2022.10.30「平安を与える計画 エレミヤ29章」

◆聖書箇所: エレミヤ書29章(聖書引用:新改訳2017)

 

本日の中心聖句 

<エレミヤ29:11 >

わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──【主】のことば──。

それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。

*************

 

前回語ったエレミヤ28章では、ハナンヤという偽預言者が出てきました。

ハナンヤは偽りの預言を語って、主からさばきを受けました。

そこから、『嘘、偽り』について人間の本質を交えてお話しました。

 

本日は、その続きのエレミヤ29章となります。

 

エレミヤ書の29章から31章にかけては、エレミヤ書の中心的なメッセージが語られている心臓部分とも言える、とても重要な箇所です。

 

時代は、ユダ王国最後の王、ゼデキヤの時です。

すでに、第一回目のバビロン捕囚が行われ、ユダの民の一部はバビロンに連れて行かれて、そこで暮らしていました。

 

そういう状況の中、29章では、捕囚を不安に思って暮らしているユダの民に、『バビロンに捕囚されるのは、主のご計画である』 ということが語られています。

 

続く30章はイスラエルとユダの回復について、そして31章はイエス様へと繋がる、『新しい契約』 の預言が語られています。

 

70年に渡るバビロン捕囚は、『主を待ち望む』 ユダの民たちの信仰が問われています。

 

『主を待ち望む』 というのは、ユダの民にとっては70年後のエルサレム帰還を待ち望むことであり、その先の希望である、メシヤ(油注がれた者、救い主)を待ち望むことでもありました。

 

現代では、救い主であるイエス様は、すでにお生まれになって贖いを完成されたので、今の私たちにとって『主を待ち望む』 とは、やがて来られる再臨の主を待ち望むということになります。

 

『主を待ち望む』 ことは、主を信頼することであり、私たちが人生を歩む中で、何を見据えて、どう生きるかということに関わってきます。

 

それでは、29章を見ていきましょう。

 

◆主を信頼して待ち望む

①偽りのことばに惑わされない

29章では、2通の手紙の内容が語られています。

 

一通は、『エレミヤが、バビロンで捕囚されている民たちへ宛てた手紙』 です。(4節-23節)

 

そしてもう一通は、『エレミヤからの手紙を読んだ、バビロンの指導者シェマヤが、エルサレムの祭司や民に書き送ったクレームの手紙』 です。(24節-28節)

 

エレミヤが送った手紙の内容を見てみましょう。

 

エレミヤは、バビロンに捕囚された民たちが、偽預言者たちや占い師たちの言葉を信じて、惑わされていると聞いて、このような手紙を送りました。

 

<エレミヤ29:8-9>

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29:8

まことに、イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。『あなたがたのうちにいる預言者たちや、占い師たちにごまかされるな。また、あなたがたが見ている夢に聞き従ってはならない。

29:9

なぜなら、彼らはわたしの名を使って、偽りをあなたがたに預言しているからだ。わたしは彼らを遣わしていない──【主】のことば。』

*******************

 

偽預言者たちや占い師たちは、28章に出てきた偽預言者ハナンヤのように、「捕囚は長くは続かない。2年のうちにエルサレムに帰れるだろう。」などと、主の名を使って偽りの預言を語りました。

 

捕囚の民たちは、「今すぐにでもエルサレムに帰りたい!」という自分たちの夢を代弁してくれている、偽の預言を信じようとしました。

 

エレミヤは主のことばを語りました。

 

<エレミヤ29:10>

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まことに、【主】はこう言われる。『バビロンに七十年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにいつくしみの約束を果たして、あなたがたをこの場所に帰らせる。

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主は、バビロンに捕らわれているユダの民たちを、『顧み、いつくしみの約束を果たして』 70年後にエルサレムに帰還させると語られています。

 

しかし、捕囚の民にとっては、70年は果てしなく長い年月に思えたようです。

 

確かに、70年という年月は、長いイスラエルの歴史から見ると、ほんの一瞬のようにも思えますが、人間の一生を考えると、かなり長い期間です。

 

この時バビロンに捕囚された人たちの中で、何人の人が70年後エルサレムに帰還出来たでしょうか。

 

それでも主は、エルサレム帰還は70年後だと定められました。

では、70年の間、民たちはバビロンでどのように生きていけばよいのでしょうか。

エレミヤ29:5-7で、主はこう言われます。

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29:5

家を建てて住み、果樹園を造って、その実を食べよ。

29:6

妻を迎えて、息子、娘を生み、あなたがたの息子には妻を迎え、娘を嫁がせて、息子、娘を産ませ、そこで増えよ。減ってはならない。

29:7

わたしがあなたがたを引いて行かせた、その町の平安を求め、その町のために【主】に祈れ。

その町の平安によって、あなたがたは平安を得ることになるのだから。』

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なかなか斬新で、ハードルが高い言いつけですね・・

 

敵国に捕らわれているというのに、そこに腰を落ち着けて、『家を建てて住みなさい』 と言われます。

『果樹園を造って、その実を食べなさい』、『子孫を増やして減ってはならない』、『敵国の町の平安を求めて祈りなさい』 と主は言われます。

 

つまり、「70年後には死んでいて帰還が叶わないとしても、今、するべきことをしっかりやって、後の世代の者のためにも繫栄させ、その日のために備えなさい」ということです。

 

この言いつけを守るためには、『主を信頼して、その日を待ち望む』 という強い信仰が必要です。

70年後、そしてその先を見据える大きな希望、後の者へと渡すバトン、信仰のレースです。

 

新約聖書へブル書には、アブラハム、イサク、ヤコブなど、信仰の人たちについて、こう書かれています。

 

<へブル11:13>

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これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、

はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。

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アブラハムたちが憧れていた、『約束のもの』 とはなんでしょうか。

 

それは、自分の故郷に帰るということではなく、もっと良い故郷、すなわち『天の故郷』 に帰ることでした。

彼らの信仰のレースは、イエス様という揺るがない土台が与えられて、今の私たちにも引き継がれています。

 

<へブル12:1-2>

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12:1

こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。

12:2

信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。

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私たちは、やがて再び来られる、イエス様の再臨を待ち望んでいます。

 

使徒信条にある、『かしこより来たりて、生ける者と死にたる者とを審きたまわん』 が実行されて、私たちは、すべての苦しみから解放されます。

 

それがいつやって来るのかは解りません。

バビロン捕囚の70年どころではない、はるか先のことかもしれませんし、今日かもしれません。

 

いずれにしても、私たちは、信仰の創始者であり完成者であるイエス様から目を離さず、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けましょう。

 

イエス様が再臨されて、この罪に満ちた世界から解放される日を、待ち望みましょう。

 

 

◆主を信頼して待ち望む

②主は必ず約束を守られる

 

エレミヤ29章と言えば、11節の、

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<エレミヤ29:11 >

わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──【主】のことば──。

それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。

*************

 

この御言葉がよく知られていますね。

 

広い意味では、現代の私たちへの励ましの御言葉とも言えますが、29章の文脈から見ると、バビロンに捕囚された民たちへの語りかけです。

 

バビロン捕囚は、『わざわい』 のように思えるかもしれませんが、そうではなく、『平安を与える計画であり、将来と希望を与えるためのものである』 ということです。

 

<エレミヤ29:12-14>

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29:12

あなたがたがわたしに呼びかけ来てわたしに祈るなら、わたしはあなたがたに耳を傾ける

29:13

あなたがたがわたしを捜し求めるとき心を尽くしてわたしを求めるならわたしを見つける

29:14

わたしはあなたがたに見出される──【主】のことば──。わたしは、あなたがたを元どおりにする。あなたがたを追い散らした先のあらゆる国々とあらゆる場所から、あなたがたを集める──【主】のことば──。

わたしはあなたがたを、引いて行った先から元の場所へ帰らせる。』

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その御言葉の通り、70年後、バビロンを滅ぼしたペルシャのクロス王によって、ユダの民たちはエルサレムに帰還することが出来ました。

 

主は必ず、約束を守られる御方です。

主に呼びかけ、祈り、主に耳を傾けていただきましょう。

心を尽くして主を捜し求め、主を見つけましょう。

主は、『平安と、将来と、希望』 を与えてくださる御方です。

 

「希望」という言葉は、旧約聖書の原語のヘブル語では<へ>תִּקְוָה(ティクバー)と言います。

この言葉の語源は<ヘ>hwq (カバー)で、意味は「待つ」です。

 

動詞では、「期待する」という意味もあります。

つまり聖書の語る「希望」とは「神様からの約束の成就を期待して待つ」ことです。

 

主の教えを喜びとし、与えられた場所で日々主に仕え、期待して主を待ち望みましょう。

 

 

◆主を信頼して待ち望む

③主は良いことをしてくださる

 

私たちの人生は、けっして順風満帆ではなく、クリスチャンでもそうでなくても関係なく困難はやって来ます。

「主よ、なぜですか?!」「主よ、どうしてですか?!」と何度も叫んだ人もおられるでしょう。

特に大切な人を失ってしまった、『喪失』の悲しみは、なかなか癒えるものではありません。

 

鈴木先生が礼拝メッセージでよく引用されている、カリフォルニアのベテル教会の、ビル・ジョンソン、ベニ・ジョンソンご夫妻の話ですが・・・

 

ビルの妻、ベニ(ブレンダ)・ジョンソンが、長い癌の闘病生活の末、今年7月13日に召されました。

7月17日、ビル・ジョンソンは、悲しみが癒えない中、礼拝でメッセージを語りました。

 

痛みと喪失に対処するにはどうすべきか、また、希望を持って悲しむことの重要性について率直なメッセージを語っていましたので、抜粋してご紹介します。

 

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妻のベニが永遠の時のために天に迎えいれられた瞬間は、私の人生の一部が終わった瞬間であり、ひどく心が痛み悲しみました。

 

しかし同時に、私は世界一豊かな人間であると思いました。

それは家族や友人、これだけの教会の家族が祈り、支えてくれているからです。

 

このような痛みの時、愛する人を失った時の「なぜこのようなことが起こったのですか」という痛みと叫びの中でも、私たちは聖書的に嘆き悲しむことを選びます。

 

「なぜこのようなことが起こるのか」という理由について、理解する権利を手放して、慰め主である主にすべて委ね、子どものように主に信頼し、死の影の谷を主と共に歩むこと、それが聖書的な嘆き悲しみです。

 

しかし、多くの人が、嘆き悲しみの中で主と共に歩むことをせず、感情を心の奥底に沈めてしまい、悲しみや感情を健全に管理することができないのです。

 

『望みのない人々のように悲しまないためです』 と第1テサロニケ4:13にあります。

 

キリストにある新生した全ての信者は、すでに甦りの主のうちにあるので、永遠の中にすでに入っているのです。それが希望です。ですから望みのない人々のように、世の悲しみのように悲しむべきではないのです。

私は、神様の慈愛や親切さ、素晴らしさを、何度も体験して知っています。

ですから妻のベニを病で失ったことで、主の御人格を決めることはできません。

 

神様の約束や証で、主の御人格を理解し、受け取り、定義するのです。

私達は多くの証人によって、雲のように取り巻かれているのです。これは真理であり、現実です。

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ご存知の方もいらっしゃると思いますが、亡くなったベニ・ジョンソンは、超自然的な、『とりなしの祈り手』

としてよく知られていました。

 

彼女は、1996年のトロントブレッシングで聖霊体験をしてから、『アラバスタの祈りの家』 をベテル教会に設立し、とりなしの祈りを捧げるようになりました。

 

深いとりなしの祈りによって、聖霊が働かれ、病の癒しをはじめ、たくさんの奇蹟が起こるようになりました。

 

ベニの闘病中も、奇蹟を信じて、たくさんの祈り手たちが、昼も夜も、本当に長い間祈っていたそうです。

家の周りを行進して力強いとりなしの祈りを捧げてくれた人もいたそうです。

しかし彼女の病は、残念ながら癒されませんでした。

 

この、「なぜ?」「どうして?」という、どうしようもない苦しい思いを、夫のビルは手放し、主に持って行き、子どものように主に信頼し、死の影の谷を主と共に歩むことを選びました。

 

なぜ、そのようなことが出来るのでしょうか。

それは、ビルが、『主は、良いことをしてくださる御方』 だということを知っているからです。

ベニ・ジョンソンは、信仰のレースを走り抜きました。病からも自由になりました。

 

ビルは礼拝の最後にこう語りました。

 

「本当に大切なことは、私たちを慰め、愛し、すべてを理解してくださるイエス様の近くに、いつもいることです。私たちは、悲しみの中でも、リバイバルのために、今、すべきことをしっかりとしていけますように。」

 

私たちの目には、どうしようもなく悲しい出来事に見え、私たちの小さな頭では理解できない事であったとしても、すべて神様のご計画のうちであり、希望につながることなのかもしれません。

 

『解らないことを、解らないこととして、受け入れることが出来る。』 これが信仰です。

とてもシンプルですが、受け入れるのはとても難しいことです。

しかし、そうやって幼子のように、主に絶対的な信頼を置くこと、置けることが、何よりの恵みなのです。

 

しかし、そうは言っても、簡単に割り切れないことも多々あります。

『時間薬』 とよく言いますが、時間が経って少し楽になってきたかなーと思っていたら、ふとしたことがきっかけで思い出してしまって、胸が締め付けられるほど苦しくなる時があります。

 

そのような時は、信頼できる人たちに心の内を聞いてもらいましょう。

何も答えが見つからなくても、自分の気持ちを言葉にしていくうちに、気持ちの整理がついてきます。

聞いてもらえるだけで、心が楽になる時もあります。

 

『主は、良いことをしてくださる御方』 です。

共に心をひとつにして主に祈り、主を賛美し、主の栄光を現わして行ける者となりましょう。