コロナ感染者が8万人越えということですが、オミクロン株が変異した『ステルスオミクロン株』というものが出てきました。
この変異種は、PCR検査では判別できないから、『ステルス(内密に)』と名付けられたそうですが、感染力が2倍らしく、まったくもう、次から次へと困ったものですね。
私たちの周りでも、身近な人たちが感染したり、濃厚接触者だということで、学校や仕事を休まなくてはならない人たちが出てきました。
一日も早く、この状況が落ち着くように祈っていきましょう。
さて、本日はエレミヤ書23章からです。
旧約聖書時代の預言者は、神の御言葉を取り次ぐ重要な役割を担っていました。
イスラエルの歴史を見ると、統一王国時代は、ダビデ王、ソロモン王といった華々しい時代がありました。
しかし統一王国分裂後は、近隣諸国との戦いに加え、内乱も多くあり、国力は次第に衰えていきました。
エレミヤは、ヨシヤ王をはじめとした5人の王に仕え、南ユダ王国が滅びるまでの40年間、まさに激動の時代に預言者として活動しました。
本日は、エレミヤ書23章に書かれている、『公正と義と若枝』についてお話したいと思います。
神はエレミヤを通して、ユダの王たちに幾度となく、『公正と義』を行うように警告されましたが、ヨシヤ王以外の4人の王たちは、聞く耳を持ちませんでした。
◆公正と義と若枝
①神の公正と義とは
神はユダの王たちの不義不従順にお怒りになり、王たちを他国に渡し、エルサレム宮殿を破壊しました。
そしてエレミヤの預言通り、ユダの民たちをバビロンに捕囚させました。
それから主は、ダビデ王の子孫から、『公正と義』を行うメシア(救世主)を起こすと言われました。
<エレミヤ23:5>
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見よ、その時代が来る。──【主】のことば──そのとき、わたしはダビデに一つの正しい若枝を起こす。
彼は王となって治め、栄えて、この地に公正と義を行う。
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では具体的に、『公正と義』とは、どういう意味で、王たちはどうすれば良かったのかを考えてみましょう。
『公正と義』いう言葉はワンセットになっていて、エレミヤ書とエゼキエル書に14箇所出てきます。
日本語では、それぞれ聖書の訳によって言葉が違うので、ちょっと混乱します。
新改訳2017では、『公正と義』、以前の新改訳第3版では、『公義と正義』、口語訳では、『公平と正義』、
新共同訳では、『正義と恵みの業』と書かれています。
新共同訳の『恵みの業』以外は、どれも似通った訳で、明確な意味がわかりません。
そういうときは、旧約聖書の原語へブライ語で意味を確かめてみると、なんとなく解ってきます。
最初の、『公正、公義、公平、正義』と訳されている言葉は、原語ヘブライ語では、מִשְׁפָּט(ミシュパート)と書かれています。
- ミシュパートは、法廷用語で、さばき、定め、訴え、権利などを指すことばです。
日本語訳の方に、『公(おおやけ)』という漢字が使われていることからも解るように、ミシュパートには、神を絶対的な主権者、公とした世界、神の国での、『神の統治、支配、計画、導き』という意味があります。
エレミヤの時代の堕落したユダの王たちは、神の統治と守りの中で憐みを受けていたにも関わらず、そのご計画や導きに従おうとしませんでした。
彼らは神を恐れず、ミシュパートを行わなかったのです。
また、『義、正義、恵みの業』と訳されている方の言葉は、原語へブライ語では、צְדָקָה(ツェダーカー)と書かれています。
- ツェダーカーは、神との正しい関り、交わりを意味します。
主は、人間が神の前に義とされて、本来の神との関り、交わりに立ち返ることを望まれています。
ツェダーカーは深い意味としては、『貧しい者、弱者に憐みを示す』といった他者との関りを指します。
『持っている者が、持っていない者を助ける』、『他者のために犠牲を払う』、『施しをする』、という意味から、やがて『救い』を表す言葉となっていきます。
まず、他者との関りや交わりが麗しいものであること、そうであれば、神との関りや交わりも麗しいものとなり、義とされるということです。
新共同訳聖書がツェダーカーを、『恵みの業』と訳しているのは、こういった意味があるからです。
つまり、主が私たちに望んでおられる、『公正と義』とは、
①公正・・・絶対的主権者の統治の中で、そのご計画と導きに従うこと。
②義・・・神と人との関りや交わりを、あらゆる犠牲を払ってでも優先させるということ。
です。
マタイの福音書6:33の、「まず神の国と神の義を求めなさい。」という御言葉の通りです。
先ほど『神の義』は、「神と人との関りや交わりを、あらゆる犠牲を払ってでも優先させる」事だとお伝えしましたが、その具体的な事は、『古い契約』と『新しい契約』によって私たちに示されています。
古い契約は、旧約聖書に記されている、『モーセの律法』であり、新しい契約は、新約聖書に記されている、『イエス様の福音』です。
ユダの王たちは、ミュパートもツェダーカーも行えず、モーセの律法を遵守することはできませんでした。
ですから主は、イスラエルの回復のために、メシアを起こすと言われました。
エレミヤは、主が起こされる『若枝』によって、『公正と義』は行われると、預言しました。
◆公正と義と若枝
②若枝イエス様の大庭に入る
エレミヤは王たちの罪を明らかにし、エレミヤ23:5で、「ダビデに一つの正しい若枝を起こす。」という主の御言葉を語りました。
「ダビデに一つの正しい若枝を起こす」の『若枝』とは、メシアの称号であり、イエス様のことです。
イエス様を表す『若枝』と訳されているヘブライ語は、ここでは、צֶמַח(ツェマハ)ですが、イザヤ書にも、ツェマハではありませんが、『若枝』と訳されている言葉があります。
因みに、『メシア』は、へブライ語です。「油注がれた者」という意味で、救世主のことです。
『メシア』はギリシャ語では、『クリストス』、つまり、『キリスト』です。
イザヤ書で若枝と書かれている箇所を見てみましょう。
<イザヤ11:1,2>
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11:1
エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。
11:2
その上に【主】の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、思慮と力の霊、【主】を恐れる、知識の霊である。
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これは、イスラエル王朝の繁栄と衰退の歴史を木に例えた表現です。
11:1『エッサイ』とは、ダビデ王のお父さんの名前です。
エッサイの根株からダビデ王という立派な木が成長したのですが、その木は南ユダの王と民たちの罪によって、切り倒されて切り株だけになってしまいました。
バビロン捕囚後、ダビデ王の子孫であるゼルバベルが、エルサレムに帰還して神殿を再建しました。
そして、そのゼルバベルの子孫がイエス様を生んだマリアの夫ヨセフとなります。
切り株から新芽が出て、やがてその新芽から若枝が出て成長し、実を結び、以前の栄光を取り戻します。
そしてその時イエス様は、先ほど見てきた『公正と義』を行われます。
『公正と義と若枝』について、イザヤ書とエレミヤ書は、連動しています。
エレミヤ書に戻りましょう。
<エレミヤ23:7-8>
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23:7
それゆえ、見よ、その時代が来る──【主】のことば──。
そのとき、もはや人々は『イスラエルの子らをエジプトの地から上らせた【主】は生きておられる』と言うことはなく、
23:8
『イスラエルの家の末裔を、北の地や、彼らが散らされていたすべての地から上らせた【主】は、生きておられる』と言って、自分たちの土地に住むようになる。」
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『その時代』とは、正確には、イエス様の再臨の時と考えられますので、今はまだその時代ではありません。
しかしすでにメシヤ(救い主)イエス様はこの地上にお生まれになり、十字架の贖いを通して、私たちに恵みを与えてくださいました。
私たちは、やがてイエス様が再臨し、『公正と義』を行ってくださる時を待ち望んでいます。
なぜなら私たち人間は、もともと罪深く、利己的なので、『公正と義』を完全に行うことは不可能だからです。
<ローマ書3:23;24>
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3:23
すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、
3:24
神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。
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それでも私たちは主の憐みを受けて、イエス様を救い主と信じる信仰によって義とされました。
こんなに素晴らしい、イエス様の福音、グッドニュースが目の前にあるのに、気づかない、あるいは見ようとしない人たちが、私たちの周りにはたくさんいます。
今の、この世の中を見ておられる主は、どのように感じておられるでしょうか。
公正と義が行われていないだけではなく、常に戦争、災害、疫病、格差社会、貧困・・・問題だらけです。
私が神学校時代、授業でカトリックのシスターから学びを受ける機会がありました。
そこでの学びでは、アントニー・デ・メロの、『小鳥の歌』という本が使われていました。
その中のひとつのお話に、『黄金の鷲(ワシ)』というお話があります。
内容をかいつまんでお話しします。
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ある男が鷲の卵を発見し、それを裏庭のめんどりの巣に置いた。
鷲のひなは、他のひよこたちと共にかえり、成長した。
鷲は、自分はひよこだと思いこんでいたので、毎日裏庭のひよこたちと同じことをした。
土をひっかき、虫を探し、コッコと鳴いて、ひよこのように翼をばたつかせた。
何年も経って、鷲は年老いた。
ある時、鷲は頭上の雲一つない空に、見事な一羽の鳥が飛んでいるのを見た。
その鳥は、激しい風の中でも、力強い黄金の翼をほとんど動かさず、優雅に威厳に満ちて浮かんでいた。
鷲は、隣の鳥に「あれはなんだろう?」と尋ねた。
隣の鳥は答えた。「あれは鷲だよ。鳥の王様さ。」
「でも、余計なことを考えちゃいけないよ。あんたも私も、鷲とは違うんだからね。」
そこで鷲は、決して余計なことは考えず、自分は裏庭のひよこだと思ったまま死んでしまった。
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学びでは、ここでそれぞれの感想を自由に話します。
まず、この物語を聞いて感じた第一印象について、ディスカッションします。
多くの人が、鷲が鷲だと気づかないで一生を終えたことを残念がっていました。
しかしある人は、「鷲は鷲だと最初から最後まで気づかなかったのだから、それなりに幸せだったのでは?」
と言いました。それもそうかもしれません。
でも、読者の私たちは、鷲だと知っているので、いろいろと考えます。
この鷲自身の問題点について、意見交換します。
「自分はこうだと思い込んでいたのが問題かな。」
「何も考えず、自分の可能性を探す努力をしなかったのが問題かな。」
「鷲だと教えてくれるような仲間がいなかったのが残念。」
「気づくチャンスは何度もあったのに、逃していたのではないか。」
などの意見がありました。
学びでは、「今の自分にも、鷲のような生き方をしている面はないだろうか。それを見つけよう。」
という質問もありました。
私たちは、鷲から離れた視点でこのストーリーを聞いて、心配したり、もったいないことしたなーとショックを受けたりしているわけです。
しかし考えてみれば、主も、このような視点から、私たちの生き様を見ておられるのではないでしょうか。
私たちは、この残念な鷲と同じような生き方をしているかもしれません。
主はそれを見て、心配したり、「あー、もったいない!」とショックを受けたりなさっているかもしれません。
主は素晴らしい賜物を与えてくださっているのに、私たちは全く気づかず生きているのかもしれません。
主は私たちに、人生が変わるような人や出来事との出会いを用意してくださっているのに、チャンスを逃してしまっているのかもしれません。
そうならないように、若枝イエス様から離れず、神の国と神の義を第一にしましょう。
主の大庭に入って主と交わり、主の愛を受けて喜び、祈り、主の御声を聞き逃さないようにしましょう。
そうすれば、主からの大切なメッセージを受け取ることができるはずです。
そして、イエス様の福音を伝えるべき人たちが目の前にいたなら、「他者のために犠牲を払う」神の義を行えるように、備えをしましょう。
◆公正と義と若枝
③生き方を変える勇気
「人の本質はそう簡単には変わらない」と、よく言われます。
犯罪者が繰り返し同じ過ちを犯してしまうとか、依存症だとか、確かにそうなのかもしれません。
しかし、主と共に歩むなら、同じところに留まらず、生き方を変えることは出来ると信じます。
ラインホルド・二ーバー(Reinhold Niebuhr、1892-1971年)というアメリカの神学者がいました。
彼が礼拝の中で何気なく祈った、”The serenity prayer”(平静の祈り)という祈りがありました。
その祈りを、アルコールや薬物依存症などの克服支援をする団体が採用したことから、全米に広がっていきました。
日本では、大木英夫牧師(東京神学大学名誉教授、元聖学院理事長)が紹介して広めました。
大木先生は、アメリカのユニオン神学校で二ーバーに師事され、この祈りも直接教わったそうです。
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THE SERENITY PRAYER
O God, give us
serenity to accept what cannot be changed,
courage to change what should be changed,
and wisdom to distinguish the one from the other
Reinhold Niebuhr
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二ーバーの祈り(平静の祈り)
神よ、
変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ。
ラインホールド・ニーバー(大木英夫 訳)
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この祈りは続きもあるようですが、二ーバーではなく、後の人が付け加えたのではないかと言われています。
変えられないもの、それはたくさんあると思います。
まず、過去は変えられません。親も子も、生まれてきた国も、育った環境も変えることはできません。
私たちには、それらを受け入れるだけの冷静さが必要です。
しかし、未来は変えられるはずです。
未来を変えるためには、勇気が必要です。
苦しいところにいる時こそ、自分を変えるチャンスです。
変わることを恐れず、主に寄り頼み、祈り、助け手を求め、チャンスを逃さないようにしましょう。
主は今も生きて働いておられ、私たちの人生に、意図的に、山と谷、良い時と悪い時とを与えられます。
主は不思議なことに、私たちを同じところに留まらせることはなさらず、常に次のステージへと導かれます。
それは、私たちがどんな状態の時でも主への信仰を捨てることがなく、主の大庭に入り、主の御手の中で、主を愛し、主に仕え、隣人を愛するためではないでしょうか。パウロは言いました。
<ピリピ3:13,14>
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3:13
兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、
3:14
キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。
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後ろを振り返らず、過去の栄光すらも捨てて、目標を目指し、前へ前へと進みましょう。
やがて若枝イエス様が再臨されて、公正と義を行われ、その実を結ばれ、栄光を現わされるその日を信じて、主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきましょう。