2021.1.31「ただ主を誇る エレミヤ書9:23-24」

新型コロナウィルスの感染拡大が勢いを増し、二度目の緊急事態宣言も期間延長されそうです。

さらに気持ちを引き締めて、感染防止対策を行っていきましょう。

 

私事ですが、先日4日ほど入院して眼球の位置を矯正する手術をしてきました。

20代に発症した筋肉の難病が原因で、眼の周りの筋肉が弱くなって目の位置がずれてきたからです。

 

手術は、眼に部分麻酔をかけて、眼球の筋肉に糸をかけて引っ張って縫うというものです。

私は普通の人より眼筋が委縮して細く硬くなっているので、引っ張る時に、それはそれは痛かったんです。

 

痛みを我慢するあまり、私は息をすることを忘れてしまいました。

それで、酸素が身体に行き渡らなくなり、徐脈になって心拍数が30まで下がりました。

 

ちょっとヤバい(召され気味な?)状態になったみたいです。

ドクターに何度も、「毛利さん、深呼吸してください!」と身体をたたかれながら言われました。

アトロピンという薬を点滴注入されて、なんとか60まで戻ったらしいのですが・・・。

 

その時に気づいたことがひとつありました。

それは、「痛みを我慢しすぎない!」・・・ということです。

私の場合は、肉体の痛みでしたが、これは心の痛みにも言えることだと思ったんです。

「我慢しすぎると、息が止まっちゃうよ。」ということです。

 

我慢強い人は特に気をつけてください。

「まだ大丈夫!」と思っていても、もうとっくに心も身体も限界で、悲鳴を上げているということがあります。

痛みを我慢しすぎないで、深~く息を吸って、主の愛の御手の中で、心も身体も労わってあげてください。

 

さて、本日は、エレミヤ9章23-24節から、「ただ主を誇る」と題してメッセージします。

パウロも、エレミヤのこの箇所を引用して、「誇る者は主を誇れ」と語っています。(1コリ1:31、2コリ10:17)

では、パウロも言っている、「誇るべき主」とはどのような御方なのでしょうか。

 

◆ただ主を誇る

①主を知っていることを誇る

 

<エレミヤ9:23-24>

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9:23

──主はこう言われる──知恵ある者は自分の知恵を誇るな。力ある者は自分の力を誇るな。富ある者は自分の富を誇るな。

9:24

誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。わたしは主であり、地に恵みと公正と正義を行う者であるからだ。まことに、わたしはこれらのことを喜ぶ。──主のことば。』」

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23節で主は、知恵ある者、力ある者、富ある者は、それらを「誇るな」と言われています。

人は、「知恵、力、富」を持っていると、それらを誇ろうとします。

しかしこれらはすべて主から与えられた賜物であり、主の導きによって得たものに過ぎません。

「自分の努力で得た」と思うのは間違いで、その努力すらも、主の守りがあってこそ発揮できるものです。

 

エレミヤの時代の背景を見てみましょう。

サウル、ダビデ、ソロモンが統治したイスラエル統一王国は、その後北と南に分裂しました。

そして北イスラエル王国は、B.C.722年に滅亡しました。

残った南ユダ王国も滅びに向かおうとしていました。(B.C.587年)

 

主は預言者エレミヤを通して南ユダの民に何度も警告をしましたが、彼らは聞き入れませんでした。

 

<エレミヤ9:13-14>

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9:13

主は言われる。「それは、彼らが、わたしが彼らの前に与えたわたしの律法を捨て、わたしの声に聞き従わず、律法に歩まず、

9:14

彼らの頑なな心のままに歩み、先祖たちが彼らに教えたバアルの神々に従って歩んだからだ。」

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南ユダは、エジプトや中東の近隣諸国に挟まれる場所にあり、常に緊張がありました。

この地は、神がアブラハムの子孫に与えられた約束の地、「カナン」です。

ここは、「乳と蜜の流れる地」と言われ、肥沃な土地であり、地中海、ヨルダン川、死海に挟まれて、貿易なども盛んな便利な場所でした。

 

ですから近隣諸国は、このカナンを手に入れたいと虎視眈々と狙っていました。

神は敢えて、このような危険の多い場所をイスラエルの民に与えられました。

それは、どんなに危険が迫ったとしても、神をとことん信頼し、神のみに従う心を教えようとされたからです。

 

しかし現実には、大国からの勢力に恐れをなしたイスラエルの王たちは、神ではなく、その時々に強い国に助けを求めてきました。

そして、真の神のおしえを捨てて、主の声に聞き従わず、バアルの神々に従って歩んでいました。

 

バアルの神は、農作物の豊穣をもたらす神で、雨、霧、露などの自然を支配すると言われています。

遺跡から発掘された像を見ると、右手に棒を持ち、左手に稲妻を持っていたようです。

イスラエルの神はこのような見える形では姿を現わされないので、わかりやすい偶像崇拝ですね。

時には、聖書の神が禁じている、残酷な人身御供(ひとみごくう)なども行ったようです。

 

第一列王記18章には、預言者エリヤがバアルの預言者たちと戦って圧勝した記述があります。

バアル神は真の神ではないので、イスラエルの神には勝てるわけがないのです。

 

それなのに、愚かな南ユダの民たちは、バアル神礼拝を辞めようとしませんでした。

彼らは頑なな心のままで歩み、主を知ろうとしませんでした。

そこで主は南ユダを「絶ち滅ぼす」と、さばきの宣告をされました。

 

現代の私たちの周りにも偶像がいっぱいあります。

なにしろ日本には八百万の神がいるらしいので、私たちは無意識に偶像崇拝をしているかもしれません。

そういえば、もうすぐ2月11日『建国記念日』がやってきます。

「わーい!祝日だー!休みだー!」と何も考えずに祝日を楽しまれている方が多いと思いますが、これもまた、『国家神道』という偶像崇拝がベースになっていた歴史があります。

 

2月11日は「日本という国が建国された日」ではありません。「の」がついていますので、「建国をしのび、国を愛する心を養う日」ということで、1966年(昭和41年)に定められました。

 

元はと言えば、明治政府が、初代の天皇だと言われる、『神武天皇』の『即位日』(B.C.660年)を『紀元節』として祝日に定めたことが始まりです。

しかし神武天皇の存在は史実的な裏付けはされておらず、つまり神話に過ぎないと考えられています。

 

問題は、天皇を中心とする『国家神道』の存在です。

明治政府は、『天照大神(あまてらすおおみかみ)』が祭られている伊勢神宮を、全国の神社の総本山として、神社の統廃合を行い『国家神道』としました。

 

『国家神道』は『国教』とされ、天照大神が祖先であるという天皇を、神として崇めるようになりました。

先の大戦では、キリスト教をはじめ、政教分離をとなえる他宗教を弾圧し「信教の自由」が奪われました。

そして、神である天皇のために、また、お国のためにと、多くの人々が洗脳されて命を落としました。

 

敗戦後、GHQによって『国家神道』は解体されましたが、完全に消滅したわけではなく、再び『紀元節』を復活させようという動きがありました。

負の歴史を繰り返させまいとする反対派の抗議運動を受けて、2月11日は『紀元節』に基づく「建国記念日」ではなく、「の」をつけて、『建国記念の日』として1966年に制定されました。

 

『建国記念の日』の制定については、今でも数多くの反対派がいます。

日本のキリスト教諸教会では、2月11日は『信教の自由を守る日』と名前を変えて、祈る日となっています。

 

私たちは、南ユダの民たちのように、「知恵、力、富」などの利得を貪る人に翻弄されないように、また、無意識に偶像崇拝を重ねてしまわないように、充分気をつけたいものです。

 

エレミヤ9:24に戻ります。

「誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。」は、新共同訳では、

「むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい/目覚めてわたしを知ることを。」と訳されています。

 

新改訳2017で、「悟りを得て」と訳されているところが、新共同訳では、「目覚めて」と訳されています。

これは意訳ですが、「悟りを得る」だと、自分自身の力で得るもののように思えますが、「目覚めて」だと、眠っていた霊が主によって目覚めさせていただくという、本来ここで聖書が言わんとしている意味に近づきます。

 

ここは、ものすごく大切なポイントです。

「神を知る」の「知る」は、「信じること」「信頼すること」と同義語で、これもまた自分自身の力ではなく、神に与えていただくものなのです。

 

「信仰」とは、人間の主観的な思い込みではありません。

神から与えられる「悟り」「目覚め」なしには、決して得られません。(新約の時代からは、聖霊によって)

ですから、主はエレミヤを通して、「わたしを知っていることを誇れ」と語られたのです。

 

まだ目覚めていない、主を知らないという方もおられるでしょう。

イエス様は言われました。

<マタイ7:7>

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求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。

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「求めるなら、探すなら、たたくなら」、目覚めて神を知る時が必ず来ます。

その時を信じて待ち望みましょう。

 

◆ただ主を誇る

②神の恵み(ヘセド)を誇る 

 

エレミヤ9:24の中間部分です。「わたしは主であり、地に恵みと公正と正義を行う者であるからだ。」

この「恵み」と訳されていることばは、ヘブル語では、חֶסֶד(ヘセド)と言います。

 

ヘセドは、旧約聖書の中では230回も使われている言葉です。

「愛、憐み、慈しみ」という意味もありますが、日本語には訳しきれないほどたくさんの意味を含んでいます。

 

特徴としては、ヘセドには、「神との人格的な関係」も含まれているということです。

神と人とは、聖書に書かれている通り、たくさんの「契約」によって結ばれています。

「契約」というと、無機質な取り決めのようなイメージがありますが、神の契約は、「神と人とを結ぶ愛と交わり」です。ヘセドには、そのような意味があります。

 

またヘセドには、「その愛と交わりに対する誠実さ」という意味もあります。

人には、神と人とを結ぶ愛と交わりである「神との契約」に、とどまり続ける誠実さ、責任があります。

 

旧約時代のヘセドは、神とイスラエル民族という選ばれた民との関係の中で行われましたが、新約時代には、神と個人との関係になっていきました。

いずれにしても、聖書の神と人との関りは、とても人格的で深いものがあります。

 

では、私たちの身近にある宗教はどうでしょうか。

古代インド哲学や仏教思想を特徴づける言葉として、『輪廻転生』、『因果応報』があります。

『輪廻転生』の世界観は、現世で生きている自分の肉体が滅んで死を迎えた後、魂がなんらかの形を持って、また現世で生まれ変わるというものです。

 

その生まれ変わりは、人だけではなく、動物や虫かもしれないというもので、業(ごう)と呼ばれる現世での行い、カルマによって決められるそうです。これは『因果応報』です。

 

このように、限りなく生と死を繰り返す『輪廻転生』は、本来は苦行、苦しみです。

「生まれ変わったら、〇〇になりたい。」とか、「前世は〇〇でした。」とか、世間ではよく話題に上りますが、実はこれ、生まれ変わっている間は、苦行の真っ最中なのです。

 

この苦しみから解放されることを、解脱と言います。

解脱とは、悟り、無我の境地にたどり着くことですが、その完成形がどのような形なのかは悟りを開いた人にしかわかりません。

 

キリスト教には、このような思想はありません。

神は、愛をもって、ひとりひとりを創造してくださり、人はこの世に生まれます。

肉体が滅びても私は私のままです。

この世とあの世をぐるぐる廻ったりはしません。一直線です。

聖書には死後の道は、ふたつであると書かれています。

救われて、『永遠のいのち』を得る道か、滅びの道に入り、『永遠の刑罰』を受けるかです。

 

まだ未信者だった頃の私は、この『永遠のいのち』を重く感じました。

自分という存在が永遠に続くことに抵抗がありました。

 

人生は山あり谷ありです。

飛び上がるほど嬉しい時もあれば、どん底で、たまらなく自分を惨めに感じることがあります。

私には、「この世の人生が終わったら、こんな自分とはさっさとおさらばしたい!」という気持ちがありました。

 

しかしこれは、ものすごく的外れな考えでした。

<エペソ2:10>

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実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。

神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。

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私たちは、創造主なる神の作品として、誰かのコピーではなく、唯一無二の存在として造られました。

私たちは主に愛され、いつくしみと恵みを受けて、良い行いをするために、イエス様にあって造られました。

 

神の作品である私が、「自分とはおさらばしたい」と考えることは、神を悲しませてしまうことになります。

神を悲しませることは、「良い行い」とは言えません。

 

主は、生まれる前からずっと、個人的に、しかも人格的に私たちひとりひとりに関わってくださっているのですから、私も神との契約にとどまり続ける誠実さ、責任を持ちたいと思うのです。

 

私たちがこの世で生きることは、確かに苦行であることは仏教思想と変わりません。

しかし私たちが自分の不甲斐なさに飽き飽きしていたとしても、神は違います。

 

神の作品として、特別に大切に思ってくださり、苦難の時もともに歩んで励ましてくださる御方です。

ですから、私は私であることに責任を持って、神の愛と交わりに対して誠実でありたいと願います。

 

永遠に主とともに生きるために、神がくださった新しい契約は、イエス様です。

父なる神は、「御子イエスを救い主として受け入れて信じる」という、ただその信仰だけで、私がたとえどんなに無様な生き方をしようとも、すべてを愛して受け止めてくださる御方です。

 

その不甲斐ない私は、この世の人生が終わった時、あたたかい主のふところに飛び込んで安らぐのです。

それが、主の恵み(ヘセド)です。神の恵み(ヘセド)を誇りましょう!

 

◆ただ主を誇る

③神の公正(ミシュパート)と正義(ツェダーカー)を誇る

 

エレミヤ9:24の中間部分の続きです。

「わたしは主であり、地に恵みと公正と正義を行う者であるからだ。」

主はご自身を、「公正と正義を行う者」だと語られました。

公正は、へブル語で מִשְׁפָּט (ミシュパート)、正義はצְדָקָה (ツェダーカー)と言います。

ミシュパートは、「さばき、定め、訴え、権利」という神の統治支配を表す法廷用語です。

ツェダーカーは、「まっすぐに筋が通っている」という、神の救いを表す言葉です。

どちらも、「神の義」を表すことばです。

「神の義」というのは、倫理的な正しさというよりも、関係的な正しさ、神との信頼関係だと言えます。

 

パウロは、「福音には神の義が啓示されている」と言いました。

<ローマ人への手紙 1:16-17>

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1:16

私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。

1:17

福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

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イエス様は、「まず神の国と神の義を求めなさい」(マタイ6:33)と言われました。

イエス様こそ、「神の国」という神の統治の中で、「神の義」、神との信頼関係を第一とされた御方です。

 

ですから、イエス様の福音には、神の義が掲示されているとパウロは語りました。

イエス様を信じる信仰による神の義です。

 

イエス様は、存在されたかどうかわからないような神話の神ではありません。

真の神であるイエス様が、真の人となってこの地上に降誕されました。

 

<Ⅰヨハネの手紙 1:1>

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初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。

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そして、人となられたイエス様の声を人々は聞き、目で見て、じっと見つめ、さわることもできました。

イエス様は、滅びの道へと突き進む全世界の人々の救いのために、十字架に架かってくださいました。

なんという恵みでしょうか。

私たちも、まず神の国と神の義を求めましょう。

 

南ユダの民たちのように、神を悲しませることがないようにしましょう。

私たちは、一生懸命生きていても、間違った道にそれて回り道をしてしまうことがあります。

それでも主に信頼して、主から離れずに歩んでいる人たちを、主は受け止めて肯定してくださいます。

 

主によって目覚めて悟りを得、主を知っていることを誇りましょう。

地に恵みと公正と正義を行う主を誇りましょう。

 

エレミヤ9:24後半、「わたしはこれらのことを喜ぶ。」と主が言っておられます。

 

主と顔と顔を合わせるその時を期待して、ただただ主を誇りましょう。