エレミヤが預言者として活動したのは、北イスラエル王国がB.C.722年に滅びた約100年後の時代です。
エレミヤは、ヨシヤ王をはじめとした5人の王に仕え、南ユダ王国が滅びるまでの40年間、預言者として活動しました。
エレミヤ書は52章までありますが、年代順には記されていませんので、整理しながら読む必要があります。
主題によって分けた場合、14章-22章は、「捕囚についての預言」が語られています。
おそらく、エホヤキム王の時代だったと考えられます。
南ユダ王国は、なぜ滅びたのでしょうか。
預言者エレミヤを通して語られた神のご計画を、聖書から学んでいきましょう。
◆主が心を探られる
①南ユダ王国の再構築
エレミヤが仕えた5人の王、ヨシヤ、エホアハズ、エホヤキム、エホヤキン、ゼデキヤの時代は、南ユダ王国が滅びに入る時で、大変混乱していました。
聖書には、第Ⅱ列王記、第Ⅱ歴代誌、エレミヤ書の巻末に、一気に畳みかけるように、滅びゆく南ユダ王国の様子が記されています。
ヨシヤ王は、『主の目にかなうこと』を行った良い王でしたが、彼の死をきっかけに、神は南ユダ王国に対してスイッチを切り変えられました。
それまで神は、預言者たちを通して、ユダの民たちに悔い改めるようにと語られ、さばきに猶予を与えておられました。
しかし、ヨシヤ王を除いた4人の王たちは、『主の目に悪であること』を行いました。
彼らは、全く悔い改めようとしなかったので、主はついに、考えを明らかにされました。
それは、『南ユダ王国を滅ぼし、民を敵国に捕囚させて、再構築する』という、驚くべきご計画でした。
神は、ソロモンが築いたエルサレム神殿を破壊し、財産もすべて敵国に渡し、ユダの民もバビロンに捕囚させるという、徹底した再構築を実行に移されました。
<エレミヤ17:3-4>
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17:3
野にあるわたしの山よ。あなたの領土のいたるところで犯した罪ゆえに、わたしは、あなたの財宝、すべての宝物を、高き所とともに、戦利品として引き渡す。
17:4
あなたは、わたしが与えたゆずりの地を手放さなければならない。またわたしは、あなたの知らない国で、あなたを敵に仕えさせる。あなたがたが、わたしの怒りに火をつけたので、それはとこしえまでも燃える。
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そして主は、エレミヤを通してこう語られました。
<エレミヤ17:5-6>
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17:5
主はこう言われる。「人間に信頼する者はのろわれよ。肉なる者を自分の腕とし、心が主から離れている者は。
17:6
そのような者は荒れ地の灌木。幸せが訪れても出会うことはなく、焼けついた荒野、住む者のいない塩地に住む。
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このエレミヤの預言は、南ユダの民にとって、到底受け入れられるものではありませんでした。
そんな民たちに主は、わずかな救いの手を差し伸べておられます。
17章の後半、『安息日をきよく保つなら』エルサレムを滅ぼさないと語られました。
しかし民たちは聞く耳を持ちませんでした。
それどころか民たちは、耳に痛い預言を繰り返すエレミヤを攻め続けました。
そこで主は、ついに敵国である周辺諸国を使って、ご計画を進められました。
最初はエジプトが力を得ていて南ユダを支配しようとしました。
しかしそのうち、新バビロニア王国が優勢になり、エジプトは南ユダから手を引きました。
そして南ユダは新バビロニア王国によって滅ぼされ、民たちは首都のバビロンに捕囚されました。
捕囚の年数は70年だと、エレミヤは預言しています。
<エレミヤ25:11>
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この地はすべて廃墟となり荒れ果てて、これらの国々はバビロンの王に七十年仕える。
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捕囚期間の70年間は、捕囚から70年と数えるのではなく、ヨシヤ王が死んだB.C.609年から始まり、ペルシャのクロス王の勅令によって、ユダの民たちがエルサレムに帰還するまでの70年間となります。
- B.C.609年:ヨシヤ王、メギドの戦いで戦死
- B.C.586年:エルサレム陥落。ユダ王国が滅亡。ユダの民バビロンに捕囚されました。
- B.C.539年:新バビロニア王国がペルシャ王国に滅ぼされました。
そして、ユダの民はエルサレムに戻ってきました。
こうやって聖書を読めば、このバビロン捕囚は、神が定められたご計画だと理解できます。
しかし、当時の王や民たちには、エレミヤの預言は信じがたいものでした。
神から選ばれているこの国が、我々が、滅びるはずなどないと考えていました。
エレミヤ自身も、大胆な主の再構築のご計画に、驚いていたのではないでしょうか。
主とエレミヤの対話や、エレミヤの嘆きから、その様子がうかがえます。
エレミヤはこの頃、預言者としてすでに20年ほど活動していました。
ヨシヤ王の宗教改革のサポートもしました。
しかし、このご計画は、宗教改革などを通り越して、斜め上を行く、ものすごい破壊力のあるものでした。
エレミヤは、主の御言葉を取り次きながらも、自分の頭と感情がついていかない、そんなパニック状態だったのではないかと思われます。
考えれば考えるほど、エレミヤは大変な激動の時代に召された、『涙の預言者』でした。
ここで、神の御心に背いた王たちについて、考えてみましょう。
◆主が心を探られる
②闇に落ちた王たち
ヨシヤを除いた4人の王は、神のご計画に従って、バビロンに捕囚されるべきだったのですが、従わずに次々と命を落としました。
エレミヤが仕えた5人の王について、少し整理してみましょう。
まず、それぞれ名前には意味があります。
特に、エホアハズ、エホヤキム、エホヤキンは名前が似ているので、聖書を読んでいて混乱した方も多いのではないでしょうか。
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- 5人とも、「ヤハウェ」というイスラエルの神の名前がついています。
聖四文字と言われる文字、יהוהで表されますが、イスラエルでは、みだりに神の名を呼んではいけないので、聖書にこの文字が出てくると「アドナイ」と隠語で音読します。
①ヨシヤ:ヤハウェが助ける(ユダ王国第16代王)
②エホアハズ(ヨアハズ):ヤハウェが握る(ユダ王国第17代王)
③エホヤキム:ヤハウェは起き上がらせてくださる(ユダ王国第18代王)
④エホヤキン:ヤハウェが設立する(ユダ王国第19代王)
⑤ゼデキヤ:ヤハウェは我が正義(ユダ王国第20代王、最後の王)
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5人とも神の名を頭に頂いた立派な名前ですが、ヨシヤ以外は、『主の目に悪であること』を行った王でした。ヨシヤ以外の王たちの顛末を見てみましょう。
【列王記Ⅱ23-25章、歴代誌Ⅱ36章、エレミヤ52章から】
②エホアハズ:ヨシヤの子。ヨシヤがメギドで戦死(B.C.609年)した後、23歳で王となり、3か月間統治。エジプト王によって廃位させられ、エジプトへ連れて行かれ、そこで死ぬ。
③エホヤキム:ヨシヤの子。エジプト王によって「エルヤキム」から「エホヤキム」に改名され、王とされる。25歳で王となり、11年間統治。バビロン王ネブカデネザルに反逆し、青銅の足かせにつながれバビロンに連れて行かれる。
④エホヤキン:ヨシヤの孫。エホヤキムの子。18歳で王となり、3か月間統治。バビロン王ネブカデネザルに降伏し、家族や家臣とともに捕虜となり、バビロンに連れて行かれた。(B.C.597年。最初の捕囚)37年後に釈放され、バビロンで他の王たちよりも高い位を受け、一生生活費を支給された。
⑤ゼデキヤ :ヨシヤの子。バビロン王によって王とされる。21歳で王となり、11年間統治。最後の王。バビロン王に反逆した。エルサレムに飢饉が起こる。息子や家臣たちはバビロン王によって虐殺された。ゼデキヤは目をえぐり取られ、青銅の足かせにつながれバビロンに連れて行かれた。彼は死ぬまでバビロンの獄屋に入れられた。(エレミヤ52:10-11)
B.C586年エルサレム陥落。ユダ王国滅亡。
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ヨシヤ王が戦死してからユダ王国が滅亡するまでは、わずか23年ほどの出来事でした。
彼らは、『主の目に悪であること』を行った王でしたので、自分の肉の思いを優先し、主から心が離れていました。
エレミヤ17:6で神が言われたように、「そのような者は荒れ地の灌木。」であり、「幸せが訪れても出会うことはなく」「焼けついた荒野、住む者のいない塩地に住む。」の言葉通りの顛末となりました。
ただ、エホヤキンだけは、バビロンで37年後に釈放され、他の王たちよりも高い位を受けて一生生活費も支給され、優遇されました。
もしかしたら、バビロンに抵抗せず、さっさと降伏して捕虜になった、つまり神のご意志に抵抗しなかった結果そうなったのかもしれません。
ただそれが、エレミヤの預言に従ったのか、臆病だったので抵抗しなかっただけなのかはわかりませんが、多少なりとも、神の憐みがあったということなのかもしれません。
エホヤキンは18歳で捕虜になって、37年投獄されたなら、釈放された時は55歳ですね。
釈放までちょっと長かったけれど、まあ良かったですね。
このように、闇に落ちた王たちのことを考えると、神のご計画やご意志を理解するというのは、すこぶる困難であること、そしてそれに従うということが、さらに難しいことである、ということが解ります。
私たちが置かれているこの現代にも、神のご計画とご意志が働いておられることは間違いありません。
私たちは、神の御声を聞き逃してしまってはいないでしょうか。
もしかしたら、いろんな場面で、間違った選択をしているのではないだろうかと不安が頭をよぎります。
全人類を脅かしている大きな問題、コロナパンデミックは、神がご計画されている再構築なのでしょうか。
何が正解かわからない混乱した状況の中で、エレミヤのように、頭と感情がついていかない自分がいます。
いつかはっきりと答えが解る時が来るのでしょうか。
戸惑う私たちに、主はこのような御言葉をくださっています。
<エレミヤ17:7-8>
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17:7
主に信頼する者に祝福があるように。その人は主を頼みとする。
17:8
その人は、水のほとりに植えられた木。流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、実を結ぶことをやめない。
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主に信頼するとは、どういうことでしょうか。
主は、主を頼みとする人は、「水のほとりに植えられた木」だと言われます。
いのちの水である主のほとりに植えられた人は、暑さや日照り、つまり、様々な攻撃や困難に見舞われても葉は茂り、心配することなく豊かな実を結ぶと言われます。
「水のほとりに植えられた木」のように、日々聖書の御言葉からいのちを頂き、御霊から活力を得て、さらに流れのほとりに根を伸ばし、豊かな実を結べるように、祈っていきましょう。
そうするならば、私たちがそれぞれ置かれている場所で、何をすべきか見えてくるのではないでしょうか。
◆主が心を探られる
③ねじ曲がった心からの脱却
<エレミヤ17:9>
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人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒やしがたい。だれが、それを知り尽くすことができるだろうか。
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これは新改訳2017の訳ですが、他の訳も見てみましょう。
【新改訳第3版】
人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。
【口語訳】
心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。
【新共同訳】
人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか。
どの訳も人の心が問題にされています。
人の心は何にもまして、「ねじ曲がって」いて、「陰険」で、「偽るもの」であり、「とらえ難く病んで」います。
この「ねじ曲がる」は、原語のヘブライ語では、形容詞の「アーコーヴ」(עָקֹב)という言葉が使われています。
この言葉の動詞は、「アーカヴ」(עָקַב)で、「かかとを掴む」「騙す」「押しのける」「出し抜く」という意味です。
何か聞き覚えがあるなと思ったら、兄エサウから長子の権利を奪ったヤコブの名前の由来となっている言葉でした。(創世記25,27-35章)
ヤコブは名前の通りの狡猾な性質を持っていました。
神の目から見ると、人は皆ヤコブと同じく、「アーコーヴ」(עָקֹב) 「何にもましてねじ曲がった心を持っている」というのです。
確かに、人の性とは、生まれつき、そういったものだと思います。
<エレミヤ17:10>
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わたし、主が心を探り、心の奥を試し、それぞれその生き方により、行いの実にしたがって報いる。」
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主は私たちの心を探られます。心の奥を試されます。
多分、私たちが自分で気づかない奥深いところまで、主は探られ、試されます。
それは、それぞれの生き方に表されて行きます。
大切なのは、私たち人間が、どんなに愚かで無力であるかということに気づくことです。
反対に、神は全治全能である御方です。
主が私たちに望まれることは、ただ一点のみです。
17:7 に、「主に信頼する者に祝福があるように。その人は主を頼みとする。」とあるように、いかに主に信頼して従うかということです。
狡猾だったヤコブは主によって造り変えられました。
兄エサウから長子の権利を奪って逃走中、ヤコブの夢に主が現れました。(後にベテルと名付けた場所)
<創世記28:15>
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見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」
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ヤコブは20年間、ハランに住む叔父ラバンの下で苦労を重ねましたが、主に守られて財産を得て独立し、主が言われた通り、カナンの地に戻る準備を整えました。
兄エサウとの和解の前夜、ヤコブはヤボク川の渡し(のちにペヌエルと名付けた場所)で神と格闘し、勝利したことから、新しく「イスラエル(神に勝つもの)」という名前を神からいただきました。(創世記32:28)
主は彼に12人の息子を与え、生涯を祝福されました。
『ねじ曲がった心からの脱却』それは、ヤコブの生き方に見ることができます。
ヤコブの『ねじ曲がった心』は、『欲深く、狡猾で、執念深い心』を生み出しましたが、主と交わったことにより、それが大きな利点となりました。
『欲深く、狡猾で、執念深い心』が、『信仰あつく、知恵に満ち、あきらめない心』へと変えられたのです。
大和カルバリーチャペルの大川先生は、「マイナスは必ずプラスに変わる!」と、いつも宣言されていますが、本当にそうだと思います。
私たち人間には、完璧な人などいません。
自分の嫌な部分など、山ほどあると思います。
しかし、主と深く交わるならば、主は私たちの欠けた部分を長所として生かしてくださり、マイナスをプラスに変えてくださいます。
また、欠けた者同士であっても、主が潤滑油となってくださって、その欠けを補ってくださり、強固に組み合わさる『キリストのからだ』としてくださいます。
私たちの心は、何よりもねじ曲がっていて、それは癒やしがたいですが、闇に落ちた南ユダの王たちのような道を歩まず、深く自分自身を見つめ直し、生き方と行いについて考えてみましょう。
「主に信頼する者に祝福があるように。その人は主を頼みとする。」の御言葉どおり、主により頼む人生を選び、力強く歩んでいきましょう。