訣が感謝であり、賛美だというのです。その本から少し引用します。「困難や問題や病気や災難のゆえに神を賛美するということは、文字通り、その病気や災難が起ったことを私たちの人生における神のご計画の一部として受け入れて、賛美することを意味します。私たちは神の賛美するのであって、何かの分からない運命を賛美するのではありません。それはまた、今起こっているその事に対して神が責任を取っておられるという事実を受け入れていることになるのです。そうでないなら、その事で神に感謝するということは意味をなさないでしょう。神は、ご自身が私たちを愛しておられること、また私たちに対してご計画を持っておられること、そのことを私たちが理解することを望んでおられるのです。「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)。私たちの理性が邪魔するかもしれません。でも、愛なる神さまが只中で、働いておられます。だから、いつも喜び、絶えず祈り、すべて事について感謝しましょう。