2020.2.16「マラキの預言エリヤの日 マラキ書4:2-6」

◆聖書箇所: マラキ書4章2-6節 (聖書引用:新改訳2017)

4:2

しかしあなたがた、わたしの名を恐れる者には、義の太陽が昇る。その翼に癒やしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のように跳ね回る。

4:3

あなたがたはまた、悪者どもを踏みつける。彼らは、わたしが事を行う日に、あなたがたの足の下で灰となるからだ。──万軍の主は言われる。

4:4

あなたがたは、わたしのしもべモーセの律法を覚えよ。それは、ホレブでイスラエル全体のために、わたしが彼に命じた掟と定めである。

4:5

見よ。わたしは、主の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。

4:6

彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、この地を聖絶の物として打ち滅ぼすことのないようにするためである。」****************************************************************************

 

本日鈴木先生は、井上眞一先生が牧会しておられる兵庫県明石市の「ベテル清水教会」に招かれて、ご奉仕に行かれています。井上眞一先生は、神学生時代に、この亀有教会に派遣されて仕えておられました。

 

ベテル教会のHP に、「1987年4月~亀有教会で神学生として奉仕」と書かれていました。

ちょっと調べました(笑)

鈴木先生が座間教会から亀有教会に赴任してこられたのも1987年5月なので、ほぼ同時期ですね。

33年に渡るお付き合い、さぞ懐かしい話に花が咲いていることでしょう。

 

さて、一昨年から12の小預言書を順番に語らせていただいていますが・・・・

ついに、今日は最後の預言書「マラキ書」になります!パチパチパチ!

 

マラキ書は小預言書としても最後の書ですが、旧約聖書の最後の書としても知られています。

みなさんが持っている聖書のマラキ書の最後のページをめくると、新約聖書の目次が出てきますね!

 

旧約聖書の最後に記されている「マラキ書」は、エズラ、ネヘミヤの時代と重なっています。

捕囚帰還後のエズラ、ネヘミヤの混沌とした時代に、最後の預言者であるマラキによって、神の契約の実現を待ち望むことが語られています。

 

「待ち望む」という言葉は、聖書にたくさん書かれていますが、特に詩篇やイザヤ書をはじめ、旧約聖書に多く出てきます。

 

旧約時代の民たちは、ふたつのことを待ち望んでいました。

ひとつは、メシヤ(救い主)が到来(初臨)すること。

もうひとつは、終わりの日(終末)にメシヤが再臨されて、すべてが回復されて祝福されることです。

 

本日は、この「神の契約の実現を待ち望む」という視点から、マラキ書を見ていきましょう。

◆神の契約の実現を・・・①待ち望めなかった祭司と民(マラキ書1-2章)

 

マラキ書は、神と、神の民との契約関係が前提にあって語られています。

神はイスラエルの民との間に、アブラハム契約、モーセ契約(シナイ契約)、ダビデ契約など、たくさんの契約を結ばれました。

 

しかし、祭司や民たちは、神の契約の実現を待ち望めませんでした。

この、神の契約の実現を待ち望む姿とは、どのような姿なのでしょうか。

それは、神と民との関係が、いのちに満ちた生きた関係で結ばれているという姿です。

 

<マラキ1:1-2>

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1:1

宣告。マラキを通してイスラエルに臨んだ主のことば。

1:2

「わたしはあなたがたを愛している。──主は言われる──しかし、あなたがたは言う。

『どのように、あなたは私たちを愛してくださったのですか』と。

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マラキの預言は、「わたしはあなたがたを愛している。」という主の民たちへの愛の宣告から始まります。

主が「愛している」と言ってくださっているのに、民たちは『どのように、あなたは私たちを愛してくださったのですか』と反論します。民たちは神の愛を感じられなかったのです。

 

マラキ書の文体は、このように対話(討論)形式がとられています。

主が民たちに呼びかけて、それに対して民たちが「なぜ」「どのように」と反論し、それに主が答えて宣告するといった形ですので、マラキの時代の神と民たちとの関係がよくわかります。

 

マラキの時代は、バビロン捕囚から帰還して100年、第二神殿の再建から80年ほど経っていました。

神殿を再建した後しばらくは、その奇蹟的な出来事のゆえに祭司も民たちも忠実に主に従っていました。

しかしゼルバベルのような強力な指導者や、民たちの霊を奮い立たせて勇気づけたハガイやゼカリヤのような預言者たちは、時代とともにいなくなってしまいました。

祭司や民たちは次第に主への感謝の心を失い、神の愛を感じられなくなりました。

 

マラキによると、祭司たちは、汚れた捧げものを主の祭壇にささげて主をさげすみました。(1:6-14)

そして、律法を都合よく解釈して忠実に教えず、多くの者をつまずかせました。(2:1‐9)

「レビとの契約を損なった。」と主は仰せられました。

レビ族は代々祭儀に関わる奉仕を担っていたからです。

 

また、民たちは異教徒との雑婚や、契約の妻を裏切って離婚するといった不誠実を行っていました。

契約の不履行は罪である、とマラキは語っています。(2:10-16)

 

第二神殿再建の奇蹟から80年。たった80年で!・・・と聖書の読者である私たちはそう思ってしまいますが、民たちの立場に立てば、80年は短いようでとても長いです。人の一生分くらいの長さです。

 

祭司や民たちの葛藤が想像できます。

マラキの前の書、ゼカリヤ書14章で預言された、「主の日が来る。」という約束はいつ成就するのだろうか。

ゼルバベルがメシヤ(救い主)だったとしたら、主の日はすぐに来るはずではないのか。

それともゼルバベルはメシヤではなかったのだろうか。

主の日には、ハルマゲドンの戦いが始まり、主が再臨され、エルサレムのオリーブ山に降り立つという預言、

そして千年王国の新しい世界が始まるという預言は、いったいいつ成就するのだろうか。

・・・本当に主の日は来るのだろうか。

 

そのような疑問を抱いているうちに、「自分が生きている間には、主の日は来ないだろう。」と、結論づけてしまったのかもしれません。

そして民たちは、日々の生活に追われ、主の契約の実現を待ち望むことを忘れ、主から離れた生活を始めてしまったのでしょう。

 

イスラエルの民たちは、過去にもこのようなことを繰り返していますが、大きな思い違いをしていました。

「主の契約の実現を待ち望む神の民の姿勢」というのは、「自分が生きている間に、たとえ主の日が来ても来なくても、自分の一生涯をかけて待ち望むことを貫く」ということなのです。

 

同じように私たちも、待ち望む姿勢について思い違いをしてはいけません。

私たちは旧約の民とは違って、すでにメシヤであるイエス様が初臨された後の時代に生きています。

「メシヤの到来」という、ひとつめの契約が成就したことを見ています。そこは本当に恵みです。

 

ですから私たちは、ふたつめの、イエス様の再臨、主の日が必ず来ることをひたすら信じて待ち望みます。

主の日は今日来るかもしれないし、私たちが生きている間には来ないかもしれません。

それでも一生涯かけて待ち望みます。

 

なぜなら、その待ち望む姿こそが主への捧げものであり、その捧げものを主が喜んでくださるからです。

私たちにとって、いのちに満ちた生きた関係で主と結ばれることが、生きる希望となるからです。

 

ヘブライ語で「待ち望む」は、<ヘ>קָוָה(カバー)と言います。この言葉から派生してできた言葉が「希望」です。「希望」はヘブライ語で<へ>תקווה(ティクバー)と言います。

つまり聖書の語る「希望」とは「神様からの約束の成就を期待して待ち望む」ことです。

 

では、待ち望む者は何をして待ち望めば良いのでしょうか。

 

◆神の契約の実現を・・・②待ち望む者の務めとは(マラキ書3章)

 

<マラキ3:1,2>

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3:1

「見よ、わたしはわたしの使いを遣わす。彼は、わたしの前に道を備える。あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、彼が来る。──万軍の主は言われる。」

3:2

だれが、この方の来られる日に耐えられよう。だれが、この方の現れるとき立っていられよう。まことに、この方は、精錬する者の火、布をさらす者の灰汁(あく)のようだ。

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3章の1節はメシヤの初臨を、2節は再臨を表しています。

1節の「わたしはわたしの使いを遣わす。彼は、わたしの前に道を備える。」とは、イエス様に洗礼を授けた、バプテスマのヨハネのことだと考えらえます。

マタイの福音書11:10では、イエス様ご自身がそのように語られました。(関連箇所マルコ1:2,ルカ1:76)

 

また、「あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、彼が来る」とは、イエス様の初臨のことです。

そして、打って変わって2節は、終末のさばきの様子が語られました。

 

<マラキ3:3,4>

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3:3

この方は、銀を精錬する者、きよめる者として座に着き、レビの子らをきよめて、金や銀にするように、彼らを純粋にする。彼らは主にとって、義によるささげ物を献げる者となる。

3:4

ユダとエルサレムのささげ物は、昔の日々のように、ずっと以前の年々のように主を喜ばせる。

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その日、レビ人たちはきよめられ、純粋にされます。

そこでは動物のいけにえではなく、義のいけにえが捧げられます。

義のいけにえとは、義である主を全身全霊で愛し、心から信頼するという捧げものです。

 

4節の「ユダとエルサレムのささげ物は、昔の日々のように、ずっと以前の年々のように主を喜ばせる。」とは、

おそらく、ダビデの幕屋の回復です。ダビデの幕屋では、レビ人たちがそれぞれの役割を担っていました。

 

ここでレビ人について少しお話します。

レビ族は、神様から特別に任命された祭儀を司る部族です。

 

創世記に書かれているように、レビ族の祖であるレビは、ヤコブ(イスラエル)とレアとの間にできた子でした。レビは、弟のヨセフを苦しめ、妹ディナの事件ではシメオンと共にシュケムの男たちを殺して略奪し、ヤコブから非難を受けました。(創世記34章)

 

あまりパッとせず、良い印象がないレビ族でしたが、モーセの時代にシナイの荒野で起こった金の子牛事件の時に、レビ族だけがモーセに従った時から祝福されるようになりました。

しかし神様の選びは、レビ族である、モーセ、兄アロン、姉ミリヤムをエジプト脱出で用いたころから、すでに決まっていたのかもしれません。

 

レビには、3人の息子、ゲルション、ケハテ、メラリがいました。

この3人の息子の子孫がそれぞれ、ゲルション族、ケハテ族、メラリ族となりました。

そして主から各々違った任務が与えられ、幕屋や神殿に仕える者となりました。

 

モーセの兄アロンの家系はケハテ族ですが、その中でも祭司となる家系でした。

祭司職は世襲制で受け継がれ、同じケハテ族でも、アロンの子孫以外は祭司にはなれませんでした。

「レビ族=祭司」だと思いがちですが、祭司になれるレビ人は、実は限られていました。

 

モーセの時代、ゲルション族、ケハテ族、メラリ族のそれぞれの任務は、以下のようでした。(民数記3章)

 

  • ゲルション族

幕屋すなわち天幕と、その覆い、会見の天幕の入り口の垂れ幕、庭の掛け幕、それに幕屋と祭壇の周りを取り巻く庭の入り口の垂れ幕およびそのひも──そしてそれに関わるすべての奉仕。

 

  • ケハテ族

契約の箱、机、燭台、祭壇、務めに用いる聖所の用具、さらに垂れ幕とそれに関わるすべての奉仕。

  • メラリ族

幕屋の板、その横木、その柱と台座、そのすべての用具、およびそれに関わるすべての奉仕、庭の周りの柱とその台座、その杭とそのひもについて。

 

◆ケハテ族の中でも、モーセとアロンまたその子たちの家系

幕屋の正面、すなわち会見の天幕の前方に当たる東側に宿営する。

資格なしにこれに近づく者は殺されなければならない。

 

◆賛美を担当するレビ人

ダビデが神の箱をエルサレムに運び込んだ時から、ゲルション族、ケハテ族、メラリ族から、それぞれ賛美に関わる奉仕者を選出しました。

 

<Ⅰ歴代誌15:16>

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ダビデはレビ人の長たちに命じて、彼らの同族の者たちを歌い手として任命し、琴、竪琴、シンバルなどの楽器を手に、喜びの声をあげるようにさせた

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ケハテ族からはヘマン、ゲルション族からはアサフ、メラリ族からはエタンを任命しました。

アサフと言えば、詩篇50篇、78-83篇の題目に名前が記載されている歌うたいです。

こののち、子孫はアサフ族として、エズラ、ネヘミヤの時代にも歌うたいとして活躍しています。

 

3:4「ユダとエルサレムのささげ物は、昔の日々のように、ずっと以前の年々のように主を喜ばせる。」と書かれているように、ダビデの幕屋で奉仕するレビ人たちは、それぞれ自分に与えられた役割を誇りをもって全うし、互いに尊敬の心をもって主に仕えていたことでしょう。

 

そのような姿を主は喜ばれます。

私たちもキリストのからだとして、そのようにありたいです。パウロもこう言っています。

 

<エペソ4:16>

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キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。

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アーメン!次のマラキ3:8-10は、献金のお勧めとして、みなさんも何度か耳にした箇所だと思います。

捧げものに不誠実だった祭司に対し、「十分の一を携えてきて・・わたしを試してみよ」と主は語られました。

 

聖書の記述を見ると、最初に十分の一の奉納物を捧げたのはアブラハムでした。(創世記14:18-20)

なぜ十分の一かはわかりませんが、ヤコブもアブラハムに倣いました。(創世記28:22)

主は十分の一を捧げたアブラハムやヤコブに大いなる祝福を与えました。

レビ記や申命記のモーセの律法にも、十分の一の捧げものをするようにと書かれています。

 

これらの祭司たちへの主の語りかけは、私たちの礼拝のあり方や、務めをも示しています。

ダビデの幕屋で仕えたレビ人たちのように、心から主を愛し賛美する礼拝と、心からの感謝を捧げましょう。

 

そして、キリストのからだの部分として、それぞれが組み合わされて働き、成長し、教会が愛のうちに建てられるように、互いに祈りましょう。それが、神の契約の実現を待ち望む者の務めです。

◆神の契約の実現を・・・③待ち望めるという恵み(マラキ書4章)

 

マラキ書の終わりの時代からイエス様がお生まれになる時代までは、約400年間あります。

史実としてユダヤ人の歴史は書き記されていますが、聖書は400年間空白です。

神学的にはそれを中間時代と呼んでいますが、聖書に記すことが出来ないほど、ユダヤは国としても霊的にも混沌としていたことがうかがえます。おそらく預言者を遣わしても無駄だった時代だと思われます。

 

そして時が満ち、メシヤであるイエス様が初臨されました。

それから2000年もの長きに渡って、キリスト者は今か今かとイエス様の再臨を待ち望んでいます。

アブラハムが活躍した族長時代は、紀元前2000年頃なので、イエス様の初臨で折り返して、ちょうど2000年。キリスト者は、アブラハムからイエス様の初臨までの2000年と同じ年月、主を待ち望んでいることになります。

 

日本のキリスト教の歴史を見ても、再臨を待ち望んでいた先人の姿があります。

1546年、ザビエルがカトリック教会の日本宣教を開始しました。

江戸時代の鎖国を挟んで、約300年後にはプロテスタント教会の宣教がはじまりました。

 

プロテスタントの宣教活動は盛んになり、1917年(大正6年)から一年半に渡って再臨運動が展開されました。再臨運動の中心人物は、内村鑑三、中田重治、木村清松などです。

 

昭和に入り、この再臨運動に影響を受けた日本ホーリネス教会では、現存する大久保の淀橋教会で、再臨を待望するホーリネス・リバイバルが起こりました。

 

監督だった中田重治の主張は、次第に異様な熱気をはらみ、1933年(昭和8年)9月21日に再臨が起こる可能性があると示唆しました。感化されたホーリネス教会の教職や信徒は、通常の仕事を放棄してまで、再臨に備える者が出てきたほどです。

 

それから90年近く経った現在でも、まだその日は来ていません。

しかし私たちは再臨を待ち望めるこの時は、恵みの時であるということを忘れないようにしたいと思います。

待ち望むことは、主とのいのちに満ちた生きた関係を持つことであり、私たちの生きる希望だからです。

 

<マラキ4:5,6>

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4:5

見よ。わたしは、主の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。

4:6

彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、この地を聖絶の物として打ち滅ぼすことのないようにするためである。」

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5節の預言者エリヤとは、イエス様のことかもしれませんし、旧約のエリヤのような預言者が現れるのかもしれません。いずれにしても、その預言者エリヤは、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる役割をするために遣わされます。

 

私たちはイエス様の再臨を2000年もの間待ち望んでいます。しかし本当に待っておられるのはイエス様の方ではないでしょうか。全世界の人々が父なる主に心を向ける日を、主は忍耐強く待っておられます。

 

今は恵みの時です。しかしいつかは恵みの時は終わり、主の再臨の日は必ず来ます。

ですから、「その日」がいつ来ても良いように、私たちはいつの時も福音を宣べ伝え、備えをしましょう。